五
「―――お帰り」
居間のドアを開けると、結城が手許から目も上げずに声をかけた。この数日ですっかり自分の作
業場所と決めたらしい窓際のテーブルは、小型のスタンドに煌々と照らしつけられてそこだけが
目の覚める程明るい。
ああ、と低く答えて風見は灯のつけられていない台所へ向かう。薄闇の中で流しに置かれたま
まのコップを濯いでそのまま水を満たし、一口飲んだ。
あれから彼女をホテルまで送り、念の為に一時間程周辺で見張ってみたのだが、特に怪しい気
配はなかった。どうやらあの男を目撃した少女がすぐに狙われるという事もなさそうだ、と判断
して帰る事にしたものの、どことなく後ろ髪を引かれるような感覚が消えない。だが悪い予感が
するのかと問われれば、そうではない。勘の悪い方ではない、という自負はあったのだが、珍し
く風見は自分の直感を判じかねている。どうも妙だな、と少し意識を覚まそうともう一口水を飲
んで息をついた、その時である。
「風見」
居間から呼ばれた。
何だ、と顔を出すと、結城が手を止めてこちらを見ていた。まっすぐなまなざしを向けながら
も僅かに言い淀み、ややあってそんなためらいを振り切るように口を開く。
「……あの女の子は何者だ?」
そう尋ねられるだろう―――とは判っていた。
今となっては説明するのも何がなしに億劫だったが、話さない訳にも行くまい。
「彼女は、行方不明になった兄を探している」
そしておそらく、そこには敵が絡んでいる事。同じように不審な男をつきとめ、行き掛り上では
あるが今回の事件に関わってきている―――というような話をしながら、風見はまたともすれば
気もそぞろになりかかる自分に気づいている。
結城は黙って風見の話を聞いていたが、話が終わるとつと手許に視線を向けた。ちょうど仕
上げの途中だったらしい小さな機械の外枠をぱちりと音をたてて留めると、思い切ったように
顔を上げた。
「―――君は少し無防備すぎる」
その言葉に、風見は思わず友人を凝視している。
まさかこいつに、その言葉を言われようとは。
まだ灯のつけられていない居間は薄暗く、そんな中で被覆線や電子回路が転がっているテー
ブルを照らすスタンドの光が妙に眩しい。青白いその光に下から照らされている結城の表情は、
いつになく読み難かった。
「君がその気の毒な少女に同情しているのは判る」
昔からそうだったしな、とつけ加えられて、風見は一瞬いつの話をされているのか判じかねて
いる。
(……ああ、そうか)
結城はあの時の事を思い出しているのだろう、とようやく思い当たった。
デストロンと戦っていた頃、甘言に誘われて悪に加担しかけた家出少女が居た。風見自身も
傷を負い、身動きさえままならない状況ではあったが、どうにかして彼女を救わなくては――
―と思い定めていた。
(あの少女を……救わなくては)
それが自分達の役目なのだと。
この世の悪を知らず、無警戒に引き寄せられようとする人々を守る。これ以上の被害者を出
さない為には時にうとましがられ拒まれても守る事もまた、仮面ライダーの戦いだった。
そう言い返そうとする風見の耳に、結城の声は穏やかだが抑揚なく響いた。
「だが僕には、今の君はそれにしても肩入れし過ぎているように見える。君らしくもないんじゃ
ないか」
「だからどうだと言うんだ」
その落ち着いた声音が、いつになく堪にさわった。
自分がある意味個人的な感情で彼女に対してはいないと、言い切れる程風見も我を失ってい
る訳ではない。だがそれが悪いのか、とねめつける。
きっぱりと言葉を継ぎながら、結城はどこか所在なげにも見えた。この友人にはあの沸き上
がる感情が理解できないのかもしれない。それも無理からぬ事だが、ともどかしく思いながら
風見は言葉を探した。
「彼女は、たった一人の兄を助けようとしているんだぞ」
幼い頃から離れる事なく育ってきたのだ。
そばに居る事があまりに当然すぎて、その幸せを意識する事すらなかった―――ある日突然そ
の目の前で、成す術もなく連れ去られるまでは。
「お前に、その気持ちが解るか」
身体の一部をもがれたようなそのいたみを。だからこそたとえ命を懸けてでも、取り戻そうと
誓う心を。
結城は黙って、風見を見つめている。テーブルに照り返す青ざめた光が、ややあってその口
元に微妙な陰影を刻んだ。
「―――解らないよ」
返された言葉は、薄闇の内でもくっきりと輪郭を保った。そのままきつく引き結ばれた唇に、
風見は自分の心も静かに冷えていくのを感じている。
「そうだな」
決して情の薄い友人ではない。それは良く知っている。
だから良い悪いではなく、ただその身になってみなければ解らない事があるだけなのだ―
――と。同じ正義を共有し、繋がる意識を持っていても、同じ感情を持てる訳ではない。た
だそれだけの事だ。幼い頃からただ一人で生きてきたこの友人には無縁な感情だとしても、
それを責めるのは間違っている。何を今更、とだからそれ以上の言葉を探す気もなくなって
いた。
ぎこちなく不自然な沈黙を破ったのは、結城が先だった。
「……ちょっと出かけてくる」
ポケットに仕上がったばかりの小さな機械を押し込み、テーブルに探知機をセットしたア
タッシュケースを広げると手早く何やら操作する。
「この時間なら人目にもつかないし、ちょうどいい。やっと増幅機が完成したから、ケセ
ドレまで行ってくるよ」
丁寧に蓋を閉めると、ふと結城の目が風見を再び見上げた。
「だが」
言いかけたものの思い返したようにまた口をつぐみ、ぱちりと音をたてて錠を下ろす。
「……帰ったら、また話をしよう」
風見は黙っていた。
結城も風見の返事は待たなかった。脱いだ白衣をテーブルに置いてアタッシュケースを
取り上げ、戸口へ向かう。
何か言わなくてはならないような気がした。しかし自分の言葉を拒むように殊更てきぱ
きと動いている友人の背中を、風見はどこかぼんやりと眺めている。
やがてドアの閉められる音が、遠く響いた。
手にしたコップの変な重みを持て余しながら、風見はようやく居間へ足を向けている。
テーブルの上には結城に手早く畳まれて裾の乱れている白衣や、今し方まで加工していた
金属板や削り出されてゼンマイ状に丸まった切り屑が雑然と残されていた。結城と共に戦
うようになってもう何年経つかは数えてみないと解らないが、いずれ見慣れた光景には違
いない。そのありふれた筈の光景が妙によそよそしく映るのは何故だろう、と思いながら
風見はふと窓の外を見やった。
観光客向けのコテージ村は地元に比べれば設備が整えられているとはいえ、街灯はまば
らだ。外を歩いていると意識する事もないが、随分この島の夜は暗いのだ―――と改めて
思う。月くらい出ていないか、と空を見上げた瞬間、不意に閃く光が風見の目を射た。
(……雷か)
一瞬遅れて遠く轟く雷音が、胸騒ぎめいて低く大気を震わせる。常夏のこの島ではスコー
ルや雷もほぼ毎日の事だが、台風でもないのに夜になって天気が荒れてくるのは珍しい。
遠く低く垂れ込めた雲の下に、時折気紛れに青白い光がその輪郭を縁取られて走り抜ける。
この分だと近づいてくるか、と思いながら風見はコテージの前の道路に視線を走らせた。
(そう言えば、傘を持っていかなかったな)
しかし見渡した通りに、既に友人の姿はなかった。
精密機器を扱う為に部屋を閉め切っていた事もあったが、こうして外に出てみると空調
のありがたみが身にしみるな、と結城は思う。後ろ手にドアを閉めると、夜でもむっと湿
度の高い大気が押し包むように寄せてきた。
ぽつりぽつりと灯のともる大通りを抜けて、地図で確認しておいた路地へ入る。舗装さ
れていない道には石や木の根が剥き出しになっていて、時折つまづいたりもしたが、やが
て闇に目も慣れてくる。変身しなくても、普通の人間よりは幾らか可視範囲も広い目だ。
下手に灯をつけなくても行けるだろう、と前方を伺った、その時である。
枝を伸ばし鬱蒼と頭上を覆っている木々の葉が、かすかに青白い光に揺れた。遠雷に振
り仰ぐと、枝葉の合間から覗く夜空に雲の裾がまた一瞬ほの白く浮かび上がる。雷が近づ
いてきているらしい。早く行かないと雨が来そうだ、とアタッシュケースを抱え直し、そ
こでふと思い出した。
(……忘れてきたか)
傘もトランクに入れたままだったが、それ以上に身近から離した事のなかったマスクをそ
う言えば置いてきてしまったな、と振り返る。だが今更取りに戻る気にもなれなかった。
(何故)
あそこまで言うつもりはなかった。僕も風見の事は言えないか、と苦笑する。
自分は余計な事を言ったのかもしれない、と今になってみれば思わないでもなかった。
自分が気づいている位の事は当然風見も解っているのだろうし、それならば風見の思惑の
内でもあるのだろう。何もかも承知の上で調査しているのだとしたら、自分は短慮に過ぎ
たのかもしれない。
そんな事を考えながらも足は動いている。目的地のケセドレは、逗留しているコテージ
から歩いても三十分とかからない小さな町だ。マシンならばもっと早いのだろうが、陽が
落ちればほとんど出歩く人もないこの静かな町に、観光客さながらの無遠慮さでエンジン
音を轟かせる事もあるまい。
やがて林の続く向こうに、民家の灯らしき小さな光がぽつぽつと見え始める。島北東部
のこの一帯は、探知機でも最も大きな反応を示していた―――いわば最も疑わしい地域だっ
た。もっともその反応が地下鉱脈の磁力線と混在してなかなか発信源が特定できず、そこ
から精度を上げる為に今携えている増幅器を作ってみたのだが。
しかしもしかするとそれは鉱脈による干渉ではなく妨害電波だった可能性はないだろう
か、と今になって結城は怪んでいる。善良な人々が日々の暮らしに往来する昼間には感知
できなかったろう密やかな気配が、夜の闇の中では鈍い感覚にも否応無しに引っ掛かって
くるのだ。
この辺には何かがある。
だとすればやはりこちらの居場所をエンジン音やライトで喧伝するマシンよりも、足音
をひそめて動くのが得策という事だ、と思いながら歩を進めた。
道には行き交う人もなかったが、念の為に脇道や原生林の中を選んで進む。普通の人間
なら一寸先も見通せない暗闇だが、もうすっかり目も慣れて、歩くのにもほとんど不自由
はなかった。
(……どこにセットするか)
なるべく目立たない場所がいいんだが、と辺を見回しながらポケットから外装の滑らかな
マッチ箱大の機械を取り出す。側面にあるマッチ棒の頭程のスイッチをノックすると小さ
く灯がともった。あまり広範囲はカバーできないものの、他の磁力線よりも微弱な《ヴィ
タ》の電磁波をキャッチしてその発信位置に反射波を送り返す増幅器だ。
(この辺でいいか)
なるべく目立たないように、と道端に浅い穴を掘って埋める。念の為に上からかけた土を
均していると、手袋にぽつりと水滴があたった。
と思う間もなく、頭上の葉が叩かれたようにぱたぱたと揺れ始める。いよいよ降ってき
たか、と思いながらなるべく葉の茂った大木の幹に身を寄せ、結城はアタッシュケースを
ひらいた。手探りでスイッチを操作すると、やがて小さなパイロットランプが緑色に灯っ
てレーダーサイトに茫と光が入る。思いもかけない眩しさに目をしばたきながら、結城は
その表示を確かめた。
(よし)
探知機の出力を上げても他の強い磁力線に紛れてしまってなかなか絞り込めなかった《ヴィ
タ》固有の電磁波の発生ポイントが、レーダーのほぼ中央に白い光点となって現われている。
この辺に、改造人間の為の強化細胞を培養する施設があるのは間違いなかった。
(もう少し絞り込んでみるか)
半径一キロで設定しているレーダーの倍率を変えて、より範囲を狭めてみる。光点は一瞬
消えたものの、設定し直されたレンジで再測定して中心からはややずれた位置に再びくっ
きりと出現した。それでも依然として近い。アタッシュケースを持ち替えて方向を見定め
ながら、原生林の中を歩いていく。大体あの辺か、と見当をつけたのは潅木や雑草の生い
茂る中に立つ一軒の小屋だった。
資材置き場にでも使われているのか、ガラスも入っていない窓の中は真っ暗だ。夜目に
も一見廃屋と見間違う荒れ様だった。おそらく地下にでも本拠があるのだろう。本来なら
ば夜の闇に紛れてもう少し調べておきたいところだが、普段なら身につけているマスクを
忘れてきたのは少し心もとなかった。
一度ポイントを掴めば、たとえ電源が切られても探知機はその位置を記憶して表示する。
機械本体を持ち去られない限り、もう捕まえたも同然だ。ここまで突き止められれば後は
明日にするか、と思いながら木立から一歩踏み出しかけた、その時である。
葉に落ちる雨音に紛れて、草を蹴る軽い足音が背後から飛ぶように迫ってきた。結城が
反射的に上体をかがめたのと、その頭上をかすめて見えない風が奔ったのはほぼ同時である。
(敵か)
とっさにアタッシュケースを抱えて横っとびに身を投げ、潅木の中に転がり込みながら素
早く上体を起こした。今まで身を寄せていた幹には、闇の中でも白く生々しい四筋の傷が
刻まれている。
(被害者には四本の爪痕が)
風見に聞いた話が脳裡をよぎった。確か最初の被害者が出たのがこの町だった筈だ。そし
て敵のアジトが目と鼻の先にあるとなれば―――その人間離れした能力の持ち主である犯人
の正体は推測してみるまでもない。
体勢を立て直しながら視線を走らせたが、葉を揺らしているのはひときわ激しくなった
雨ばかりだ。初撃で自分を仕留め損なってこの木立のどこかに身をひそめている筈の敵の
気配も、雨音に消されてしまう。
(……まずいな)
今の自分はライダーマンに変身できない。変身前でも生身の人間よりは強い力の発揮でき
る身体ではあったが、改造人間相手となれば圧倒的な不利は否めなかった。
ここは一旦退散するか、と周囲に注意を配りながらアタッシュケースの鍵を閉め、ゆっ
くりと足場を移す。さっきは幾らか距離があったから良いようなものの、頭上や樹の影か
ら不意打ちされては今度こそ無傷では済むまい。街灯もほとんど無いとはいえ、林の中よ
りも道へ出た方が少しは視界もきく筈だ。それは相手にとっても条件は同じだが、少なく
ともこのまま林の中に居るよりは活路も開けるだろう、と思い切って飛び出した瞬間、し
かし敵もその一瞬を待っていたのだと結城は悟っていた。
凄まじい速さで背後から追いついてくる何者かの気配がいきなり肩口から重く圧しかかっ
てくる。そのまま無防備な横腹へ寄り添うように入ってきた爪の一閃はかろうじてかわし
たものの、その分バランスを僅かに崩している。斜に着地した靴先が、体重を支え切れな
い。あっと思う間もなく背中から路面に叩きつけられ、弾みで指が弛んだ。
(しまった)
指先から離れたアタッシュケースが宙に弧を描き、砂利の上に落ちて乾いた音と共に転が
る。思わずその行方を目で追った一瞬、あからさまな隙ができた。
「―――!」
間髪入れず上からのしかかってきて喉元を食い破ろうとする牙を、反射的に上げた右腕で
食い止めながら、結城は何とか相手をはね除けようともがいている。動きこそ速いが、ど
うやら敵は随分小柄らしい。手に余る獲物を組み敷くのに苦労しているようだった。
何度も食いつこうと迫ってくる牙にかろうじて右腕を噛ませて押し上げ、見境なく降り
下ろされる鋭い爪を左の拳で受け止めた。そのまま手首をひねる。柔らかな人造皮膚にわ
ざと食い入らせた爪が外れ損ねて泳ぐ一瞬を逃さず、結城の右膝は引き寄せた敵の脇腹に
横から鋭い蹴りを入れている。予想した以上に軽い感触と共に身体が自由になるや跳ね起
きて、道端に転がっているアタッシュケースの把手を左手で掴んだ。
息を整えながら、改めて振り返る。
激しい雨の叩く路上に、ようやく敵も身体を起こしたところだった。遠い民家の灯が僅
かな逆光になる闇の中、ほっそりとした四つ足で地を踏むそのシルエットはしなやかな曲
線を描いている。
(虎の改造人間か?……いや)
しかし結城が見定めようとするよりも速く、その前肢は再び地を蹴っている。数回かわさ
れてもなお素早く体勢を立て直し、間髪入れず襲い掛かってくる。そのスピードに次第に
対応しきれなくなっているのを結城が知覚したその瞬間、目元から頬に鋭い痛みが走った。
間一髪目を避けただけ幸運でもあったのだろうが、思わずたたらを踏んでいる。
その左腿に妙に冷たい息がかかった、と思ったのと同時に膝上から激痛が突き抜けた。
まずい、と思う。まだ生身の部分を多く残している膝から上を狙われては、腕のようには
行かない。振り切らなくては、と思う間もなく踏み止まろうとする右足からも力が抜けて、
ぐらりと視界が揺れる。全身から一気に血の引くような感覚と左足を貫く激痛に、自分が
倒れ込んでいた事にも一瞬気づかなかった。
仰向いた顔を叩く激しい雨と背が固い路面にぶつかる感触が、結城を現実に引き戻した。
柔らかな重みに押さえつけられている。
結城の左腿に食い入らせた短く鋭い牙を抜き、敵は喉奥に獣めいた満足げな唸り声をた
てた。今度こそ喉元を食いちぎろうと、胸に両の前肢をかけ顔を近づけてくる。かっと開
いたあかい喉奥から、冷えてかすかな息遣いが頬に迫った。
(……?)
雨に匂いたつ土や青臭い草の香りを含んで、痺れる程の冷気が立ち篭める。その底から甘
く良い香りが不意に濃く漂った。どこかでこの香りには覚えがあるような、と眉を寄せる。
記憶を辿るのに、長くはかからなかった。
「……まさか」
そう呟いた自分の声を、結城は雨音よりもはっきりと聞いている。
「君は」
見上げる敵の顔は闇の中では見定められなかったが、結城が声を上げた瞬間、その瞳孔の
開いた大きな目も僅かにたじろいでいた。そしてその隙を見逃してやれる程、結城にも余
裕はない。
「!」
相手の正体が判っていても、手加減できる程の余裕もなかった。変身前でもブロック塀く
らいなら砕ける右拳の力任せの一撃を無防備な横頬に浴びて、声もたてずに敵の身体は宙
に舞っている。
(今だ)
力を込めようとしても痺れる左足は自分のものでなくなったように動かない。右足一本と
両手をつき、結城はどうにか身を起こした。何とか地を足裏で押さえよう、と痛覚以外の
感覚を失ってふらつく左足をもどかしく置こうとする。今は杖代わりになってくれればそ
れだけでいい、と棒より頼りにならない足を叱咤して、なけなしの力を奮い起こす。
敵は道の反対側で茂みに転がり込んでやっと止まったものの、なかなか起きあがれずに
もがいているようだった。かすかに光る毛並が、雨の中でものうく波うっている。小さく
唸りながら必死に身体を起こそうとしているが、流石に顔への一撃は多少のダメージはあっ
たらしい。
とは言え変身前のこの腕で与えられるのは、ほんのかすり傷程度でしかないだろう――
―とは結城にも解っていた。殴られた痛みから敵が起き上がってくれば、今度こそ自分に
は万に一つの勝ち目もなくなる。
今の内に少しでも遠くへ、と歯をくいしばりながら歩を進める。縋るように胸に抱えた
アタッシュケースの表面を、叩く雨が幾筋もの流れとなって滑り落ちた。
思えばそこで気づいていて良かった筈なのだ、と風見はこの一件を後になって苦く思い
返す事になる。
いつもならば、地球の反対側に居てもその動向まで把握できていた友人の気配を、何故
そこまで掴めなくなっていたか―――と。
風の揺らす木立や本降りになってきた雨が窓を叩く音に混ざって、ドアに何かが弱く当
たっていたのにも随分気づかなかったらしい。何の音だ、といぶかしんで廊下へ出たとこ
ろで、やっと風見の感覚は覚めたようだった。
ドアを開けると崩れ落ちるように倒れ込んできた友人の身体を、風見はそれでもどうに
か抱きとめている。
「―――結城!」
雨が降っていても蒸し暑い常夏の国の大気の中にあって、支え起こした肩は濡れて変に冷
えていた。どうした、と尋ねかけた風見の声は喉で止まっている。
抱えた友人の肩も背も、雨中の格闘を物語る泥の跡に汚れていた。そしてぼんやりとし
た室内灯の下でも、コンクリートに投げ出されている左腿から足首までが雨よりも濃い色
に重く染まっているのがはっきりと見てとれる。
「結城」
急いで抱き上げた友人の身体を、とにかく居間まで運んだ。胸に抱えているアタッシュケ
ースがまわした腕に引っ掛かってかなり邪魔だったが、放させようにも結城の指がしっか
りと掴んでいてなかなかほどけない。仕方なくケースごとベッドに横たえた。
(確か持ってきていた筈だが)
レースの時でも仮面ライダーとして共に行動する時でも、結城が必ず持ってきている医療
用のケースは今回もスーツケースの底に入っていた。風見も科学者としての心得はある。
アタッシュケースを苦労してその指から引き剥がして床に置き、少しでも呼吸が楽になる
ように枕を整える。テーブルから結城が使っていたスタンドを取ってきてベッドサイドに
据え、傷をあらためた。
(……何の傷だ?)
頬から目元にかけての傷や左手の傷は幸い皮一枚を裂いているだけだが、足の傷は予想以
上に深かった。どこで襲われたのかは解らないが、良くここまで歩いて帰ってきたものだ、
と思う。
その改造手法からまだ完全な改造人間とは言えない結城だが、段階的に行われている手
術は一見生身と見える部分にも既に及んでいる。傷はちょうどその生体と機械化部分を暫
定的に共存させている部分にあたっていた。変身していないとは言え、そう簡単に傷を負
わせられるものでもない。これだけのダメージを与えるからには、相手も普通の人間とは
考え難かった。生体部分の止血処置をしながら、神経に接続している回路の一部が断線し
ているのに風見はかすかに眉を寄せる。
その手術にはいつも立ち会って大体の構成は掴んでいるつもりだったが、細かい神経系
の接合となると流石に手は出せなかった。とにかく今は出血を止めて体力の消耗を防ぐし
かない、と自分に言い聞かせて左足の包帯を留め、毛布でしっかりと肩まで包み込む。つ
いでのように首筋で脈をとり、幾らか遅いものの落ち着いた拍動を刻んでいるのを確かめ
て傍に腰を下ろした。
外はまだ雨が降っているらしい。
窓ガラスを矢のように叩く雨粒を、風見はどこか自分を責める声のように聞いている。
何故、と自問しても何も思い当たらなかったが、こうして座っているとここまで何か重大
な事を見逃してきたような気持ちに駆られるのも確かだった。
(……考えろ)
そう自分に問いかけながらも、妙に集中できない。気持ちを落ち着けるのにコーヒーでも
淹れてくるか、と立ち上がろうとした、その時である。
かすかに息をついて、結城の瞼が動いた。
「―――結城」
声をかけるともどかしげにまばたきして、その黒い瞳が見上げる。天井から壁へ―――そ
して自分を覗き込んでいる風見の顔に焦点が据えられて、口元がほっとしたように撓んだ。
「風見か……」
微笑もうとしたのか、それとも傷の痛みに表情が歪んだのかは定かではない。小さく呻い
て寝返りをうちかけたその肩を、風見は慌てて押さえている。せっかく出血も止まりかけ
ているのだ。じっとしていろ、と低く叱ると、結城の目は再びぼんやりと風見を見た。朦
朧とした記憶を整理しているのかまなざしはぼんやりと据えたまま、眉根を寄せて小さく
まばたきを繰り返す。一体何があった、と問いただしたくなるのをこらえて風見が待って
いると、やがてまだ夢の中に居るような声が宙に溶けた。
「……ケース」
しかしその唐突な言葉に、風見は一瞬とまどっている。
「うん?」
「落としてきてなかったろうな……?」
これか、と気づいて膝に持ち上げてみせると、結城はようやくはっきりと安堵の表情に
なった。
「開けてくれ。……左上のスイッチを入れて」
少し擦れたその声音に従ってケースを開け、中の機械を操作する。スイッチを押すと音も
なくメーター類に光が入り、やがて中心のメインレーダーに茫と小さな光点が浮かび上がっ
た。
「こうか」
回して結城にも見えるように向けてやると、小さく頷いた。
「……増幅器を置いたから《ヴィタ》の電磁波をキャッチしているのは確かだ。その光っ
ているのが……おそらく」
「改造人間のプラント……敵のアジトだな」
皆まで言わせず言葉を引き取ると、ああ、と少し嬉しげに笑った。言わんとしている事
が言葉にしなくても伝わっていると解っている、それも気心の知れた友人の表情だった。
そんな表情も、思えば随分久しぶりに見たようにも思う。
「……頼む。悪いが、僕が見つかっているから」
仮面ライダーにアジトを突き止められた事を知った敵が撤収する前に、早く向かってく
れ―――と言いたかったのだろうが、その先は続かなかった。身じろいだ弾みにまた足の
傷が痛みだしたらしく、堪えた息は喉元で止まっている。
「―――解った」
だから風見は低く答えている。
「後は俺が引き受けるから。もう少し休んでいろ」
それでも何か言いたげにしている結城の目をまっすぐ見つめ返し、いいから寝ていろ、
ともう一度繰り返す。
そう言われて、結城はようやく目を閉じた。それでもぎりぎりまでどこか案じるよう
に自分を仰いでいた友人が再び眠りに落ちるまで、風見も黙って見下ろしていた。
カップから、香気と共に白く湯気が立ちのぼる。
細かい粒子となって宙に溶ける湯気を、スタンドの光が夜明けの霧のように透かして
いた。その行方を、風見は目を細めて眺めている。
結城が起きていれば、ぐずぐずせずにさっさと行け、とまたせかされもしたのだろう
が、風見は殊更にゆっくりと熱いコーヒーを淹れていた。どのみち結城がここまで戻っ
てくるだけの時間を考えれば、今更自分が走ったところで大した違いはないだろう。
やがて馴染んだ香りが立ちこめてくる中、風見は今迄の出来事をひとつひとつ思い返
している。ともすればあらぬ方向へ思考が逸れかかるのは、否応無しに辿り着こうとし
ている現実から無意識に目を背けたいからだろうか。
(だが)
もうこれ以上してやられる訳にはいかない、と思いながら濃く落としたコーヒーを噛み
締めるように味わう。いつもより苦く感じたが、その苦味が確実に自分を現実に引き戻
してくれる気がした。やはりあの店のコーヒーは本当に不味かったな、とかすかに口元
を歪めて立ち上がった。
窓の外にはぼんやりと暁闇が淀んでいるが、いつしか雨も止んだらしい。
結城はまだ眠っていたが、スタンドに照らされた横顔は帰ってきた時よりも幾らか血
の気を取り戻していた。まだ改造が不十分とは言え、もっと生身に近かった時ですらV
3のキックを受け止められた程もともと頑丈な質だ。これ位の傷でそうそう長く寝てい
る訳がないのは、風見も良く知っている。
「―――行ってくる」
まだ聞こえるとも思わなかったが低くそう呟くと、ほの熱いコーヒーを飲み干してカッ
プをテーブルに置いた。
アタッシュケースを開いて既に動きを覚えた指を走らせれば、相変わらず敵のアジト
の位置を明るい光で示している。確かめて静かに蓋を閉じると、風見は戸口へ向かった。
六
重く垂れ込める雲には未だ深い藍色の闇が残っていたが、合間から僅かに覗く空は
瑠璃色に明るい。
その空を黒く塞いでそびえる木々の間を抜けて、風見はレーダーの示す位置に向かっ
ている。点在する小さな家々の戸口には早くも朝の支度を始めているらしき人影がぽ
つぽつと動いていたが、こんな早い時間からうろうろしている外国人を怪しむ視線が
向けられる事もなかった。
幾度かレーダーのレンジを切り替え、表示される光点を盤の中心に引き寄せるよう
に歩いていく内、やがて町外れの小屋が見えてくる。
おぼろな曙光の中に浮かび上がるその輪郭は、青ざめて一層みすぼらしく見えた。
屋根は端から朽ちかけ、太い柱も角がささくれ立っている。
(あそこか)
足音をひそめて近づき、ガラスの入っていない窓枠に手をかけて覗き込んでみたが、
中にも人の気配はなかった。だが小屋の周囲をまわってみると、戸口の辺だけ青草
が踏まれている。人の出入りはあるという事だ。
そっと中に入ってみた。
カモフラージュなのか本物の資材なのかは定かでないが、壁際や戸口脇には適当な
長さに揃えられた木材が小さな山をつくっているのを横目に眺めながら、風見は静か
に足先で床を踏む。軋む床板を注意深く靴の先で叩いてその音を聞きながら、ゆっく
りと歩を進めていった。やがてその一歩が変にこもって響いたのに、ふと足を止める。
(……ここか)
唇の端を曲げて足を上げる。踵に力を込めると、そのまま勢い良く床板を踏み抜いた。
砕けた木片が、ぱらぱらと落ちていく。
その先には床下よりも一段深く―――乾いた音を立てるコンクリートがあった。床下
にかけられた梯子段を降りる手間を省いて飛び下りてみると、その先には更に深い闇
へ降りていくコンクリートの階段が続いている。
耳をすますと、遠くかすかに羽虫の羽搏くような音が淀んで聞こえた。どこかでモ
ーターが回っているな、と更に聴覚を研ぎすましてみたが、その外には足音ひとつ聞
こえない。不意打ちするつもりで息をひそめているのか、と思いながらなおも意識を
巡らす。どんな組織であれ、戦闘員レベルならば自分相手ではまともに勝負にならな
い事も解っている筈だ。
少なくともそこに、自分を待っている《敵》が居る事は確信していた。
長く続く階段の底は、ぼんやりと照らし出された床で知れた。踊り場の右手に四角
く光を切り出している戸口は、長身の風見には少し頭をかがめないと通れない高さだ。
狭い戸口をくぐり抜けると、しかしその先には予想以上に高い天井と広い床が開け
ていた。その壁沿いにぐるりと隙間なく機材類や大型の実験機械が埋めつくしていて
も、まだ数十人が動ける程の広さがある。
だが今は動く者もなく、その機械もほとんど起動していないらしい。辺はしんとし
た静寂と薄闇に満たされていたが、一部の照明だけが最奥に林立する機械群をスポッ
トライトのようにほの白く照らしている。
その中央に、この場には似つかわしくない姿があった。
『―――来ると思った』
懐かしく聞こえる声が、高い天井に反響する。
風見はかすかに眉を上げた。
『……君は』
思わず言葉は途切れたが、やがて静かに身構える。
そんな風見に、少し困ったように少女は笑いかけた。昨日の夕方と同じ、可憐な
微笑だった。
『でも、思った程驚かないのね』
そして風見も、不思議な程平静な自分に気づいている。
どこかでこんな光景を予感していたようにも思うのだ。
(……そうとも)
甘やかな記憶を否応無しに呼び覚まさせるあれこれや、計算されたように良過ぎた巡
り合わせ。結城に忠告される迄もなく、その全てが指し示す先は自分にも解っていた
のだと。それでもあえて考えないようにしてきたのは、そうでなければいい―――と
無意識に願っていたからだろうか。
『……最初から、妨害する為に俺に近づいたのか』
『そう』
少女の返事には一瞬の迷いもなかった。
『このプラントでの実験は昨日で終了して、夕方前には最後の一人も転送システムで
脱出した。そんな大事な時に、仮面ライダーにうろうろされちゃ困るから』
『昨日は……それで朝から夜まで、俺をあの店に足止めしておく必要があったのか』
独り言のように、風見は呟く。感情の揺らぎを悟られてはいけない、と自分に言い聞
かせながら、しかし苦い響きが滲むのを押さえきれなかった。
『そう』
『だが俺が、いつ君の制止を振り切ってあの店から出ていくかもしれない。そう考え
て、コーヒーに薬を盛ったのか』
言葉にすると、あのコーヒーの味がまた喉奥に戻ってくるような気がした。
『そこは、半分だけ当たり』
少し首をかしげると、少女はほんのりと笑った。
『最後に転送する予定だったプラント長に、ちょっとアクシデントがあって。戦闘員
じゃ押さえきれないって知らせがあったから、一度どうしても戻らなくちゃならなかっ
たの。その間に目が覚めてたらどうしようかと思ってたけど、良く眠ってたわね』
ほっとした、と淡い息をつき、視線を宙に据える。
『そういう事か』
『なのに貴方がホテルまで送ってくれちゃって、しかもしばらく外で見張ってたでしょ
う。私も早く後片付けを済ませてここから転送で脱出するつもりだったのに、すっか
り遅くなっちゃった。やっとの事で戻ってこられたと思ったら、今度はお友達がうろ
うろし始めるし』
言いさして、ふと思い出したように頬に指先を伸べるその仕草は相変わらずしなやか
だった。だがそこには、もう疑う余地のない証拠があった。
『変身してないと思って、ちょっと油断したかな』
思い出したように撫でた左頬には、青い痣が指頭と思しき形にくっきりと捺されてい
る。生身の人間の力では残せない跡だ。
『あの人は苦手。私の力が全然通じないから』
何を言われているのか判じかねている風見に、少し悪戯っぽく微笑むと黒い瞳でまっ
すぐに見つめた。ただ立っているだけなのに、すぐ傍から寄り添って見上げられてい
るような錯覚を起こす光が、瞳の中で揺れている。
(……まさか)
その瞳に見つめられると、すっかり冷静になった筈の胸の底が再び奇妙な懐かしさに
疼き始めるのを、風見は信じられない思いで噛み締めていた。
まさかこんな攻撃の仕方があろうとは、思ってもみなかった。
『……それが君の能力か』
思わず声が擦れた。
『正確には、一族のね』
つややかな黒髪を頬に触れた手で肩の後ろへゆるやかに撫でつけると、少女はふと遠
い目になった。
『クエス本島に昔から暮らしてきた巫女の一族。もう今は私達兄妹だけだし、ちゃん
とした修行も積んでないけど。私が持つのは、人に幸せだった頃の記憶を呼び覚ます
《改悛》の目』
そうか、と風見はようやく気づいている。
初めて会った時から、ずっと胸の底に秘めてきた懐かしい記憶が呼び覚まされてな
らなかったのは―――似ているからばかりではなかったのか、と苦く思いながら尋ね
てみた。
『……そして俺にもっと昔の事を思い出させるように、あんな話まで作って聞かせたの
か』
『馬鹿を言わないで』
黒い瞳が見開かれた。
『嘘なんて言うもんですか』
黙っていた事はあるけど嘘なんて言ってない、と断言するその瞳が、一瞬誇りとも怒
りともつかない光を満たした。
『私はただ、私の兄を助けたかっただけ』
君のお兄さんか、と風見は声にせずに呟いている。
ならば当たり前ではないか、とどこかで苦くわらう声がする。
自分も肉親を助けられるなら、何もかも懸けるだろう。そして彼女の兄は―――自分
ではないのだ。
『……あの男が、そうなのか』
ふと思い当たってそう口にすると、少女は初めて目を見開いた。
『どうして解ったの』
そう考えれば納得が行くだけだ、と風見は答える。
思えば最初の出会いの時も、彼女の意識はあの男にしか向けられていなかった。お
そらくその身を案じて後を追ってきたところで尾行されている彼に気づき、あれ以上
追わせない為に、思い切って彼女自身に自分の注意を引きつけようと飛び出したのだ
ろう。そしてその後もうっかり兄の居場所を探り当てられないよう、自分をマークし
続けたのだ。いざ彼が自分に見つかれば、その時は腕に縋りついてでも妨害する為に。
そう考えれば全ては符合する。
『そう。私の兄にして一族の長。人々の過去の罪を暴き裁く《断罪》の目をもつ彼は
組織に見い出されてジェル・ティグルとなったけれど、その大いなる力は埋め込まれ
た機械で次第に変調してしまった』
語りながら、彼女の横顔には今まで見せた事のない表情が宿り始めている。
『もうひとつの姿になると、心まで荒ぶる神と化し―――罪ある人と見れば無慈悲な
裁きを下す。些細な罪でさえ許さなくなってしまった兄を、止められるのは私しかい
なかった。だからこの島まで追ってきた。私がいれば兄の怒りも鎮められるけど』
そうだろうな、と風見も理由なく考えている。特異な能力があろうがなかろうが―――兄
ならば、必死に縋ってくる妹の腕をどうして振り払えるだろうか。
『これからどうしたらいいのか解らなかった。でもこの島での組織の研究が成功すれ
ば、変身しても兄は普段と変わらない理性を保てるようになる。ここのプラント長と
しての地位のまま、組織も迎えると約束してくれた。だから邪魔される訳には行かな
かったのよ』
『……で、再改造はうまくいったのか』
ええ、と微笑みながらもどこかその横顔には翳りがあった。
『でもやっぱり微妙な調整がなかなかうまく行かなくて。もう大丈夫って思っても、
何かのきっかけで暴走してしまうの。ここ数日はジェル・ティグルの姿のまま外に出
ても大丈夫なくらい落ち着いていたのに、昨日の午後いよいよ本部に転送しようとし
たところでどうしてかまた暴走が始まってしまって』
だからまだ残ってるでしょ、とどこか自嘲的な笑みと共についと視線で示され、風見
はふと床を見下ろす。
一見滑らかなコンクリートと見える床の僅かな窪みに、砂のような粉が少し溜まっ
ている。それは風見にも見慣れたものだった。組織の証拠を残さない為に、死と同時
に肉体が細かく分解されるような肉体改造を施されている、戦闘員の末路だ。
(……暴走か)
その言葉が本当に正しいと君は思っているのか、と風見は反射的に問いかけたくなる。
自分にはたらく彼女の力が確かなように、その兄の力もまた本物だとするなら。そ
れはある意味、正しく発現したものと言えはしないか。些細な罪ですら見抜くという
その目は、このアジトに居た人間達の過去をも見抜いたのではないのか。
だとすれば。
『科学なんて、当てにならないものよね。でも』
溜息混じりに呟いて、彼女はそっと背後の機械に手を乗せた。何かのスイッチに触れ
たと見え、茫と計器類の一部がかすかな起動音と共に光を宿す。
『信じない訳にも、頼らずに生きていく訳にももう行かないし』
そしてその一群の中心に据えられた人間の背丈程もあるガラスの円筒が、音もなくそ
の中央から左右に分かれて開かれた。改造人間の培養ポッドか、と一瞬思ったが中は
全くの空だ。もしかすると、と風見は思い当たった。
(あれが―――転送システムなのか)
アジトには秘密の抜け道や隠し通路がつきものだが、時としてどこを探しても密室と
しか思えないところから敵が忽然と姿を消す事もあった。まだ表の世界では夢物語と
思われているような技術―――空間転送のテクノロジーが既に開発されているのではな
いか、とは先輩や友人も推測しているところだ。
ガラスの筒はその下から機械の放つおぼろな光に照らされながら、迎え入れるよう
に開かれている。更に何やら操作卓に指を走らせると、彼女はゆっくりと円筒に向かっ
て歩を進めた。
『……ネージュ』
とにかく呼び止めずには居られなかった。
無言のまま円筒の前で立ち止まる彼女に、伝えなくては―――ともどかしく風見は言
葉を探す。
『君もその機械で、本部とやらへ向かうつもりなんだな』
『そう。随分遅くなってしまったけど』
『だが本当に、それでいいのか』
こんなやり方は間違っている、と。彼女も内心ではそれに気づいているのではないか、
と思いながら語りかけた。
『解っているだろう。組織は、君達を利用するだけだ』
何か言い返そうとするように、彼女の唇が動きかけた。しかし反駁する暇を与えず、
風見はなおも畳み掛ける。
『まだ君は、誰ひとり手にかけてはいない。今なら組織から離れて、故郷へ帰る事
だってできるだろう』
普通の人間とは違う能力を持っていても、まだ平穏な暮らしに戻れる筈だ―――と、
一歩踏み出そうとした。その時である。
少女が静かに、だが毅然と頭を上げて向き直った。
『この姿を見ても、そう言える?』
つややかな黒髪が、ふわりと波うった。
両腕で柔らかく自らの上体を抱き、神託を享ける巫女の厳かさで頭を垂れると、
その頭上から雪の降りかかるように目映い輝きが満ちてくる。髪に肩に宿って華奢
な輪郭を縁取る銀色の光が、やがて全く別の姿を形作っていくのに、風見は彼らし
くもなく茫然と立ちすくんでいたようだった。
『そう言えば、ちゃんとした名前を名乗っていなかったわね』
そのまばゆい光に包まれながら、なお変わらない声がうっとりと語りかけてくる。
『―――ネージュ・レオパール』
高い天井の照明を浴びて、白銀の毛並が漣のように光った。
眠りから覚めるように瞼が上がると、黒い瞳が誇らしげな光を豊かにたたえて風
見に向けられる。
全身を輝く豹紋の毛皮に包んだ、美しい改造人間の姿がそこにあった。青白い灯
の下にゆっくりと上げた顔はその原形である獣の頭部よりは幾分細面ながら、明ら
かな肉食獣の特徴を備えている。頬の中程まで大きく裂けた口端からは、真珠色の
鋭い牙が覗いていた。
その名前の意味を、もう尋ねるまでもなかった。
『どう、少しは驚いた?』
それでもその声は、やはり甘やかな響きを含んでいる。
『昨晩は油断したけど、仮面ライダーV3ならば本気で戦う相手にとって不足は
ない』
その声音と挑発するような口調が、妙にアンバランスだった。
『止すんだ』
風見は低く語りかけた。
『君は兄思いの、優しい女の子だろう』
『黙れ!』
上から叩きつけるように叫んだ声は、一瞬感情的に裏返っている。しかしかすか
についた息を整えると、やがて上げた黒い瞳でまっすぐに風見を見据えた。
『もうこれ以外の生き方などない』
口元から短く鋭い牙を覗かせて、きっぱりと言葉を紡ぐ。
『この身体を得た者に、選べるのは戦う事だけだと貴方も知っている筈。私を逃
がしたくないなら、今ここで変身して』
自らをも奮い立たせるように、凛と声をはりあげた。
『私と戦え、仮面ライダーV3!』
しかし風見の手は動かなかった。
何故、と思う。この場に友人が居れば、きっとあのまっすぐな目でそう問われ
るのも解っていた。どんな事情やいきさつがあろうとも、相手は敵組織の改造人
間だ。今ここで戦いを避けたところで、それは所詮その場凌ぎでしかない。いつ
かは戦う日を逃れる事はできない。それが宿命だ、と囁く自分の声を耳奥に聞き
ながら、それでも戦う気にはなれなかった。
ここに居るのは―――兄を守り共に生きる事を選び、その為にならば仮面ライ
ダーにすら立ち向かおうとする、ひとりの妹ではないか。
『……そう。どうしても私と戦おうとはしないのね』
まあいい、と息を吐くように呟くと改造人間はついと頭を上げた。
『私の気持ちが解るなら、邪魔はしないで』
わざと見せつけるように身を翻し、牙と同じ真珠色に輝く鋭い爪の先をガラスの
円筒の縁にかける。そのまましなやかな仕草で、すいと中に滑り込んだ。くるり
と優美な軌跡を描いて長い尻尾の先までが収まるのとほぼ同時に、かすかな圧搾
空気の作動音と共に円筒が閉じられる。
『でも次に会う時は、絶対に戦う気にさせてみせるから。楽しみに待っていて』
一面銀色の毛にうっすらと白灰色の模様のはいった獣の顔が、その一瞬変身前と
変わらない可愛らしさでガラス越しに微笑んだように見えて、風見は制止する事
も動く事も忘れて仰いでいる。このまま逃がすつもりか、と叱咤する自分の声を
聞きながらも、どこかで今の自分には手が出せない事も知っていた。
『また会いましょう、仮面ライダーV3』
言葉の最後は、ガラス筒の内部でゆっくりと薄くなっていくその姿と共に宙に消
えた。
おそらく転送先も動作もセット済みだったのだろう。霧のように筒内の姿がか
き消えると、程なくガラス筒を下から照らしていた機器類も役目を果たしたとみ
え、静かに灯を消した。天井の灯も音もなく光を失い、辺は薄闇に満たされる。
しばらくは遠く聞こえていたモーター音も、いつしか聞こえなくなった。
どれ程の間、そこに立ち尽くしていたろうか。
ふと耳をすますと、片足を引きずりながら苦労して階段を降りてくる足音が聞
こえた。
誰なのかは振り返らなくても解っていた。
「―――お前か」
大丈夫かとかもう歩けるのかとか、何か気遣う言葉を風見らしくもなく探したが、
言えばおざなりになる気がして黙っていた。
時間をかけて階段を降りてきたものの、結城の足音はそこで止まっている。何
があったのか―――おおまかに察しはついているのだろう。ならば言わなくてもいい
な、と乾いた喉に息をつき、風見はそこでぼんやりと思い至る。
「……お前は気づいていたのか」
そう言えば昨日の朝、彼女と顔を合わせた時から何か言いたげにしていたな、と
思い出す。
ああ、と結城は低く答えた。
そして自分も気づいている筈だ―――とおそらく疑いなく思っていたのだろう、と
も今更のように風見は気づいている。あまり鋭いとはいえない結城ですら感知し
ていた改造人間特有の気配を、確かに彼女もまとっていた筈だ。成程無防備すぎ
ると言われた訳か、とひっそり微苦笑する。
「―――凄い設備だな」
小さく咳払いして、独り言のように結城が呟いた。わざとしたように辺を見回して
いる気配が、背を向けていても伝わってくる。そのぎこちなさに思わず苦笑しなが
らも、風見も少しずつ普段の自分が戻ってくるのを意識する。声が浮かないよう注
意しながら、尋ねてみた。
「……奴らがここで何を研究していたのか、突き止められるか」
「ああ、少し時間はかかると思うが」
背中越しにきく友人の声は、いつものように誠実だった。そうか、と答えて風見は
ようやくゆっくりと歩を進める。
空になったガラス筒にさりげなく近づいて中を覗いてみたが、そこには銀色の毛
一本残ってはいなかった。中に入ったものは、それこそ原子レベルで転送する仕掛
けのようだ。
「どうやら、これが奴らの空間移動システムらしい」
なるべく平静に呟きながら、スイッチやボタンに触れてみた。既に動作を止めてい
る機械はどこをどう弄れば動き出すのかも良く解らなかったが、子供の悪戯のよう
に次々と押してみる。しかし手当りしだいに押しても、どのスイッチも軽く手応え
のない感触を返すだけだった。
ここからどことも知れない敵の本拠へと去っていった、あの美しい改造人間を思っ
た。その正体を知った今となっては流石に甘やかな記憶の名残は消えていたが、そ
れとはまた別の―――忘れていた小さな棘にうっかり触れてしまった痛みにも似た、
悔恨に近い感情はやはりひそやかにこみあげてくる。
(何故)
誰にともなくそう問いかけてみる。その答が得られない事も解っている。かなう事
なら肉親を生き延びさせたい―――どんな形であっても。その為になら自分の命を
懸けてもいい、という切なる願いは、自分の内にも未だにあるのかもしれなかった。
(だが)
それが決して許されない願いである事も、風見は知っている。
だから今度会った時は、とひそかに思う。戦うかどうかはまだ考えたくはなかった
が、それだけは伝えなくては、と静かに心に決める。
「……そう言えば、俺の名前は教えなかったな」
独り言のように呟いた言葉に、結城の返事はなかった。単に答えあぐねているのか、
あるいは聞こえていないふりをしているのかもしれなかった。
ぐるりとひしめいている未知の研究機材に、気持ちの半分では本当に目を見張り
ながらも、もう半ばでは気をとられているふりをしてこちらをそっと気にしている。
そんな不器用な友人の気遣いに心安らぎながらも、一方ではにわかに煩わしい気持
ちに駆られもした。
(……下手に気を回したりするな)
およそ柄でもない癖に、と思う。
だから声はかけずに、ふいときびすを返した。
階段から仰ぐと遥か高いところに、狭い入口が薄明るく見えている。随分深くま
で降りてきていたんだな、と思いながら、風見はその一段一段を確かめるように地
上への階段を上っていった。
コンクリート打ちの踊り場から外へ出ようと手をかけた床板は、さっき力任せに
踏み抜いた時に半ば砕かれている。その端が、脆く鈍く指を刺した。傷つける程で
はないが気に障る感覚に唇の端を曲げ、そんな不快さを振り切るように勢いをつけ
て地上へ身体を引き上げる。
蒸し暑いな、と思った。朽ちかけた小屋の空気はむっと生暖かく淀んでいる。そ
の地の底に人智を超えた科学力で建造されたプラントを隠しているとは想像だにさ
せない、見慣れたこの島の風景だった。
そして薄い板張りの屋根を叩く雨音がふと耳に届いて、風見は視線を上げた。
いつの間に降り始めたのか、外はまた激しい雨にみまわれている。大粒の水滴を
浴びて木々の枝葉は音をたてて震え、屋根をつたい落ちる雨水は滝さながらの勢い
でそこかしこの欠けた縁から流れ落ちていた。
どこか遠いところで、傘を持っていないのか悲鳴とも歓声ともつかない甲高い声
を上げながら駆け抜けていく子供達の足音が水飛沫混じりに聞こえたようでもあっ
た。だが小屋に面した小道の右も左も雨にけむっておぼろに霞み、目をこらしても
やって来た筈の道の彼方も見渡せない。
既にすっかりぬかるんでいる道に足を踏み出すと、靴にも肩にも髪にも痛い程の
雨が降り注いできた。空を見上げれば目も開けていられなくなるような雨が、容赦
なく叩きつけてくる。
ありふれたスコールだ。そう長くは降り続くまい、と思いながら、風見は目を細
めてその曇天の彼方を探そうとしていたようでもあった。
「……風見」
思えばその左足の傷は、まだ動ける程浅くはない筈だった。降りてくる以上に、お
そらくは随分苦労したのだろう。ただ階段を上がってきただけとは思えない程、息
を乱しているのが解った。
そして呼んだもののその後どう声をかけていいのか、戸口に手をかけたまま結城
はためらっているようだった。何か言いかけようとしてはその度に唇を引き結ぶ、
その気配は背を向けていても激しい雨音越しに伝わってくる。
下手な事は言ってくれるなよ、と友人に伝わらないよう気をつけながら、静かに
願った。うっかりこいつからきいた風な言葉や慰めの言葉を聞いてしまったりした
日には、それこそ立ち直れなくなる。もうどこにも気持ちの持っていきようがなくなっ
てしまうではないか。
何も言わなくていい。黙ってそこに居ろ、と思う。
亡くした家族への感情に揺れる事のない友人のまなざしを、振り返らずに想った。
その迷いのなさがどんな意味をもつのか、彼自身は知る由もあるまい。ならばその
ままでいい。そしてまだ言葉にできない自分の感情も束の間の揺らぎも、このまま
根こそぎ雨が洗い流してくれるだろう。そう願いながら、風見はひたすらに顔をうつ
雨と―――無言のまま自分の背中を見つめている結城の目を、確かに感じている。
自分はここに居る。そしてすぐ傍には、揺らがない正義を目指して共に戦ってきた
友人のまなざしがある―――という現実だけを、今は拠り所のように心の底に溜めた。
灰色の雲は厚く深く空を覆っている。しかし遠からずこの雨は止む。そしてひとた
び雲が引けば、そこには嘘のように明るく澄み渡った南国の青空が広がる筈なのだ。
たとえ今は、いつまでも降り続く雨のように思われたとしても。
未だ見えない雲の切れ間を探して、風見は無心に雨の降りしきる空をただじっと
仰いでいた。
<完>