祭の夜(後編)(仮面ライダーV3)



 陽が落ちても辺にはこもった熱がたちこめ、湿気を含んでむっと重い。
 僅かに届く灯も足元までは照らさない。暗い森の中を一人歩いていると、またあの感覚が甦ってくるのをぼんやりと結城は感じていた。
 弱い風にのって、遠く鉦や太鼓の響きが流れてくる。高く哀調を帯びた笛の音が、ぼんやりと記憶の底から何かを呼び覚ますのだ。
(…前にも来た事があるようだ)
そんな事はない筈なのだが。
 実際のところ祭―――というもの自体、この一件で初めて足を踏み入れたようなものだった。
 天涯孤独となった結城がデストロンに繋がる秘密機関に引き取られたのは、まだ十になるかならずかの頃である。
(余計な事は心配しないで、一生懸命勉強すればいい)
その言葉に嘘はなく、以来結城はその教育機関からほとんど出る事なく十年近くを過ごす事になる。その優秀さを認められ、外の大学に通うようになっても、普通の学生のように遊んでいる時間はなかった。
 ましてやその前は。
 物心ついた頃には、母一人子一人の生活は既に逼迫していた。
 元来丈夫なたちではなかった母は、結城が学校に上がる頃には床についている時間の方が長くなっており、やがて日々の暮らしを送るのも難しくなっていった。そんな母親を助けて暮らしていた結城に、縁日に遊びに出かけるような余裕がある由もなかったし―――他の誰かに連れていって貰ったという記憶もない。
 だがだとすれば、この奇妙な懐かしさはどこから来るものなのか。
 肌にまとわりつく蒸し熱い空気と、ぼんやりとした心細さ。灯もおぼろな暗い木立の中で、楽しげな歓声と拡声器が流す音楽の混ざりあった喧噪を、こんな風にひとり遠く聞いていた事があったように思うのだ。
 もっと幼い頃―――まだ母親が少しは元気だった頃に、一度くらいは連れていって貰った事があったのだろうか、と記憶を探ってみたが、どうにも思い当たらなかった。
(やはり思い違いか)
肩をすくめ、結城は歩を進めた。低い潅木をまたぎ越えようとして浴衣の褄を摘み、いつしか借り物なのも忘れかけていたのに気づく。
 随分手軽ではないか、とかすかに自嘲めいた苦笑が浮かんだ。
 この浴衣が帯びているのは、まだ家族と平和に暮らしていた頃の風見の記憶だ。
 だがその家族は目の前でデストロンに惨殺され―――ただ一人生き残った風見もその身体を殆ど機械に置き換えて、終わる事のない戦いに身を投じる事となったのだった。
 その頃。
 結城が改造人間の製造にかかわり始めるのはその年の夏頃からの事で、当時ハサミジャガーとカメバズーカの作戦中の敗退は噂に聞いた位だ。丁度新型爆薬の研究完成が間近だった結城は「デストロンの理念を阻もうとするこの世界」にちらりと苛立たしさを感じたくらいで、それ以上考えを巡らす事もなかった。
 それから一年もしない内に、信じる全てが裏切られるなどと知る由もなく。
 そんな自分が、今こうして風見の浴衣に袖を通している―――と思うと、かすかに胸が痛んだ。

 まだ記憶に鮮やかな真昼の光が、射すように目の前をよぎる。

 玄関の表札に気づいたのは、呼び鈴を押した後で―――そんな自分の迂闊さを噛み締めながらも、風見が腰を上げた気配に今更立ち去る訳にも行かなかった。
 家の中からゆっくりと近づいてくる足音を伝える古びた扉の輪郭が、晩夏の陽光を重く跳ね返していた。
 この扉の中で暮らしていたのは、自分の知らない風見なのだ―――と、今更のように思い至る。
 学生として、モトクロスライダーとして、充実した人生を送っていた風見。
 そして自分は、その未来も家族も一瞬にして奪ったデストロンの一員だったのだ。
 だから足を踏み入れてはいけない。ここは安らかな記憶の眠る家だ。
 自分の来て良い場所ではない。
 たとえ真実を知り、その贖罪にこの命を懸ける決意をした今となっても、それで赦される訳ではない。それは一生、自分が忘れてはならない罪だ。
 この浴衣を貸してくれた風見に、自分のそんな後ろめたさが見抜かれているのも解っていた。思えばデストロンに与していた事も、真実を知ってなお惑い続けた事も、風見に詰られた事はない。ただ一度言い争いになったのは、あの時だけだ。
 プルトンロケットから奇跡的に生還した自分に、かつて風見が望んだのは。
(お前は自由だ…もうこれ以上戦う必要はない)
今度こそ、人類の平和に寄与する科学者として生きられる筈だと―――改造度の低い自分なら、多少の不自由はあっても普通の人間の中でも生きていけるだろうと。もう彼自身は平穏な生活を望むべくもない風見の、そんな気持ちも解っていた。
 しかし自分は、贈られた名前と共に生きようと決めていたのだ。
 消えない過去を、忘れない為にも。
 ましてや償おうとするのなら、戦い続けるしかないのだと。
 そう思いながら、結城はふとまなざしを上げた。

 参道の入口は、夜でも往来のある国道に面している。その国道と、駅前へ続く大通りが丁度この神社の敷地を挟む形になっており、交差点に立てば参道入口の動向が見渡せる。風見が張っている森の反対側にあたる参道脇にぐるりと巡らされた垣根から、人目を避けて大通りへ抜けようとする何者かがあったとしても、見逃す事はない筈だ。
 潅木の向こうに人の足音が途切れたのを確かめると、すいと上体を沈めた。
 次の瞬間、結城の身体は垣根を越えて舗道に降り立っている。
(……と)
ついた左足のサンダルの底が、コンクリートに滑った。
 支えようと引いた右足が裾に阻まれかけて一瞬バランスが崩れたものの、どうにか結城は踏み止まっている。
 危なかった、と膝を押さえて息をついた。
 歩くのに不便はないし、浴衣に靴では確かに珍妙なのは解っているとは言え、やはり慣れない履物はなかなか勝手が分からなかった。走ったり跳んだりすると踵が浮くのが、どうも頼りない。
 果たして戦闘になった時これで大丈夫だろうか、と危ぶみながら、改めて辺を見渡した。
 藍色の空に、街の灯が明るく浮かび上がっている。
 その内でも、ひときわ華やいでいるのが参道の入口だ。幾つもの提灯や屋台の灯に照らされた石畳へ、親子連れや子供同士が上がっていく。浴衣姿も多いが、昼間遊んできたままとおぼしきTシャツ姿の子供も少なくない。
 風見の言葉を疑う訳ではないが、やはり何もわざわざ着替えなくても良かったのではないか。思えばこれまで、自分だけで何度か祭の周囲に張り込んでいた事があったのだが、別に奇異の目で見られた覚えはなかったのだ。
(別に浴衣でなくても)
何もおかしくないだろうに、と思いながら、賑やかに石段を駆け上がっていく真新しい浴衣姿の小学生の一団をふと見やった。
 その時である。
(―――そうか)
思い出していた。
 子供の頃に一度だけ、来た事があったのだ。


 今日と同じように、陽が落ちても熱気の淀んだ日だった―――ように思う。
 もう二十年以上も前の話になる。母親が亡くなる半年程前で、九月に入っても暑い夏だった。
《……あ、結城くん》
母親の薬を貰いに薬局へ向かっていた結城を呼び止めたのは、近所に住んでいた同級生の母親だった。
《お祭に行くの? だったら悪いんだけど、うちの坊主見つけたら急いで帰るように言ってくれない? ……おお、よしよし》
最後の言葉は背中でぐずっている赤ん坊に向けられている。
《伯父さんが来てるからって、そう言えば分かるから。ごめんね、おばさんこれから買い物に行かなくちゃならないのよ》
気ぜわしく赤ん坊を揺すり上げる腕には、大ぶりの買い物籠がかかっていた。
《分かりました》
そう言えば休み時間に、同級生達が声をひそめながらも楽しそうに相談していたのを小耳に挟んでいた。行った事はなかったが、薬局へ行く途中の神社で毎年祭がある、というのも知っていた。
 どのみち通り道だ。
 立ち寄るくらいなら時間もかからないだろう、と引き受けたのだが。
 しかし鎮守の森に囲まれた神社は、それまでに行き来していた夜の風景とは全く別の顔で結城を迎える。日頃街灯ひとつない深い闇に閉ざされた参道は、まばゆい光に満たされていた。

 まるで夢を見ているようだ―――と思った。

 灯に照らされてずらりと並ぶ鮮やかな色彩のセルロイドの面や、海ほおずきや綿飴やあんず飴。屋台の裏側で低い唸りをたてている発電機まで、およそ初めて見るものばかりだった。
 異世界に迷い込んだような困惑に駆られながら、のんびりとその賑わいに興じる人込をかきわけ、結城はようやく混雑の中に同級生の顔を見つけだす。
《あ、結城》
しかし提灯に照らされたその笑顔は一瞬、全く知らない顔に映った。
《君もお祭り来てたのか》
僅か数時間前に別れたばかりの級友達が、他人のように遠い。
(…そうか)
服なのだ―――と、ぼんやりと気づいた。
 申し合わせたような、真新しい白や藍色の浴衣が眩しい。屈託なく駆け寄ってくる小さな下駄の素足も、履き慣れて危なげなかった。
 祭の装いでいつものように笑う友達の前で、だがどうして普段着の自分が居心地悪くなるのか。何もおかしい事はない筈だ。
 そう思っても妙な後ろめたさが消えないまま、ぎこちなく言付けを伝えた。
《伯父さんかあ》
ちぇっ、と級友は頭を掻いた。
《仕方ないな。帰るよ。それじゃな》
さして残念がる風もなく友達に手を振り、並んで参道を引き返しかけたところで、初めて不思議そうに結城を見た。
《…あれ、遊びに来たんじゃなかったのか?》
《いや、僕は》
裕福でない暮らし向きを恥じた事はなかったし―――気立ての良い同級生達は、むしろ結城の優秀さに一目置いてもいた。
 だからそれは、自分だけが感じていた異質さだったのだろう。
 負い目でも引け目でもない。
 寂しさや口惜しさといった負の感情でもない。
 ただはっきりと、周りの華やいだ空気から自分ひとりが遊離している。
 そんなしんとした感覚が、胸に深く沈む。
《…それじゃ》
 参道の入口で級友と別れ、結城は足早に薬局への道を急ごうとした。
 思ったより時間がかかってしまったし、できればこの場所から少しでも早く離れたかった。
 影のようにまとわりつく違和感を持て余しながら、何でもない、と自分に言い聞かせる。
 暗がりを不自然に明るく照らし出す、ひとときの幻が生んだ錯覚だ。
 そう思いながら、参道横の深い森の前で何故か足が止まっていた。
 祭の喧噪をよそに、いつもと変わらない鬱蒼とした暗がりの内。
 何かの息づく気配があった。


 風見はかすかに眉を上げる。
(……何だ?)
見えない風が、木立をわたる。その風がどこから吹いてくるのかは解っていた。
 仮面ライダーの中でも、風見の感応能力は最も鋭い。思念は言葉で伝わる事もあったが、時としてこんな形で感知するのも珍しい事ではなかった。
 華やいだ祭から一歩踏み込めば、森の闇は深い。
 この闇に呑まれれば、どこへともなく連れ去られてしまっても誰にも気づかれないだろう。
 ついさっき見送った友人の背中が、ふと脳裡をよぎった。
(…鬼門か)
まだ子供だった友人が、世界征服を企む秘密結社をバックボーンとする機関で育てられるに至った経緯を詳しく聞いた事はない。
 しかし一見無関係そうな子供達の行方不明事件をひとつの線に結びつけたのは、それが彼自身にとっても他人事ではなかったからでもあるだろう。無意識の内に呼び覚まされた彼自身の記憶が、そこに作用しなかったと言えるだろうか。
 ―――そうでなければ。
 果たして自分達は、その策謀に気づいたろうか。
 だとすればこの事件に結城がかかわるようになったのは、単なる偶然か。
(いや)
そこまで考えて、思い返した。
 結城ももう、孤独な子供ではない。
 あの日までは平和に暮らしてきた自分には、聞いても本当に理解する事はできないと解っていた。だから本人も語りたくもないだろうその過去を、あえて今更尋ねようとも思わない。
 少なくとも、自分は出会ってからの結城を知っている。
 この世を支配しようとするものを善と教えられて育った、奇跡のように純粋な科学者。遅まきながら知った真実に苦しみながらも、デストロンを信じたのと同じひたむきさで戦う事に懸けようとする、まっすぐな友人を。
 その彷徨の果てに彼が選んだのは、自分と同じ運命だったのだ。
 それで何の不足がある―――と胸に呟いた、その時である。
 闇の中で、生の枝葉の折れる湿った音がした。
 荒々しくもつれあう足音と、何かに覆われて声にならない悲鳴を聞きつけて、風見は素早く身体を起こしている。


 枝葉の重なりあう深い闇の内に、何かの息づく気配があった。
 あの時自分は―――何を見たのか。
(…あれは)
結城はぼんやりと思い出しかけている。
 二十年以上も昔、自分は今と同じように―――暗い森の中を見つめながら、しんとした諦念をかみしめていたのだ。
 それは生まれながらの性質のように。
 歓声や祭囃子の調べが、遠く耳に届く。提灯や灯明が、夜の闇を明るく照らし出す。そこには非日常的な華やぎや豊饒の恩恵を、当たり前のように受け入れて気兼ねなく遊ぶ人々がいる。
 そしてその中から、友人はためらいなく手を伸ばしてくる。
 しかし自分には―――。

(―――待っていろ)

 あの時、誰かがそう囁いた。

 記憶の木立の内から、ゆっくりと姿を起こすものがある。祭に興じる人々の明るいさざめきの裏で、人目をしのび息をひそめていた影が立ち上がってくる。
 結城は知らず立ちすくんでいる。しかし今しがたの賑やかな光景に感じた違和感とは真逆に―――どこかその闇に、懐かしいものを感じて。
 祭では場違いな自分が心やすく馴染めるのは、それではこの闇なのか。思えば日頃母親の薬を取りに行くのにも、暗闇を少しも怖いと思った事がなかった。
 そんな自分の心を見透かしたように、低い笑いが葉を揺らした。
(そうだな、お前には解っている)
何を言われているのかも分からなかったが、何故か恐怖は感じなかった。逃げる事も忘れて、ただ闇の内にやがて見定められてくる風貌に目をこらしていた。
(じき迎えに行く。もう少し待っていろ)
幻のように囁いた、重い硬質の仮面の輪郭を―――。
 ―――こちらを見据えている昏いまなざしに、奇妙に惹きつけられている。
 闇にあって、その闇を一層深くする、おぼろな光を宿した瞳。そこには淀んだ熱と、この世には決して容れられず―――それを自らも知っている、深い絶望にも似た衝動があった。
 引き寄せられるのは、自分の心の奥にも似た光があるからなのだろうか。
(結城)
遠く自分の名を呼ぶのは、誰の声か。
(結城)


《結城》
脳裡に響くその声に、はっと我に返った。
 淀んだ空気が動いた気配に、身体が動いている。
 森の中を迷いなく走ってくる足音と、遮二無二逃げ道を探す乱れた足音が、薄闇の内で交錯している。風見が何かを見つけ―――追っているのだ。
(敵か)
祭の喧噪に紛れて子供を攫う者が、ついに姿を現したらしい。
 のんびり思い出にふけっている場合ではない、と自分を叱咤する。
 自分は、行方不明になった子供達を―――おそらくは悪のアジトから助け出す為に、ここに来たのだ。その在り処は、彼等を捕らえて聞き出す以外にない。
 どちらへ逃げるつもりだ、と暗い木立に目をこらす。
 すぐ後ろの潅木の中で何かが身じろぐ気配がしたようにも思ったが、そちらに気をとられている暇はなかった。僅かな光を塞いでちらつく影を見据え、その動きを読んで先回りするべく舗道を走り出す。
 今ははっきりと聞き取れる足音が、外の道路を回り込んで来る結城に気づいたとみえて僅かに方向を変えた。風見が後方から追ってくるから逆戻りはできないが、鎮守の森は広い。
 斜につっきって、大通りへ抜けるつもりだ。
(逃がすか)
しかし浴衣が邪魔になって、なかなかいつものように走れない。木々の間に揺れる光を遮る影を見失わないよう目を細め、思い切って裾を蹴る。
 がさり、と数メートル先の潅木が揺れた。何者かが踏み越えようとしている。
 間に合う、と道路を蹴った、その時である。
 ついた足元がすくわれるように、サンダルの底が勢い良く滑った。

 たたらを踏んだ足が弛んだ裾に搦み、かろうじて二、三歩後じさったものの上体は後ろへ泳いでいる。大きく流れた視界の隅に、黒いTシャツにジーンズの若い男がすぐ横の茂みから飛び出してくるのがよぎった。結城をかわすつもりで抜ける場所を変えたつもりが、どうやら少し目測を過ったらしい。
「結城」
鋭く風見の声が疾った。
 どうにか半歩踏み止まり、上体をひねって闇雲に伸ばした指先が、逃げようとする男の腕にかかった。半ば縋るようにぐいとそのまま逆手に掴んだ途端、踵が宙に浮く。滑ったサンダルが爪先から飛んでいったのと同時にコンクリートにしたたか横腹を打ちつけて、一瞬息が止まる。
 掴んだ腕の感触は妙に汗ばんでいた。
 戦闘員にしては妙だな、とちらりと訝しく思いながらも、とにかく身体を起こそうと結城は夜空を斜に仰いだ。
 風に揺れる枝を透かす街灯や提灯のおぼろな光、雲が切れて顔を覗かせた月の光が闇を白ませている。  熱気の淀んだ空を高く横切って、ひらりと藍色の浴衣姿が舞った。
「やれやれ」
潅木を軽々と飛び越えてきた風見は、路面に下駄を甲高く鳴らすと溜息をついた。結城に掴まれたまま巻き添えをくう形になって転がっている若い男のもう一方の手首をとると軽く捻り上げ、背中からぐいと押し臥せる。
「全く、紛らわしい」
ひい、と情けない悲鳴を上げて何とか逃れようとする男にふいと目元を細めると、結城が掴んでいる方の腕もとり、袂から引き抜いた細紐で手際よく括り上げる。
 それから友人を見下ろし、改めて聞こえるように溜息をついた。
「……一体何をやってるんだ、お前も」


 参道の灯は既に落ちて、足元を照らすのは街灯と月明かりだけだ。
 すっかり夜も更けた街には、行き交う人もない。
「―――風見」
先を行く背中から、相変わらず返事はなかった。
 わざとしたように足早に歩いていくその背を追って、結城は歩を速める。
 友達とはぐれた中学生の少女を森の中に連れ込もうとして風見に見つかったのは、春先からこの近辺に出没していたという変質者だった。そのまま近くの交番に引き渡し、再び会場に戻った風見と結城だったが、その後は何もないまま祭は終わっている。
 ひとつひとつ灯が消え、やがて道を通る人がなくなっても、しかしどうもこのまま帰る気になれなかった。所在なく大通りを行ったり来たりしている内に、風見の方がしびれを切らしたと見え、森を横切ってやって来た。
《帰るぞ》
しかし無表情でそう促したきりで、それから一言も口をきかない。
 何もなければ、勿論それに越した事はないのだ。
 とは言うものの、目的から言えば結局無駄足だったと言えなくはない。完全な空振りではないが、しかし普通の人間を一人捕まえただけだ。
 しかも自分の体たらくと来ては、風見が不機嫌になるのも無理はない。
 そう思いながら、結城は言葉を探して再び目の前の背を見やった。
 僅かにそびやかした肩の線が、街灯の薄青い光に硬く浮かび上がっている。ほのかな光が、手荒くかきあげた髪にちらついた。
 口もききたくない程苛立っているのか、と結城は溜息をつきかけ―――そしてはたと気づいた。
「風見…?」
押さえる指先からこぼれた後ろ髪の毛先が、微妙な震え方をしている。
「……もしかして、笑ってないか?」
疑わしげに尖った語尾が、夜の闇に溶けた。返事はなかったが、その代わりに今度ははっきりと、肩が小刻みに揺れているのが見てとれた。
「おい、風見」
前に出よう、と結城が歩を速めようとすると、いきなり先を行く下駄が止まった。
 言葉を探すように、風見はしばらく後ろ髪を撫でていたが、ややあってちらりと腕越しに振り返った。
「―――全く」
口元から消しきれなかった笑みを咳払いでごまかすと、袋手に深く腕を組む。
「問題は山積みだ」
「?」
「今日はあんなチンピラ一人だから良かったが、次はどうなるか分からんだろうが」
参ったな、と独りごちてまた髪を掻くと、街灯を仰いだ。
「八幡様の祭は明日までだ」
「風見」
「まだ終わったと思うのは早い」
青白い光に、かすかに目をすがめる。
 多少気を削がれたのは確かだが、予行演習になったと思えば良い。
 それよりも風見には、別の懸念がある。
 森の中で、結城の背を見送った時の漠とした不安は、はっきりとした形をとり始めていた。
 結城が何かを思い出し、その記憶に自分が無意識の内に感応しているという処もあるのだろうが、そればかりではない。
 あの時、あの若い男とは別に、森の中に何かが居た。
 それは風見にすら、かすかに察知できた程の気配だったが。
 自分の気のせいでなければ、それは祭の客の品定めをしていると言うよりは、森の中で――――――観察していたような、どこか冷静なまなざしだったように思うのだ。
 しかしそれを言葉にすれば、何の事だ、と結城がきょとんとした顔になるのも解っていた。本人の自覚がある事ならば、何も風見が気をまわす事もないのだ。
 もう仮面ライダーとして戦い始めて数年になると言うのに、自分の事に関しては、いつまでたっても驚く程無防備な友人だった。
「…まあ。転ばないのはともかくとしてだ」
言いかけてうっかり先刻の光景を思い出し、また笑いが込み上げてくるのを堪えた。
 下駄は無理だろう、と帯の一件から珍しくこの自分が気を使ってサンダルを貸してやったのに、どうやら何の意味もなかったらしい。どうも色々な意味で危なっかしい友人だったが、もう失う訳には行かないのだ―――と静かに思い定めている。
「まず帯くらいは自分で結べるようになるまで、今夜は特訓だな」
 もっともその前に、そのあからさまに着崩れている裾だの襟だのを何とかしてからだが。
 夜の道端で直してやるのも面倒なので放っておいたのだが、走ったり転んだりで今や相当面白い有様になっているのに気づいていないのは本人にとって幸か不幸か。
 困惑した顔の結城をちらりと見やると、風見は再び歩を進めた。



                                <完>



   








 「何か違う…」とこれでもあれこれ直したんですが、軌道修正できませんでした…いつかひっそり手直ししてたら笑ってやって下さい。
 夏の話の筈なのに、既に冬を迎えようとしている今日この頃、今更ながらに己の遅筆が身にしみます。
 そしてこの話そのものはもう少し続くんですが、それはまた後日。きちんと整理できてなくてすみません。





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