十二
鍵を開けて扉の向こうが暗いのに、結城はふと眉を寄せた。まだ帰っていないのか、と灯をつ
け、コートと鞄を置く。
会議室の配線を手伝った後にそれとなく辺を偵察してみたのだが、特に変わったところはなかっ
た。風見はああ言ったが、敵の目的が明日の会合にあるというのはやはり見込み違いなのではな
いか、と思う。敵にとって特に奪う必要のあるような研究成果でもないし、そもそも今回のこの
一件とどこでどうつながるのかが解らない。考えられる可能性と言えば、カールのように出席者
達に風見―――あるいは自分達「仮面ライダー」―――に対する恐怖を植えつけようという企み
くらいだが、だがそれが何になるのか、と思う。せいぜい自分がこの会社には居られなくなる程
度に過ぎない。欺瞞かもしれないがこの先、お互いに顔を合わせないで過ごしていけば済む話だ。
風見が帰ってきたらそんな事ももう少し相談してみなくては、と改めて思い、暖房のスイッチ
を入れる。昨日から置いたままになっていた実験器具を片付け、ボトルの飲料水を満たした薬缶
を火にかけた。その時である。
ドアノブの回る音に、ふと耳をそばだてた。
廊下へ出てみると、開きかけた扉の向こうから友人の顔が覗いた。
「よう」
軽く片手を上げ、そのまま入ってくる。それも見慣れた仕草だった。
「何だ。もう帰ってたんだな」
笑いかけてくる友人の顔を、しかし結城はまっすぐに見据えている。
「君か。もう傷はいいようだな」
「―――どうして」
笑おうとしたが、口元はかすかに歪んだ。
「お前にはすぐ解るんだろうな」
「……僕だけじゃない」
結城は低く答えている。
「先輩方も、敬介くん達も一目で見分ける筈だ」
そうなのかな、と苦笑する。名前を出されればすんなりと思い浮かぶ記憶の中の顔は、しかしはっ
きりと遠い。会った事もない「仮面ライダー」達は、自分にとっては知らない人間だ。彼等にとっ
ての「自分」と同じように。
目の前に居るこの男とは違う。
だが言葉にしようとするともどかしく喉につかえて、どうにか微笑に紛らすので精一杯だった。
「まあいいだろう。……そんなに身構えるなよ」
別に戦いに来た訳じゃない、と笑いかけたが、なおも結城の両拳は低く構えられたままだ。そう
言えばこんな光景も前に見ているな、とふと思いかけ、それが「風見志郎」の記憶なのだとまた
思い出す。あの時も、目の前にあるのと同じまっすぐな瞳と言葉で、まともにやりあって勝てる
筈もない自分に立ち向かおうとしてきたのだった。
まだ結城が、デストロンを世界平和の為の組織だと信じていた頃の話だ。
「一緒に来る気はないか。そう言いに来た」
「何?」
両の拳をなお油断なく構えながら、結城が聞き返す。
「ここは本当に、お前の居場所なのか」
ある事件からデストロンの真実を知った彼が、自省と彷徨の果てに辿り着いたのはプルトンロケッ
トの操縦席だった。そんな命懸けの決着を経てさえ、しかし結城が本当に罪を償えたと思ってい
る訳ではない事も知っている。その心の奥におそらく生涯消える事のない悔恨を抱くならば、
「仮面ライダー」であり続けようとする事は、果たして彼にとって幸せなのか。
(そんな風に、簡単に楽になって欲しくはないんだよ)
《M》はそう言うが、もしかすると組織の理念で説得すれば今でさえ上手く言い包めるのではな
いか―――と思うのだ。自分に教えられた新たな「真実」を吹き込んでこちら側へ引き込んでし
まった方が、結城にとってもいっそ幸せなのではないか。
「もしお前の捨てた理想が、本当は正しいものだったとしたら」
少なくとも「風見志郎」の記憶と意志をもつ自分は、納得して今ここに居るのだ。所謂「正義」
とはやや違った概念なのかもしれないが、長い目で見ればいつかは世界平和に辿り着く道だと思
えば、それは決して間違ってはいないのではないか。
そんな事をぼんやりと考えながら、明らかに自分を扱いかねているのだろう黒い瞳を見つめ返
した。
「……いや、言葉を変えようか」
あの夏の日の光景が、また甦ってくる。予定よりも早くこの世界に生まれ出る事になった自分を
見下ろしていた不思議なまなざしは、何故こんなに心に焼きついているのだろう。実験動物を見
るようなあけすけな視線には動揺ひとつしない自分が、このまなざしだけに奇妙に心動かされる
のは何故なのか。
「俺の方が、きっとあいつよりも良い友人になれると思うぞ」
そう口にすると、つい数時間前の光景がまた立ち上がってきた。
青空を掴もうとするかに一瞬伸ばされ―――しかし掴み損ねて空しく崖の向こうに消えていっ
た白い手袋は、目の裏に刻印のように焼きついている。
踏み締める岩場の脆さは、誰よりも良く知っていた。独りになりたい時や考え事がある度、自
分はここにやってきていたのだ。無造作に踏めば、あっという間に崩れる奈落だった。
足元で僅かに石が砕ける音も聞き逃さないよう注意しながら、そっと覗き込むと冬の波が白い
波頭をたてて勢い良く打ち寄せていた。百メートルと離れてはいないが、崖下の海はすぐ先の砂
浜の穏やかさとはうって変わった凄絶な貌を見せるのだ。
じっと見つめていたが、泡立つ波頭の他に海面に浮かび上がってくるものはなかった。
(……やったか)
この崖の下では地形と海流の関係から、小さな渦潮にも似た複雑な流れが生まれている。落ちた
位置が悪ければそのまま数十メートルの海底に引きずり込まれ、再び海面に押し上げられる頃に
は人工肺ですら水圧に押しつぶされている程の強い流れだ。たとえ運良く渦の際に逃れても、そ
の時には高速の水流が海底の岩に容赦なく叩きつける。どのみち無傷では済むまい。
念には念を入れて、なおもしばらく見ていたが、やはり海面は紺と白に激しく波立つばかりだ。
荒涼としたその景色にも似て、喜びもそれに似た感情も不思議と涌いてはこなかった。
(おかしいな……)
ぼんやりと思う。
オリジナルの「風見志郎」は倒すべき敵として認識させられている。もっとも教え込まれた感
情に操られるのは癪だったから、意図的に感情では動かないようにしてきたのだが、それにして
も仇敵である仮面ライダーV3―――風見志郎を仕留めたこんな時くらいは「組織の一員」とし
ての喜びがこみ上げてきても良い筈ではないか、と思った。
その代わり胸の奥に澱のように残るのは、自分の身体半分を海に落としたような違和感だった。
つくづく厄介な仕掛けをしてくれたものだ、と思う。自分は「風見志郎」でもあるのだ。いわば
オリジナルが存在しなくなれば、その記憶を自らのものとして持つ自分が唯一の「風見志郎」と
なれる筈だと思っていたのだが。しかしいざこうなってみると、それは甘い錯覚だったのだと打
ち寄せる波が語る。
そして込み上げてくる悔恨とも寂寥ともつかない感情は、誰の為のものなのだろうか。
「俺の方が、きっとあいつよりも良い友人になれると思うぞ」
言われた言葉を頭の中で繰り返してみて、ようやくその意味が掴めたようだった。
「そうかもしれない」
思いもかけない言葉が唇をついて、結城は口をつぐんでいる。
それは裏切りにも等しい言葉だ。時としてまっすぐ見つめるには眩しすぎる程つよい正義の味
方よりも、敵方に属する彼の方が理解し合える筈だと。
彼はそう言いたいのだ、とやっと思い当たる。
確かに自分は、風見よりも彼に近いのだろう―――とも思う。かつて疑う事すら知らなかった
幼い脳に無条件な理想を植えつけられ、けれども今はその過去に背を向けている者。
だがそんな彼を生み出したのは、自分の責任でもあるのだと今更のように思った。
あの時自分がとどめを刺していれば、風見と同じ顔をした彼がこんな表情をする事もなかった
のだろう。こんな二律背反な理想や感情の狭間でもがく事もなく、おぼろげな光の中で無心に死
んでいけた筈なのだと思う。
「だが」
だとすれば、ここで目を背ける訳にも行かないのだと思った。
友人と同じ顔をして、そして友人と同じようにどことなく自分の全てを見透かしているような
そのまなざしを見つめ返す。あの時、と自問する。ここに放置して行けば、生き延びられる筈は
ないだろうと思ったのは―――逃げではなかったか。
もしも彼が友人の顔をしていなかったならば、おそらく何の迷いもなく念の為にとどめを刺し
ていた。何があったのかもあの時風見に話していた筈だ。そんな形で、自分も彼に責任があるの
だ―――と思った。
ならば自分なりの言葉で語る事もまた、自分の役目だった。
「それでも僕は、風見に近づいていきたい」
まだ自分には解らない事の方が多い。だが風見と同じ記憶を持つ彼が、生まれが敵の組織だとい
うだけの理由で唯々諾々とその一員になる訳が無いとも解っていた。敵はデストロンではないと
はいえ「風見志郎」を納得させる―――あるいは洗脳するだけの理念はあるという事なのだろう。
だがだからこそ、見苦しくとも自分の掴んでいる「正義」を手放すまい―――とも思う。
どれだけ時が過ぎても、過去が消せないのは分かっている。たとえ死ぬ迄本当に正義の味方と
なる事はできなくても、それでもいいと思いもするのだ。
「そうか」
そして少し寂しげに笑ったのは、風見志郎とは別人の顔だった。
どこかでその答は予期していたようにも思う。
同時によぎる奇妙な―――安堵めいた感情を、ぼんやりと持て余しながら、まるで悪い事をした
子供のような気まずげな目でこちらを見つめてくる結城を、ただじっと見つめ返していた。
そうだろうな、と言葉にはせずに呟いて笑うと、ふと訳もなく胸が苦しくなった。
逸らすように仰いだ天井の照明は、落ち着いた色味に抑えられている。アジトの赤色灯より僅
かに強い位の、そのほの明るさが無性に目に滲みた。
遠くかすかに、何かの吹き上がるような音がしている。実験で何か沸騰させてでもいるのだろ
うか、と思った。
首をかしげて耳をそばだててみせると、結城も気づいたらしい。どうしようか、と一瞬逡巡し
たようだったが、そのままにしておく訳にも行かなかったと見える。ちょっと待て、と言いおい
て、突き当たりのドアへ入っていった。
その後ろ姿を見送って、声を張り上げる。
「それなら、手当てして貰った礼に、ひとつ忠告しておこう。明日の会合には出るな」
遠く慌てて駆け戻る足音がして、ドアから結城の顔が覗いた。
「それはどういう意味だ……やはり明日の会合で、何か企んでいるのか」
その面差しには先程までの柔らかな惑いはなかった。
仮面ライダーとして、敵対するものの策略を突き止めようとする厳しい表情が戻っている。
その顔を、何故か心強いもののように見つめていた。
「あのイノセンスドロップとかいう薬を使うつもりか。今度は、何を……誰を恐れさせようと
しているんだ?」
おやおや、と肩をすくめた。
「その名前まで知ってるのか」
という事は《M》もここへ来たのか、と思い当たる。不意にまた安堵とも嫉妬ともつかない奇妙
な感情が込み上げてきた。
「恐れさせる……ねえ」
繰り返して、思案するように指先で頬を掻いた。
そこまで知られているのなら、この際もう少し自分が教えたところで構わないか、と思う。
「―――必ずしも、恐怖とは限らないんだがな」
「どういう意味だ」
なおも問いつめてくるまなざしに、知らず見とれていた。腹芸や婉曲さとはおよそ無縁な、まっ
すぐなまなざしは―――自分からすればむしろ持て余す程、ただひたすらに真実だけを追おうと
するのだ。そのまなざしを守りたくなるのは、自分に植えつけられた風見志郎としての記憶が呼
び覚ましているものなのか。それとも。
「それ以上は言えないな」
そしてその一方で訳もなく邪険にしてみたくなるのは、自分の中にわだかまる感情の為なのか。
自分の気持ちなど意にも介せず、彼が見ているのは自分と同じ顔をしたあの男なのだ。
「お前が一緒に来るというなら、話は別だが」
そこでわざと言葉を止め、ちらりと見やると結城は子供のように唇を引き結んでいる。
解っているよ、と胸の内で苦笑した。言ってみただけだ。そんなに全力で否定してみせなくて
もいいだろう、と肩をすくめ、どうにか笑みをつくる。
「それじゃ、そろそろ退散するか。今度会う時は敵同士だな」
わざと粗雑に言い放ち、すいと肩をいなして背を向ける。
「待て」
まだ聞きたい事が、と慌てて廊下へ出てきた結城の手に、何故か薬缶があるのに今度は本当に笑
いがこぼれた。まさか持ったまま追いかけてもこられないだろう。
ゆっくりとドアを閉めると、身を切るような寒風が吹きつけてきた。かすかに目を細め、どこ
までも暗い夜の道を見やる。深く夜気を吸い込むと、傷の痛みが腹から背中まで突き抜けて一瞬
足が止まったが、堪えてその冷たさを体内に溜めるとそれもやがて和らいでいった。
少し冷めかけた湯で、コーヒーを煎れた。
(熱い内に煎れないと、意味がないだろうが)
風見が居たらそう睨まれるところだな、とひとり苦笑する。確かに風味にも香りにも欠けた苦い
ばかりの液体を飲み下しながら、ゆっくりとまた意識を巡らした。
しかし感覚の先に、友人の気配がかかってくる事はなかった。
だからと言って必ずしも緊急事態を意味する訳でもない、と自分に言い聞かせる。何か理由が
あって連絡を取りたくなければ、自分の脆弱な感覚に捉えられないようにする位の芸当は、風見
なら簡単に出来るのだとも知っている。
そう考えながら、いや、と思い返す。
彼は自分を試そうとしていた。という事は、風見がここに戻って来ていないと知っていた筈だ。
(……何があった)
そんな事に今更思い当たる自分の迂闊さに眉をひそめながら、カップを手に立ち上がった。
夜の闇は深い。その深みに、ふと目をこらす。
底の見えない闇の中から、待っているものがいつか立ち現れてくるような気がして、結城はいつ
までもただ見据えていた。
十二
窓から刺すおぼろな曙光に、目が覚めた。
まだ起きるには早い時間だったが、水面近くを漂い続けるように眠りは浅く、これ以上もうどう
にも眠れなかった。
室内の空気はしんと静寂に沈んでいる。
やはり風見は帰ってきていない。
いよいよこれは何かあったな、とふとまなざしを厳しくしながら、しかし手はクローゼットから
ネクタイを取っていた。
風見があの海岸に向かったのは解っている。
会場へ行く前に、海岸へ行ってみようか。少しでも手掛かりがつかめるかもしれない。
そう考えかけたが止めた。
会合のスタート時刻は午後一時だ。時間はあまりなかった。そして敵の目的が今日の会合にある
と解った今、万が一にも敵の仕掛けを見落としたりしたら、それこそ風見に合わせる顔がない―
――と言い聞かせて、結城は窓の外を見た。
まだ陽は昇りきってはいないが、藍色と橙色の混然となった空には雲ひとつない。良い天気にな
りそうだった。
戦闘員のリーダーに最後の段取りを確認し、急いでメルトバットは指令室へ向かっている。予想
はしていたものの、まさかこんなに早くとは思っていなかった。
「もうおいでになられるのですか」
室内では大幹部付きの上級戦闘員が粛々と出立の準備を整えている。それには目もくれず、ヨロイ
元帥はゆっくりと立ち上がった。銀色のマントが、ぎらりと灯を跳ね返す。
「作戦の首尾は、スイスで聞こう。良い報告を待っている」
「必ずや、お心にかなう御報告を」
メルトバットは一礼する。
「……彼はお連れになられますか?」
それならば準備を、と顔を上げたメルトバットを、ヨロイ元帥は鷹揚に見据えている。
「風見志郎を、か?」
唇の端を歪めて笑った。
「偽者と解っていても、良い気はせぬわ。それも」
ちらりと廊下に視線を走らせた。
「中途半端に情を残した偽者ではな。結城丈二ひとり始末できぬようでは、仮面ライダーV3と同
じ力も持ち腐れというものよ。後の処遇はお前に任せる」
その瞳には、倦怠にも似た残酷な光が凝っている。
「奴等に正体もばれているのなら、もう利用価値もあるまい。実験に使うなり解剖するなり、好き
にするが良い」
かしこまりました、と答えながらも、メルトバットはやや未練がましく指令室内を見渡した。
元々大幹部がこんな僻地のアジトに滞在する事自体破格の扱いと思って良いのだ。僅か数日とは
いえ、わざわざ一介の科学者に過ぎない自分の実験成果を見る為に立ち寄られた事に感激こそすれ、
不満を抱く筋合いはない。
それは解っていたが、せめて今回の計画の成果を見て欲しかった、というのが正直なところだっ
た。そんな自分の些末な思惑など、彼にとっては取るに足らない事なのだと承知してはいたのだが。
「潜航艇の準備が整いました」
スイスのアジトからの迎えの戦闘員が、丁重に頭を下げた。
うむ、と答えてヨロイ元帥は戸口へ向かう。その後から上級戦闘員が慌てて付き従うのを、メル
トバットは頭を下げて送りだす。
アジトの地下ドックは、海流の穏やかな砂浜の下深くにつくられている。今は海面も穏やかだっ
たが、午後になると気候は崩れてくると予報されている。海中を進む潜航艇では船程の心配をする
必要はないとはいえ、まだ天候が良い内に出立した方が確かに良いだろう。
メルトバットはそう自分に言い聞かせている。
もう数時間もすれば、今回の最終目的であるテストが完了する。同時にそれは、メルトバットか
らヨロイ元帥への貢ぎ物となる筈でもあったのだが。
世の中とはいつもままならないものだ、と思った。
じっと閉じた目を、時折思い出したように開いてみる。
しかし目に映るのは、ただ深い闇ばかりだ。ソファの上で寝返りをうとうとすると、肩口から腹
へかけて鈍い痛みが走った。
古傷に加えて、今頃になって昨日の戦いの傷が疼きだしているようだった。
閉め切ったドアが僅かに開いて、廊下の光がぼんやりと射し込むのにふと視線を向けた。
「―――具合はどうだい」
「お前か」
どうせなら一人にしておいて欲しかったが、もう余計な口をきくのも面倒だった。
「おかしいな」
僅かな光を背に遮って、長身痩躯の科学者が入ってくる。
「僕の仮説で行けば、君はもっと僕に懐いてくれる筈だったんだが」
「風見志郎の記憶を持たせておいてか」
笑わせるな、と寝返りをうった。
「だが君は、風見志郎じゃない」
そうだとも、と胸の内で呟いた。本物の風見志郎を倒したところで、自分が風見志郎になれる訳
ではない。判り切っていた筈なのにな、と思う。
「それ以前の問題だよ」
しかし《M》は違う事を考えていたらしかった。
「風見志郎の記憶よりも、もっと根源的な話をしているのさ」
(……ああ)
そういう事か、と思った。
閉じた瞼の裏に、夏の光が甦る。その光の中、ただ黙って見下ろしていた黒い瞳を思い返すと、
静かな憧憬にも似た感情が込み上げる。
それは《M》の知らない、自分だけの原始の記憶だ。
ああそうだ、とそれで思い出して口を開いた。
「あいつは来るぞ」
「あいつ?」
聞き返して、ああ結城くんか、と《M》は呟いた。
「そうか。……それは困ったな」
思案するように、困ったな、とまた繰り返したが、やがて思い切ったように独りごちた。
「まあ、いよいよとなったらシザースパンサーを出すか」
《M》に向けていた背中が緊張したのが、自分でも判った。
「それじゃ、そろそろ行ってくるよ。君はゆっくり休んでいるといい。帰ってきたら土産話で
もしてあげよう」
細く長く節くれだった指が、子供にするようにどこか優しく髪に触れかかってくる。その瞬間
覚えた反射的な敵意は、今までのいつにも増して強かった。
自分の返事を待っていたのか《M》はしばらくそこに立っていたようだったが、やがてゆっ
くりと足音が遠のいていった。
胎児のように身体を丸め、目をきつく閉じる。こんな風に闇の内で眠り続けていたのは、ほ
んの二年前の事だ。
マシンを近くの森の中に止め、結城は辺を見渡した。
この会社の敷地は広い。念の為に、とここへ来るまでに不審な車や人物が居ないか他の建物
も探ってきたのだが、どこもかしこも至って平和と言って良かった。
改めてセンターの周りをぐるりと探ってみたが、行き交う人々が普段よりも幾らか多いとは
いえ、特に怪しいところはない。植込まできちんと整備され、普段一般の人々が踏み込む事も
ないこの界隈は、変わったところがあれば嫌でも目につく筈だ。
やはり仕掛けるとしたら会場の中か。しかし室内の方が、普段と違ったところがあればより
目立ってしまう筈だが、とエントランスに足を踏み入れた、その時である。
建物の内では吹く筈のない風が、結城の頬を吹き過ぎている。
(……風見か!)
思わず呼び掛けていたが、返事はなかった。ただひそやかに芯の熱い気配が、心の近くに寄せ
てくる。息遣いにも似たその気配に、ふと胸騒ぎがした。
(怪我をしているのか)
なおも問いかけてみたが、返る答はなかった。数キロ程度の距離なら、言葉よりも明瞭にその
意識を伝えてくる風見だ。その代わりに今伝わってくるのは、明らかに逼迫した気配だった。
少なくとも無傷ではない筈だ。これだけ気配が感知できていれば、自分でもどうにかその居
場所まで辿り着けるだろう。今からでも向かおうか、と動きかけた足は、しかし次の瞬間、目
に見えない手で止められている。
(風見)
まだ、言葉にはならない意志だったが。
そのまなざしと、遠く潮の匂いが伝わってくる。
どんな状態なのかは解らないが、風見は結城の助けを待とうとはしていない。
白く光る冬の陽射しが、不意に目を射た。
(……解った)
胸に呟くと、結城はエントランスを抜けて階段へ向かった。
十三
あっと思う間もなく、身体は海に呑まれていた。
反射的に水をかいて浮かび上がろうとしたものの、渦巻く水の流れが有無を言わさず身体に
巻きついて深みへ引き込もうとする。逆らっても無駄だ、と四肢から力を抜き、ただ肺から空
気を押し出されないように胸だけを庇っていた。
どれ程の時間が経ったのかは解らないが、やがて引きずり込まれる感覚が少しずつ弱まって
きた。その代わりに、更に速い流れが自分を闇雲に押し流そうとする。どうやら、渦で言うな
ら外周の流れにのったらしい。このまま堪えていればいずれは振り切って逃れられる筈だ、と
防御の姿勢を保とうとした、その瞬間だった。
(……!)
黒く尖った岩場が眼前に迫った、と見るより早く、骨ごと砕かれる激痛が左肘から肩まで突き
抜けた。不意をつかれて喉から溢れた空気が、泡となってほのかに明るい水面へ登っていく。
(しまった)
何とか耐えようとしたが、中途半端に吐いてしまった空気を肺が求めようとする。動いた喉を、
冷たい海水が容赦なく塞いだ。水を押し出そうとする動きが、かえってまた飲み込む形になる。
どうにか海面へ浮かび上がろうと水をかく手足も、既に冷えて思うようにはならなかった。
どうやら否応なしにそのまま海の流れに呑まれ、しばらくは意識を失っていたようだった。
仰向けになって水面に浮かび、星ひとつない冬の夜空を眺めていたような断片的な記憶はある
ものの、それが現実か海中で見た夢なのか定かではない。
ようやくはっきりとした意識が戻ってきた頃、変に小さく見える太陽は青い中空にあった。
耳元でひたひたと鳴る波音を聞きながら、少しずつ身体の感覚を取り戻していく。右半身を
下にする形で、自分が波に肩まで洗われながら岩に身体を預けているのだと気づくのに、どれ
程かかったろうか。
まだ思うようにならない手を伸ばして岩場に身体を上げようとしたその時、左肘に痺れるよ
うな痛みが走って思わず力が抜けた。弾みで滑り落ちてしたたか水を飲んだが、それでかえっ
て目が覚めたようでもある。
右腕だけで慎重に岩場を探り、少しずつ身体を引き上げた。海水に濡れた身体は風に吹かれ
て強ばり、なかなか思うようにならなかったが、やがて喉元や背中を弱い陽光が僅かながらに
温め始めるのが解った。
友人の意識が届いたのも、その頃になってからだ。先輩達ならもっと早く掴んでくれる筈だっ
たが、それを友人に期待するのは酷なのも解っていた。だがその馴染んだ意識が触れてくる気
配に、自分でも不思議な程の気力が戻ってくる。
(大丈夫だ)
おそらく上手く伝わってはいなかったろう。しかし心配げにこちらを探ろうとしてくる気配が
ためらいながらも再び友人の持ち場へ向いたのも解って、風見の口元にはようやく微笑が浮か
んでいた。
それでいい、と思いながら、少しずつ身体を起こす。
どれ程流されたのかは解らなかったが、決して戻れない距離ではない筈だ。
濡れた服は重く身体にまとわりついたが、波に洗われる岩場に僅かな足掛かりを探る。全く
動かない左腕を庇いながら身体を岩壁に預け、ゆっくりと歩を進めた。まだ正常な思考が回復
していないのは自分でも解っていたが、不思議と迷わなかった。
(この俺が、やられっぱなしで引き下がれるか)
そんな怒りと共に思い浮かべるのが自分の顔というのも変な感覚だったが。だがその感覚が、
自分に正しい方向を選ばせているという奇妙な確信もあった。遠く凪いでいる海を眺めるとも
なく眺めながら、少しずつ流された海岸を戻っていく。
静かだった海が、やがてくっきりとした波頭をたてて不規則な流れを見せ始める。どうやら
方向を間違ってはいないらしい。
(……やってくれるな)
砂浜や海水浴場も点在する、この内海の海岸は概して潮の流れも穏やかだ。しかし地形の為か
一部だけ激しい海流を作り出すあの場所を、あの男は知っていて―――体力的には互角な自分と
の戦いにうまく利用したのだろう。
姑息な真似を、と思いながらもそれ自体には怒りも湧かなかった。それも戦略だ。むしろそ
の計略に、あっさりと嵌まってしまった自分に腹が立つ。
まだ遠く案じてくる友人の気配を感じながら、気を抜くと滑る岩場になおも慎重に足場を探
した。聞き覚えのある底冷えするような波音が低く巻いて、風見はゆっくりと視線を上げる。
思わず口笛を吹きかけるところだった。
陸地から見れば断崖絶壁の切り立った岩壁の一部に、ぽっかりと空洞があった。人ひとりが
ゆうに通れる程の半円形の穴は、その内壁をコンクリートで滑らかに固められている。
波避けの為だろう、数メートル奥には錆び止めの塗装をされた分厚いシャッターが下りていた。
大会議室に下りてくると、外が昼間なのも真冬なのも一瞬忘れそうになる。
天井際の壁にぐるりと開けられた窓には、余計な外光が入らないようシェードが下ろされて
いた。照明の光に包まれ、快適な室温の保たれた室内は、外界とは隔絶された一個の空間となっ
ている。
演台に面してひな壇型に連なった座席は、既に八割がた埋まっていた。顔見知りの学者達も
多く、開会を前にそこかしこで和やかな会話が交わされている。どこか浮世離れしたその空気
は、結城にとっても様々な意味で馴染み深い。
心地よい―――閉じた空間だ。
自分に気づくや早速話し掛けてくる知己の学者達に短い挨拶を返しながら、しかしその空気
に浸っている暇はなかった。余計な事を考えている場合ではない。
(……考え方を変えよう)
この建物にも大会議室にも、一見して怪しい人物も物体もない。しかし敵の標的が、この会合
にあるのは確かなのだ。
実験に使った鼠達の姿が、ふと脳裡をよぎった。
イノセンスドロップ―――脳に働きかけ、普通ならば生後しばらくの期間だけ働く《インプ
リンティング》現象を引き起こす薬物が、今回この会場に集まっている科学者達を標的に使わ
れようとしているのは間違いない。
しかしあの薬は、単に服用しただけでは役には立たないのだ。服用後、遅くとも二時間以内
に訪れる眠りの―――その前に見たものが、絶対に消せない記憶として脳の奥底に刻まれる。
とはいえこれだけの人数が同席する会場では、不確定要素が多すぎる気もした。あるいはこ
れも、テストのひとつに過ぎないのか、と考えてみる。
だがカールの村であれだけ入念なテストを繰り返しておいて、今更無目的な恐怖や畏怖を植
えつけて面白がるような真似をするとも思えなかった。となれば出席者全員に―――それも
同時に、その対象だけを見せる方法を敵は考えている筈なのだ。
全員が、間違いなく注視するもの。
考えながら巡らせた視線が、中央の演台で止まった。
(いや、違うな)
推測は自分で打ち消した。
演台に立つ発表者は、確かに出席者が注目するには違いない。しかしこの大会議室は広い。
最後方の座席からは、それこそ顔見知りでもなければ面差しを判別できない程の距離がある。
これが知らない顔や物ならばそもそも見定められないし、むしろ予想外の事態に近くの知人を
見ようとしてしまうだろう。
だから仕掛けるとするなら、もっと確実なものでなければならない筈だ。どの席からでも同
じように見え、出席者によそ見すら許さないようなものが―――と眉を寄せた、その瞬間。
結城の目は、吸い寄せられるように演台後ろの大型スクリーンに向いている。
今日の会合ではテーマの参考資料として、二時過ぎの休憩の後に三十分程度の実験映像が流
される事になっていた。
(先週テストしてみたら映像があまり良くなかったんで、新型を手配して貰ったんです)
昨日聞いた声が、ふと甦った。結城も設置を手伝った新しいプロジェクターは、会議室の中央
に置かれている。映像フィルムも既に中にセット済みの筈だ。
(まさか)
電源を入れてスイッチを入れると、かすかな駆動音と共に遠い前方の大型スクリーンにいきな
り今回の議題のテロップがぼんやりと写し出された。
まだ照明がついているので辺りは明るく、スクリーンの映像に気づいた人間もそれ程は居な
かったが、それでも会場のそこかしこから起こった僅かなどよめきを結城は聞いている。
(これが照明を落とし、スクリーンだけが明るい状況だったとしたら)
急いでプロジェクターの投影口を手で覆うとスクリーンには影絵よろしく指の形が現れた。ど
うやらテスト時のアクシデントとでも思ったらしく、場内から呑気な笑い声が漏れる。
急いでコンセントを抜き、プロジェクターを抱えて廊下へ出た。
廊下のコンセントに繋いで焦点を調節し、目の前の白い壁をスクリーン代わりにする。写し
出されたノート大の映像はテロップから、ほどなく実験映像に切り替わった。
外光に侵食されて不鮮明な映像の中では、白い兎達がのどかに群れている。音声の説明があ
る筈だが、配線を外してしまったので良く解らなかった。
実験結果の撮影らしいが、画面の内では延々と兎達が気侭に動いたり前足でケージの床を掻
いてみたり鼻をひくひくうごめかしているばかりだ。
まさか見当違いだったか、と思った、その瞬間である。
機械の中で録画フィルムが止まるかすかな音がして、画面の中ではカメラに寄った白い毛皮
が大写しになったまま静止状態になった。誤作動でもしたか、と側面のスイッチを押したりし
てみたが、何の手応えもない。ややあって、いきなり画面が切り替わった。
壁に写し出されたのは、一面の闇だった。
そしてその薄闇の中から、ゆっくりと現れてくる人影があった。奇妙な甲冑に身を固め、自
らの力を示すように胸の前に上げられた左腕は、五指を備えた手の代わりに鋭い棘のついた鉄
球を誇っている。暗がりを選んだとはいえ日中の光の中、壁に写し出された映像は変にちらつ
いて、なかなか見定められなかった。
あるいは認めたくなかったからかもしれない。
そこに映っているのが―――ヨロイ元帥であると。
ぼんやりとした闇の中、見慣れた兜に酷薄な風貌を包んだデストロン最後の大幹部の姿が、
やがておぼろに浮かび上がっている。口元が動いているところを見ると、何かを喋っているら
しい。
もう十年近くにもなるのだ、と思い出す。
かつてデストロンの科学者グループリーダーだった自分は、台頭を危惧したヨロイ元帥によっ
て裏切者の汚名を着せられたのだ。それは最初は故ない罪と犠牲になった助手達の仇を討つ為
の戦いだった。そして真実を知って正義の為に戦おうとしたその矢先、自分は一旦デストロン
との戦いから離脱している。
その最期は風見から聞いた話でしか知らない仇敵の姿を、結城は不鮮明な映像の内に見てい
る。これは昔の映像なのだろうか、と思いかけた次の瞬間、しかし思い当たっていた。
(あの方の宿敵である、君をね)
数年前に初めて出会った時、メルトバットはそう言ったのだ。
デストロンにメルトバットこと川島誠が居た筈はない。彼は今も世界征服を企むある組織に
属しているのだ。だとすれば。
(このヨロイ元帥は)
どこかで予期していた事ではあった。だがこうして直に動く姿を見ると、訳もなく心の深い部
分がかき乱されるのを感じる。自分の過去や罪や覚悟が、つい昨日の事のように呼び覚まされ
てくる。
再生スイッチを切ろうとしたが、何回押しても空しくボタンが戻るばかりだった。完全にシ
ステムは支配されている。本体からコンセントを引き抜いて、ようやく壁は元の白さを取り戻
した。その白さを見つめながら、結城も一瞬放心していたようでもあった。
(……こういう事だったのか)
会場に集まった科学者達に《刷り込み》たいのは、この姿だったのだ。映像が流されている間
は照明も落とされている。窓も扉も閉ざされ、隣の人間の顔さえ見定められない状況で、目に
するのはスクリーンに映った姿だけだ。
だが何もヨロイ元帥に対する恐怖など今更植えつけなくても、と思いかけ、しかし次の瞬間
結城の耳元には友人と同じ声音が甦っている。
(必ずしも、恐怖とは限らないんだがな)
そう言えば、カールも言っていた筈だ―――と思い出す。
(その瓶を見ると、奇跡を見るような敬虔な気持ちになって―――触れる事すらできなくなる
そうだ)
どんな感情づけをするかは、薬剤の微調整で変えられる。刷り込まれる感情は、恐怖や畏怖だ
けとは限らない。そもそもその能力は生まれてすぐの雛が母親を認めるように、自分を庇護し
養い育ててくれる絶対的な存在を認識する為に、生き物に備わったものなのだ。
すなわちイノセンスドロップが作用している状態で、この映像が科学者達に齎し―――生涯
ヨロイ元帥に対して抱く事になる感情とは。
(まさか)
目眩にも似た感覚に、結城はどうにか持ちこたえている。引き抜いた電源のケーブルを手に、
ゆっくりと立ち上がった。
考えろ、とどこかで声がする。このプロジェクターを外してしまえば、映像が出席者の目に
触れる事はない。だがまだこれで本当に食い止めた事にはならないのだ。こんな映像を仕込ん
できた以上、既に敵は自分も含めた出席者達にイノセンスドロップを飲ませているか―――あ
るいはこれから、確実に飲ませる手はずを整えているかだ。
プロジェクターを廊下の隅に隠し、結城は急いで会場へ駆け戻った。
『結城さん、プロジェクターが見当たらないんですが』
おろおろと問いかけてくる職員をやりすごし、会場を見渡す。開会まであと十分余、座席はほ
ぼ満員に近い。
イノセンスドロップは経口薬だ。一定量を飲めば効果は短時間で現れるが、逆に言えば全員
があまり時間差なく口にするものに混ぜなくてはならない。例えば空調の吹出口に置き、気流
に含ませて吸わせるか。などと考えを巡らせていると自分まで息苦しくなってくるのを感じな
がら、なおも場内を見渡す。
ふとその目が、最前列の机に置かれた飲料水のペットボトルに止まった。予定時間は午後一
杯という事もあり、予め出席者の席にも一本ずつ小型のボトルが用意されている。
この地方は水質が良くなく、飲む水は買うのが日常的だ。成分的には水道水でも自分達の身
体に影響を及ぼす心配はなかったのだがやはり味に癖があり、結城も冷蔵庫に大きいボトルを
常備している。
その見慣れたパッケージが、いやに目についた。日頃は意識すらしていないそのデザインを、
つい最近険しく見つめたような気が確かにするのだ。
(どこで見たんだ)
なおも記憶を探り、はっとポケットに触れた。一昨日の深夜、風見が見せてくれた写真がまだ
入ったままになっている。
(とりあえず、意味があるかどうかは解らないが)
並べられた写真の中には、化学プラントのパーツ写真に混ざって同じ部屋にあったという段ボ
ール箱が確か写っていた筈だ。慌ただしくポケットから引っ張り出した写真の束を繰る。
(あった)
薄暗い中でも、箱の横に印刷されたロゴは鮮明だった。比較物がないので大きさは解らないが、
やや平たいところを見ると中に入っているのは大型のボトルではあるまい。
手近にあったボトルを一本取り、まだプロジェクターを探し回っている職員を結城は急いで
呼び止めた。
『この水だが、ここに運ばれてきたのはいつだ?』
もう開会時刻が迫っているというのに大事なプロジェクターが忽然と消え失せ、気の毒な程う
ろたえながらも職員は宙に目を泳がせた。
『水ですか? ……ええと、昨日です。本当は先週には発注してたんですが、何故か注文がな
かった事になっていたのが昨日になって判って。それで急遽、近所から取り寄せたんですよ』
全くどれもこれも、と絶望的な目になっている職員の肩を力づけるように軽く叩くと、結城は
急いで演台へ駆け上がった。
スイッチを入れてマイクを取り、会場に向かって名乗る。前から数列目の席でちょうど出席
者の一人がペットボトルを手にしたところだったが、結城に気づいて手を止めた。
『予定していた実験記録は、事情があって上映できなくなりました。それと手許にある水です
が、飲んだ人は?』
怪訝そうに二、三人が軽く手を上げた。もう飲んだのか、と思わず日本語で呟きかけ、忙しく
頭を巡らす。
『ある薬物が混入している可能性があるとの連絡がありました。多少なら生命に別状はありま
せんが、まだ開けていない人はそのまま手をつけないで』
場内がざわめいた。どういう事なんだ、と囁き交わす人々や、不安げに手を上げたままの出席
者に凝視されて、やり過ぎたか、と結城は今更思い至る。
緊急事態には違いないが、今の時点で最大の危機は回避できているのだ。止める為に来た自
分が、かえってパニックを引き起こしてどうしようというのか。
慌てて咳払いし、表情を何とか和らげる。
『水を飲んだ人は、もし眠くなったら念の為に医務室で診て貰って下さい。水は……後で別の
飲み物を準備します』
ふと横を見ると、今日の司会者であるセンター長が茫然とした顔で立っていた。時計は丁度開
会時間を指している。どうにか笑顔をつくり、お願いします、とマイクを渡すと結城は演台を
下りた。到底誤魔化せたとも思えなかったが、幸か不幸か事情を説明している暇もない。
会場を出ると、廊下の左右に視線を走らせた。必ずこの近くで作戦の進行を見ている敵が居
る筈だ、と見渡したが、今日の会合以外では特に使用の予定も入っていないセンター内はしん
と静まり返っている。自分の動きで計画の失敗を察知されたか、と階段を駆け登ろうとしたと
ころで、さっきの職員が追いすがってきた。
『どういう事なんですか、水がどうのって……それにプロジェクターは』
聞こえないふりをして、結城は階段の途中から振り返った。
『配ったボトルは全部回収して、どこかにまとめておいてくれ。後は……ちょっと大きいだろ
うが、食堂から給水機と紙コップでも借りてくればいい。それじゃ』
それだけ言い残して階上へ抜ける。エントランスにも人影はなかった。ならば外か、と玄関を
出た、その時である。
荒々しくタイヤを軋ませて、小型のトラックがセンターの横を走り抜けていった。思わず一
歩退きながら、結城の目はその助手席に見覚えのある横顔を見ている。
神経質そうな、鼻筋の通った端正な横顔。川島誠だ。
思わずその窓に飛びつくところだったが思い止まり、道を横切って向かいの森に走る。どの
みち行き先も判っていた。
十四
遠い喧噪に、ぼんやりと目が覚めた。
最初は《M》が帰ってきたのかと思った。終わった後で首尾を聞いたところで意味はないの
だろうが、あの男はどうなったのだろう―――とちらりと考える。新たに植えつけられたヨロ
イ元帥に対する本能的な尊敬の念は、感情でも理性でも制御できない筈だ。
(嫌な奴だが、仲間だと思っていた)
それともかつてそう語った彼ならば、その過去に記憶を繋げる事でうまく折り合いをつけられ
たりするのだろうか。
それ程器用な男ではないだろう、とも勿論解っている。だからそんな空想で自分はきっと納
得させたいのかもしれない―――結局止められなかった自分を。
そんな事を考えながらしばらく闇の内でまどろんでいたようだったが、やがてどうもおかし
い、と気づいた。作戦が成功して帰還したにせよ、手放しで大喜びする様子など想像もできな
い程クールな《M》が、こんな馬鹿騒ぎを許しておく訳がない。
じっと耳をすましている内に、それが歓声ではなく、何かを指示する緊迫した声や怒号めい
た応答なのが聞き取れてくる。
侵入者か、と思った瞬間に浮かんだのは、昨晩闇の中へ出ていく自分を見送っていた黒い瞳
だった。
あいつか、と思った。罠が待っていると解っていても会合には出る、とただ一人でも立ち向
かう事を決めたあの頑固な男が、逆に《M》の計画を見破ってとうとうこのアジトに踏み込ん
できたのか。
のろのろと起き上がり、ドアから顔を出して辺を伺う。
角を曲がって戦闘員が走ってきた。呼び止めよう、と手を上げかける。しかしこちらを見た
戦闘員は、間髪入れず手にした棒の先をこちらへ向けて身構えた。はっとしたようにすぐ棒は
引かれたが、その仕草で侵入者が誰なのかを悟った。
「―――風見志郎か」
低く尋ねると、はっ、とやはり低い答が返ってきた。
「失礼しました」
見間違いを恥じているのが解った。無理もない、と肩をすくめる。元々一目で見分けられる事
の方が不思議なのだ。取り繕うように、戦闘員は早口で状況を説明した。
「第三ゲートから侵入、居住区を抜けて指令区に踏み込もうとしています。左腕を負傷してい
るようですが、なかなか捕獲できません」
「メルトバットは?」
「まだ帰還されません」
「そうか」
部屋を出ようとすると、しかし戦闘員は少しためらって、そのまま制する仕草を見せた。出る
な、という事か、と悟る。
この状況で風見志郎が二人に増えたりしたら、見分けのつけられない戦闘員達にはかえって
混乱を招くだけだ。解ったよ、と口の中で呟いて再びドアを閉めた。何かもっともらしい言い
訳でもつけ足そうとしたのか、戦闘員がドアの前でしばらく立ち止まっていたのが解ったが、
やがて足音が遠ざかっていく。
(やれやれ)
闇の中で嘆息した。
本物が侵入してくれば、自分の方がこんな風に追いやられる。結局ここも、自分の居場所で
はないという事なのだろうか。だが、だとしたら。
外が静かなのをもう一度確かめて、ドアを開けた。
廊下を照らす赤色光の中に歩を進める。入り組んだ通路の角々で耳をすまし、喧噪の方向へ
歩いていった。思えばこのアジトにも、もう一ヶ月近く居た事になるのだ。どこにどんな出口
があり、どう抜ければどこへ出るのかも頭に入っている。
だが風見志郎はさぞや道に迷っているだろうな、と思いながらなおも進めようとした足は、
ふと止まっていた。
目の前には幾つものブロックへ分岐する、いわばこのアジトの中心部にあたる広い通路が広
がっている。
その角のひとつから辺の様子を伺いながらも素早く姿を現したのは、自分と同じ顔の男だっ
た。まかれたか、あるいは倒されたのか、すぐ後から追ってくる戦闘員はいないようだった。
確かに怪我をしているらしく、左腕はだらりと下がったままだ。距離があるせいか自分を見
つめる視線には気がついていないらしく、こちらに背を向けてすぐ横の通路を伺っている。
背後から襲い掛かれば、手負いの今なら倒せるかもしれない。
ちらりとそう思ったが、何故かそんな気も起こらなかった。
そのまま見つめていると、風見志郎は油断ない足取りでゆっくりと後じさり、そのまますぐ
横の小道に入っていく。その方向にあるのは科学班の研究ブロックだ。
怪我をおしてまで侵入してきた目的はイノセンスドロップの製造プラントか、と思い当たっ
た。破壊するつもりなのか、それとも別の目的があるのか。どちらでもいいな、と思う。
どうせ平和の為であり、あの男の為なのだろう。
遠く戦闘員の足音が近づいてきた。ここではち合わせしたら、本物と見間違われるのは目に
見えている。とっさに壁に身を沿わせながら、俺は一体どこへ行ったらいいんだ、と思う。
ひそかに自嘲めいた笑いがこみあげてきた。
砂浜近くの崖に横穴を開けて作られたゲートにトラックを乗り入れると、すかさず擬装壁を
下ろす。これで知らない人間には、入口とはまず見破られない筈だ。
(やられたな)
薄闇の内でメルトバットは苦笑する。
そんなつもりはなかったが、やはり見くびっていたという事になるのだろうか。
かつてデストロンでヨロイ元帥に目障りと憎まれ、しかしそれに全く気づいていなかった年
若のあの科学者を。
「メルトバット様!」
アジトに残っていた戦闘員が駆け寄ってきた。早口に風見志郎の侵入を告げられ、流石にメル
トバットの顔も強ばった。
「見失ったのか」
聞き返しながら大股に歩を進める。は、と答える戦闘員の愚鈍な声に舌打ちしながら、忙しく
考えを巡らせた。
既にヨロイ元帥は出立しており、このアジトに大して重要な機密も残ってはいない。ただ一
つを除いては。
指令室に入ると、アジト内に設置されている監視カメラのモニターに向かう。手早くスイッ
チを叩いて表示パネルを切り替えると、一番大きな画面にひとつの部屋が大写しになった。
鉄柵の扉には、人がひとり通れる程の隙間が開いている。
「―――やはりな」
その扉は、メルトバット自身が昨日鍵をかけたものだ。自分の命令がない限り、このアジト
に開けられる者はいない。なおもパネルを操作して室内のカメラに切り替えると、一人の青
年が映し出される。どうやら左腕が使えないとみえ、苦労しながら片手だけでパイプのジョ
イントを緩めようとしていた。
(そこを持っていくつもりか……そう簡単には外れないよ)
ようやく片頬に笑みが浮かんだ。
「プラント室の扉をオートロックしろ」
背後の戦闘員に命じると、モニター横にある赤いボタンを指先で保護ガラスごと押し下げる。
かすかな作動音がして、ボタンの下の壁面から小型の制御盤がスライドしてきた。
室内カメラの映像に、僅かに開いていた鉄柵が閉まるのと、異変を察知して急いで戸口へ
戻ろうとする青年の姿が写る。彼が手を伸ばすのと自動的に閉まった柵の錠が下りるのとは、
ほぼ同時だった。僅かに遅く掴んだ柵を、もう片側に足もかけてどうにかこじ開けようとし
ている様子が写し出されているが、一度閉まればその柵はたとえ仮面ライダーV3の力をもっ
てしてもそう簡単には開かない。元々は制御中の改造人間の檻にも使われていた強固な扉だ。
(よし)
イノセンスドロップの精製施設は惜しいと言えば惜しかったが、その製造法はメルトバット
の頭の中にある。またどこかのアジトで作ればいい、と自分に言い聞かせた。
「十分後にプラント室の爆破システムを起動する。すぐに全員、第三ゲートに集合させろ。
高速艇の発進準備もだ」
何とか外に出ようと無駄なあがきを続けている風見の姿を視界の隅にちらりと残して、手許
の制御盤を操作した。起動パスワードを投入してタイマーをセットする。十分では確実に逃
げ遅れる者も出るだろうと解ってはいたが、それ以上延ばせば風見志郎に脱出する時間を与
えないとも限らなかった。
「このアジトから退去する」
言い放ちながらふと思い出し、再びモニター画面を屋外に切り替えた。
ざらついた画面はノイズを横切らせながら、すぐに穏やかな海沿いの画像を写す。しかし
その滑らかな砂浜に、くっきりと刻まれているのは単車の轍だった。更にモニターを切り替
えると、砂浜から足場の悪い岩場に乗り入れ、時折タイヤをとられかけながらもゆっくりと
進んでくる一台のマシンがある。
「―――待て」
退去しようとしていた戦闘員を、振り返らずに呼び止めた。
「第二ゲートからシザースパンサーを出せ。ライダーマンが追ってきている」
頬に受ける海風の、身を切るような冷たさが心地よかった。
久しぶりの変身だったが、ライダーマンの強化スーツは第二の皮膚のように身体に馴染ん
でいる。
この海岸に敵のアジトがあるのは、以前から解っていた事だ。おそらく風見もまだここに
居る―――自分には見つけられなかった入口からアジトに侵入しているのだろう、とも解っ
ていた。もともと尾行はあまり得意ではないのだ。敵にも自分が追ってきていると知られて
いるなら、もう様子を見る必要もない。
追ってきたトラックが、この辺の岩場で姿を消したのは事実だった。
荒っぽい手口になるが、こうなれば入口を擬装できそうな岩場を片っ端から叩き壊してい
くか、とマシンを停めた。
「パワーアーム!」
まずは手近の岩場から、と鉄板も切り裂く右腕を振り上げた、その時である。
野獣めいた咆哮が、静かな海岸に響きわたった。
はっと背後を振り仰ぐ。
青く澄んだ空を背にして、岩の上に熊ほどもある巨躯が立っていた。黒い毛皮がその全身
を被い、怒りに逆立つ毛の一本一本が陽光につやつやときらめいている。猫科の動物めいた
耳の先を動かしながら頭を低く下げ、それはいきなり明るい場所に連れ出された夜行性の獣
が辺の様子を探っている仕草のようにも見えた。丸めた肩から長く垂らしている両腕の先に
は、手首から手の甲に沿って五十センチ近くはあろうかという細い刃が伸びている。
(改造人間か)
どこから出てきた、と仮面の下で眉を寄せる。確かに今迄は、あの岩も無人だった筈だった。
(という事は―――あの辺に入口があるのか)
向き直ると、異形の赤く光る両目がライダーマンの姿を素早くとらえた。瞳孔のひらいた瞳
にただ憎悪だけを映し、かっと赤く濡れた口が開いて威嚇の声をあげる。
岩を踏んでいた足が勢い良く離れた。白い陽光を立ち上がる毛並に光らせ、黒い獣が青空
に高々と舞う。
「!」
目にも止まらない速さで繰り出された黒く細い刃を、かわすのが精一杯だった。ひらりと飛
び退ると、その巨躯に似合わない素早さで再び襲い掛かってくる。最上段から振り下ろされ
る刃を、かろうじてパワーアームの刃で受け止めたものの、頭ひとつもライダーマンより大
きい敵はためらう風もなく、そのままじりじりと力を込めてくる。とっさに受けたので確か
める余裕などなかった足場が斜に靴底を滑らせて、バランスが崩れた。
「くっ!」
どうにか手首を捻り、外側に敵の刃を倒す形で身体を引いて逃れたものの、背に冷たいもの
が流れた。
敵は横にあしらわれて数歩たたらを踏み、今度は少し身体を低くしてこちらを伺っている。
一撃で倒せない相手と戦うのは初めてなのか、喉の奥から不満げな唸りを泡のように漏らし
た。相手が攻めあぐねている、この隙を逃す手はない。
「ネットアーム!」
入れ替えたアタッチメントの先端から、白い網が青空に舞った。
どうやら知能はあまり高くはないらしいが、戦闘能力では明らかに相手の方が上だ。まと
もに立ち向かうよりもまずは相手のスピードを殺さなくては、と投じた網の先を手許に引き
絞る。
敵の頭上に開いた網がその内に黒い毛皮を捉えようとしたその瞬間、しかし獣は一声吠え
て両腕を一閃させた。瞬時に切り裂かれた網は獲物を捕らえ損ね、引きかけていたライダー
マンの体勢が僅かに崩れる。
網の切れ端を足先にまとわりつかせたまま、長い爪まで黒く光る足が岩を蹴った。次の瞬
間、左肩に鋭い痛みが走った。よろめく身体を支えようとした踵が岩の角にとられて、その
まま背中から岩場に叩きつけられる。
(しまった)
アタッチメントを収めて右手で岩場を掴み、岩の間に嵌まり込んでしまった身体を起こそう
としたが間に合わなかった。仰ぐ視界を塞いで、毛を逆立てた黒い影が再び舞い降りてくる。
構えた刃がぎらりと光った。
駄目か、と思ったその瞬間である。
見慣れた袖から伸びた手が右腕を掴んだ。黒い影を遮って自分のジャケットの裾が視界を
横切るのと同時に強い力でぐいと引かれ、そのまま引きずられるように身体が横に転がった。
黒い刃はライダーマンの右肩のすぐ横の岩を砕き、しかし逃した事を悔やむ風もなくひらり
と身を翻して少し先の岩に降り立っている。
「……やれやれ」
すぐ近くで、聞き馴れた声がした。
振仰ぐと、右手を掴んでいた手が静かに離れた。膝や肩の埃を払い、乱れた前髪をかきあ
げると、その下からは切れ長な双眸がこちらを見下ろす。
「君は……」
「お前が相棒じゃ、全く風見志郎も大変だ」
同情するよ、とかすかに笑うと、視線を黒い獣に向けた。
「何を」
思わず言い返そうとしたライダーマンの言葉は、しかしその横顔に制されている。
「借りてた服を返そうと思ったんだが、俺もこいつにはちょっと借りがあってな。まあ、そ
ういう事だ」
独り言のように呟くと、すいと前へ出た。
助ける訳ではない、と自分にも言い聞かせた。助けて貰った借りは、彼が今ここに居る事
でもう帳消しだろう。
だからこれは自分の為だ。
このままライダーマンにシザースパンサーを倒されでもしたら、一度は背中を見せた自分
の気が済まないではないか。
いきなり現れたもう一人の相手に、黒い改造人間―――シザースパンサーは喉で低く唸り
声をたてた。相変わらず剣呑な奴だ、と心の中で苦笑する。知能の低いこの改造人間にとっ
て、目の前で殺気を滲ませる存在は全て敵なのだった。
だがいっそ、自分もそんな風に単純になれれば良かったのにな、と思う。
左肩を押さえながらどうにか立ち上がったライダーマンの気配を、背中に感じた。
それともこの男がこの国に来ていると知らずにいれば良かったのか。少なくともこんなや
やこしい事にはならなかったかもしれないな、とも思う。
あれはテストの対象として選ばれた田舎の村から、まだ若い娘を攫っての帰り道での事だっ
た。
命令とはいえどうにもこれ以上一緒に行動する気になれず、シザースパンサーや戦闘員達
は一足先に返して、一人で夜明け近い道をマシンで走っていたのだ。
空は藍色に深かったが、まだ安らかな眠りの内にある屋根の連なりはほのかに白みかけた
雲の流れに浮かび上がっていた。
胸の奥まで澄んだ暁の空気を吸い込み、道路沿いの一軒のコンパートメントのドアが開い
たのに、何気なく見やった。
コートの裾を翻して舗道へ急ぎ足に下りてくる面差しに、思わず視線が吸い寄せられてい
た。風見志郎のレースで出会ってから、まだ数カ月と経ってはいない。今気づかれてはまず
い、と思いながらも、しかしどうしても目を離せずにいたのだ。
その横顔から。
「危ない」
背中から声をかけられて、はっと我に返った。新たな敵と見て切り掛かってくるシザースパ
ンサーの刃を横にひいてかわしざま、身体を低くして肩からシザースパンサーの鳩尾目がけ
て肘を突き入れる。長躯でスピードに優れた改造人間だが、その分ボディの強度は低い。思
い切ってそのまま押し伏せようとしたが、しかし肘にかかる重みはあっさりとかわされてい
た。かすかに呻いてシザースパンサーは数歩後じさったものの、即座に右の刃が閃いている。
まずい、と思った瞬間、頭上で金属同士の噛み合う鈍い音が響いた。
「大丈夫か」
そして頭のすぐ上には、刃を食い止めている鈎型のアームの肘を支える左手があった。シザ
ースパンサーと自分との間に、間一髪ライダーマンが割って入ったのだ。
(余計な事を)
そう思いながらも、ぐっと力を込めているその顎から頬へかけての線を見とれるように仰いだ。
「君こそ下がっていろ」
変身できないなら―――と言外に含めて、なおも刃の重みから敵である筈の自分を庇おうとし
ているのは、自分が生まれて初めて見た面差しだ。
だがシザースパンサーの力の前に、その唯一の武器はいかにも脆弱に映った。今はまだ持
ちこたえているが、それも時間の問題だ。
変身するか、とちらりと思った。仮面ライダーV3と自分が等しいなのは、記憶だけでは
ない。実際に変身してみて、本物のV3と対等にわたりあえるのも昨日の戦いで解っていた。
おそらくシザースパンサーとの戦闘でも後れはとるまい。
そう思いながらも、腕は動かなかった。
(……俺は)
《M》の皮肉げなまなざしが、ちらりと脳裡をよぎった。悪趣味な、とは風見志郎に言われ
る迄もなく自分でも解っている。風見志郎のクローンとしてつくられた自分の変身した姿も
また、仮面ライダーV3の姿を反転させた《影》だ。
その姿をここで―――彼の目の前で曝せるものか。
「早く下がるんだ」
叱咤する声は、改めて支え直した左手同様に震え始めている。
その真剣な横顔を、もう一度仰いだ。
もういいな、と思った。
フックアームの腕と支える左手がとうとう堪えきれず、少しずつ下がってきた刃先がマス
クの横にかかりかけている。もう駄目か、とライダーマンがちらりと思った瞬間、勢い良く
腕の下から飛び出した影があった。弾丸のような体当たりをまともに腹に受け、シザースパ
ンサーは不意をつかれて仰向けに昏倒している。
そのままライダーマンの腕の下をすり抜けると、彼は短く岩を蹴った。シザースパンサー
が立ち上がる隙を与えず、両腕で深く刃の脇から右腕を抱え込みにかかる。
「!」
起き上がろうともがくシザースパンサーの刃先に右の脇腹を抉られて、一瞬力が抜けかかっ
た。しかしなおも腕に力を込め、馬乗りになったまま片膝でその腹部に容赦なく蹴りを入れ
る。苦しさにかっと開いた赤い口から、鋭い牙が覗いた。
咆哮と共に凄まじい怪力で腕が振りほどかれ、岩場に投げ出されかかりながらもまだ片手
はシザースパンサーの右腕を掴んでいる。肘を支点にしてすかさず起き上がると、闇雲に振
り回される刃に肩と言わず太腿と言わず斬りつけられながらも、体重を乗せた踵蹴りを二度
三度と叩きこむ。
「止めろ、そいつから離れるんだ!」
そんな声が耳に届いたようでもあったが、一旦ほどかれた左手でシザースパンサーの腕を掴
み直した。身体を起こそうとする敵と揉み合うその勢いを借りて、力任せに足を進める。
「止せ」
半ば転びかけながらもライダーマンが走り寄って来ようとする。マスク越しでも解る必死な
形相がちらりと視界をよぎった次の瞬間、どんと突き上げるように地面が揺れた。
(爆発か)
この海岸の下にはアジトがある。風見志郎の侵入に、さては最後の手段を取ったのか―――と
思いながら、震動に足をとられてよろめいたシザースパンサーを、肩から抱きすくめるよう
にして一気に引きずり上げる。
崖の突端へ向かって。
強い海風が、背に吹きつけてくる。午後から波が高くなり始めた海は、夜には大荒れにな
ると予想されていた。
ようやく何が起きつつあるのか悟って、シザースパンサーが逃れようとする。その腕を更
にその上から力づくで抱え込み、弾みで刃の切っ先が目元をかすめるのもためらわずに胸元
に引き寄せる。
そのまま崖の先の空へ向かって、勢い良く最後の一歩を踏み出した。
虚空と海が逆転する刹那、何を求めるともなく見開いた瞳に、遥かな水平線の彼方から吸
い込まれるように陽光が射した。
あの夏の陽射しと同じ、眩しく白い光だった。
(しまった)
それが地下アジトの爆破の衝撃だと知ったのは、少し後の事になる。
いきなり大きく揺れた岩場に足をとられ、それでも何とか引き戻そうと伸ばした手は、し
かし一瞬遅かった。
指は空しく岩を掴んでいる。
もう間に合わないのは解っていたが、したたか打ちつけた膝の痛みをこらえて岸壁ににじ
り寄った。
切り立った崖から下を覗き込む。
遮るものもない十数メートルもの崖下には、ただ目まぐるしく渦巻き―――覗いては沈む
岩頭に砕けて白い波をたてる、荒々しい海があるばかりだった。予想はしていたが、その荒
涼とした光景に思わず息をのむ。慌ただしくマスクを脱いでなおも目をこらしてみたが、ど
れだけ見つめていてもその紺と白の荒れ狂う内から浮かび上がってくるものはなかった。
無駄と解っていながらも呼ぼうとして、しかしその声は潮風にひりつく喉で止まっている。
呼ぶべき名前を知らなかったのだ。
死闘の結末を呑んで、海は何事もなかったかのようにどこまでも激しく無心に波立つばか
りだった。
「―――結城」
背後からかけられた声に我に返ったのは、どれ程経ってからの事だったろうか。はっと振り
返った瞬間、しかし結城は今度こそ本当に見誤るところだった。
「風見……」
一瞬とまどいはしたものの、何とか唇は動いている。
丸一日半ぶりに会う友人は、およそ彼らしくもない有様だった。それが時間差で仕掛けら
れた爆破の衝撃をかいくぐり、ぎりぎりのところで生き埋めになるのを逃れて脱出してきた
のだと聞いたのは後になってからの事だ。髪も頬も煤に汚れ、黒革のジャケットもところど
ころ焼け焦げて破れている。左腕は全く力が入らないらしく肩からだらりと下がっていたが、
その瞳にはいつもと変わらない透徹の光が宿っていた。
「……無事か」
それにしてもひどい格好だな、と言いたかった。
しかし何かがつかえたように、それ以上声は出なかった。
風見の唇もかすかに動いたが、何も言わなかった。きっと自分も随分ひどい顔をしている
のだろう、と思った。
どこかおぼつかない足取りでゆっくりと歩み寄ってくると、風見は無言のまま少し膝を落
とし、右手でジャケットのジッパーを下ろした。その中から、薄緑色に塗装された西瓜程も
ある歪な球型の金属塊が現れる。
何だ、と聞き返しかけて思い出し、結城は差し出されたそれをそっと受け取っている。
その中で静かに波打っているのは、精製されたイノセンスドロップだ。これがあれば時間
をかけて分析を重ね、人々に植えつけられた《刷り込み》を解除する方法もいずれは発見で
きるだろう。
そう思いながら改めてしっかりと抱え直した金属製のタンクは、抽出効率を考えた設計の
為か上端が僅かに尖り気味にすぼみ、下に向かって緩やかにどっしりとした丸みを帯びた造
りになっている。
まるで卵のようだな、と思った。
エピローグ
「―――何だ、ここだったか」
風見の声に、結城は振り返った。
今日も良い天気だった。
耳元に吹き過ぎる海風は強く、眼下では相変わらず激しい波が白い飛沫を岩場に砕いていた
が、遠く仰ぐ水平線は紺色に澄んでいる。
「ここへ出るんだな」
それであの時シザースパンサーが突然現れたのが解ったよ、と思い出したように呟いて、結城
は海へ視線を向けた。
イノセンスドロップの解析に役立つ情報が残されているかもしれない、と考え、仮面ライダ
ー達は廃棄されたアジトの再調査に訪れていた。
しかしプラント室ばかりでなく重要な通路のそこかしこに仕掛けられていた爆薬は、地下ア
ジトをずたずたに寸断している。爆破の跡や勘で掘り進めてはいるのだが、なかなかその全貌
は掴めないままだった。指令室からのルートを辿る内、結城はこの海岸に隠されていた出入口
に偶然抜けたのだ。細く薄暗い回廊を辿った先に突然ひらけた眺望に、気づけば随分長い間見
とれていたようだった。
「ちょっと来てくれ。見て欲しいものがある」
「あ、すまない」
それにしても良くもこんな状況下、右も左も解らないような状態で脱出してこられたものだ―
――と結城は改めて友人を仰ぎ見る。
いつも当たり前のように帰ってくるその姿が傍にある事が、今更のように心に強く刻まれる。
そして今は心の奥底に沈む、もうひとつの影があった。そのまなざしも、決して忘れまいと思う。
まあいいが、と珍しくどこか気遣うような優しさでつけ加えると、風見も岩場に擬装された
その口から右腕一本で器用に身体を起こしてきた。骨折した左腕はまだ肩から吊っているもの
の、明日には固定も外せるだろう。
「まだ痛むか」
その傷を負った顛末を、そう言えばまだ詳しく聞いていなかった―――と結城は思い出してい
る。しかし尋ねようとすると、妙に風見が不機嫌になるのだ。もっとも他に影響のない単純骨
折だったし、別に事情を詮索するまでもないのだが。
「まあな」
やはりそっけない返事に、結城は苦笑して再び海を見やった。
そんな結城の横顔を、風見はふと眺める。
風に吹かれてかすかに細められた友人の目には、もう十年近くも自分が見つめ続けてきた誠
実な色が宿っている。
友人が海の向こうに何を見つめようとしているのか、大体の察しはついていた。その言葉に
ならない感情は、黙っていても否応無しに波のように伝わってくる。しかしそれが、自分にも
解る、という事とは別だとも知っていた。
だからその代わりに、ふと呟いてみた。
「……だが右腕を持っていかれるよりは、ずっとマシだった」
結城がけげんそうに振り仰ぐ。
「何だって?」
何でもない、と答えて、風見も水平線の彼方へ視線を向けた。
<完>