目に映った光景の意味を頭が理解するよりも、身体が先に動いている。
我に返った時には、黒煙と炎を噴き上げているコースへ向かって転がるように走り出し、途中で制止しようとする誰かを振り払い押し退けていた。それが大会役員達だという事に気づいたのは後の事だったが、解っていたとしても同じだったろう。
ぎらついて高い異国の青空が、目に滲みる。煙のせいか空気が乾いているのか、喉がひりつく。せわしくまばたきしながら見開いた目に、明るい灰色のコンクリートの路面に散乱するマシンの残骸と倒れ伏す選手達が飛び込んでくる。
横倒しになった一台のマシンのタンクから零れたオイルを舐めて炎が走り、どん、と空気を揺るがして爆発した。熱風が頬をかすめ、細かい塵が目を刺す。
『退がって!』
幾つもの足音が、背後からすぐ傍を駆け抜けていく。消火剤の泡が渦巻く煙に煽られながら勢い良く撒かれ、忙しく指示を出す声が飛び交う。
『危ないから、退がって!』
その声に、今更ながらに現実がやっと頭に入ってきたようだった。
結城丈二がレースにチームクルーとして参加するようになって数年になるが、これだけの大事故を目の当たりにするのは初めての事だ。
いつもならば選手達が一本のルートの近似線をなぞって緊密に走線を競いあうコース上は、今や無秩序な大混乱の中にあった。自分達のライダーの安否を確認しようとする他チームのクルーも次々とピットから駆け出してくる。大会のスタッフが入り交じり、怒号と嘆声が交錯する。
何が起きたのか、それでもまだ完全には掴めていなかった。情報を少しでも掴まなくては、と忙しく叫び交わされる異国語を、ささくれだった意識の中でどうにか聞き取りながら走る。
(何が、どうなってるんだ)
もどかしく視線を巡らせながら、めらめらと炎をまとわりつかせているマシンのすぐ傍に一人の選手が放り出されているのに駆け寄って、そのスーツを掴んだ。すかさず消火器を手にマシンに近寄るスタッフと入れ代わる形で、意識のない選手の身体を安全な芝の上まで引いていきながら、結城は目を上げる。
倒れている別のマシンに足を挟まれて身動きできなくなっている選手の手が、溺れたように振られていた。急いでハンドルを掴むと片手でマシンを引き起こし、苦痛にもがいている選手の腋の下から腕を回して引きずり出す。
とにかくこれ以上の被害を食い止めなくては、と見回しながら、意識の一部は見慣れたレーシングスーツの姿を探していた。消火作業の続く一方、事故に巻き込まれた選手の周りにはスタッフやチームクルーの人だまりができている。
そんな中、コーナーの延長戦上の路面に、一人のスタッフが膝をついて覗き込んでいる。少し離れたところに横倒しになったマシンは手酷く追突されたらしく、後半分が微妙にひしゃげていた。
その傍に横たわる赤と緑のレーシングスーツの足だけが見えた。
良く知ったスーツの色だ。
(風見)
思わず結城が走り寄ろうとした、その時である。
容態を見ていたスタッフがやおら立ち上がると、大きく手を振った。
振り返ると、救急車が二台続けて丁度レース場に入ってくるところだった。コースを横断し、中央の芝生に乗り上げてこちらへやってくる。
(…まずい)
このままだと、風見も他の―――普通の人間の―――選手と同様に病院へ運ばれてしまう。どうにかしなくては、と思いながら、何をどうしたらいいのか解らなかった。
しかし救急車から飛び下りた隊員はちらりとこちらを一瞥したものの、更に大きく手を回している別のスタッフの方へ走っていく。
ほっとしながらも、ぐずぐずしてはいられない、と息をついた。
重傷の選手を収容し、救急車が出ていく。
そのテールライトの照り返しが消えた通路口に、暗いスロープの向こうから照らし出してくる新たなヘッドライトはない。
どうやら次の救急車がやってくる迄には少し時間がありそうだった。
思いきって身体を起こした。
それからどうやってホテルまで戻ったのか、しかし後になってもはっきりと記憶は辿れなかった。
歩き慣れた筈のホテルの階段を上がろうとしてバランスを外しかけ、危うく踏み止まって我に返ったようでもあった。それと同時に風見のレーシングスーツから漂った煙の匂いがふと鼻をつき、肩にかかる重みに意識が呼び覚まされる。
肩に担った風見の身体は重い。
ポケットから掴み出した鍵を取り落としかけ、あわてて掬った指先は強ばっている。なかなか入ってくれない鍵穴に無理矢理押し込むようにして、ドアを押し開けた。
見慣れたテーブルやソファが今朝部屋を出た時のまま、静かに迎えた。
知らずほっと息をつきながら歩を進め、肩に抱えていた腕を緩めて風見の身体をそっとベッドに横たえた。ぐったりとした四肢を延べると、熱い煙と埃にまみれた空気の名残が冷いやりとしたシーツから立ち上る。
枕を引き寄せ、支えた頭の下に入れると、乱れた前髪が額を滑って固く閉じた瞼をかすめた。
「…風見」
しかし声をかけても、その瞼はぴくりとも動かなかった。
肩を掴んで揺さぶり起こしたくなる子供じみた衝動が一瞬こみあげたが、代わりに急いでスーツの襟元を息が通るように緩める。
脈をとろうと指をやった首筋の冷たさに、知らず息が詰まった。
さっきよりも体温が低下している。
破損した回路を修復する為にエネルギーが振り向けられているせいなのか、あるいは―――と考えを巡らせながら、自分まで血の気が引いていくような錯覚を鎮めようとする。
動揺している暇はない、と自分に言い聞かせながら改めて脈を確かめた。
(……どうやら大丈夫か)
遅く弱い脈だが、乱れはない。それで少し落ち着いた。
自室として借りている隣の部屋から、検査機器をまとめたスーツケースを運び込む。
こんな事態を想定していた訳でもなかったが、レースでの事故に限らず、いつ何が起こってもいいように最低限の検査や治療のできるだけの装備は常に用意してあった。
ベッド横に寄せたサイドテーブルに重い機械を引き上げて電源を入れ、手術用器具を収めたケースを開く。手暗がりにならないように角度を選んでスタンドを運んできたりしている内に、段々平静さが戻ってくる。
(……あ、いかん)
スーツを脱がそうと触れた肩に、僅かな違和感があった。慌てて手を放し、ケースから鋏を取る。
これ以上ダメージを増やさないように焼きついたスーツを切り開いて外しながら、軽く指先で辿ってみた。
(左肩と、第三肋骨と……ああ、だが単に折れてるだけで、被膜は突き破ってなさそうだな)
外からでも解る状況を簡単に確かめ、余計な不安を振り払うように手を進めていく。
生身の脳をかかえる頭部が、ヘルメットに守られていたのは幸いだった。マシンから放り出された弾みで打撲や擦過傷は負っているものの、手持ちの検査機器でスキャンした限りでは今のところ脳震盪以上の異常は見られない。
思ったよりも火傷は酷くないのにも、少しほっとした。人工皮膚は元々回復も早いとはいえ、切開する必要が出てきた時には、できればダメージのある部分は避けたい。
人造臓器や内部機構をチェックし、風見の正常レベルよりかなり低いものの平常値なのを確かめる。あれだけの大事故に巻き込まれたにもかかわらず、どうやら身体そのものには重大なダメージは負っていないようだった。身体の左側からコースに叩きつけられた為の骨折も、綺麗に折れていて破片や折れた骨も周辺組織を傷つけてはいない。固定すれば人工骨は数日で自然治癒するだろう。
流石に強運だ、と何がなしに安堵しながら消毒液のボトルを取った。
ひととおりの傷の処置をして包帯を巻き終えるのに、数時間もかかったろうか。鋏を置き、緊張に重く凝った肩をぐるりと回す。
いつの間にかすっかり陽が暮れて、窓の外の空は朱色に染まっていた。
(……風見)
改めて見下ろすと、巻いたばかりの包帯の白さが目に滲みた。血の気の失せた頬の線を、夕暮れの光がくっきりと浮かび上がらせている。
その横顔を眺めていると、ようやく自分にもまともな感情が戻り始めてきたようでもあった。
拭い切れない不安とないまぜになった安堵と―――そして理不尽だと解っていながら、無性に腹立たしくなってくる。
そんな自分を持て余しながら、結城はかすかに眉を寄せた。
取り替えた包帯を丸めて屑箱に放り込むと、結城は眠り続けている風見の額からタオルを取った。その少し湿った額の熱を軽く手の甲でみて、タオルを傍の洗面器に泳がせる。
事故から二日目の夜を迎えていた。
午後から少し熱が出始めていたが、脳波等に異常はない。おそらく風見の身体が賦活しようとしている為の反動だろう。傷を消毒し、後は静かに休ませればいい。そう解ってはいるのだが、昏々と眠る風見を眺めていると、時折足元が落ち着かなくなるような感覚にとらわれる。
絞ったタオルを畳んで風見の額に置くと、結城は何がなしに溜息をついた。風見の眠りを妨げないようにベッドサイドの灯を落とすと、室内はぼうと暗くなる。唯一煌々と明るいキッチンへ向かい、折り畳まれている新聞をテーブルから取った。
事故の翌日の地元紙は、一面に大きく事故を報じている。何度も読み返した記事に、もう一度目を通した。
記事は当時トップを走っていた選手の即死と、病院に搬送された重軽傷者の状況を伝えているが、紙面に風見の名前はない。
(……あれで良かったのか)
あの後、レースの大会委員会からはホテルに風見の所在を尋ねる電話が一度かかってきている。まだこちらでも確認中である、と誤魔化したところ、どうやら先方もまだ混乱が続いているらしく、判明したら連絡をしてくれ、と言われたきりその後音沙汰はない。
とはいえ、いつまでもそのままにしておけるものでもない。あの場には結城の顔を知っている他チームのスタッフも居た。自分のチーム以外にかまけていられる程の余裕はなかったにしても、風見を運び出すところが誰の記憶にも残っていないと考えるのは楽天的に過ぎるだろう。
自分がどう動いたのか今となってもはっきり思い出せないだけに、やや不安にもなってくる。
あの時考えていたのは、とにかく余計な混乱に風見を巻き込まない事だけだった。
生身の人間と同じように病院に運ばれたところで、適切な治療が受けられる訳ではない。それどころか、風見が改造人間である事をみすみす明らかにさせてしまうだけだ。それだけは避けなくては、と無我夢中だったが、何かどこかで間違っていたような気がしてならないのは何故だろうか。
ともあれ先の事は、風見が回復してから相談するしかあるまい。
しかし風見が目覚める気配は未だない。そろそろ意識が戻ってもいい頃だが、と思う一方で、自分に何か重大な見落としはなかったろうか―――と、結城は惑い始めている。
(…先輩に)
風見の体内機構を最も良く知っているのは、彼を改造した先輩―――本郷と一文字だ。
思いかけ、しかしはたと困惑する。
先輩達と連絡を取りたい時にいつも居場所を尋ねる当の相手は、目の前で眠っているのだ。
意識を澄ましてみたが、元々それ程の精神感応能力がある訳でもない結城の意識には、ごく曖昧な感覚が触れただけだった。かすかな気配を反芻してみて、遠いな、と思う。
(―――いや)
気弱になりかける自分を叱咤し、また新聞を見やる。
事故直後のレース場のカラー写真は拡大しすぎて粒子がやや荒くなっていたが、逆に奇妙な生々しさがあった。
こうして見ると、本当に大事故だったのだと思う。目の当たりにしながらあの時は理解する事すらできなかった惨事の光景が、今頃になって瞼の裏に甦ってくる。
新聞を置いてまたベッドサイドに戻り、腰を下ろす。
薄闇の中、いっこう目を覚まそうとはしない風見の寝顔を眺めた。
馬鹿だな、と思った。
普通の人間より多少目は良いとはいえ、自分の能力は風見達には及ばない。距離もあった。だからあの瞬時に何があったのか、正確に見定められた訳ではない。
それでも何も解らない訳ではなかった。
後部から追突されていたマシンの状況を見るまでもなく。
自分だけなら避けられた筈の局面だったにもかかわらず、風見はあえて回避していない。それどころか、多分後続のマシンと前を走るマシンとの間にあえて挟まれる事で緩衝となろうとした節がある。
それが例えば、一人無傷である事で不信を招かないように、などという保身の為では決してない事も解っていた。
(不死身なつもりか)
そう思うと、また腹立たしくなってきた。
自分の身を顧みようともしない。風見はいつも、誰かの為に易々と命を賭けるのだ。
もっとも、ずっと前からそんな事は承知していた筈だった。
それはもう、何年も昔の話である。
あの時も結城には一瞬何が起きたのか解らないまま、目の前で風見が倒れるのを茫然と見ていた。
風見はためらいなく結城の前に飛び出し、デストロンの兇弾をその頭部に受けたのだ。
その銃弾が改造人間に作用して力のコントロールを失わせる特殊な銃弾―――バタル弾である事など知る由もなく。
あるいは知っていても、同じだったのかもしれないが。
デストロンの罠に落ちてエネルギーを奪われ、やっとの事で自宅に辿り着いた時でさえ、結城に訴えたのは風見自身の事ではなかったのだ。
(…あの少女を…救わなくては…)
その記憶は、今なお結城の心の一番深いところに潜む。
あの時も、だから自分がなりふり構わず駆け寄る事を風見は許さないと知っていた。
(…そんな力があるなら、他の怪我人を助けろ)
そう望むだろうとも分かっていた。
だが逆にだからこそ、風見がどれだけの傷を負ってきたのかも結城は知っている。
人に知られる事のない戦いに命を懸け、平和な時でさえこんな風に他人を守ろうとする。
それが風見の選んだ生き方だ。
(だが)
傍で見ている側の身にもなれ、と密かに思う。
風見といえども不死身ではない。
これまでにも何度、こちらまで身を削がれるような思いをしたろうか。
(誰が頼んだ)
そう言い返される事も解っていたから、口にはしないが。
自分と知り合う前から、風見は一人で戦い続けてきた。そしてデストロンの壊滅後もなおも続く戦いにも、一人で赴くつもりだったと知っている。
プルトンロケットの爆発から奇跡的に一命をとりとめた自分に風見が望んだのは、共に戦う事ではなく―――今度こそこの世界の為に、科学者としてその頭脳を役立てる事だったのだ。
(戦うのは、もう俺達だけでいい……)
かつてそう言われた事も、結城は忘れはしない。
しかしだからこそ、この道を選んだのだ。
正面から向かいあう為に。
(…もう君に、守られるまいと思った)
それも面と向かって風見に言った事はなかったが。
仮面ライダーの存在を知る市井の一科学者として生きていく事に、意味を見い出さなかった訳ではない。
それでも、自らも戦おうと決めたのは―――やはり風見が居たからなのだと。
全てを守ろうと身体を張る風見を、たった一人では往かせない。
「仮面ライダー」に守られる者としてではなく。その名を背負う者として、及ばない力であっても、風見と共に戦おうと。
思うように戦えないこの身体が足手まといだと言われるなら、たとえ元の身体に戻れないところで何を迷うだろうか。そんな覚悟も込めた再改造も、もうじき完成する。
いつの頃からか、たとえ地球の反対側に隔てられていようとも通う意識も得た。
それでもまだ、本当に自分が「仮面ライダー」の名を背負えるものかと結城は思う時がある。
きっとそんな引け目は、消せない過去のように―――どこかでいつまでも残り続けるのだろう。
だがそれでもいい、とも思う。自分は今、風見の傍に居る。
薄闇の内、風見は静かに眠り続けている。
額のタオルが温んでいるのに気づき、濯いで畳み直した。早く熱が下がるといいのだが、と思いながら、その額につと触れてみる。
機械の指は、ぼんやりとこもる熱を感じ取っていた。
窓枠を逆光に黒く切り抜いて、仰ぐ空はほのかな薄紫に明けようとしている。
遠く連なる屋根の峰を縁取って、不意に眩しい曙光が射した。
風見が目を覚ましたら何から言ってやろうか―――と思いながら、結城はかすかに目を細めた。
<完>
一年以上前にUPした「巡る冬の日Side-A」と対になる話です。
何という事もない短い話なのに、こんなに間があいてしまうとは自分でも思わなかったんですが。とほほ。
という訳で、気が向かれましたらこの話の後もう一度「Side-A」の方も読み返していただけたら幸いかと。(2005.9.29)