埃のたつ坂道の上に休憩所らしい建物の屋根が見えたので、ここまで辛抱強く上ってきたマシンを休ませる事にした。
空には一片の雲もない。
仰ぐ山の深緑を鮮やかに空に切り抜いて、頭上からは容赦なく真夏の太陽が照りつけていた。
玉砂利を敷いた峠の駐車場はがらんとしていて、照り返すその白さが目に刺さる。可愛らしいキャンピングカーの他に、見覚えのあるマシンが駐車場の隣の休憩所の壁に寄せて停めてあるのに気づいて、熱く重たい自分のマシンもその横まで押していった。
どうやら車で入れるのはここまでらしい。
ヘルメットも置いて、休憩所の戸口をくぐる。
自動販売機が数台と長いテーブルが三台、椅子が十数脚あるだけの無人休憩所だった。
一番奥のテーブルでは、表のキャンピングカーの主なのだろう先客が手作りらしい弁当を広げていた。まだ若い夫婦と、小学一、二年生位の男の子にまだ学齢に満たない女の子の四人家族だ。
自動販売機のコーヒーは良く冷えていた。
家族連れとは距離をおき、戸口近くに腰を下ろして外の景色をしばらくはぼんやりと眺めていた。故国の風景を眺めるのも、随分久しぶりだった。
「…あかない?かしてみろよ」
思わず振り返っていたのは、久しぶりの日本語が不意に明るく耳に通ったからだった。
「いいから。かせってば」
まだ舌足らずな癖に変に大人びた物言いをしているのは家族連れの男の子だった。ストラップは妹の首にかけたまま、ピンクの小さな水筒をもぎ取るようにして陽にやけた小さな手で栓を捻っている。
「ほら」
ようやく開いた水筒を返された妹は小さな唇を尖らせて兄を上目遣いに見ていたが、やがて黙って水筒の蓋に中身を注いだ。兄の方もにこりともせずに、自分の水筒を開けている。
その一見無愛想な横顔にこれから訪ねて行こうとしている面ざしを思い出して、ふっと微笑がこぼれた。
(…さてと)
それを機に立ち上がる。
ここから先は歩いて行かなくてはならないのだ。
山道と解っていたら途中で靴を代えたのだが、とちらりと思った。
革靴は陽の光を浴びて甲虫の背のように熱く固い。
まあ仕方ない、と溜息をついた。
空港に着いてからこちら、彼の居場所を見失わないように神経を集中していて、外の事までは気がまわらなかったのだ。
陽光の眩しさに目を細めて、そびえる深緑の山を見上げた。
目の前の山道はその深緑の裾、鬱蒼と重なりあう木立の中に続いている。
また一つ溜息をついてネクタイを緩め、結城丈二は歩き出した。
身体まで染まる程の緑の中を歩きながら、途中でワイシャツの第一ボタンを外した。
(今日も暑くなるでしょう…)
今朝がた空港のTVで聞いた天気予報がふと耳に甦った。毎年こんなに日本の夏は暑かったろうか、と思う。
頭上では油蝉がやかましい。その姿は見えないが、木立の中に居るのだな、という事は解る。
それに似た曖昧な感覚を追って、結城は山道を歩いている。
他人には説明のできない感覚だったが、結城は少しも疑っていない。
自分が進むこの先に、風見志郎が居る事を。
無論その姿が見える訳でも、声が聞こえる訳でもなかった。
あえて近いものを探すなら精神感応と呼べるかもしれないが、それ程はっきりとしたものでもない。むしろ名前をつけるとするなら《気配》である。数十キロの距離を飛び越えて、風景も見えない《そこ》に友人が居る気配を結城は肌で感じとっているのだ。
とはいえ結城の力など、その友人にくらべれば微弱なものだった。
地球の反対側に隔てられていようとも、風見には先輩達や自分の居場所が解るという。その言葉通り、風見は当然のように結城の前に幾度となく現れている。
同じ計画の元に改造されたという本郷猛と一文字隼人、そしてその二人が自分達をベースに改造した風見の間にはたらく力という事なら解らないでもない。しかし全く改造プランの違う自分を何故風見は感知できるのか。
(仮面ライダー同士の間ではその力がはたらくんだ)
事もなげにそう片付けながら、それ以上の説明は風見にもつけられないらしかった。
しかし逆に結城には、風見の居場所でさえ相当に近づかなければ通常は解らない。
もしそれが改造の度合いとは関係なく、純粋に精神の問題だけだとしたら、自分にはまだ何かが足りないのだろうか、と考えた事も随分あった。
例えば機械の外見をあらわにする右腕を、終生代えずにいる事を結城は自分に誓っている。実際それは、もう改造部分が右腕だけの事でなくなっている今は、意味のない事なのだ。そんな片意地のような、譲れない何かが自分をまだ真実から遠ざけてでもいるのだろうかと。
だからこうして追いながら、この感覚が随分遠くからはたらいていた事に次第に気づいて、どこかでとまどってさえいるのだ。
今日の感覚はいつになく変に鋭い。
多分きっかけは―――飛行機の中で風見の事を考えていたからだろうとおぼろげに思っていた。世間では里帰りの季節だが、元々天涯孤独の結城には帰国してからも故郷と呼べる場所はない。だから帰国に楽しみがあるとしたら、それは再会位のものだった。
とはいえ帰国の主目的は来週の予定だった。一応体調等を考慮もしたし、当事者である自分が少しでも早く帰っているのは筋というものである。しかしそもそも「つき合い」でしかない彼が、まだ帰国してはいないだろう。そう思っていたのだが、空港を出た瞬間、見えない手に肩を叩かれたような気がしてはっと振り返っていた。
(…居る)
誰もそこには居なかったが、錯覚にしてはリアルすぎた。
何よりもその感触を、結城が間違う筈もなかった。
(帰ってきている)
気を散らせば風に紛れてしまいそうなその気配を、まばたきして覚え込んだ。
そしてそこから先は、追う事だけを意識した。
まさかこんな山奥まで来る羽目になるとは思わなかったが。
ワイシャツがじっとりと背に貼りつく。汗の浮かぶ事のない腕で額を拭いながら、しかし意識は冴えていた。
山道の脇から湧き出している細い流れに、辿るともなく沿って歩いていくと急に視界が開けた。木立が切れて河原に出たのだ。それほど川幅は広くないが、澄んで透ける川底は吸い込まれそうになる程深い。
近いな、と思った。
感覚はもう視覚に近い程はっきりとしてきている。
山道より更に歩きにくい河原の石は白く丸く乾いていて、時折靴底が滑ったが構わず歩き続けた。小さな滝を上って岩壁を越えると、遠く岩の上に腰を下ろして釣り糸を垂れている人影が見えた。
座っていても長身なのが解る、見慣れたシルエットだった。
そのかすかに細められた目は、川面の浮きを注視しているようにも―――ずっと遠くを眺めているようにも見える。
結城は黙って歩を進めた。
川面を渡る風が、すいとその頬を吹き過ぎた。
「―――良くここが分ったな」
風見志郎は少し笑ったようだった。
足元のクールボックスの中にはうぐいが三匹泳いでいる。
結城は風見の座っている岩の反対側の少し低い場所に腰掛けて、さっきから言葉を探していた。
「―――本郷さんから、少し早めたいと連絡があった」
やっとの事でそう言った。
「土曜日に伊豆の研究所だな」
風見は水面に揺れる浮きを眺めながら無愛想に答えた。
「…君にも連絡が行ってたのか」
結城は少し居心地の悪い気持ちになっている。
自分が連絡しない事を、あるいは本郷に見すかされていたのかもしれない。実のところ、そんな思惑がなかった訳でもなかった。
また怒らせる事になるかもしれなかったが、「知らされなくて間に合わなかった」ならばそれは仕方のないことだと言い訳にして、一回でも風見に「その場面」に立ち会わせる回数を減らしたいと、ちらりと思ったのも正直なところではある。なるべくなら、この友人に負わせる重荷は減らしたい。
「…だが君も、何も毎回つきあってくれなくても良いんだ」
あえて屈託なげに声を張り上げながら、結城の目も風見を見てはいない。
「今回は大したパーツでもないし、手足は微調整するだけだから」
「馬鹿を言うな」
浮きが引いた。
「―――大体、あと何回でもないだろう」
言い切って竿を上げると手元に引き寄せた小魚を針から外し、風見は律儀にクールボックスを上げて寄越した結城をふと見やった。
今週末、この友人の身体は生身の部分をまた少し失う事になる。
そんな彼らしくもない感傷が、一瞬胸をよぎった。
風見も結城も、今はその改造された身体に気後れも後悔も持たない。立場こそ違え、望まなかった力ではなかったのだし、結城の場合にはそれこそ考える時間も納得する時間も充分過ぎる程あった。
ほぼ半年おきの手術を重ねる度に、少しずつ生まれもった身体からはなれていく友人を、風見はこの数年間見つめ続けてきた。詳しい事は本郷と、被験者であり改造プランの立案者本人である結城しか知らないが、もう既にその半分は人工の部分に置き換えられている筈だ。
外見上は全く変わっていないようにも見える。しかし確実にその成果が出ている事は、共に戦っている風見が一番良く知っている。
いずれは自分達にひけをとらない戦闘力を発揮するようになる。元々その為の計画でもあったのだ。設計した本人を知っているだけに、風見はその完成に疑問は持たない。
だから多分、自分が見届けたいと思っているのは別の事だ。
そのひとつは―――自分をまっすぐに見つめかえすこのまなざしが変わらない事だった。出会った頃から変わらない、いつも真摯で誠実なまなざしだ。デストロンが滅び、今はいわばいわれのない戦いに命を懸けている。そんな中でも、変わらず持ち続けているものがあるのだと。
その結城は足元に下ろしたクールボックスの魚をじっと眺めている。何も魚を見るのにもそんなに真剣な目をしなくてもよさそうなものだ、とおかしくなって、風見は不意に悪戯心を起こす。
「…おい?」
無言のままいきなり頭に投げかぶせられたタオルを、結城はあわてて引っ張った。
「何だよ」
返事の代わりに風見はついと帽子の鍔を引いてみせた。つられて手をやり、結城は髪の熱さに気づく。川べりの風が涼しいのでつい忘れていたが、遮るもののない陽光はじりじりと頭を灼いていたのだ。
「…まさかこんなところに居るとは思わなかったんだ」
弁明はいくらか子供じみた口調になった。
「だろうな」
夏山を登るのに帽子もかぶらず、ワイシャツにネクタイで来るような奴はお前位だ、と肩をすくめて風見は竿を振った。
その横顔を、結城はタオルのつくる日陰から仰いでいる。帽子で押さえた前髪がややうるさげに額にかかって、陽にまばゆく光っていた。
変わっていないな、と思った。
その横顔の整った鼻の線も、僅かに細めた目もとも、結城が初めて会った頃のままだ。その端正な面ざしは普通の人間の数倍も遅く年をとるのだ―――と聞いている。
もっともそれが数倍かあるいはそれ以上か、本当のところはそう語った本郷ですらはっきりと解っている訳ではないのだった。本郷や一文字、そして風見の改造が及ぼす影響の行く末は、彼ら自身がいずれ知るしかない。そもそも彼らにとって寿命を心配する事そのものが無意味でもあった。
その日が来るまで戦い続ける事に変わりはないのだから。
だから結城は自分自身に関する心配も止めている。
全く異なるプランで造り替えた自分の身体だったが、そう思っている限りはどこまでも一緒に行ける。離れている時も隣に居る時も、風見にはいつも自分の居場所が解っているように。
ただそれだけで良かった。
「君はいつ帰ってきたんだ?」
結城が尋ねたのは、真夏の太陽もようやく遠く森の上にかかろうとする頃だった。
「昨日の夜だ」
あれから風見はずっと岩の上で釣糸を垂れている。クールボックスにはうぐいとおいかわがあわせて七匹泳いでいた。
「それから、ここに?」
結城はまだタオルを日よけにかぶったまま、靴と靴下を脱いで河原の石に裸足を乗せている。
「まあな」
「あまり釣れなかったな」
遠慮なくクールボックスを覗き込んでいるのが振り返らなくても解った。良い奴だがこういう正直すぎる性格が要らない敵をつくるのだ。それがいつになったらこいつには解るんだ、と風見はかすかに肩をすくめる。
きっと一生無理に違いない。
そう思いながら不愉快ではなかった。
結城はその身体の改造が進む程に、不思議と朗らかになっていくようでさえあった。ずっと前から、風見はそれに気づいている。
「…今朝は頂上まで行ってきた」
生来の形からかけ離れたものに身体を変えながら、こころは生まれもった真面目だが屈託の少ない明るさへ近づいていく。
そんな友人の行き着く先も、見届けようと風見は決めている。
「頂上?」
「ああ」
八匹目の銀鱗が宙に躍った。
「この山は…子供の頃、夏になると両親や妹と良く来たからな」
一瞬風見は遠く目を細めて微笑したようだった。しかし不意に明るい笑顔で、おい、と指に絡めた糸の先の小魚を示す。
「…御家族の思い出か」
半ば流れ作業のようにクールボックスを持ち上げてやりながら、結城はまた風見の横顔を見つめた。
変わらないのは面ざしばかりではなかった―――と思う。
ふっと峠の休憩所の光景を思い出してもいた。
風見も子供の頃、あの休憩所で休んでいた家族のような時間を過ごしたのだろう。そして山へ登ってくると、今のようにこの岩に座っていたに違いない。
そんな気がした。
かつては殺された家族の復讐を誓ったという風見を、結城は知らない。
結城が知っているのは、その激情を全てのものの為に懸けて戦う風見の姿だけだ―――ただ一度を除いては。
それは結城がヨロイ元帥への復讐を助手達の墓前に誓った時の事だった。そこで結城は初めて風見が戦い始めた理由を知ったのだ。家族を失い、彼自身の生身を失い、改造人間となって戦うのはそれでも復讐の為ではないのだと―――自分を諭しながら、しかしその時、風見の目には言い知れない感情があった。それは結城の心の奥に刻み込まれて、ことある毎に鮮やかに甦ってくる。
復讐を捨てても悲しみが消える事はない。時間がその深さを埋めても、傷跡のように心に残る。普通の人間としての幸せや平和な生活、改造人間となった為に捨ててこなくてはならなかった幾多のもの。戦う程に増えていくそんな記憶の底に、最初に刻まれた傷は決して消える事はないのだ。
しかしそれがあるから、自分達は戦える。それはいつも、還るところでもあるのだ。
自分が何者であるのかを確認する為に。
だから風見はここへ来るのだろう、と思った。
―――そして多分。
遠く朱に染まり始める木立の中で、油蝉の合唱がやがてひぐらしのしんしんとした鳴声に変わる。
「…そろそろ帰るか」
山を下りる頃には陽も落ちるな、と風見が岩から下りてきた。
「そうだな」
手持ち無沙汰に首にかけていたタオルを外して立ち上がりながら、結城はふと溜息をついた。
「―――どうして僕に君の居場所が解ったのか、ようやく解ったよ」
どうやら仮面ライダー同士の共振が本当に自分のものになるのは、まだ少し先の話らしい。
「?」
竿を畳んでいた風見が振り返る。
「だから…」
これが自分の―――帰郷だったのだと。
説明する言葉を探しながら、結城は遠く山の端を眺めていた。
<完>