メルクリウスの環(3)


    八

 眩しさにきつくしばたいた目に、既に高く昇っている陽がまっすぐに射し込んできた。そんな
つもりはなかったのだが、随分眠ってしまったらしい。
 こめかみを押さえて淀む眠気をはらい、本郷は寝室と続き部屋になっているリビングへ向かっ
た。
「―――おはよう」
ソファに長々と寝そべったまま、一文字がちらりと本郷を見た。その手には、厚い革張りのノー
トがある。本郷の視線に気づいたらしく、軽く示してみせた。
「結城が昨晩貸してくれたんだ。結局徹夜で読んじまった」
人には早く寝ろと言っておいてか、と混ぜ返すのは止めておいて、本郷は肩をすくめると作り付
けのキッチンへ湯を沸かしに行った。一文字が土産に持ってきたコーヒー豆のアルミ袋が、切口
を鈍く光らせて置きっぱなしになっている。
「要は、マイケル・ガーディアンって先生が守ろうとしたのは、このX計画にまつわる秘密…って
事でいいんだよな?」
淹れたてのコーヒーを両手にリビングへ戻ると、一文字はまだ古い日記帳を読んでいた。
「ああ。だがそれはX(エックス)じゃなくて、χ(カイ)だろうな。ギリシャ文字だ」
「χ?」
一文字はうさんくさげに日記帳に目を近づけた。
「あ、そうか。どうもこの先生の字は癖があるな」
他人のせいにして、なおも読み進める。時折思い出したようにソファの上で寝返りをうちながら、
しかし黙りこくったまま読みふけっていた。
「……恐れ入ったな。これが二十年以上も前に考えられてたってか」
やがてぽつりと呟いた。
「だがこれが実現されていたら、当然アメリカもベトナムで使ってたろう。何で実用化されなかっ
たんだ?」
「それだ」
「どれだ?」
日記帳越しに、一文字はちらりと本郷を見やった。
「神博士が帰国したのが、一九五二年。その時点でχ計画はほぼ完成していた。だが、とうとう
実用化には至らなかった理由がある。構造上での致命的な欠陥があったんだ」
「欠陥?」
ああ、と本郷は頷いた。
「神博士の提唱したχ計画は、俺達の改造とは全く違う方向からアプローチされている。結城く
んがデストロンで開発していたC計画にかなり近いが、ある意味ではそれ以上に完成されたシス
テムだ。…だが、その完璧さが、逆に欠点になる事もある」
「まどろっこしい言い方をするなよ」
一文字は唇を尖らせると、閉じた日記の背をこつんと額につけた。
「結城先生に近いって言うと、つまりナニか。つまりは機械に置き換えられるところは全部置き
換えて、全体の強度を上げて行こうって考えでいいのか」
そのまま鼻筋を滑らせて、天井を仰ぐ。
「そうだな。…だが、χ計画では生体組織と機械化部分を馴染ませる過程は考慮されていない。
筋肉や内臓どころか神経まで、一気に機械化するようになっているようだ」
「で、そのどこが問題なんだ?」
さっぱり解らん、と眉を寄せた。
「解るように説明しろよ」
俺にも全部解っている訳ではないんだが、と本郷は苦笑する。
「つまりその圧倒的な力を扱う身体を、脳がコントロールしきれない。フィードバックの速度や
力の加減はまだ意識できる範囲内だからいいが、出せるだけのパワーを発揮し続ければ、知らな
い内に身体には過剰な負荷がかかる。それに気づかず、四六時中身体の耐久性以上に動き続けれ
ば、いずれ待っているのは―――肉体的な崩壊だ」
「何だよ、それは」
一文字は身体を起こした。
「その内死ぬ事が解っていて、改造するってのか」
「だからそれを防ぐ為に、今の設計では意図的にパーフェクターという回路でエネルギー変換率
をコントロールし、更に本来なら必要な回路をひとつ外す事で対応しているようだ。そこまで解っ
た」
ああそうなのか、と少し安堵の表情になって、目の前に置かれたカップを手にする。一口啜って、
しかしふと眉を寄せた。
「つまり、それがアレか。大佛博士が手紙に書いてきてたマーキュリー回路なんだな。……って事
は、逆に言えば今のままでは、カイゾーグは不完全って事か?」
「不完全というのは正しくないだろうな」
当惑げな友人を振り返って、本郷もコーヒーを口にした。
「それは……そうだな、完全な人間が居ないというのと同じかもしれない」
完璧な改造人間もまた「造り出せる」ものではないのではないか、と本郷はちらりと思う。
 自分達も、最初はこの人間離れした力を持て余していた。だがやがて戦いの中、それでも不足
なのだと知って自らを鍛え直し、更なるパワーアップを果たすに至るのだ。
「今の設計でも、改造人間としては十分に戦える。だが、もしカイゾーグが潜在的な能力を全て
発揮しようとするなら、いずれはマーキュリー回路が必要になる筈だ」
本郷は窓の外を仰いだ。
 戦う為に、もし確実に今以上に強くなる方法があるなら―――多少の危険を冒しても、自分達
もそれを選ぼうとするかもしれない。
「設計図は、マイケル・ガーディアンが完成させたものがあった。今、結城くんが解読している」
そうか、と答えて少し考え、一文字は僅かに疑わしげなまなざしになった。
「ところで、お前まだ俺に黙ってる事があるだろ」
「うん?」
「はぐらかすなよ」
唇を尖らせる。
「お前に設計図を送ってきたからには、大佛博士は既にカイゾーグは存在していると考えている
んだろう」
それ位は俺だって解るぞ、とねめつけて見せた。
「だが自分達を狙う組織と戦わせる為に、神博士がカイゾーグを造ったんだとしたら、俺はそっ
ちの方が恐ろしいね。完璧にしたら死なせる事になる、そうでなければ半端なのが解っている、
それなのに改造するなんて」
そんな曖昧さのまま、ただ戦わせる為に生身の人間の身体にメスを入れたのだとしたら。だと
すれば、それもまたショッカーやデストロンと大差ない所行ではないのか。
「そうかもしれない」
本郷は呟いた。
 実際のところ、細かい事情はまだ何も解らない。
 ただ、謎のG機関は既に動き始めているのだ。χ計画の主幹だった神博士は、大佛博士やガー
ディアン博士より先に狙われているに違いない。そう考えるのが自然だろう。
 結城には言わなかったが、本郷の内には奇妙な確信がある。
 おそらく神博士は、既にこの世の人ではない。
 そしてカイゾーグの最初の被験者となったのは、神博士の一人息子なのではないか。本郷はそ
うおぼろげに推測していた。そこにどんな経緯があったのかは勿論まだ解らない。
 だがそれを、おそらく自分は受け容れるだろうと思う。
 それは今なお自分が、どうしても緑川教授を憎めないように。一文字が決して自分を恨もうと
はしないように。そう考えるのは、自分が科学者だからだろうか。
「そんな計画に手を貸そうというのか―――俺達仮面ライダーが」
しかし一文字の眼差しは明るく見えて厳しい。それも確かだ、と本郷は思う。
 自分達は、いつも矛盾を抱えている。これ以上自分達と同じ存在を増やしたくない、と思いな
がら、けれども戦おうとする者が居るなら―――放ってはおかれない。できれば手も貸そう、と
思うのは、別な見方をするなら新たな仲間を増やす事と同義ではないのか。
「それだったら、俺がまた日本へ戻って戦ったっていいんだ」
静かに呟くと、一文字も窓の外を見た。
 もう自分達には、後戻りはできない。戦いを避けて通る事もできないなら、この力を懸けて
未知の敵でも向かって行こう。元々自分達が、デストロン滅亡後に感じていた新たな影の正体
が―――神博士達を狙う謎の一団・G機関だとするなら、全ての辻褄は合うのだ。
「だが、お前はもう次の手を打っちゃってるんだろ?」
「……参ったな」
本郷の口元に微苦笑が浮かぶ。
 なかなか一文字に隠し事をするのは難しい。
「風見か?」
「そうだ」
それも一文字にどう説明すれば良いかまだ考えていたのだった、と本郷は思い出す。
 風見から電話がかかってきたのは、先週の事だ。
(―――海の匂いか)
電話越しでも、そのとまどいは伝わってきた。
 どちらかと言えば我が道を行くタイプの性格の後輩に、それと相反するとも言える鋭敏な感覚
が備わっているのを知ったのは半年程前だった。
 それはもしかすると、共に戦う者との突然の別れを二度も経験した事で獲得された能力なのか
もしれなかった。一人になっても戦う、と誓い、いつしか冷徹な光を含むようになった瞳は、し
かし時折ひどく人恋しげな表情を映すのだ。
 そんな風見がモスクワで感じたという謎の気配と、自分の夢を結びつけるのは短絡的かもしれ
ない。何ひとつ確証があった訳でもなかった。だが本郷は、風見に一旦モスクワでの調査を切り
上げさせようと決めたのだ。
 まだ明確ではないものの、見えない手は全て日本を示している。
(できれば神博士の線から追ってみて欲しいんだが、もし手掛かりが無いようだったら)
そしてそれも理屈ではなく、おそらく感覚だった。
(おやっさんを訪ねてみてくれないか)
(……おやっさんを、ですか?)
あからさまに訝しげな風見に、本郷はそれ以上の説明はしていない。
 ただ、奇妙な確信があったように思う。
 もしも自分の推測と風見の感覚がが同じ道を示すなら、その先には必ずあの昔気質のおおらかな
人が居る筈だ、と何故か思ったのだ。もしも自分達がいずれ出会うのが新たな仲間であるなら、い
つも「仮面ライダー」に一番近い人であり続けてきたあの人が無縁である筈がない。
 自分が全てを見通せている訳ではない。
 この事件に、いつの間にか結城が関わってきていたように。自分の知らないところで、あるいは
また新たな誰かが居たとしても不思議ではない。
 そんな本郷の追想を遮ったのは、一文字の声だった。
「まあ、風見が見に行ってるなら、俺がわざわざ行く事もないか」
一文字はカップを手にしたままソファにもたれ、本郷を見上げている。
「そう言えば、ちょっと思い出した事がある」
「うん?」
「近所に、子供達相手に科学の講釈してる爺さんが居てな」
酒びたりでそれもほとんど相手にされてない状態なんだが、と続けた。
「まともな時には、俺みたいな素人にも丁寧に教えてくれるんで有り難いんだ。ただ、酔っぱらう
と本当に何言ってるのか解らなくてな。で、その爺さんが良く念仏みたいに繰り返してたのを思い
出したんだよ」
思い出すように眉を寄せた。
「―――自分は《神》に見捨てられたんだと」
本郷は一文字を見つめた。
「まあ、俺も文字通りにしか受け取ってなかったんだがな。ナイーブな科学者が、自分達の研究は
神の領域を冒すものだとか悩むのはありがちだから、そんな意味だろうと思っていた。だが、もし
かすると別の意味があったのかもしれない。何だっけ、ガーディアン博士が言ったんだろう?」
それは―――遺言のように。
(《神》の手が、迫ってくる……)
χ計画に関わっていた科学者が死際に遺したという言葉の意味は、手記や資料を読み返しても未だ
に不明なままだった。
「もしかすると、あの爺さんは何か知ってるのかもしれない。もうちょっと詳しく話を聞いてみて
もいいかもな」
天井を仰いで自分に言い聞かせるように呟く。そこで思わず難しい表情になっていた自分に気づい
たように表情を和らげると、一文字は本郷を見やった。
「ま、それもニューヨークへ帰ってからの事だな。大体俺は、お前のレースを撮る為に来たんだ。
俺まで忘れるところだったじゃないか」
「そうだな」
本郷は微笑する。
 こんな時にレースに参加している場合か、ともちらりと思わないでもない。しかしここでエント
リーを取り消したりしたら、それこそ一文字が怒り出すのも解っていた。ある意味それを、自分は
免罪符にしているのかも知れない。
 仮面ライダーである時と同じ目でレーサーとしての自分を見ている一文字に、きっと自分は随分
救われてもいる。
「そう言えば今回のコース、初めてなんだよな。ちょっと撮影ポイントでも下見してくるか」
そうしよう、と独りごちると一文字は身体を起こした。ソファの後ろに先日から置いたままになっ
ている荷物からテスト用のカメラを取り、少し考えて上着も手にした。
「……言っとくが」
肩にかけた上着越しに、ちらりと本郷を振り返る。
「俺は明後日、誰かの後からゴールするお前なんか撮る気はないんだからな」
「解っている」
力を込めて本郷が答えると、それならいい、と笑って一文字はドアを閉めた。



     九

 ドアは開いている。
 西向きの部屋は、ぎらつく午後の光に満たされていた。
 この国の暑さは、故国とさほど変わらない。
 良く白衣など着ていられるものだ、と風見はちらりと思っている。外ならば確かに長袖は手放せ
ないだろうが、仲間しか居ないのだから別にその腕を隠す必要はないのだった。それでも律儀に白
衣を離さないのは、彼なりの決意の現れなのか―――それとも単なる習慣なのか。
 南の国に居たせいか、半年ぶりに見る友人の横顔は幾らか陽に焼けたようにも見えた。生真面目
な面ざしは変わらなかったが、いつしかその表情には見知らぬ落ち着きが備わって、かすかに風見
の頬を引き締めさせている。
 窓からの風が、白いカーテンをふわりと膨らませた。それで気づいたのか、結城が振り返った。
「……やあ」
心なしか、その笑顔は少しぎこちなく見えた。
 こんなに早く再会するとは思っていなかったからかもしれない。それは風見にしても同じ事だっ
たのだが。
 何か言いたげに動いた唇を、ふと思い返したように引き結ぶ。僅かに言い淀んだが、やがて表
情を引き締めると結城は尋ねた。
「会ってきたんだな」
風見は頷いている。
 大学を訪ねても神博士の行方は杳として知れず、せっかくの帰国も数日は徒労に終わった。流
石にこのままでは手詰まりだ、と思ったところで本郷の言葉を思い出したものの、既にセントラ
ルスポーツ店を畳んでいた立花の居場所を探すのにも時間がかかったのは、正直予想外だった。
(全くどこへ行っちまったんだか)
デストロンとの戦いが終わった後、立花に黙って旅立った自分の事はこの際棚に上げられている。
商店街の隣人に聞き回ってようやく都下のコーヒーハウスの所在を知ったものの、しかも訪ねて
みれば「臨時休業」の札が下りていて、行き先を突き止めるのにまた少し手間取ったりしたのだ。
しかしそんな事は自分の沽券にかけても絶対口外するまい、と風見はひそかに思っている。
 いつまでたっても、おやっさんにはかなわない。
 とはいえそれが新たな後輩にも解るのは、もう少し先になるのだろうが。
《おやっさんから聞いてます》
まだ記憶に新しい面差しの屈託なさが、それでもちらりと胸を刺した。詳しい事情は知る由もなかっ
たが、あの青年が改造人間となり―――そして自分達と同じ名を負うに至るには、きっと語られ
ない幾多の苦悩や傷があったのだろう。
 ともあれはっきりした事もある。
 新たな後輩が戦っているのは、既に滅びた組織とは異なる悪の組織だ。彼等がその征服目標を日
本に定めたのが偶然なのかそれとも別に理由があるのかは知る由もなかったが、いずれにせよ北の
国でどうにも掴めなかったもどかしい気配を、風見は思いもかけず帰国した日本で捉まえている。
 デストロン滅亡後なりをひそめていた、世界征服の野望だ。
「……その組織の名前が、GODと言うのか」
風見の話が終わると、結城は聞き返した。
「そうだが?」
そうか、と呟いた。
 ならばあの時、マイケルは敵の名を伝えようとしたのだ。
(《神》の手が、迫ってくる……どうか伝えてくれ、逃げるようにと)
つまり、神博士にもGODの魔手が迫るだろうと―――実際には、その懸念は既に遅かったのだが。
 だがせめて、まだ間に合う約束だけは果たしたい。
「ところで今度は、お前の話を聞こうか」
風見の声に、結城はふと我に返った。
「本郷さんが」
軽くすくめた肩で廊下を示して、風見は斜に友人を見やる。
「お前から、何か敬介に届けて欲しいものがあると」
「……そうか」
結城はゆっくりと机の引き出しを開けて、拳程の大きさの機械を取り出した。接続する為のものな
のだろう、何本もの被覆線が血管か腺のように垂れ下がっている。
「―――マーキュリー回路という」
そっと机に置くと、結城はそう切り出した。
「神博士のカイゾーグを完成させる為の、最後の回路だ」
「どういう意味だ?」
聞き返されると、少し困ったような顔になる。
「……何と言えばいいんだか、良く解らないんだが」
掌の機械を大事そうに指先で撫でながら、探るように続けた。
「例えば変身している時でも、目の前に子供が居れば君は自分の力を無意識にセーブしているだろ
う」
そんな事は当たり前だ、と言いかけて風見は言葉を飲みこむ。
「だがそれは、そこに君の精神があっての事だ。……もしもそのコントロールが失われれば、そこ
にあるのは何だと思う」
問いかけておいて口籠るな、と思いながら、友人の声を聞いていた。
「自分で律する事のできない―――恐ろしい力だ」
それは普通の人間とはかけ離れた力だ。掴むだけのつもりで握り潰し、ひねろうとしてねじり切
る。その恐ろしさを、自分も結城も―――そして先輩達も、良く知っていた。
「だがそんな事なら、もう敬介はとっくにコントロールできている筈だ。少なくとも俺が見た限
り、変身前も後も別に変わった様子はなかったぞ」
「それはそうだろう」
結城の声はいつになく苛立たしげに響いた。
「今のカイゾーグは、確かにそのままでも十分な力は発揮される筈だ。だが全ての機能を発揮で
きている訳ではない。今の設計図からは、重要な回路が外されている」
「……それが、そいつか」
斜に視線をくれると、結城は頷いた。
「マーキュリーパワーを発揮する為の回路だ」
それは大佛博士の持っていた設計図に書き留められていた名だった。人を超える力に、神博士は
ギリシア神話で《神から人々への使者》を意味する神の名をつけている。
「このマーキュリー回路を装着すれば、おそらくまだ本人も気づいていない能力が使えるように
なるだろう……だがそれは、諸刃の剣ともなる」
神に近い力を得ようとした人間が力に溺れて結局は自らを滅ぼすエピソードが、神話という形で
語られているように。神博士は優れた科学者として、その危険性を回路の名に託して戒めとした
のだろう。
 無思慮にふるわれるだけならば、それは単なる暴力に過ぎず―――いつかは当人をも滅ぼす。
力を律するだけの強靱な精神があってこそ、初めて力は正しく発揮されるのだと。
 それが神教授の達した結論だったのかもしれない。母親の顔も知らない息子を、神教授は殊更
に厳しく育てている。身体を鍛え、それ以上に精神を強く。
(力に見合うだけの精神を備えられるよう、鍛えてきたつもりだったが―――)
そして設計図にあった空白の部分は、現実のカイゾーグ―――Xライダーにも必ずある筈だ、と
結城は推測している。
 神教授が独自にマーキュリー回路を完成させていたのかどうかは、今となっては誰にも判らな
い事だが、少なくとも設計図上ではぴたりと収まるのだ。マイケル・ガーディアンが神博士の設
計をうけて開発していた回路は、還るべき場所を待って夏の陽に静かに照らされていた。
「《カイゾーグ計画》は深海という特殊な環境に適応できるよう、肉体面だけでなく精神面にも
影響を与えるように設計されている」
太陽の光すら届かない深海で息づく、原始的な生命のような強靱さを。暗黒にも自分自身の力に
も飲み込まれない為には、より強い精神力が必要となる。
 マーキュリー回路のセットは、おそらく被験者である神敬介の精神にも影響を及ぼす筈だった。
「だからもしも、マーキュリー回路の作動による励起状態に耐えられなければ。コントロールを
失って暴走し―――最悪の場合、自分自身のフルパワーで精神崩壊する可能性もある」
眉をひそめている自分に、風見は気づいている。
「穏やかでない話だな」
「だが避けては通れない道だ。もしもその―――」
「敬介だ。神敬介」
そうだったな、と結城は自分を納得させるようにその名前を胸の内に呟く。
「―――敬介くんが、更に強くなりたいと願うなら」
その目が風見を見上げた。黒く深い瞳だった。
「その時、必ずこのマーキュリー回路は必要になる筈だ」
再びそっと回路に触れかかる友人の左手を、風見は見つめている。
 外見からでは生身と変わらないように見えるが、その左腕も右腕同様、既に機械化されている
のだった。プルトンロケットの爆発で負った傷は、回復しても完全には元通りにはならない深い
爪痕を結城の身体に残している。普通の科学者として生きるならばリハビリ次第でさして支障は
なくなる筈の後遺症は、しかし戦おうとするならば明らかなハンディキャップとなった。それを
知った結城は、ためらう事なく再改造の道を選んだのだった。
(……いずれにしてもライダーマンとしての能力は上げていかなくては、君の助けにはならないだ
ろうと思っていた)
単純で直情的ではあるが、この友人は同時に科学者としての目を持っている。
「最初からマーキュリー回路をセットしなかったのも、つまり条件を満たす迄の時間が必要だっ
たからだろう」
自らをも被験者として見据える、冷静なまなざしだ。
「ひとつは既に、ある程度カイゾーグの力を彼がコントロールできている事。もうひとつはこれ
までの戦いの中で、新たな力を受け止めるだけの強い精神力が身についている事だ」
「つまり、それが満たされていなければ―――マーキュリー回路をセットして、かえって敬介を
危険に陥れる可能性があるのか」
「そうだな。だからその見極めが必要だ」
頷いて、結城は静かにマーキュリー回路を差し出した。
「マーキュリーパワーを使いこなせる強い精神力が備わっているか。それは君が判断して」
つられて出した手に、しんと冷たい機械の重みが伝わるのをぼんやりと風見は感じている。
「このマーキュリー回路を、彼に渡してくれ」
「……どうしても要るものなのか、これは」
自分が言うのもおかしいかもしれないが、変身していない後輩の外見は全く普通の人間と変わら
なかった。その状態でも超人的な力を発揮する機械の身体を、これ以上改造する必要があるのか
―――と思うのは、甘い考えだろうか。
「僕はそう思っている」
しかしはっきりと結城は答えた。
「神博士は、彼が生涯を懸けたχ計画を託して、一人息子を改造したんだ。それは本来、戦う
為の改造というよりも―――人類の平和の為だった」
その理想は、離ればなれになってもそれぞれの科学者の胸で二十年以上も生き続け―――いつか
は完成されると夢見て、研究は続けられたのだ。遠い約束を、いつの日か果たす為に。
「この回路の設計図は、そう信じた科学者から受け取った」
 自分自身の研究の合間にも決してχ計画を忘れなかったマイケルは、十年以上前にマーキュ
リー回路の設計を完成させていた。しかし最大の問題は、たった一つのバランサーの設定値に
あった。カイゾーグのフルパワーを最も効果的に引き出しながら自壊しない為の、最適のバラ
ンスを設定する値がなかなか定まらなかったからなのだ―――と回路の組み立て中に結城は気
づいている。
 人体実験を繰り返せばもっと早く確定できた筈のその値を、そしてマイケル・ガーディアン
は根気強く数年をかけて検証した計算から弾き出したのだった。
(最適値は……一二五)
やっと完成されたマーキュリー回路を、マイケルは大佛博士を介して神博士に届けようとした
のだろう。その為に、GODに狙われる事が解っていても。
 一度だけ、それも子供の頃に会った外国の科学者を、神敬介という青年は覚えているだろう
か、と結城は思う。くだくだしい話は別にするまでもないが、ただその真実だけは、いつか伝
えられるといい。そう思う。
 その願いは―――仮面ライダーに引き継がれたのだ。
「―――そうか」
風見は手の上の機械に視線を落とした。つい無造作に懐に押し込みかけ、精密機械か、と手を
止める。それに気づいたらしく、友人は少し笑ったようだった。
「ああ大丈夫だ。結構頑丈にできてる」
激闘を続ける仮面ライダーの、丁度心臓の辺に収められるよう設計された回路だ。そう簡単に
壊れる程やわじゃない、と念を押して、それから結城は思い出したようにつけ加えた。
「……手術に必要な機材だが、手配しておいた」
「何だ」
風見は苦笑して、回路を懐におさめた。
「随分手回しがいいな」
軽く肩口を小突くと、友人は照れたように笑った。
 褒めたつもりはなかったのだが。
 言葉を額面通りに受け止める、そんなところはどうも変わらないな、とひそかに風見は思う。
 新たな回路によるパワーアップ―――それは既に改造されている身体とは言え、それは普通の
人間から更に離れた存在へと変えていくという事ではないのか。しかも重大な危険を伴うという
なら尚更だ。よくもそんな重い選択を丸投げにしてくれるな、と肩をすくめる。
(……まあ、いいだろう)
かつて自分の進む道を決めたように。友人を同じ道に導いた重みを受け止めたように。
 それも仮面ライダーとなった時から抱えてきた覚悟だ。それが終わる事のない戦いなら、新た
な覚悟のひとつやふたつ位は軽く背負ってみせよう―――と思いながら、風見はついと片眉を上
げて斜に友人を見やった。
「また日本へとんぼ返りか。忙しいな」
窓の外は、どこまでも抜けるような青空だった。



     十

 風のような人だ―――と最初に出会った時に思ったのを、後になっても敬介は時折思い返す事
があった。
 自分と同じ「仮面ライダー」の名をもつ人達の話は、それまでにも折にふれ聞いていた。
 だが何の前触れもなく現れた先輩は、いきなり現れた《敵》に何のためらいもなく変身の体勢
をとった。とまどいもせず、むしろ余裕すら感じさせる動きで初めて目にする筈の再生怪人と戦
い、そしていつの間にか風のように姿を消していたのだ。
《……全く、あいつらしいな》
もっともそれも、立花にとっては別に騒ぐ程の事でもなかったらしい。いささかけれん味に過ぎ
るきらいはあるものの、それも彼の癖のようなものなのだと。
《だがお前に助けが必要な時には、必ずまたやって来る。そういう奴だ》
そう言うと自分の顔を見て、苦笑しながら後ろ髪を掻いた。
《何だ、釈然としない面してるな》
それが図星でなかったと言えば嘘になる。
 先輩の存在は心強い。だがGODとの戦いは、元はと言えば自分達親子のものだ。たとえ同じ
名前を共有するとはいえ、それは譲れない―――とどこかで思っていたかもしれない。
《だがな、そんなケチな意地張ってる場合じゃなくなるかもしれんぞ》
強敵アポロガイストが倒れたのもつかの間、GODは新たな怪人軍団を擁して更なる日本侵略計
画を企て始めている。GODに協力させられていた南原博士が命懸けで持ち出したRS装置の設
計図を巡り、戦いは新たな局面を迎えていた。
 分割された設計図をもつ―――と目される科学者を、GODは次々と襲っていった。マコやチ
コが避暑に招待された野中博士の留守宅を襲ったのは、GOD悪人軍団のクモナポレオンだ。幸
い博士は不在だったものの、クモナポレオンはその妻子から設計図を奪っている。アジトへ持ち
帰られる前に倒しておかなくては、とつい焦って深追いしたかもしれない。
 GODの新たな怪人軍団は仮面ライダーのデータを計測し、そのエネルギーを奪う為の戦略を
用意してきていたのだった。
《吸い尽くしてやる……》
一度は海へ逃れたものの、振り払いきれなかった蜘蛛の糸は否応無しにエネルギーを吸い取って
いった。
 何とか戦おうとしたもののやがて身体の自由がきかなくなり、なすすべもなくクモの巣に捕ら
われて身動きがとれなくなっていく。それでも必死に逃れようとしていたところで、意識は途切
れている。
 しっかりした腕に身体を支え起こされ、何か呼び掛けられていたようでもあったが、その辺の
記憶は後になっても定かではない。
 ただ、意識が闇に飲まれる一瞬、ふと遠い声を思い出した。
《お前に助けが必要な時には》

 深い海の夢を見ていたようでもあった。
 闇に近い濃い蒼に包まれて、身体は金属の鎧に閉じ込められたようにひどくけだるかった。力
が入らず、指先ひとつ動かない。
 クモナポレオンの糸にエネルギーを吸い取られたこの身体は、海と同じ冷たさに痺れたこのま
ま、ゆっくりと深い海に沈んで行くのだろうか。
 身体を圧し包む水の重さに、喉からこぷりとなけなしの息が溢れた。こみあげるままに唇から
こぼれた気泡は、ほろほろと球となって昇っていく。
 追うともなしにその行方を眺めた。
 空は晴れているのだろうか。
 今は遠いその世界にぼんやりと思いを馳せながら、ほの明るい水面にゆらゆらとたゆたう光を
昏い深みから仰いでいる。
(……ああ、そうか)
これは神ステーションから、父親が見ていた光景だ。
 何故か訳もなく、そう確信していた。おそらくは長い時間をかけて、海の中にひとり秘密の基
地を築いていた作業の途中、こんな風に父親は潜水服のヘルメットのガラス越しに海上を眺めて
いたのだろう。それとも一度は意識を移した機械の頭脳に接続されたカメラから、こんな風に自
分の来るのを待って眺めていたのだろうか。
 ふと胸が締めつけられた。
《私は計算違いをしていたようだ》
深い海の底で、最後に聞いた父親の声が甦る。その肉体は滅びても、一人遺していく息子を支え
てくれようとした父親の心を、自分は甘えをぶつける為に使ってしまったのだ。
 今にして、その失望を思う。
(ごめん……)
父親はその最期の力を振り絞り、命と引き換えにこの身体を造ってくれたというのに。自分はあ
の時、普通の人間でなくなった辛さにとらわれているばかりだった。
 そして父親の願いがこめられたこの鋼鉄の身体も、今や少しずつ力を失いつつある。このまま
深い闇に意識を任せれば、遠からず永遠の暗黒に呑み込まれる事も解っていた。それが敗北だと
解っていても、今の自分にはそれに抗うすべもない。
(もうどうにもならない)
弱く呟くのは自分の声だった。
 しかしそれならば、それを打ち消して囁くのは誰の声なのだろうか。
(……だが、まだ本当に負けてはいない)
父親がくれた、この名前―――そしてその名前を先んじて背負ってきた人達に懸けて。
 自分は仮面ライダーXだ。
(―――ここで終わる訳には行かない)
それは静かに、心の底から込み上げてくる声だ。自分自身の奥から、全く新しい自分が目覚めよ
うとしている。
 だがそれも、ずっと昔から知っていたようにも思う。この身体を得る前から、自分はその強さ
を目指してきたのだから。
 あれは父親が見つめていた、遠い水平線の彼方。
 ほんの子供の頃から、自分もその強く静かな海の果てにいつか辿り着こうと願っていたのだ。
 ぼんやりと記憶を探ってみる。
 遠く穏やかに、しかし重く打ち寄せる波の音が聞こえた。そのざわめきに混ざって、どこかで
聞いた事のある声が自分の名を呼ぶ。
《ケイスケくん》
片言の日本語でそう話し掛けてきたのは、まだ自分が子供の頃に一度だけ会った外国の科学者だっ
た―――と、ひらめくように思い出している。
《それは、ジュウドウ?》
《そうです》
東京の学会に出席する為の来日だったという。そこから十数時間もかけて来てくれた彼を、せめ
てもてなそうと近くの町まで買物に出かけた父親だったが、しかし遠来の客がその間放っておか
れる事にはあまり思い至らなかったらしい。
 田舎の町には見物するような名所もなく、元より観光に来た訳でもない科学者は海岸で父親の
帰るまでの時間をつぶしていた。
 ひとり朝稽古を続けていた自分としては、あまり話し掛けられると気が散ったのだが、父親よ
り一回りも若いアメリカ人は屈託がなかった。
《私もオリンピックでジュウドウを見たよ。セオイナゲは格好良かったね。それは何という技か
な。ケイスケくんの得意技?》
《得意技って訳じゃないけど。まだ練習中だから》
教えて貰ったばかりの技は、まだその前段階だった。
 半ば捨て身になってこそ威力を発揮する技の完成には、その回転に耐えると同時に自分側の衝
撃を和らげるだけの処し方を、身体で覚え込む必要がある。
 まずその感覚を掴む為に、と足場の悪い岩場で繰り返す練習は、見ようによっては飛び込み前
転にも似ていた。何度も何度も一人で転がっている自分の姿は、武道に馴染みのない外国人には
奇矯な動きか、さもなければ子供の一人遊びのように映っていたかもしれない。にこにこしなが
らも首を傾げている青い目の科学者に、だからどうしてもその技の名を告げたかった。
《……地獄車って言うんです》
《ジゴク・グルマ?》
《そう。地獄車》
通じているんだろうか、と思いながらも―――あの時、自分は誇らしげにはっきりと告げたのだ。
《父さんが教えてくれた、新しい技なんです》
 胸の奥まで深く海の水に満たされながら、ゆっくりとそんな事を思い出している。
(そうか……)
あの時の、熱い感情が不意に甦ってくる。ゆるやかな海の流れが血液のように身体を巡る内、深
く確かな力が涌き上がってくるようだった。それは父の―――長い時間を経てようやく届けられた、
自分への最後の贈り物だ。
 ぼんやりと、そう悟っていた。
(―――父さん)
解ったよ、と呟く。
 父の遺した全てを受け継ぐ。そしてこの先どんな激闘が待ち構えていようとも、自分は決して
一人ではないのだと。
 深い夢の中から、そしてゆっくりと上がっていくのだ―――新しい力を得て、再び戦う為に。
 胸がほのかに熱くなる。力強さを増した鼓動を感じながら、敬介はまだ重い瞼をぼんやりと開
いた。



   エピローグ

 異国の空は、今日も良く晴れて乾いていた。窓から射す陽射しに目を細めて、風見は古びた革
張りのノートをめくる。
 朝から読み始めて、アメリカの科学者がもう十年も昔に神博士と―――そして小学生の頃の敬
介に会った時の思い出を書きとめたくだりまでページが進んだところだった。
 海岸での朝稽古の折、父親から容赦なく投げ飛ばされる少年を、とうとう青年科学者は見るに
見かねたらしい。

「まだ子供なのに随分無茶をするものだと思い、つい余計な口出しをしてしまったのだ。すぐに
私は後悔した。
『子供だからと言って、いつまでも加減していては彼の為にならない』
J博士は静かにそう答えた。
『人間はいつ、どんな苛酷な状況に投げ出されるか解らない。子供だろうが大人だろうが、それ
は同じだ。だから私は息子を、どんな時にもきっと生き抜けるような強い男に育てたい。この広
い海のような男にな』
そしてJ博士は海を見た。投げ飛ばされた少年も、やがて涙ひとつ見せずにそのまま起き上がっ
てきた。
 この親子にとっては、この厳しさこそが信頼と愛情の絆なのだ。私はその時ようやく理解した
のだった。
『マイケル。私はきっと、この子が私の理想をいつか継いでくれると信じている』
言葉は厳しかったが、その瞳には深い慈愛の色があった。」


 風見はノートを閉じて、テーブルに軽く放り出した。ソファに深々ともたれかかり、ふと瞑目
する。
 正直なところ、全てが納得できた訳ではなかった。この手記を書いたアメリカ人科学者からχ
計画の秘密を託された結城ほど素直に何もかも受け入れるには、自分は少し斜に物事を見過ぎて
いるのだろうか―――と思いながら、どうしてもどこかで割り切れなさが残る。
 理想は美しい。
 この世界の平和と発展の為に役立てたい―――と願ったχ計画は、確かにある意味で全うされた
とも言えるだろう。
 だがその結果として神博士はその息子の背を、終わる事のない戦いに押しやったのだ。仮面ラ
イダーという名を与えたからには、おそらく何もかも承知の上で。
 いわば今回の件で、自分もその凄絶な愛情の片棒を担いだようなものなのだが。
 だが、これで本当に良かったのか。
 そんなとりとめのない思考を、友人の明るい声が遮った。
「済まない、待たせたな」
その両手にうっすらと汗をかいたグラスを一つずつ持ち、結城が部屋に戻ってくる。
「本郷さんのレース、本当に君にも見せたかったな」
凄かったぞ、とまだ興奮を隠せない面持ちで、アイスコーヒーを風見の前に置いた。
「そうか」
風見は気のない返事で流している。
 本郷の走りが素晴しいのは、今更結城に言われるまでもなく知っている。世間知らずの結城に
して見れば感動するのも無理はないだろうが、しかし戻ってきた昨晩以来、自分は一体何回同じ
話を聞かされれば良いのか。いい加減すげなくなろうとも言うものである。
「レースと言えば」
言いかけて、結城はふと口をつぐんだ。何だ、と振り返った風見に、あわてて笑顔をつくる。
「いや、何でもない」
本郷のレースを見たせいだろうか。
《……風見が走ってるの、見た事あるか?》
レーサーとしての風見を見てみたい―――と思ったのだ。
 思えば自分が知っているのは、いつも戦っている風見だった。とぎすまされたそのまなざしで、
ただひたすらに最速を見極めようとする姿を、この目で見てみたいと思う。だがいずれにしても、
それはもう少し先の話になりそうだった。
 久しぶりのレースを優勝で飾った本郷も、その足で一文字と共にニューヨークへ向かっている。
もしかすると全く無関係なのかもしれないが、今は世捨て人のような生活をしている科学者の―
――その過去にあるいはGODが関わっていたとしたら、それは何かの手掛かりになるかもしれ
ないという話だった。
「……ところで」
沈黙を取り繕うように、風見は咳払いして呟いた。
「マーキュリー回路の影響だが」
「何かあったのか?」
にわかに表情を引き締めて聞き返してくる結城の視線を、受け止めあぐねてアイスコーヒーを口に
する。僅かな渋味が舌に残った。
 正直、あまり引き延ばしたくはない話題だった。しかし話しておかない訳にも行かない―――と
昨晩から思ってはいたのだ。
 マーキュリー回路の生み出すパワーに堪えるだけの精神力が、果たして敬介に備わっているか。
それを見極めるには時間も状況も余裕がなく、緊急手術は機材の調整もほとんどぶっつけ本番のよ
うなものだった。
 クモナポレオンの糸にほとんどのエネルギーを吸い取られた敬介の命を救うには、もはやマーキュ
リーパワーを起動するしかなかった。あの時の自分の判断は間違っていなかった、と確信している
のだが。
「そうだな」
言いかけたものの、ふと風見は言葉に詰まっている。
「……性格が、多少大胆になったと言うか」
それまでにも一度会ったきりだ。人が変わったようだ、とまで断言するのは乱暴というものだろう。
 だが肩を叩いたら背中を勢い良く叩き返されたとか、今回はきちんと別れの挨拶をしようと「C
OL」へ行ったらいきなりどう見ても似合わないパーマ頭で座っていたとか、どうも初対面の時と
は印象が違ったのは否めないのだ。
 その変化が果たしてマーキュリー回路の影響なのか、あるいは別の要因によるものなのかは定か
ではない。
 あまり考えたくはないが、例えば手術時の機材の調整に何か問題があったという可能性はないだ
ろうか。手術を終え、電気ショックのスイッチを入れたら思いきり派手に計器類が火を吹いて、予
定の手順通りに意識を回復させられなかったりしたのだが、あれでも問題なく成功したと言い切っ
て良いものなのだろうか。
 どこまでも高く澄み切った青空を仰ぐ風見のまなざしは、ひそかな憂いを帯びている。
 そんな風見をよそに、しばらく結城は考え込んでいた。
「マーキュリー回路は、視床を刺激するからな」
ややあって、一人で納得したように頷く。
「運動機能の調整時に、視床が司る情動や感情も刺激される。精神的に多少高揚したとしても、む
しろ正常な反応だよ。しばらく時間をおけば、いずれ落ち着いてくる」
「……そういうものなのか」
「そういうものだ」
大丈夫だ、と断言すると、それから僅かに言い淀んだが結城はまっすぐに風見を見つめた。
「―――仮面ライダーなんだろう?」
しかし自分の言葉に流石に照れたらしく、そのまま困ったように窓の外へ目を向けた。
 風見は結城の横顔を見つめている。
「……そうか」
ごく自然に、微笑が浮かんでいた。
「そうだな」
時に自らの力に怖れを抱き―――けれども幾多の孤独や激情を越えて。
 自分達も今、こうしてここに立っている。
 風見はかすかに目を細め、夏の風が静かに結城の白衣の裾を揺らすのを眺めていた。



                                <完>


   








改めて過去のデータを引っ張り出してみてみると「南国の風」からこの「メルクリウスの環」が出るまでに1年以上かかっていました。
しかもその間に他の本を2冊ほど出したりしていたあたり、どうやら「プロローグは買いたものの、話の展開をああでもないこうでもないとひねくりまわしていたらしい」様子が伺えます。
自分ながら全く進歩というものがありません。

そして先程「そう言えばマーキュリー回路についてこれじゃない話も買いたような」とふと思い出しました。探すのに5分程かかりましたが(笑)
「海と機械」というコピー誌で、ほとんど風見さんしか出てこない話でした。そちらもいずれ。

106 HIT