『…このまままっすぐ行けば、地上に出られます』
指し示された道は、瀬川耕司にとっては足元さえおぼつかない暗さだった。周りの岩肌に自生するひかりごけの僅かな光で、しかし地空人の案内がここまでである事が瀬川には見てとれる。
『ここから先は、私達には行かれません。…私達の分まで頼みますよ、ベリー』
言葉の後半は、瀬川の肩にとまっている白い大きなバッタに向けられたものだった。
人語を解するバッタは、何を今更、という様に触角を上げて答えた。
微笑した女性形の地空人の、長く曳いた裾の波に見え隠れしている幾本もの蔓は、もうそこから一歩でも進めば切れてしまいそうにぴんと張り詰めている。この闇が豊饒な力をもつ地空人の、しかし小さな世界の果てなのだ。
地球そのものと繋がる事で、彼らはこの星の記憶と力を共有している。遥かな時を経て地球に再来したものの正体とその脅威を、唯一知っていたのは彼らだけだった。
星から星、空間から空間へと渡り、永い眠りと繁殖を繰返すもの。
巨大機械獣母艦フォッグ・マザー。
地上に降り立ったフォッグ・マザーの子らは繁殖の為の生贄を求めて、一人の少女を捕獲した。その正体も知らないまま、ただ彼女を守ろうとして命を落としたカメラマン・瀬川耕司は、フォッグ・マザーの襲来を感知した彼ら地空人によって救われたのである。古来より地球の生命と同調し、しかしこの地底から外へ出ていく事はできない彼らはその力を瀬川に与え、戦士として蘇生させたのだった。
『…では、仮面ライダーJ…どうか地球を、フォッグ・マザーの手から守って下さい。幸運を祈ります』
「ああ」
瀬川は頷いた。
「きっとフォッグ・マザーを倒して加那ちゃんを助け出す。…約束しよう」
『J、僕も共に戦うよ』
地空人と地上との仲介役である白いバッタも口添えする。微笑を返しながら、瀬川はふと、先刻から気になっていた事を切り出してみた。
「…ひとつ、聞いていいか」
地空人の答えは、促すように見上げた眼差しだった。
「貴方がた地空人は、このベリーだけが地上とのパイプ役だという…ならばどうして、仮面ライダーという名前を知っていたんだ?」
(―――君はJパワーの戦士。仮面ライダーJ)
地空人はそう彼に名づけたのだ。
仮面ライダー。
それは瀬川の年代ならば誰もが知っている普遍の存在でありながら、同時に虚構と現実のはざまを揺れ動く名でもある。
(そんなの本当に居やしないさ。あんなもん作り話に決まってるだろ)
まだ小さい頃、年よりも大人びていた幼馴染みはしたり顔にそう瀬川に言ったものだった。反論しようとしても、それが幼い意識にも変に気恥ずかしく思われて口をつぐんだまま、その記憶は幼い日の奥深くにしまい込まれる事となった。
しかし今その名で呼ばれると、妙に気持ちが高揚するのを瀬川は感じている。幼い日のときめきが呼び覚まされる。背中から押されるような、どこか本能的な力がわき上がる。
だが自分の心の中にあるヒーローの名前を、彼らが知る筈はない。かと言って偶然とも思えなかった。ならばどうして彼らは、力と共にその名を自分に与えたのか。
それが不思議だったのだ。
『…この道は私達も、ずっと知らなかった道ですが…ただ一つ、地上の人間がやってこられる道です』
少し考えていたが、やがて彼女は唐突にそう切り出した。質問の答になっていないのに何か言いかけようとした瀬川とはまなざしを合わせず、そのままかすかに光の見えている道の彼方へ向けた目を細める。
『だから、こんな道がある事を知ったのは…彼がこの道をやってきた時の事でした』
「彼?」
聞き返す瀬川を、今度は見上げてゆっくりと頷いた。
『そうです。もう一年ほど前の事でしょうか…私はここで、あの人がやってくるのに会ったのです』
ほとんど暗闇に近い狭い洞窟を、その青年はゆっくりと―――しかし慣れた道を歩くような迷わない足取りでやってきた。
普通の人間ではない、とその時彼女は思った。理由はなく、ただ直感だった。
そして身を固くした彼女に気づくと、彼も立ち止まった。こんな地下数百メートルの暗闇で、自分以外の存在に出会うとは思ってもみなかったらしい。
「…失礼」
しかしそれは一瞬の事で、すぐその瞳はぎこちなく微笑を含んだ。
「どうやら、貴方がたの領域に踏み込んでしまったらしい…」
年の頃は二十歳を幾つか出た、というところだろうか。しっかりした身体つきと、意志の強そうな整った顔だちをしている。声は少しくぐもって聞こえたが、その響きは瞳の色のように穏やかだった。
「申し訳ないが、友達が来るまでしばらくここで待たせて貰えませんか」
『…貴方は地上の人間ではないのですか?』
最初の印象を疑問にした彼女の言葉を、しかし彼は違う意味にとらえた風だった。
「貴方がたの世界だ。長居はしません。…ただ、地上に居ると」
ふと来た道を振り返った。
「聞こえる声が、ここなら聞こえないので」
『それでその人は、しばらくここに居ました』
言われて瀬川はふと足元を見た。ちょうど座るのに手頃な岩があるのに気づいて、腰を下ろす。
『…そう、そうやって座っていました』
彼女は嬉しそうに目を細めた。
青年は名前を「麻生」と名乗ったきりで、それ以外には何も語らなかった。ただ、じっと座ったまま黙っている、彼の瞳だけが―――片時も閉じられる事なく、何かを叫ぶように闇を見据えていた。
それは限りない力を秘めながら、まだ見ない未来に何も望んでいない目だった。何かを望む事で、その手が何かを傷つける事を恐れている―――そんなおぼろげな不安と諦念の混ざった、孤独な目だった。それでもなお溢れる感情に惑い、幾度となく立ち上がりかけながらそれを律する事で何かを封印しようとしているかのように、彼はただその場に座り続けていた。
そして地上の時間で数日が経った頃、新たな来訪者が地底の闇に降り立った。
ひらいた羽のさしわたしは小鳥程もあろうかという、それは一匹の大きなバッタだった。
「バッタ?」
『ええ、これ位の』
彼女は両手を広げてみせた。
『…最初はベリーが帰ってきたのかと思いましたが』
微笑して、瀬川の肩にとまっている白いバッタを見やる。
『でもそうではなくて…そのバッタは、彼を迎えに来たのだとすぐ解りました』
地底の濃い闇にとまどう風もなく、その大きなバッタはまっすぐに飛んできて、麻生の膝の上にふわりと降りた。
そしてその時、彼女にも解った―――麻生が待っていたものがとうとうやって来たのだ。
闇の中でぼんやりと光るかぼそい触覚が、話でもしているかのように小刻みに揺れている。
それは確かに言葉だったに違いなかった。それを見つめていた麻生はやがて小さく頷くと、バッタを器用に腕へ移らせて立ち上がった。
「…ありがとう」
そして彼女に気づくと、麻生は初めて笑った。まだどことなくぎこちなくはあったが、何かを決意した曇りのない表情だった。
「もう行きます」
腕からはなれたバッタがそのまま肩へひらりと飛ぶ。
そしてその時、彼女は見たのだった。
上体をつとかがめた麻生の姿がその一瞬、確かに人間ならざるものの形に変化するのを。それは稲妻のひらめくような、瞬間の映像だったが。
『…あなたは』
それでもはっきりと見えた、濃緑の硬質をもつ肌。
『あなたは…誰なんです…?』
声が震えた。
麻生は少し驚いたように彼女を見つめた。しかしすぐに、彼女の言葉を理解したらしく羽をばたつかせる小さな友人をそっと掌で制すると、静かにつよく澄んだまなざしで彼女を見た。
「―――仮面ライダー…ZO」
そして穏やかな声が、その名を告げた。
『仮面…ライダー?』
おうむ返しに呟いた彼女に、麻生はゆっくりと頷いた。
「もう、そう名乗っても良いようです」
半分は自分に聞かせるように言い切ると、そのまま地上へ通じる彼方へ視線を向ける。
「…海の向こうからの風が、僕にはまだ戦う敵と、戦わなくてはならない理由があると…ずっと呼び掛けていました。同じ名と同じ使命をもつ人達が、ずっと前から世界の各地で戦い続けているように…ただ僕には、すぐにその声に応える事ができなかった」
その言葉に何か言いたげに頭をもたげたバッタに、なだめるように笑いかけると、麻生は言葉を継いだ。
「その名で呼ばれるだけの覚悟が、なかなかできなかった。…ですがようやく、その名を背負う決心がつきました」
麻生を立ち上がらせた、その友人の齎した知らせがどんなものだったのか、彼女には知る由もない。
しかしその時、呼び覚まされるように目の前に先刻の映像がよぎった。
戦う為のかたち。固い表皮と、赤くひかる大きな複眼の異形。
その姿の理由が、きっとその名にあるのだと。
『…仮面ライダー…』
我知らずその名を呟いた彼女に、麻生はもう一度―――だが今度ははっきりと、決意をこめて微笑した。
「この世界を守る為に、戦う者の名です」
『…それからその人は、ここから地上へ帰っていきました』
彼女の目には、まだその時の情景が映っているようだった。
『私達には、地上の事はほとんど解りません。…ただ地上にはきっと、あの人やその他にも世界を守る為に、どこかで戦い続けている人がいる…きっとそれは本当の事なのだと思
いました。だから』
そこで彼女は瀬川にまなざしを向けた。
『私達もその名に、地球を守る願いを掛けたのです』
瀬川は黙っていた。
何と言ったらいいのか解らなかったが、ただ胸の奥から不思議と静かにわき上がってくる思いがあった。それは初めてその名前で呼ばれた時の高揚と似ていたが―――しかしそれよりももっと、確かなよろこびだった。
「…そうか」
ややあって、独り言のように呟くと瀬川は笑った。
「仮面ライダーは、本当に居るんだ」
『?』
怪訝そうな彼女に、気まりわるげに肩をすくめる。
「…いえ、何でも」
呼び覚まされたのは幼い日の記憶だ。あの時言いたかった言葉が、二十余年を経て今よみ
がえる。
(本当に…居るんだ)
声にはしないで囁くと、瀬川は岩から立ち上がった。
「それじゃ」
道の向こうを眺め、それからもう一度彼女に視線を戻す。
「約束する。貴方がたから貰ったこの力で、必ず地球を守ってみせる」
微笑のまま会釈した彼女に軽く頭を下げて、瀬川は歩き出した。
『ねえ、J』
肩にとまったり、思い出したように飛んでみたりしながらベリーが尋ねる。
「なんだ?」
『Jは、仮面ライダーって何なのか知っていたのかい?』
「ああ」
瀬川は笑った。
「きっと誰でも、知っているよ」
そして地上に出たら、と瀬川は思う。今度は自分の戦いが始まる。その時、風は自分にも何かを語りかけてくれるだろうか。
道の果ての光が、少しずつ大きくなってきた。久しぶりに浴びるその眩しさに目を細めながら、瀬川は大きく息を吸い込んだ。
そして地上を巡る大気の流れに、今ひとつの新しい風が加わる。
<完>