冬の空気に低く唸るエンジンを切って、オートバイを駐車場に停める。
普段は自分しか停めていない場所に、見慣れない古い型のオートバイが一台無造作に置かれていた。珍しいな、と思いながらヘルメットを置き、鞄を取る。
仰ぐ空は鬱々と曇っていた。故国に比べれば暖かいこの国の冬だったが、晴れ間の覗かない日はぐんと気温も下がっていささか肌寒い。
仮住まいも既に数カ月を数えているアパートは、二日ぶりに帰宅する彼を馴染みの軋む門扉で出迎えた。
共有部分の玄関を抜けて階段を上がり、懐から鍵を抜きながら廊下を歩く。鍵を開け、こちらも手に馴染んだドアノブを掴んで、ふと眉を寄せた。
しかしそのまま押してみる。
ドアの向こうにあるのは留守の間に外気と同じ温度に冷えた空気の筈だった。しかしむせる程乾いて暖まった空気に押し寄せられて、身体が一瞬とまどった。また眉をひそめて耳をすましてみると、確か切って出掛けた筈の古びたヒーターが咳込むように唸っている。
「おう、お帰り」
そして窓際に置かれた部屋の主の椅子には、当たり前のような顔をして客が座っていた。
「どうして、ここに居る?」
それでもさして驚いた風も見せずに、本郷猛は鞄を机に置いて振り返った。
「どうしてとは御挨拶だな」
いかにも不本意だ、と言うように肩をそびやかせてみせると、一文字隼人もくるりと椅子を回して本郷に向き直る。本郷に合わせてか真面目な表情を保とうと一応は努力しているらしかったが、如何せん目がどうしようもなく笑っていた。
「昼前から部屋の前でお前が帰るのを待ってたら管理人さんが来て、お前は誰だ、ここで何してるって聞くから」
よいしょ、と椅子から立ち上がって主に譲った。
「で『俺は本郷猛の双児の弟なんだけど、兄が帰るまで中で待たせてくれないか』って言ったら、鍵を開けてくれた」
本郷の眉がひそかに寄せられる。
「ちょっと疑わしそうに見られたけど『二卵性双生児なんだ』って言ったら何か深く納得してたぞ。あの管理人さん東洋人の見分けあんまりついてないみたいだな。…いや」
立っていって洗面所を覗き、顎を撫でながら鏡の中から本郷に下手なウインクをしてみせる。
「それとも、本当に似てきたか?」
本郷の眉間の皺は更に深くなった。
この半年程かけて古い歴史のある街道沿いをずっと撮影しながら旅をしてきたのだが、近くまで来たので顔が見たくなって立ち寄ったのだ、と一文字は言った。
「表にあったマシンは、それじゃお前のか」
「何だ、それでバレたのか」
肩をすくめた。
「いやー、久しぶりに暖房のある部屋に入った」
どんなところに泊まっていたのかは、尋ねなくてもそれで想像はついた。外交官の家庭に生まれ何不自由なく育ったその生い立ちの割に、一文字は無節操な程どんな環境にも順応が早い―――と言うより、良い写真を撮る為なら大抵の苦労は苦労とも思わない性質なのだ。右手に窓を臨む位置に置いた特等席のソファにのんびりともたれ、ヒーターのバルブを全開にして放熱パイプに靴を脱いだ足をかざしている一文字は至って御機嫌である。
とりあえずそんな一文字は好きにさせておく事にして、本郷は留守の間に溜まっていた郵便物を眺めた。ゆっくり目を通すと他の封筒をテーブルに置き、一通の封筒を一文字に差し出した。
「風見からだ。見るか?」
「いいのか?」
聞き返しながらも一文字は受け取っている。
「へえ、クリスマスカードか。なかなかまめだねあいつも。…ええと今」
今し方読んだばかりの内容を、一文字の声と共に本郷は胸の内でなぞり直す。
「…に来ています。年明けのレースに出場します。か」
読み終えてカードを封筒に戻すと、一文字は窓の外を眺めた。
「何だ、じゃ風見に会うんだな、俺」
思わず本郷が振り返ると、一文字は封筒の対角の一方を指先で、もう一方を額で支えると器用にくるりと回して独りごちた。
「行く予定なんだ。レースの写真もそろそろ撮りたくなってきたし」
そこでちらりと目だけで本郷を見やった。
「お前はさっぱり走る気配ないし」
すかさず水を向けてくる友人に、本郷は曖昧な笑顔で答えている。
今でも決して本郷はオートバイから離れている訳ではない。平和な時間には今も専門の研究を続けているように、レースに出ようと思えば、それなりに調整の時間は必要だろうが出る事もできる筈だった。
だが少なくとも、今は余計な事を考えずに走れる気分にはなれないのだ、とはまだ言えない。
一ヶ月程前に受け取った地球の裏側からの電話が、日を追って濃く得体の知れない影を本郷の心に落としていた。鞄の中には故国行きのチケットが入っている。ただそれを、まだ一文字には言えなかった。
「…ま、俺もその前にまだ撮らなきゃならんものもあるし」
しかしそれ以上は追及せずに、一文字は封筒を本郷に返した。
「悪いが今晩、ソファだけ貸してくれるか。明日の朝には出かけるから」
「随分せわしないな」
「いや、ちょっと予定が動かせなくてな。年内にとにかく」
街道の終点の地名を口にして、ソファの肘掛けに頬杖をついて窓の外を見やった。
「…まで行って、新年の夜明けの写真を撮って締めると。そういう計画を立てた訳だ」
しかし間に合うかな、と指を折って日を数えている一文字の背中を、本郷はふと眩しく見やる。
知り合ったのはまだお互いに生身の頃で、気づけば随分長いつきあいになるが、一文字は少しも変わらなかった。それは外見が変わらないという事ばかりではない。改造人間という望まざる宿命すら、明朗で一見気楽そうに見える性格に―――少なくとも表面上は―――変質はもたらさなかったのだ。
一文字と顔を合わせていると、ここ一ヶ月の間どこかでわだかまっていた懸念がもしかするとあれこれ思い悩むには及ばないのかもしれない、という気にさえなってくるのが不思議だった。
何もないがコーヒーでも淹れるか、と台所へ回ろうとして、本郷はあやうくテーブルの足元に置かれた紙袋につまづくところだった。何だこれは、と覗き込むと、その気配で気づいたらしく一文字が振り返った。
「…あ、忘れてた。すまん」
悪い悪い、と本郷が持ち上げた袋を受け取ると、そのまま居間へ引き返す。
「手ぶらじゃ何かと思ってな、今朝買ってきたんだ」
ソファに戻った一文字の目に促されて、本郷も何となく自分の椅子に腰を下ろした。
一文字はしばらく袋をごそごそ手探りしていたが、ややあって本郷に何やらいきなり放り投げた。意表をついてあわよくば取り落とさせようという子供じみた魂胆だったらしかったが、生憎本郷はしっかり受け取っている。ちぇっ隙がないな、と肩をすくめて、一文字は自分も袋から一個取り出した。
「メリークリスマス蜜柑、だ」
本郷は掴んだ橙色の果実を疑わしげに見やった。
「…オレンジだろう」
大きさは確かに同じ位だが、蜜柑の形はもう少し平たかった気がする。目の前にあるのは手まりのように丸い、この国の柑橘類だ。
「いや蜜柑だろ、これ」
普通に皮剥けるぞ、と親指を動かし、半分くらい剥いたところで小房をひとつ口に放り込むなり一文字は顔をしかめた。
「いけね、まだ酸っぱかった」
「そうか?」
倣って本郷も皮を剥いてみた。成程さほど力を入れなくても簡単に剥ける。口にしてみると確かに酸味が強かったが、大袈裟に騒ぐ程ではなかった。
「悪かったな。まあ放っとけばもう少しは甘くなると思うから、しばらく置いといてくれよ。どうせすぐ正月になっちまうんだし」
まだ少し目もとをしかめながらもその割には次々と口に運んで、一文字はまたヒーターに足をかざして本郷を振り返った。
「日本の正月には蜜柑だしな」
妙に力を込めて断言する。
「そうだな」
相槌をうちながら、すぐにまた新しい一年がやってくるのだ、と本郷は思った。どんな年になるのか―――あまり考えたくない懸念を抱えたまま。
だがまだ一文字には告げるまい、ともまた思っている。少なくとも、電話の相手も「勘の域を出ない」段階で自分に相談してきたのだ。年明け早々にも直に会って、詳しい話を聞く約束になっていた。
(解った。東京で会おう)
それからでも遅くはないのだ。年明けにレースを控えた風見にも、今まさに本来の仕事途中の一文字にも、いずれ話さなくてはならない事態になったとしても、それは今ではない。
「…なんだっけ、昔の映画にこんな怪獣いたよな」
自分で持ってきた「蜜柑」の二個めを食べ終えると、その五弁に開いた皮の端を両手でつまんで紙人形のように眼前に踊らせながら一文字は独り言のように呟いた。岡本太郎がデザインした奴だよな、と眉を寄せて考えている。
「ああ『宇宙人東京に現わる』か」
独り問答で納得してそれからまた皮の宇宙人をひらひら踊らせながら、一文字はしばらく何かを待つように黙っていた。
ややあって、独り言の続きのような何気なさで口を切った。
「年が明けて、風見のレース撮ったら、俺も日本に帰るよ」
本郷の手が止まったのを、一文字は面白そうに見やる。
さっきから切り出し易いようにそれとなく話題を振ってやっているというのに打ち明けないという事は、余程に上の空か、言う気がないという事だ。
おおかた自分がここへ来た本当の理由にも全く気づいていないのだろうとは思っていた。それにしても、この冷静な友人があからさまに動揺しているところを見るのは珍しい。
「…俺が、お前を呼んだのか?」
少し考えて、本郷は低く尋ねた。
仮面ライダー同士にはある種の共振が常にはたらいている。それは時として無意識の内にも起こり―――例えば危機に陥った時、誰かに向けて助けを求めている訳ではなくてもそれは仲間に察知される。
そんなつもりはなかったが、もしかすると少し自分は弱気になっていたかもしれなかった。その無意識が、一文字を呼んでいたろうか。
「いや」
一文字は笑った。
「お前は腹の立つ程、『自分の事は自分でしましょう』だ」
見慣れた人なつこい笑顔の中で、しかし目だけが笑っていなかった。
「だから自発的に呼ばれる事にした」
それはここのところさっぱりレースに出る気配のない友人の動向が、ある日ふと気にかかった事から始まっていた。「呼ぶ」事が可能なら逆に「耳をすます」事も可能なのではないか、と思いついたのはそれから少し後の事だ。
日頃無意識で使っている感覚を意識的に強めるのは思ったより難しく、なかなか勝手も掴めなかった。ようやく本郷が直面している状況が飲み込めたのは、ほんの数日前の事だ。
(相変わらず何でもかんでも一人で抱え込もうとしやがって)
確かにまだそれ自体は懸念に過ぎないかもしれない。余計な心配をかけたくない、という気持ちも本郷の性格を考えれば無理からぬ事だ。
だがそれでは済まないと思うのも、ならば自分の性格だった。少なくとも状況が解った以上は、本郷の思惑に遠慮するつもりもなかった。
(その辺きっちりさせておかなくてはな)
紙袋一杯に詰めて貰った香り高く冷たく密な果実の重みを手に確かめながら、今朝がた一文字はそんな事を考えたのだ。
「…すまん」
本郷は変に気詰まりになって呟いた。確かに他人行儀と言われても仕方ないかもしれない。
「謝るな」
お前のそういうところが時々俺を苛つかせるんだ、と一文字は片眉を上げてみせた。
「なあ、本郷」
語調を和らげて、言葉を継ぐ。
「俺は好き勝手に行くだけだから、気にするな。それがたまたま、いつもお前の行くところと同じってだけの事だ」
「隼人」
何か言いかけようとする本郷を手で制して、なおも続けた。
「巻き込まれたいと思うのは俺の勝手だし、厄介をかけたくないと思うのはお前の勝手だ。だから、そういう事にしとけよ。それだけの事だ」
本郷は一文字を見つめた。
初めて出会った時と変わらない瞳が見つめ返している。
あれから随分いろいろな事があったのだ、と思っていた。
同じ名を背負って戦ったゲルショッカーの潰滅もつかの間、現れた悪の組織デストロンによって口火の切られた新たな戦いと―――自分達の手で造り出す事になった後輩と。
そして一人、また一人と集まっていく同じ名前の絆と共に、彼等の戦いが本当に終わる事もないのだと、どこかで因果を含められていく気がした。たとえ平和な日々が訪れたように見えても、その平和が決して永遠に続かない事を、自分達は知ってしまっている。改造人間となる前は、こんな宿命という名の現在を誰が予想できたろうか。
けれどもそれも、ただそれだけの事なのだと一文字の変わらない目が言う。
レースであれ悪の組織との戦いであれ、戦おうとする自分と、そして共に在るまなざしに何の変わりがあるだろうか。
その約束を、自分達は共有する名前に結んだのだ。
そう思った途端、ふっと気持ちがほぐれた。
「…一緒に、日本に行くか」
「止せよ」
すげなく一文字は一蹴した。
「何もお手々繋いで行かなくたって、はぐれたりしないから大丈夫だ」
大体風見のレース撮らなくちゃならないしな、とつけ加えると、少し笑ってまた深々とソファにもたれた。
「隼人」
「何だよ」
「じゃ、もう一個くれ」
一文字はわざとらしく眉を寄せてみせたが、ソファにもたれたまま無造作に袋に片手を突っ込むと、今度は気を持たせずに放ってよこした。
その「蜜柑」を本郷は掌に受け止めた。何かを確かめるように、ゆっくりと皮を剥いていく。
思えば昔から、どのレースに出る、と一文字にあえて伝えた事はない。けれどもいつも、振られるフラッグの向こうには一文字のカメラが待っていた。それと同じだ。
身じろぐ気配にふと顔を上げると、一文字は身体を起こして窓の外を見ていた。
何を見ているのかは、すぐに解った。
「…雨か」
いつの間にか、窓の外には静かに雨が降り始めていた。
それでもほのかに明るい空の彼方を、一文字は黙って仰いでいる。
その横顔を眺めながら、本郷は瑞々しい果実を静かに口に運んだ。
<完>