朱と藍色に染まりながら淡くたれこめた雲が、きれぎれに空を流れていく。その彼方に沈み行
く太陽の亡霊を透かしてぼんやりと光る南国の雲を、ふと仰いだ。足元に寄せ来る波は既にくら
く、うっすらと澄んで下の白い砂を透かしている。
夕方から少し風が出てきた。
陽光の残滓に時折きらめく波の上を渡ってくる風は、潮の香りをはらんで熱い。
日本もそろそろ梅雨明けの声をきく頃だろうか。
ふとそんな事を思った。
ここ数カ月、そう言えば故国に思いを馳せる事もなかった。自分自身も周りの環境も大きく変
わり、実際それどころではなかったという事もあるが―――ひとつには忙しさに紛らせて、あえ
て思い出さないようにしていたところもあったかもしれない。
その頃の事を思い出すと、逆に今の自分が不確かになるようにも思われた。
何故なら自分は―――あの時一度死んだようなものだったのだ。
世界征服を企むデストロンの最後の切り札、プルトンロケットと共に。
急加速にびりびりと震えるコクピットのガラス越しに仰いだ冬の空の高さは、今も脳裡にくっ
きりと焼きついている。閃光と轟音の中にぎりぎりまで保とうとした意識は、途切れる瞬間まで
鮮明だった。確かに自分は死を覚悟し、けれど後悔も逡巡もしなかったのだ。
だから再び目覚めた時、穏やかな白い陽光の中でぼんやりととまどったのを覚えている。
自分が生きている、という事実に。
偶然の重なった幸運で得たこの命を、これから自分は何の為に活かすべきなのか。戦うべき敵
の失われたこの地上で、自分が生きている意味はどこにあるのだろう。
そんな自問の答を探す時間は、しかし充分にあった。傷を癒すように随分考え続けた末に、そ
してひとつの答を出した。それが正しかったのかどうかは、まだこれから確かめる事だ。そう自
分に言い聞かせながら、時折妙に不安になったりもする。
生まれてこのかた、ここ数カ月程穏やかな日々を過ごした事はない。こんな時間が自分に許さ
れる日が来るなどと、想像さえしなかった。それだけに、自分が本当に生きてここに居るという
事実さえ、ともすれば揺らぎそうになった。
それでも最近になって、これが現実なのだ、と自分はようやく納得できるようになったのかも
しれない。
日本を離れる事数千キロ、赤道に近いこの島の砂浜は一年中どこまでも白く乾いている。空も
海も果てしなく澄んで明朗な、南の楽園だ。
日没ともなれば、見渡す限りの空と海が幾多の色を映しながら暮れていく。
こんなにも世界は美しいのだとも、かつての自分は知らなかった。
思わず見とれかけていた自分に苦笑して、結城丈二は歩を速めた。
悪魔の組織デストロンがこの地上から消えて、半年が経っていた。
大学時代の恩師に紹介され、結城がこの異国の地下資源研究所で測定機器開発チームの一員と
して勤務する事となって、そして既に二ヶ月が過ぎている。生まれてこのかた、日本の―――そ
れもきわめて閉鎖的な環境で生きてきた自分が果たしていきなり異国で暮らせるものだろうか、
と思ったのもどうやら杞憂で、この南国での生活には自分でも不思議な程たやすく馴染んでいた。
暑いとはいえ気候は暮らしやすく、開放的で気の良い現地の人々は異邦人をゆったりとその社
会に受け入れてこだわりない。
そして故なくデストロンを追われたあの日まで続けていた科学者としての日々を、久しぶりに
結城はこの異国で取り戻していた。研究所のメンバーは国籍も経歴も様々だったが、南国に暮ら
す人間のおおらかさと研究者特有の無頓着さで、結城が決して外さない右手袋の理由を詮索する
者もなかった。
それがあえて話題にしないのではなく、おそらくは「意味がないから尋ねないし語らない」の
だと納得するのに少し時間がかかったのは、結城自身が過去に負い目を感じているからだろう。
結城にはまだ、その過去を屈託なく語る事はできない。
そして何も知らない人々の優しさに、たやすく寄り掛かってはいけないとも知っていた。
熱帯の夕暮を歩きながら、心には常に別の砂浜がある。
(僕はあの首領に育てられたんだ)
そう語った自分自身の声と共に。
それは僅か七ヶ月前の風景である。
(今はデストロンと戦う覚悟もできた。だが―――)
まだ自分が、デストロンへの思いを心底では断ち切れていなかった頃の事だ。故国の鈍く光る冬
の空の下、あの時はただ心に浮かぶ言葉をそのままぶつけるほかはなかった。
(恩人が目の前でやられるのを、黙ってみていられなかったんだ)
探しながら、自分を見つめている厳しいまなざしの前にはどんな言葉も言い訳にしかならないと
解ってもいた。
自分が失ったものよりも多くのものをデストロンに奪われ、けれども個人の復讐を越えてこの
世界の為にただ一人戦おうとする正義の味方―――仮面ライダーV3・風見志郎。その前では、
自分の感傷など所詮どちらつかずの甘えに過ぎない。詰られても愛想を尽かされても仕方ない、
と覚悟を決めていた。
しかしそんな自分の惑いをただ黙って聞いた後、風見はかすかに笑って言ったのだ。
(……お前は良い奴だな)
そしてすいと差し出された手の感触は、今も右手のひらにはっきりと呼び覚ませて、事あるごと
に自分を力づけてくれるようだった。
それでも踏んでいた砂浜の僅かに湿った重さが、心から消える事はない。
自分が自分を本当に許せない限り、乾いたこの南国の砂浜の感触にはなかなか慣れないだろう
とも知っていた。しかしそれでいい、と思いもする。
償うべき過去と、明日への信念。
その両方を胸に深く抱き、結城は砂浜を歩いている。
緩やかに海を抱き込む形で続く砂浜は、結城が起居している宿舎から研究所への通い馴れた近
道だ。しかし踏みしめる砂が、いつになく索漠として足裏に妙に心もとないのは、先程の電話が
心にかかっているせいかもしれなかった。
実はこの道を、結城はさっき帰ってきたばかりである。徹夜の実験明けで帰宅し、時間は早い
が少し眠ろうとしたところに、けたたましくベルが鳴ったのだ。
(……帰ったところを済まないが、急いで頼みたい事があるんだ。ちょっと戻って来てくれるか)
そう言われては、出かけない訳にも行かなかった。
電話の主は、測定機器開発チームの上司である。結城と年は十以上も違い、機械工学の分野で
は幾つもの業績を上げているが、屈託のない性格でそんなキャリアの差を意識させない。明るく
人好きのする笑顔が印象的な、アメリカの科学者だ。
明日から帰国の為に二週間の休暇を取る事になっており、その間の作業スケジュールについて
は先刻結城の帰りがけに確認したばかりだった。
(何か忘れた事でもあったのか?)
だがそれならば電話でも済む筈だ、と思い返す。
気にかかっているのは、電話越しでさえ感じた彼らしくもなく切羽詰まった口調だ。何があっ
たのかは知らないが、急ぐに越した事はない、と更に歩を速めようとした、その時である。
(……?)
結城は顔を上げた。
遠く緩やかな弧を描く広い砂浜だが、この時間ともなれば遊び場にしている子供達も引き上げ
て、通る人影もない。白く穏やかな波頭だけでかろうじて海と陸との境界が判別できる程度の静
かな薄暮の中、ふっと冷たい風に似た不穏な気配を感じたのだ。
考えるより早く、身体が動いていた。
何かに駆り立てられるように走る内、やがて入江の向こうから砂浜を走ってくる幾つかの影が
茫洋とした光景の中にもくっきりと浮かび上がってくる。
それが単に走っているのではなく―――追う者と追われる者である事も。
追われているのは一人だった。相当に走ってきたと見え、白い開襟シャツの襟元が乱れている。
砂に足をとられ、時折転びかけてはもがくように、必死に走り続けている。
対して三人で追い込みにかかっている追手が、その輪郭だけでさえはっきりとした異形なのを
見てとるや、結城は走りながら思わず右の拳をつくっている。
(デストロンか)
最初に思い浮かんだのは、かつての敵組織だった。
もう滅びた―――と聞いているその組織の終焉を、結城は直に目にしてはいない。
それは自分の知らないところで決着した戦いである。
自分がいなくなっても、風見は一人でデストロンを壊滅させる筈だ。そう当たり前のように信
じたからこそ、あの時自分は何のためらいもなくプルトンロケットの操縦席に走ったのだ。勿論
今も、その信頼には一点の曇りもない。
だがそれと同時に、結城はかつて暮らしたその組織の底深さも良く知っている。
たとえ組織が崩壊し、最後の一人となろうとも、デストロンの敵と戦おうとするだろうその忠
誠心は、結城自身のものでもあったからだ。もしも自分が今もデストロンを信じていたとしたら、
組織壊滅に手を貸した裏切者を地の果てまでも追っていった筈だとも。
(―――いや)
肌に滑り込むようなそんな既視感を振り払って、結城は歩を速めた。
頭から足の先迄黒いスーツに身を包んでいる追手達の胸には、見覚えのない記号が大きく白く
染め抜かれている。デストロンの残党ならば、その旗印を変える事はない筈だ。
だとすれば。
それ以上を考えるのは止めて、結城は砂を蹴った。
追われている男の視線があえぐように結城を捉えた瞬間、結城も彼の顔を見ている。
「……!」
その名前を結城が呼ぼうとしたのと、とうとう手の届く程近づいてきた追手が振り下ろした杖状
の金属棒にしたたか背から打たれて男の膝が砕けたのは、ほぼ同時だった。
それでも自分に助けを求めるように倒れ込んでくる。その身体を支えようと伸ばした右手が、
しかし袖に風を切る分だけ僅かに遅れたのを、結城は後になっても思い出す。
腕に感じたのは、空しくすり抜ける風の感触だけだった。
そのまま足元にくずおれた男を抱き起こしかけようとして、結城はかろうじて自分を押しとど
めた。ここしばらく忘れかけていた別の本能が、無防備な体勢を晒させまいと反射的に呼び覚ま
されている。
伸ばしかけた手を引き、上体を起こして追手を振仰いだ。
水平線に没しかける最後の陽光を肩ごしに浴びて、黒衣の追手達は無言のまま結城に相対して
いる。
『お前達は何者だ』
答えるとも思ってはいなかったが、誰何しつつ結城は倒れたままの男を背にかばう形で前に踏み
出した。
次の瞬間、先頭の黒衣の男が振り下ろした棒を身体をひねって躱すと同時に蹴りを繰り出す。
男の手から弾き飛ばされた棒が宙に舞ったその隙を逃さず、右の拳をその鳩尾に叩き込んだ。前
のめりに倒れかかってくるその首筋に左の手刀を入れ、とどめに組んだ両手で延髄を一撃する。
苦悶の声ひとつ上げずに砂浜に倒れ込んだ男は、断末魔の痙攣も止まない内にみるみるその輪
郭を崩して砂浜に溶けていった。
(……やはり)
倒されて工作が失敗した時にはその証拠を残さないよう、肉体改造を受けた戦闘員だ。その技術
が継承されているならば、少なくともその組織に属している者が自分の味方ではありえないのは
確かだった。
そして仲間の死に動揺する気配もなく、残る二人の黒衣も無言のまま申し合わせたように左右
に分かれてゆっくりと身構えた。どうやら相手も、結城を敵と認識したらしい。
僅かに風が止まった瞬間、その手にすらりと開かれた金属棒が鈍く陽光を跳ね返して渺と空を
切った。
素早く打ち込まれた二本の棒の軌跡の隙間へ飛び込んで拳を構えようとする結城にその間を与
えず、すかさず敵は身を翻して棒を反転させる。斜に鋭い円弧を描くその切っ先をかろうじて避
けたものの、結城は懐へ飛び込んでの反撃の一瞬を逸している。
(速い)
身体が泳いで危うく転びかけるところだった。足場の定まらない砂浜にどうにか体勢を整えて振
り返りながら、結城は唇を噛む。
久しぶりの戦いに勘が戻っていない訳ではない。身体が思うようにならない原因は他にあるの
だ。
機械の手足が重い。
普通の生活上では違和感を覚える事もなくなっていたが、戦闘に使うのはこれが初めての事だ。
日頃は気にもしていない、僅かな重量の差が否応無しに意識される。同じように動かしているつ
もりでも、機械の四肢の動きはほんの一瞬だが遅れるのだ。
このままでは、全くの生身で戦っているよりも歩が悪い。
繰り出す拳を躱して突き出されてくる棒の先がこめかみをかすめて、背筋にひやりと緊張が走っ
た。
得物がある分、敵の方が攻撃には有利だ。その下をかいくぐって近距離からの反撃に転じない
限り、自分に勝ち目はない―――とどうにか近づこうとするものの、目まぐるしく左右から繰り
出される棒を躱すのが精一杯で、なかなか中に踏み込めない。
だがこのままでは、徒に時間が過ぎていくばかりである。
既に結城の目では相手の輪郭を見極めるのがやっとだ。完全に陽が暮れてしまう前にどちらか
一人だけでも倒さなくては、と思いきって蹴った砂が、足の下で変な崩れ方をして体勢が崩れた。
(……しまった)
仰いだ目に、今まさに頭めがけて振り下ろされようとする金属棒の軌跡が疾る。
次の瞬間、鈍い音が響いた。
「……!」
ついた息から伝わる敵の動揺に、結城の口元に微笑が浮かぶ。
生身の身体の骨ならたやすく砕けもするのだろうが、それは思惑違いだ。頭上にかざされた結
城の左腕は、頑丈な金属棒の一撃をしっかりと受け止めている。
なおも手袋をした右手で左手首を掴み、勢い良く棒を押し返すと、思わずたたらを踏んだ敵の
隙を逃さず低い体勢からの蹴りを繰り出す。下から顎を打たれてのけぞった敵の腹にすかさず左
肘を打ち込み、そのまま体重をかけて砂浜に押し伏せた。更に力をかけると、やがて身体の下の
抵抗が止む。
とどめの一押しで押し返してくる感触が消えたのを確かめるとゆっくり身体を起こし、残る一
人に向き直る。
「……貴様」
初めて口を開いた敵の言葉は、この異国の海岸では妙に違和感のある母国語だった。
「貴様も、改造人間なのか……!」
自分は微笑していたろう、と結城は思う。
それはデストロンを追われて初めて巡り会った人々の生き方を知る中、憎悪と煩悶と復讐を越
えたところにようやく到達した誇りだ。
(君と共に戦おう―――風見)
自分に贈られていた名前を知ったのはもっと後の事だったが、たとえそれが無くても自分が選ん
だ道は同じだったろうと思う。
この命がある限り戦う。
それは贖罪の為でもあり、正義の為でもあるのだろう。何の為と名づける事に、意味はなかっ
た。ただデストロンが滅びても、きっとまた同じように世界征服を企む組織が出現するとしたら、
自分はその過去を忘れて安穏と生きる訳には行かないのだと。
そう誓ったのだ。
ヨロイ元帥に陥れられて失った右腕を置き換えた機械の腕は本来、身体の各部を人工物に置き
換えてその各々を独立したシステムとして動かす人体改造計画―――結城がデストロンの「理想」
実現の為と信じて開発していた新計画・C計画の一部だった。
プルトンロケットの爆発の後遺症で充分に動かせなくなった四肢を機械化した設計には、その
計画が利用されている。仮面ライダー一号・本郷猛の協力を得て既に日本で手術も済ませ、両腕
の肘から先と両足の膝から下は生体の数倍の強度とパワーをもつ機械の四肢に置き換えられてい
るのだ。
僅かにたじろいだものの、敵は再び棒を構えなおした。
いよいよ暗くなってくる中、目を細めて相手の動きを見定めようとしながら、結城もじりじり
と間合いを詰めていく。
力を込めて繰り出された棒が、風に唸った。と同時に、結城も左へ砂を蹴っている。棒の切っ
先を脇すれすれにいなして打ち込んだ右腕の一撃は、男の手元で棒の根元に受け止められた。し
かし間髪いれず、結城の左の蹴りが男の横腹に食い入る。
思わず緩んだ敵の手から落ちかけた棒を掴んで捻りざま押し返すと、放すまいとする反射が逆
にその手首を捻じあげる形になって敵はそのまま背中から砂浜に倒れ込んだ。機を逃さず、その
腹を結城の膝頭が押さえ込む。
「日本語を話すようだな」
更に奪い取った棒で敵の両肩を押さえつけながら、結城は久しぶりの母国語を唇にのせた。
「お前達は日本から来たのか?」
力をかけると足場の崩れる砂の上で逃れようともがく敵をどうにか捕らえながら、更に問いかけ
る。
「あの人を追っていたのは何の為だ。言え!」
しかしその言葉に、不意に抵抗が止んだ。けげんに思って覗き込むと、おぼろげな光と覆面で判
別は難しいながら、その口元がにやりと歪んだようだった。
何か言いかけたのかもしれなかったが、それが結城の耳に届く事はなかった。
呪詛とも捨て台詞ともつかない息が南国の夕暮れに吐き出されるのと同時に、押さえつけた身
体の輪郭が緩むのを結城は腕の下に感じている。
みるみる内にその黒衣もろとも細かい粒子に崩れ、やがて乾いた砂の一部と化して失われてい
く敵に、溜息をついて身体を起こした。
(一体、何が……)
眉を寄せて唇をかみ、はっと思い出した。
手にしていた棒を投げ捨て、砂浜を走る。
黒衣の男達に追われていた男は、まだ砂浜に倒れ伏したまま身じろぎもしない。慌ただしく抱
き起こすと、薄闇の中にぐったりとその顔が仰向いた。
良く知った顔である。
「マイケル」
何故彼がこんな所に居て―――明らかに普通の人間ではない男達に追われていたのかも解らなかっ
たが、それは紛れもなく先刻電話をかけてきた上司だ。その淡い栗色の髪はひどく乱れ、いつも
明るい表情をたたえていた鳶色の瞳はあらぬ宙に据えられている。
『しっかりして下さい、すぐ病院へ』
まごつきながらも英語で声をかけて抱え上げようとした、その時である。
もどかしく縋るように、震える上司の手が結城のシャツの脇をぎゅっと掴んでいた。思わず膝
を止めた結城の顔を、焦点の定まらない双眸が仰ぐ。
『…伝えてくれ』
絞り出されるような弱い声に、身動きもできなかった。
傷の程度は解らないが、おぼろげながらに結城は予感している。抱き支えている身体は、熱い
空気の中でさえはっきりと冷たい。
話は後で聞きますから、とそれでも砂を蹴って病院へ運ぶべきなのかもしれないが、おそらく
もう間に合うまい。
だとすれば今自分にできるのは―――ここで彼の言葉を聞き届ける事だけなのだと。
『何をです』
どうにか整えて聞き返した声が上ずらない事に、自分でもほっとした。膝に上司の上体を支え、
少しでも息が通り易くなるようにする。
安堵とも吐息ともつかない息がひとつつかれて、開いたままの唇がひきつけるように空気を吸
い込んだ。
『日本の、ジン教授に……伝えてくれ。許して欲しい……貴方は、正しかったと……《神》の手が』
辺はもうすっかり昏い。おそらく彼にも、自分が遺言を伝えているのが誰なのかは解っていない
のかもしれない―――と思いながら、波音に遮られるその声を何とか聞き取ろうと上司の口元に
耳を近付ける。
『《神》の手が、迫ってくる……どうか伝えてくれ、逃げるようにと…』
何を言われているのかは、正直なところ全く見当もつかなかった。伝えるべき相手も、言葉の意
味も解らないながらも、ただ最後の力を振り絞って伝えられる言葉を一語一句逃すまいと耳をす
ます。
そして結城は風を感じている。
海を渡り、心の内に吹き来る風だ。
ここしばらく忘れていたその感触に、俄に心が波立ち始める。
『最適化の……値は、一二五……それを超えると、崩壊速度が加速する……』
『一二五?』
掠れて良く聞き取れなかった数値を聞き返すと、瀕死の科学者はものうげに、しかしはっきりと
頷いた。
『そう、一二五だ……ジン教授に、必ず伝えて……』
絞り出される言葉が、喉で泡立つ息に途切れた。
「―――マイケル?」
海風に栗色の前髪がふわりと吹かれた、と見たのと、腕に担った重みの質が変わった、と知覚し
たのはどちらが先だったろうか。
「!」
それまではしっかりと抱き支えていた―――と思っていた身体が、薄闇の中でその輪郭を曖昧に
していくのに、結城の目が大きく見開かれる。
(まさか)
しかし結城が身じろぎもできずにいる内に、この二カ月間一緒に研究してきた科学者の身体は――
―結城の腕に支え切れない砂状にみるみる変質していった。
(……まさか、そんな事が)
ついさっき倒した謎の男達と同じように骨すらも残さず、ただ衣服の隙間からかつて優秀な科学
者であったものがさらさらと流れ落ちていく。細かな砂は浜に落ちる前にそのまま吹く風に流れ、
小さな山すらも残さなかった。
やがて抜け殻のような衣服と、目の前で起きた事が未だに信じられずにその衣服を抱えたまま
の結城だけがその場に残された。
それからどれほどの間、そうしていたろうか。
波が鳴った。
寄せ来る波の他には何ひとつ動くものもない海岸に、結城はゆっくりと膝を起こす。
まだ頭はほとんど動いていなかったが、このままいつまでも茫然としている訳にはいかなかった。
陽はすっかり暮れている。夜の闇に溶けかかる藍色の雲は滔々と空一面に流れ行き、僅かに光る
水平線からは穏やかな波が淡々と寄せてくる。毎日毎日変わる事なく繰り返されている、静かな南
海の日没だ。
海も空も美しく、おおらかな人々の住むこの南の国。
打ち寄せる波頭の稜線で輪郭を辿れる入江の彼方には、ぽつりぽつりといつの間にか灯がともっ
ていた。その見慣れた風景を愛おしく、けれども遠く結城は眺めている。
もう研究所へ行く必要はないのだった。
<完>