Nostalgie(仮面ライダーV3)



 暗い森を抜けても、仰いだ空には星ひとつ見えなかった。
 どうやら少し前にスコールが通り過ぎたらしく、辺には湿った土と草の匂いが濃く漂っている。夜になっても熱くまとわりつく空気の中を、風見志郎は足早に抜けていった。普通の人間ならば明かりなしにはまっすぐ歩く事すらおぼつかない暗闇でも、その足取りが迷う事はない。
 陽が落ちれば出歩く人もない村外れの平地から、近年少しずつ開発の始まったリゾート地区へ歩を進めていくと、やがて遠くにぽつりぽつりと灯が見えてきた。近くの海岸や本島の繁華街で夜まで過ごす観光客の為に設置された街灯は、まばらすぎて実際にはほとんど役に立っていないが、まだそんな意見が聞ける程の客で賑わってもいないのだった。道沿いに建てられているコテージの内、窓に灯をともしているのは一軒だけだ。
 角を曲がると、道路に面したその窓のはらむ光が、不意に明るく目に飛び込んできた。知らず歩の早まる自分に気づいて、風見はふと苦笑する。
 灯のついていない部屋に帰るのを、寂しく感じた覚えなどなかったのだが。
 故国に帰るのさえ年に数える程で、世界中をレースや戦いや仕事で転々としている自分達にとっては、いわばどこに暮らそうと仮住まいのようなものだ。目の前のコテージもまだ借りて一ヶ月と経ってはいない。来週末で切れる契約も、更新はしない事になっていた。何も考えなくても足が自然に向かう程度に馴染んではいたが、家としての愛着が湧く程の時間を過ごした訳ではない。窓の灯をつけた手も、待っている家族のものではなかった。
 そう解っているのに、いつになくその茫とした光に気持ちが吸い寄せられる。
 ―――まだ学生だった頃。
 研究やら何やらでどれだけ帰りが遅くなっても、必ず家の灯はついていたものだ。鍵をどれだけ音のしないように開けても、お帰り、と眠たげな顔をしながら母か妹が必ず起きて出てきたものだった。
 そんな遠い昔の思い出が、むせ返る夜気の内に妙に鮮明に立ち上ってくる。
(―――いや)
ふと足を止め、息をついた。
 それはもう、永遠に失われた光景だ。
 ともすればまた甦ってこようとする甘やかな思い出を、胸の奥に押し込めて唇を引き結ぶ。そのまま感傷を振り切るように歩を進めながら、窓に映る人影を仰いだ。

「―――お帰り」
窓際のテーブルに向かって何やらペンを走らせていた友人が、顔も上げずに声をかけた。ああ、と答えて風見は椅子の背もたれに上着をかけ、台所へ向かっている。
 台所のシンクには、今朝置いて出たコーヒーカップがそのままになっていた。どうやら友人も忙しくしていて、ろくに食事もとっていないらしい。やれやれ、と肩をすくめ、薬缶に水を満たして火にかけた。台所から、そのまま居間へ声を張り上げる。
「……コーヒー淹れるが、飲むか」
「あ?」
それで初めて風見が帰っているのに気づいたように、結城丈二は顔を上げた。
「ああ、いいところへ。丁度話したい事があったんだ」
言いながらテーブルの上の紙を掴み、そのまま台所へやってくる。
「例の空間移動システムから何とかデータを引き出せないかと思って、色々試してみていたんだが」
広げられたのはこの群島の地図だった。地図の右上をこの島国の本島が大きく占め、後は青一色の海に大小様々の島が、親鳥が連れている雛鳥のように点在している。本島のすぐ下、赤く塗られているのは今自分達が居る島だ。その一点に白く丸がつけられているのは、しかしこのコテージの場所ではない。ここから数キロ離れた地点にある、敵が放棄したアジトである。
 風見が踏み込んだ時には構成員はほぼ脱出した後だったが、アジトの設備はそのまま残されていた。その中でも結城が目をつけたのが、敵がこの島から脱出するのに使った空間移動システムだ。分解して細かい設計や構成を調べるのは後回しとして、作動状況からどこへ敵を移動させたのかは分析できるのではないか、と元デストロンの科学者は考えたらしい。
「直近での作動データが読み出せたよ。とは言っても詳しい内容まではまだ解析できてないが、出力ビームの総量からして」
黒い手袋を嵌めた右手が、白い点を中心としてペンで描かれた円周をぐるりとなぞる。
「これが移動限界ラインになる。つまり彼らの移動先は、この円の内側にある島のどこかになる筈だ」
そうか、と答えて風見は地図を眺めた。
 結城が赤で記した円は、地図の右上―――つまり北東側で本島を四割ほど切り取り、あとは何もない海をきれいに横切っている。
「……この島は、今日調べてきた」
風見がついと指先で押さえた円内のひとつの島を、ならいいな、とペンで消すと、結城は円の内側に散らばっている島を数え始めた。
「それにしても本島を入れて十五か。結構かかりそうだな」
独り言のように呟いた。
 その真剣な横顔から、ふと風見は目をそらしている。
 やがて薬缶の口が、白々と蒸気を吹き上げ始める。ポットに乗せたドリッパーに、片手で少しずつ薬缶を傾けながら、洗って伏せたばかりのコーヒーカップの把手をくるりと返して横に置く。
「ま、お前がこっちにいる間には難しいかもしれないが」
元々研究の途中で十日程の休暇をとってきている結城である。そろそろ一度は日本へ戻らなくてはならないとは最初から風見も聞いていた。
 結城が帰国すれば風見もこのコテージを引き払い、しばらくは拠点を定めずに敵の足取りを追うつもりでいる。むしろその方が、毎日毎日この島まで戻ってくる時間がかからない分、調査もはかどるかもしれない。
「だが必ず、突き止めてみせる」
自分に言い聞かせるように、改めて言葉にする。
(そうとも)
数日前の朝、目の前で空間移動システムの中に消えていった白銀の改造人間の姿が、またふいに思い返されていた。
 ネージュ・レオパール。
 この南の島で出会った美しい少女の正体を見抜けなかった理由も、今は解っている。もうあの能力に惑わされる事はない―――と思いながらも、しかし次に会った時に戦うのか、まだ自分の気持ちをどこかで測りかねてもいた。
 少なくとも自分が知る限り、彼女はまだ誰ひとり手にかけてはいない。ただ彼女は守ろうとしているだけだ―――改造手術によって精神的に不安定をきたしているらしい、実の兄を。既に数人を殺している兄はともかく、せめて彼女を説得する方法はないのか、とどこかで考えていないと言えば嘘になった。ふとした折に見せた可憐な表情を、ともすれば遠い懐かしさと共に思い出している。彼女の能力から解き放たれた筈の今も、自分には彼女をまだ敵と断じ切れてはいないのかもしれない。
 そんな煩悶を持て余しながら、カップにゆっくりとコーヒーを注ぐ。
「……ああ、ありがとう」
無言のまま差し出されたカップに、地図から結城が顔を上げた。
 その屈託のない笑顔に、風見はふと後ろめたくなる。
 未だ自分の胸の内には複雑な感情があるのだと、この気の良い友人は知らない。
 家族の記憶をほとんど持たず、追憶を呼び覚ますネージュ・レオパールの能力が通用しない結城である。亡き妹への愛情を根にしたこの感情を察する事はできても、理解する事はできないのだと互いに知ってもいた。
(―――解らないよ)
小さく、しかしきっぱりと呟かれたあの時の結城の言葉は、今も風見の心のどこかに引っかかっている。
 理解できなくて当たり前なのだ。
 生まれも育ちも違い、デストロンとの戦いがなければ巡り会う事もなかった友人である。日頃はもう意識する事もなくなっていたそんな現実を、風見は熱く苦いコーヒーと共に飲み下している。
 あれ以来、彼女に繋がる話題はどちらも何がなしに―――しかし慎重に避けていた。どれだけ話したところで今以上に互いが歩み寄れる訳でもなかったし、いたずらに感情的になるのも不毛なだけだ。暗黙の内に、話題は脱出した敵の本拠を突き止める迄の段階に止められている。
 自分達は敵の野望を阻む為に、この島にやって来たのだ。
 だから敵の居場所を突き止めれば、自分は戦う。
 そう決心していたし―――結城はきっと自分よりも疑ってはいまい。それでも思わぬ形で生まれたぎこちない空気は、まだ部屋の隅にわだかまっている気がした。
「せめて方角が、もう少し特定できればいいんだがな」
ペンの尻でこめかみを掻いて半ば独りごちるように呟くと、結城はカップを持って居間へ戻っていった。その肩が一歩毎に僅かにぎこちなく傾いでいるのに、風見はふと眉を上げる。
「―――痛むのか」
まだ生身の部分を残している右大腿部に結城が傷を負ったのも、数日前の事だ。
 元々仮面ライダー達の治療やメンテナンスも手がけている結城である。それこそ風見が負傷した時にはなかなか無理を通させてくれない当人が、まさかいい加減な手当てのまま放ってもおくまい。そう思って、最初に手当てしてからは風見も特に気にも留めていなかったのだが。
「……いや」
結城の横顔に、悪戯を見咎められた子供のような表情が一瞬よぎったように見えたのは気のせいか。
「大丈夫だよ。薬も飲んでる」
心なしか少し早足になったようにも見えたが、それは単に早く研究の続きに戻りたかっただけかもしれない。ならいいが、と肩をすくめて風見が地図に視線を落とすと、ああ、と思い出したように結城の声がした。
「出力ビームの偏倚から、もしかすると方角がある程度割り出せるかもしれないんだ。今やってるが、駄目だったら済まない」
「いや」
それでもこれだけ範囲が絞り込めれば、調査も少しはやり易くなるだろう。そう思いながら、赤い円を指でなぞってみた。
 この円の内にある島のどこかに敵の本拠があり―――そしてそこには、彼女が居る。
 ふとまた浮かんだ面影を、静かに胸の底へ沈めた。
 今は考えるまい。
 それよりも、未だその実体を見せていない改造人間―――ジェル・ティグルを擁する敵が、この南の国で何を企んでいるのかを突き止めるのが先決だ。とにかく敵の動向を一日も早く掴まなくては、と風見の頭は明日の調査ルートを練り始めていた。

     ◇

 ペンキの剥げかけた舳先が、のんびりと寄せてくる波を分けていく。
 今朝風見が起きた時には、ここ一週間余ですっかり定位置になっていた居間の椅子に友人の姿はなかった。テーブルの上には測定機材が載ったままで、計算を書きつけたレポート用紙が散らばっていた。何か急いで確かめたい事でもあって出かけたのだろう。一声かけていくなりメモでも置いていけば良さそうなものだが、研究に夢中になれば寝食も忘れる友人だと知っていたから、さして気にもしなかった。
 それでもコーヒーの入ったポットが置いてあったところを見ると、朝の一杯くらいは飲んでから出かけたらしい。半分以上入ったままにしてあったのは、もうすぐ風見も起きてくるだろうと気を効かせたつもりだったのだろう。とは言え冷めかけたコーヒーなどそのままでも温め返してもどうにもならないだろうが、と渋い顔になりながら一杯だけ飲んで少し頭を覚まし、風見もコテージを出たのだった。
 抜けるような南国の青空を見上げ―――目を細めて前方に見えてきた緑の島を見定める。
 借りたボートを砂浜へ引き上げておいて、軽々と岩場を駆け上がった。ポケットの地図で地形を確認するまでもなく、高台からぐるりと島じゅうが見渡せる程の小さな無人島である。水遊びに舟をしたてて訪れる観光客の姿も今日はなく、白い砂と眩しい緑の隙間から覗く岩場には動く影もない。ただ青い海ばかりが、不動の島の輪郭に穏やかに寄せている。
 こんな平和で美しい島々に、まさか世界征服を企む組織の拠点が隠されているなど―――と思わせるような光景に、しかし惑わされてはいけないとも知っていた。悪の手は、まさかと思うような形に偽装して明るく懐かしい顔で近づいてくるのだと。
 ちらりと苦い感傷が去来するのを押し殺して、風見は深緑の森に覆われた島の南側へゆっくりと下りていった。

     ◇

 水平線の彼方に、今日最後の陽光の名残が溶けていく。
 ぼんやりと波頭の形は見定められるものの、藍色に暮れゆく空を映して海は重く波打っている。その波を越えてボートで進みながら、風見はゆっくりと片手で足元のロープをたぐり寄せた。
 簡素な船着き場の柱にロープの先をかけてボートを寄せ、波の弾みを利用して桟橋へ跳び上がる。
 朝から二つの無人島を巡ったが、結局何一つ怪しい痕跡は見つからなかった。無人島ならば秘密のアジトを築くにも好都合なのではないか、と考えたのだが、今日のところは見当違いに終わったようだ。水面に手を伸ばし、無造作に舳先を掴んでボートを桟橋に裏返しに引き上げながら、すっかり空の薄闇に溶け込んだ海の向こうを眺めた。
 この海のどこかに、敵の新たな本拠が作られている筈なのだ―――とかすかに苛立たしく思う。小さな島国とはいえ、一人での探索には限界もあった。ある程度可能性の高い場所から調査して行った方が早く辿り着けるだろう、と考えたのだが。
 だが思えば、この島にあったアジトが作られていたのも人里から離れていない場所だった。根拠のない思い込みで探索しても行き当たりばったりと大差はないか、と独り肩をすくめながら、海沿いの道をまわって森の中を抜け、既に通い慣れたコテージへの道を歩いていく。
(もっともあっちも、いつまでも俺を放ってはおかないかもしれないが)
ふと思い出したのは、ネージュ・レオパールの言葉である。
(でも次に会う時は、絶対に戦う気にさせてみせるから。楽しみに待っていて)
どうやら敵の方でも、仮面ライダーとの戦いを避けるつもりもないらしい。おそらくは万全の体勢が整うまでの時間を稼いでいるのだ。
 できればその前に、こちらから先手を打ちたいのだが。
 そんな事を考え続けていた為か、随分近づくまで気づかなかった。
 窓の灯がついていない事に。
 変に小さく見える窓ガラスは、室内の暗がりをぽかんと透かしている。ここ数日間、いつも見上げていた光がそこに無い―――という事実の意味に、思い至るのに少し時間がかかった。
 急ぎ足で石段を上り、玄関の鍵を開ける。
 引いた扉の内も、ぼんやりと外の街灯の光を浴びた風見の影が延びているばかりだ。廊下の奥も、ドアが開け放たれたままの居間も、暗くしんと静まり返っている。
 手探りでスイッチを探し、ようやく廊下が明るくなった。
 居間に入ると、昼間の熱い空気がまだむっと淀んでいる。テーブルの上は風見が今朝出た時のままだった。どうやら結城は一度も戻ってきていないらしい。仕方のない奴だな、と溜息をつきかけ、風見はふと眉を寄せた。
 今朝がた置いたままで出たコーヒーポットが、褐色の液体を不透明に淀ませている。触れてみると、陽を浴びて中途半端に生温くなったガラスの滑らかさが妙に重く指先に伝わった。その時である。
(……いや)
ふっと弾かれたように、手が離れていた。何を感じたのかは自分でも良く解らないまま、風見は急いで玄関へ向かった。

 コテージから数キロ離れた敵のアジト跡は、地元住民が使わなくなった材木小屋の地下に作られていた。半ば腐りかけて足元でしなる床板を踏み抜かないように注意しながら、その隅にある地下への階段に足をかける。
 地上よりも湿気が濃いせいか、僅かに気温も下がったように感じる空気の中、風見はゆっくりと暗い地下へ下りていった。
「―――結城」
返事はなかったが、今はその友人の気配がはっきりと掴めている。
 階段を下りた先には、地上の朽ちかけた小屋からは想像もつかないような広く無機的な空間が広がっていた。コンクリートに塗り固められた天井の照明は点けられていなかったが、壁面をぐるりと埋め尽くしている機械類はいくつか電源を入れられているらしく、メーターやスイッチがぼんやりと帯びている光が蛍のように薄闇に浮かび上がっている。
 変身しなくてもまだどうにか見える―――という程の明度の中で、風見の目はその最奥で機械に向かっている友人の背中を見ていた。
 自分が下りてきた事にもおそらくは気づいていないのだろう。コテージの居間で探知機を組み立てたり何やら設計している時と変わらない無心さが、闇に溶けかかるワイシャツの背に滲んでいた。見慣れた背中だ。
 気にしすぎたか、と妙に安堵すると共に、自分ながら理不尽とも思える感情が沸き上がってくる。見るのも忘れていた腕時計は、都会ならば宵の口だろうがこの島では深夜の範疇に入る時間を指していた。
「いつまで機械と睨めっこしてるつもりだ、お前は」
僅かに苛立ちを込めた声は、広い地下にも良く反響した。風見自身の耳にも届いたその残響にも、しかし変に遠く見える背中は動く気配すらなかった。
 物事に―――特に研究に没頭している時の集中力の凄さは知っているつもりだったが、幾ら何でもこれはひどくないか、と眉を寄せる。わざと足音を響かせて近づき、肩越しに覗き込んでみた。
 それでも結城は振り返らない。僅かに背を丸めて機械に向かったまま、立てた左膝に乗せたボードを見つめている。ボードに挟んだレポート用紙には、目の眩む程細かい計算式が書き込まれていた。まだ計算途中らしくその続きを書きつけているペンの動きを、見るともなく見ている内に、さっきからどこかで感じていた―――不安めいた感覚がゆっくりと形になり始めるのを風見は自覚している。
 遅い。
 既に計算は終盤に入っていて、展開されている式の項数も二十足らずだ。それにしてはペンの動きが、結城らしくもなく遅い。もしかすると単純に数式として考えてはいけないのか、と思いかけたが、眺めがてら風見も学生時代に親しんだ公式で変換してみたのと同じ計算が、やがてひどくのろのろとボード上に記される。おかしい、と流石に目が険しくなったのが自分でも解った。
「結城」
肩に手をかけるのにどこかでためらった理由は自分でも解らなかったが、掌を置いた途端に伝わってきた重い熱に俄に胸が騒いだ。冗談ではない、とそのままわざと無造作に力をかけてみた。
 いつもならば、ふざけるなよ、と軽くすくめて押し戻される筈の肩が、手応え無く傾いて不意に気配が近くなる。引いた手で、慌てて逆にその肩を支え起こした。
「……風見?」
そしてようやく我に返ったのか―――手荒く引かれてあっさり自分の膝に背を預けたまま、きょとんとした目で振り仰いでいる友人に、風見は静かに溜息をつく。
 おそらくこの島にはもう居ないだろうと解っているとはいえ、万が一にも自分が敵の残党だったとしたらどうなっていた事か。足音を殺して忍び寄れば、一撃でかなりの手傷を負わせるのもたやすかったろう。どうやらライダーマンのマスクも持たずに出たらしい処からして既に不用心だが、自分に気づかないようではそれ以前の問題だ。どこからどう言い出したものか困り果てた末に、苦言は結局喉元で止まっている。
 まだ掴んでいる肩から、身体深くこもる熱が否応無しに伝わってくる。不安定な体勢から左足だけでのろのろと起き上がろうとしているようだが、右足はどうやら動かないらしく床に投げ出されたままだ。ぼんやりと自分を見上げている黒い瞳は一見普段と変わりないように見えて、明らかに光が弱く揺らいでいた。
 具合が悪いんだろうが、と問いただそうとして口をつぐんだ。今はそんな呑気な問答をしている場合ではない。
 多分本人は、気づいていないのだ。
「帰るぞ」
手荒く腕をまわして、友人の身体を引き寄せた。起こして腕をくぐらせた右膝の裏が、ぞっとする程熱い。
「……ちょっと待て」
ようやく現状を把握したのか、ものうく結城が身じろいだようだった。だがその鈍い動きを封じるのは訳もない。風見は唇の端を曲げ、そのまま友人の身体を抱え上げた。

 まだデータ取得の途中だの自分の足で歩けるだのと、およそ熱に浮かされているとしか思えないような怪我人の戯言にはまともにとりあわず、風見は黙ったまま歩を進めている。
 流石に空気を察したのか、結城も次第に無口になった。それでも時折気分が悪いのか不満を表したいのか僅かに身動きしかかるのを無言で腕の内に封じ込めて、風見は見慣れたコテージの並びを見上げた。
 灯をつけたまま出てきた窓は、いつものようにそこだけ明るい。
 だがそこに人の居ない窓には「暗くない」以上の感慨は起こらないものだな、と、初めて気づいたように思いながら玄関を開け、居間の灯を頼りに寝室へ向かった。
「もう少し手当て位、まともにしているものと思っていた」
自他ともに不死身と認めている自分ですら、こんな状態のまま丸一日放ってはおいたりはしない。改めてまなざしを厳しくして、部屋の隅に放置されていた医療用のケースを持ってくる。
「まさか薬ってのは、痛み止めか」
頭が重く感じるのも身体がだるいのもその薬のせいだと思ってたって訳か、と重ねて詰問すると、珍しく結城は目をそらした。
「……だから」
反射的に何か言いかけたものの、空間移動システムのデータ解析から自分の体調の説明に思考をシフトするのに、随分時間がかかっているようだった。天才と何とかは紙一重というのは本当だな、と思わず納得しかかりながら、しかし風見も無駄な反論に耳を貸すつもりもなかった。
 自分がこの群島を調査していたこの数日間、結城はあのアジト跡に日参してデータを取り出したり設計図を探したりしていたらしい。
 だが暑く湿気のこもり易い地下で毎日朝から晩まで座り込んでいて、まだ塞がっていない咬傷に障らない筈がない。命にかかわるような怪我ではないが、甘く見ていい訳でもないのは解っていた筈だ。機械化されている部分は確かに結城の手で修復されているものの、まだ半分は残している生体部分の傷は風見の記憶より深かった。切開はしなくて済みそうなのが幸いだったが、熱をもっている傷口を消毒液で手荒く洗い流して手当てをやり直す。きつめに包帯を巻き直すと、有無を言わさずベッドへ押し込んだ。
 頭から枕に押しつけられて、結城は幾らか気まり悪げに風見を見上げている。
「風見」
それには答えずに、風見はじろりと斜に友人を見下ろした。何か言いかけて身体を起こそうとするのを、無言で額から押し戻す。性懲りもなく起き上がってこようとするのを、開いた掌でその度邪険に押しやると、やがて諦めたらしく横になった。念を押す意味でひと睨みしておいて、風見はベッドサイドのスタンドだけに灯を落とした。
 台所でボウルに水を汲み、手近にあった手拭を放り込んで居間を横切る。軽く絞ってうっすらと汗の滲んだこめかみから首筋まで押さえてもう一度濯ぎ、畳み直した手拭を額にのせてやると、結城もやっと静かに目を閉じた。
 それで何がなしに風見も安堵している。
 元々丈夫な質だ。おとなしく寝ていればじきに熱も下がるだろう、とベッド脇に腰を下ろした。
 だが流石に一言は言ってやらないと、と思いながらも一段落ついてみるとなかなか言葉も浮かんでこないまま、ぼんやりとした灯に照らされる自分と横になっている友人の影が窓ガラスに浮かび上がっているのを眺めていた。いつもは窓の外から仰いでいた光だが、こうして傍らにおいてみるとその光は外の闇に対するにはいかにも頼りなく感じる。
「……済まなかった」
目を閉じたまま、ぽつりと呟いたのは結城である。
 だが何故お前が謝るんだ、と風見は考えていた。
 あの時ネージュ・レオパールの脱出を阻止し―――本隊の行き先も聞き出せていれば、怪我を負っている結城にこんな負担をかける事はなかった。そもそも自分が彼女の術中にはまっていなければ、結城がこんな傷を負う事もなかったかもしれない。そんな事を今更蒸し返すつもりもなかったし、結城もそんな事は考えてもいるまいが。
 だがもしも、厄介をかけた―――と先に謝るとするなら自分の方ではなかったか。少なくとも結城に謝られる筋合はないような気がするのだが、と考えを巡らしている風見の耳に、少し落ち着いたらしい結城の声が届いた。
「来週日本に帰る迄に、できるだけの作業は進めておきたかったんだが」
ややあってまっすぐに見開かれたその黒い瞳を、風見は凝視している。
 まさかそういう意味だとは思わなかった。
 謝っているのは自分の体調も省みず根を詰めた事ではなく―――データ解析が間に合いそうもない事の方なのか、と正直顎が外れそうだった。そうじゃないだろう、と言おうとしたものの言葉にならないまま、風見の唇は固まっている。だがここで、何もここまで無理しなくて良かった、などと言ったりしたら、それこそ今度は結城が怒り出すだろうとも解っていた。ましてや自分の為に済まなかった、などと不用意に口にしようものなら、今の体勢からでも渾身の右拳は覚悟しなくてはなるまい。
 そう思いながら、風見は天井へ泳ぎかける視線をどうにか引き戻す。
「……それで頭が一杯だったか」
考え考え口にした言葉に、あまり自信はなかった。正直なところ、自分も察せているような気がしているだけかもしれない。自分の体調も判断できなくなる程研究に没頭してしまう境地は、少なくとも風見の実感には乏しい。
 しかしそう聞き返すと、結城は困ったように眉を寄せた。
「かもしれないな」
しばらく考える間があってようやく返ってきた曖昧な響きに、風見はひそかに言葉を失っている。我を忘れるなど子供でもあるまいに、と思いかけて、ふと眉を寄せた。
 それがそっくりそのまま自分に返ってくる事に、遅まきながら思い至っている。
 自分では―――むしろ自分の事だからこそ、夢中になるあまり気づけない事もあるのだろう。そしてそれに気づけるのは。
(……そうだな)
生まれも育ちも、様々な局面での考え方も違う。これから先、どれだけ長い時間を共に過ごすとしても、きっとそれは変わらないのだろう。
 だから言わなくてはならない事がある。
「……毎日、帰ってくると」
言いかけたものの詰まった言葉を、手探りするようにようやく継いだ。
「そこの窓から灯が見える」
つられて居間へ視線を向けながらも結城は言葉の意味を判じかねているらしく、いぶかしげに目を細めていた。それはそうだろう、と風見は思う。当の自分自身が、何を言いたいのか良く解っていないのだ。
 だが自分が解っていれば、相手に伝わるというものでもないように。逆に―――解らなくても、言葉にしなくてはならない事がある。あまり口がうまくないのは自分でも知っていたが、その辺はお互い様だろう、と思う事にした。
「俺には……懐かしい眺めだった」
「懐かしい?」
選んだつもりの言葉は、どうも更に友人を困惑させたらしい。
 確かに懐かしがられるような心当たりは結城にはないだろう。それなりに長いつきあいではあるが、風見の帰宅に必ず結城が居合わせる訳でもない。勿論この数日の結城にしても、風見の帰りを待って灯を点けているつもりもなかったろう。
「解らないか」
だろうな、とひそかに考える。
 だが面倒なのでそれ以上の説明はしなかった。それでいいだろう、と思う。自分たちは―――共有できない記憶と、完全には理解しあう事のない感情をそれぞれに抱えている。
 それでいい。
「……解らないよ」
心なしか結城の声は、先日よりはいくらか柔らかく響いたようでもあった。
(―――いや)
それとも単に眠くなってきただけか、と風見は眉をひそめる。まっすぐにこちらを見上げながらも、その黒い瞳は時折ふっとまどろみかけている。そう言えば自分は好き勝手に寝起きしていたが、結城がいつ寝ているのかこの一週間見た記憶がなかったな―――などとも思い出していた。
「まあいいから、今夜は寝ていろ」
休まないと満足に頭も働かないだろうが、と駄目押しに軽く睨む。
「だからこれは、俺が預かっておく」
結城が放そうとしなかったので一緒に持って帰ってきたものの、ベッドの下に落ちたままになっていた計算途中のボードを拾い上げる。背後の棚に振り返りもせずに放り投げ、ついでにスタンドの灯も消した。
「……お前が日本に戻っても、何かあったら知らせてやるから」
外から射す街灯の光はおぼろに淡い。結城からは自分の表情も見えないだろうな、と思いながら立ち上がって、さも思い出したようにつけ加えた。
「だからその時はすぐこっちへ来られるように、仕事の段取りをつけておけ」
その光にぼんやりと照らされて横になっている結城の顔はかすかに青ざめて眠たげだったが、それでも風見の言葉を聞き終わると、少し笑った。

 少なくともその笑顔を懐かしいと感じるのは、間違っていない気がした。


                      《了》

                                <完>



   







「Il Pleut」を出した後「この先に話は続く訳だが、その前に何か少しフォローが必要なのではないか。主に風見さんと結城さんの間に生じたちょっとした齟齬について」と思って書いた話なのですが、時間が経って読み返してみるとわかりにくい話になっているような気がします。すみません。
「かつての幸せな記憶」は風見さんだけのもので、その幸せを奪われた悲しみも怒りも風見さんだけのものなので。
だからこの先どれだけ一緒にいても、決して結城さんはそれを理解する事はできないという現実は何回でも書いておきたいなと。
(もちろんそれは逆に於いても言える事ですが)
 だからそれ以外のところで、互いを理解し必要とするのだと。
 そんな事も何回でも書いて行きたいなと、思っております。てへ。



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