フラッグの下を走り抜ける直前から続けざまに切られたシャッター音を、ささやかな拍手のように風見志郎は耳奥に聞いた。
風見のマシンは競り合う集団の先頭をきって、空にひらめく旗の下を一直線に通過している。
ニューイヤーレースとして名高いこのレースに、風見が参戦するのは今年で三回目になる。初優勝の喜びよりも、しかしまだ意識はレースの緊張感が支配していた。
レース中に考えているのは、いかに速く走るかという、ただそれだけである。視界を塞ぐ背中があればいかにしてそれを躱すか―――そして先頭を走っているのなら、どれだけその果てなく開けた前方を極められるか。
それはどこか、正義を目指すのにも似ていると思う。
流線と化していた風景が、マシンの減速と共にゆっくりと視界の内に戻ってくる。ヘルメットとスーツ越しでも身体を吹き抜ける風の感触を意識しながら、研ぎすまされた神経をスピードと一緒に緩めていく。
甘くブレーキをかけて直線後のカーブを流しながら、そして風見はレースの最中に感じた相反する二種類の気配を反芻している。
レースでは速く走るより外の事は考えていないのだが、高速で動く周囲に対して鋭敏になった感覚は、時折日常では感知できないようなかすかな気配を拾ってしまう事があるのだ。
一方は良く知っている気配だ。来るとは聞いていなかったが、別段驚くまでもなかった。
だがもう一方は。
覚えのないその気配をもう一度思い返してみて、風見は眉を寄せる。知らなくても、似たものの心当たりはあった。
(…やれやれ)
それもどこかで、自分は予期していたかもしれない。
(今、どこに居るか解ります?)
地球の反対側の港から、後輩がわざわざ友人の居場所を聞く為だけに、およそ半年ぶりに連絡してきた時に。
風見は世界各地でそれぞれの生活を送っている仲間の居場所を、常に把握している。だからそんな風に頼られる事は、決して予想外の事ではなかったが―――それでもどこか、奇妙な予感があった。
何故ならその頃友人をレースのスタッフとしてこの街へ呼び寄せていたのは、外ならぬ自分だったのだ。
その後、後輩と友人との間にどんな会話が交わされたのかは知らない。しかし、後輩に会う用事がある、と先日当の友人が切り出した時に、その予感めいたものは決定的になったかもしれなかった。
もう一つの姿を持ち、その名を共有する自分達は、時に偶然に引き寄せられる。
友人が後輩に会いに行くのに、風見は同行しなかった。レース前に心にかかる事を作りたくはない、とその予感から無意識に避けていたのかもしれない。それが平穏な日々の終わりを告げるものだとしたらなおさらの事。
自分の宿命から逃げるつもりも勿論ないが。
地上の風景はまだ高速で流れている。ヘルメットの風防越しに、風見はちらりと空を見やった。
昨年の暮れから、なかなか晴れ間が見えない。
空は鬱々と低い雲に覆われて、真昼だというのに陽のあたる場所も影になる場所も曖昧とした陰影の内だ。上空では風が強いらしく、重く垂れ込めた雲の流れも速い。時折その輪郭が、魚の腹のように生白く光った。
満員のスタンド席からストロボのフラッシュで短い挨拶を送ってきた先輩は、喧噪を抜けて会場の外で待っていた。
年期こそ入っているが良く手入れされたオフロードバイクのシートにもたれて愛用のカメラを抱え、何を考えているのか寒々しい曇天を仰いでいる。
「―――一文字さん」
声をかけると、おう、と笑った。
「良い走りだったな」
有難うございます、と風見も笑顔を返している。
決して気難しい先輩ではないのだが、褒めて貰えるのは希有の事だった。
「世界で二番目には格好良かったぞ」
もっとも一文字隼人にとって「世界一の走りを見せてくれるライダー」の座は揺るがない訳だったが。そんな事は今更である。
「これなら本郷の首根っこも掴んで連れてくるんだった。良い薬になったのにな」
このレースを見たら研究室の中でじっとしてなんていられなくなったろうよ、と一文字は笑った。
「会ったんですか?」
先輩達の居場所はいつも知覚していたが、昨年の春以来風見は本郷に会っていない。
「ああ、ここへ来る途中に。丁度通り道だったから、一晩泊めて貰った」
クリスマスの頃だったかな、と一文字は記憶を確かめるように眉間に皺を寄せて宙に視線を据えた。
「本郷さん、元気でした?」
「まあな。なんだか相変わらず難しい事をごちゃごちゃ考えてるみたいだが」
良く解らん、と肩をすくめてみせる。
気のない風に見えて、しかしそんな一文字が言葉にするより実際には多くの事を知っているのも、風見は知っていた。屈託なげな笑顔と見せて、その底に秘めた一文字の洞察力は鋭い。
「そう言えば」
スタンドに居たのなら、一文字は気づいたろうか―――さっき自分がレース中に感じた気配に。
聞いてみようか、と口をきった、その時である。
「風見」
明るい声と背後から駆け寄ってくる高い靴音に、風見は思わず空を仰いだ。今に始まった事ではないが、どうにも間の悪い友人である。
「ここにいたのか、ディミトリが君を探して」
そこまで言いかけて、一文字に気づいたらしい。
「一文字さん! お久しぶりです」
一文字は軽く片手を上げて、結城丈二に応えた。
結城丈二は風見のレーススタッフとして、昨年の暮れからこの街に起居している。手伝いを始めた当初はそれこそ右も左も解らないような有り様だったが、回を重ねればそれなりにコツも飲み込めてきて、調整以外の様々な雑事も見よう見まねでこなしていた。
(…だが)
そうは言っても門外漢である。レースに関わる様々な雑事に気が取られている時なら尚の事、他の気配に気を配る余裕はなかったろう。元々気配を読む事には疎い友人である。
(気づいていないなら、それでいい)
「解った、今行く」
答えて風見は、一文字を見やった。
「…すみません、先にアパートで待ってて貰えますか。結城が一緒に行きますから」
「風見?」
きょとんとしている友人に視線を戻しながら、あの気配をまた思い返してみる。
「先に帰ってろ。ディミトリには俺もちょっと話があるから、長くなるかもしれん」
レースとは無縁な何者かが、スタンドの観客に紛れていた。その標的が誰なのかは、離れてみればはっきりする。
「解った」
一文字がのんびりと答えた。
「ところでお前んとこ、バスルームついてるか?」
風見が頷くと、持ったままのカメラを軽く示してみせた。
「暗室に借りてもいいかな。かなり良い写真が撮れたと思うんでな。早く見てみたいんだ」
「あ、使って下さい」
済まんな、と笑って、まだ戸惑い顔の結城を見やる。
「じゃ、ついでに手伝ってもらうか」
「へえ、結構良い所借りたな」
物珍しげに室内を見回しながら、一文字は提げてきた荷物を床に下ろした。
「えーとな、温度が大事なんだ。温度が」
言われるままに結城が部屋を暖めている間に、一文字はソファの肘掛けに腰を下ろして荷物を解いた。
「台所借りるぞ」
そう声をかけて、キッチンに入った。
シンクに水を張り、ポットの湯をさして温度を調節する。
薬剤をつくったカップと一緒にシンクに沈めた温度計を時折眺めながら、これもバッグから引っ張り出した感光防止用の黒い厚手の袋に両端から腕を突っ込む。手探りとは思えない器用さでフィルムをケースからリールに巻取り、現像用のボトルに手探りでセットする。
「暗くしなくていいんですか?」
「ああ。ネガ迄は大体明室で作っちまうから」
部屋も暗いほうが確実なのだが、ことに旅先では贅沢も言ってはいられない。注意さえ怠らなければどんな環境であろうと、要は長年の勘と腕である。
フィルム現像用の金属製のボトルは、大型のシェーカーに似ている。違うのは、光を遮って薬品を注ぐ為の小さい栓が蓋についているところだ。その栓から水を入れてボトル内部の気泡を抜き、水を捨てると用意した薬液を注ぐ。鼻歌混じりに振っては、時折シンクにボトルをつけて温度を保つ。現像液、停止液、定着液と入れ替えていき、最後に水洗いして軽く水滴を拭った。
「ところで、あれ何だ?」
バスルームのシャワーカーテンの紐に洗濯物よろしくクリップで挟んだネガフィルムを長々と吊るして出てくると、一文字はふいと窓際の小机に顔を向けた。
「もしかして、お供えか?」
「はい」
答えた結城の声は、いくらか心もとなげだった。
多忙を極めるテスト航海でも日本の船である以上正月は祝うのだ、と先日後輩に聞いた事や、その他様々な思惑もあってきっちり祝おうと決めた今年の正月だったが、やはり土壇場になっての、それも異国では色々と手配が難しく、結果はいささか不本意なものになっていた。
三方代わりに机上に据えた小箱に紙を敷き、丸餅を据えたところまでは良しとしたものの、橙までは都合できなかった。仕方なく小さなオレンジで代用したものの、ややアンバランスなのは否めない。
(…まあ、気は心だな)
風見にしては随分言葉を選んでくれたものだと思いつつ、流石に自分でもこれはどうかと思った。とは言え一度志したものだし、と半ば意地で飾ったのだが、見入る一文字は無邪気に相好を崩している。
「いいな。ちゃんと蜜柑ものってるし」
「オレンジですが」
「や、これ蜜柑だろ。日本の正月らしいじゃないか」
うん、とまた頷き、指を折って日を数える。
「うーん、だが鏡開きまで厄介になってる訳にも行かんな」
汁粉も随分食ってないけどなあ、と名残惜しげに呟いた。
「…ま、日本で食えるからいいか」
「一文字さん?」
「ああ、風見のレースも撮ったしな。一度帰ろうと思ってる。もうチケットも取ってるから」
悪いが今晩だけ泊めて貰う事になるがな、と笑った一文字の横顔に、不意に結城は先日聞いた話を連想している。
(もしかすると)
しかし言葉にはしなかった。
完全に乾くのが待切れないとみえ、まだ少し湿ったネガをバスルームのおぼろな灯に透かして一文字はしばらくためつすがめつしていた。やがてコマを数えながら上から一部を切り取ると、そのまま居間へ出て、更に明るい電灯に透かして眺めている。一体何が映っているのか、と結城も傍から覗いてみた。
ネガには六コマの映像が入っている。左右両端はレースを収めたものらしい、と見てとれたが、真中の四コマに映っているのはどうやら観客席らしかった。しかし明暗が反転したネガでは、人込らしき輪郭がかろうじて見てとれるもののそれ以上は判然としない。
「…やっぱり焼くか」
独りごちると、一文字はバスルームに向かった。灯はつけずに、内側からドアを閉めてみる。
「うーん、ちょっと建てつけ甘いな」
内は温まっているものの、閉めたドアは外の部屋からの光を四辺に細く透かしている。
まあいいか、と呟くと、バスルームから顔だけ出して結城を呼んだ。
「手を貸してくれ」
毛布を暗幕代わりにバスルームに張って光の侵入を防ぐ手伝いをしながら、そして結城はまたどこかでまごついている。漠然としたそんなもどかしさの正体は、遡れば昨年末に起因しているようでもあった。
昨年の暮れ、この街に近い港で結城は神敬介と会っている。お互いの研究に関する資料の受け渡しのついでに、しかし神敬介は気になる言葉を残したのだ。
(その話次第じゃ、もしかしたら俺だってのんびり海の上にいる訳には行かなくなるかもしれないじゃないですか)
山本大介―――仮面ライダーアマゾンは用事がない限り「母国」に帰ってくる事はない。その彼が「気にかかる事」があって帰国し、本郷猛と連絡を取ろうとしているという。神敬介も詳しい話は聞いていないらしかったが、あえて言葉にしなかった彼の予見は結城にも察せている。
そして一文字も、明日には日本に向かうという。
何かが自分の知らないところで動き始めている。そう解っているのに、それを察する能力がないのがもどかしい。
「よし、これでいいだろ。灯を消してきてくれるか」
そんな事を考えながら灯を消してバスルームに戻り―――思わず結城は立ちすくんでいる。
三畳足らずのバスルームだ。目をつぶっていても迷う筈はないのだが、完全に光を遮断された闇には距離の感覚すら掴めない。伸ばした手が、布らしきものに触れた。
「おい、それカーテンだから。引っ張るなよ」
その向こうから、一文字の声が飛ぶ。一文字には暗闇でも見えているのだ、と今更のように思い至りながらも、どこへ手をついてどちらへ足を進めていいのかすら解らずに結城はとまどっていた。
「……あ、悪い」
そんな結城の動向も見えていたらしく、ややあってぼうと闇の中におぼろな赤い光が灯った。
それでようやく掴めた暗幕の輪郭に安堵し、くぐり抜けると一文字がどこか気まり悪げな表情で赤いフィルターで覆った灯を手にしている。薄く水を張った浴槽の中には、それぞれに薬液を満たした金属製の平たいバットが置かれていた。
「済まんな、どうも気が急いて」
引延機があればなあ、と独りごちながら、一文字は二枚のガラス板の間にネガと印画紙を重ねて固定する。真上に据えた灯からフィルターを外して露光し、注意深くネガから印画紙を外すと、並べた三枚のバットに順番につけていく。
「ま、こんなもんかな」
最後に手洗用のシンクで水洗いした印画紙をネガと並べて吊るすと、結城を振り返った。
「乾くまで、コーヒーでも飲むか」
窓を開けて、一文字は冷え冷えとした冬の外気を胸に満たした。
「一文字さん」
丁度そこへ、結城がキッチンから出てきた。差し出されたカップを受け取り、煎れたての熱いコーヒーの匂いも深く吸い込むと、一文字は窓の外を見やる。
夜の近い空は、鈍く重く曇っている。
また雪が降ってきそうだな、と思う。
そう言えばあの時も、雪が降っていた。
本郷の宿に一泊して目的地に向かって出発した朝、本郷は玄関まで送りに出てきた。
(それじゃ)
クリスマスの朝だったというのにそう言えば「メリークリスマス」の一言もなかったな、と思い出す。帰国を自分に見透かされたのが余程ばつが悪かったのか、あるいは黙っていたのが後ろめたかったのか。おそらくは両方なのだろうが、本郷は終始どことなく口数が少なかった。
(それじゃ、日本で)
だが別れ際に低く、そう言ったのだ。エンジンの低い唸りの中でも、聞き間違えたりはしない。
そんな事を考えながら、いつの間にか表情は僅かに険しくなっていたかもしれなかった。
「風見も遅いですね」
さっきから言葉を探していたらしい結城の声に、思い出したように一文字は笑顔をつくる。
「まあ、写真ができるまでに帰ってくればいいんだがな」
その言葉の意味を結城が聞き返そうとした、その時である。
物音ひとつさせないが―――明確な気配だった。
腰を浮かせかけた結城を、一文字は目で制している。
そのまま視線だけを巡らせた。
さりげなくテーブルに伸ばされた手が、洗って乾かしていたバットを掴む。向けられたまなざしに、結城も体勢は変えないまま息を溜めた。
次の瞬間。
嫌な音がして、古びたドアが撓んだ。と同時に、頭から足先まで黒いスーツに身を包んだ一団が、体当たりに耐え切れなかったドアからどっとなだれこむ。
奇襲をかけるべく室内に踏み込んできた刺客が目標を探すよりしかし早く、鋭い銀色の光が走った。おそらく何が起こったのかすら解らないまま、先頭の男は投げつけられたバットの角に眉間を一撃されて昏倒している。
「…おいおい、新年早々穏やかじゃないな」
ドアの正面に、一文字は窓を背にして立っている。
「明けましておめでとう、位言ったらどうだ?」
そんな軽口にも無言のまま更に踏み込んでくる謎の一団に、一文字もすいと身構えた。黒衣の男が振り上げた腕を掴んで逆に捻り上げ、鳩尾に拳を突き入れる。前にのめったところを素早く身体を入れ替えざま、その首筋に一撃を叩き込んだ。
声もたてずにくずおれた敵の身体は、床に倒れ込んだ形のままほどなく脆い砂状の物質にその質感を変え、窓から入る風にみるみる輪郭を崩していく。
(……やはり)
改造人間か、と見やると、最初に倒した筈の男の姿ももう僅かな砂の山を残すばかりとなっていた。任務に失敗した時にはその証拠を残さない為に、生命活動の停止と同時に身体を無機質に分解するような肉体改造を受けている。
だとすれば、手加減する必要もない訳だ―――と一文字は再び拳を固めた。
そして次の瞬間、戸口近くから勢い良くもう一つの風が動いている。予測していなかっただけに、敵には防御する暇も与えない速さと見えたろう。繰り出された機械の右腕の一撃は、別の男の首筋に深く食い入っていた。難無く一人を仕留めた結城は、間を入れず続けてその横にいた敵の腹に左の蹴りを叩き込む。
一文字に気をとられていた刺客は、思わぬ方向からの反撃に更に浮き足立つ事となった。
(結構やるもんじゃないか)
その隙を逃さず手近な一人の急所を右拳でとらえ、一文字の口元にかすかな微笑が浮かぶ。
あえて部屋の正面に一文字が立ったのを見てとって、すかさず結城は逆に敵からの死角となるドア横の位置に身体を引いている。
打ち合わせなしで、これだけ動ければ上出来だ。
敵は改造体とは言え、どうやら普通の人間の数倍の力をもつ程度らしい。変身して戦う必要すらなさそうだった。二人の仮面ライダーの前に、突入してきた十人程の刺客はみるみるその数を減じていく。
残りも二人となったところでようやく自分達の力不足を悟ったものか、一文字に相対している男は低く唸ると手にぱちりと鋭い輝きを開いた。
(おっと)
刃物程度では致命傷を与えられる事もないだろうが、迂闊には踏み込めない。迫ってくる男の刃先を躱しながら、一文字は窓際へ後じさった。大振りしてくる相手の隙をついて懐に飛び込もう、と間合いを計っていた、その時である。
床に滑らせて引いた踵が、何かを掬った。それがカーペットの端だったと知るのは後の事だったが、思いもかけない障害物に、僅かに体勢が崩れた。その隙を見逃さず、男がナイフを振りかざす。
「…ちっ」
不十分な体勢だったが、とっさに一文字が繰り出した蹴りは男の顎に入っていた。手を離れたナイフが宙に舞い、そのまま覆いかぶさるように男の身体が崩れおちてくるのにほっとしたのも束の間。
一文字はその向こうに、自分を狙う銃口を見ている。最後の一人は、一文字に向かって拳銃を構えていた。
(しまった)
躱そうにも、自分の体勢も崩れている。
避け切れない。
その刹那、目前に大きく手が開かれて一文字の視界を遮った。次の瞬間、消音器にこもった銃声が鈍く破裂する。
「…!」
流石に至近距離からの銃弾を受け止めるのは無茶だったらしい。手首から弾きとばされるような衝撃と肘から肩へ突き抜ける激痛に、結城の身体がよろめいた。膝から崩れるように、その場に倒れ込む。
しかしその一瞬を逃す一文字でもなかった。すかさず跳ね起きるや、拳銃を構えた男が次の引き金を引くより早くその鳩尾に体重をかけた一撃を叩き込む。
最後の刺客が床にどうと倒れ伏した。
拳銃を握った手はその形を残したまま、やがてその身体は仲間達同様黒ずんだ砂と化していく。
今までの張り詰めた空気が嘘のように、静寂の戻った室内には冴え冴えと冷えた冬の風が流れるばかりである。
「大丈夫か」
身体にかかった砂を払い、一文字は何とか起き上がろうとしている結城の傍に膝をついた。
「無茶するな。こっちの肝が冷えたぞ」
どうにか上体を起こした結城が押さえている右手首をその上から掴んで引き寄せ、手のひらを開かせる。
「だが、助かった」
変身すれば拳銃の銃弾くらいはものともしないとはいえ、変身前ではダメージは免れない。ましてや頭部は普通の人間と変わらないデリケートな脳を抱えているのだ。あの時結城がとっさに右手を出していなければ、一文字といえども無傷では済まなかったろう。
銃弾は結城の右手の人造皮膚とその下の金属骨に頭をめりこませて止まっていた。
「しばらく右手を使わなけりゃ、治るな」
銃弾を抜いて掌の傷口を確かめると、一文字は結城の右手に厚手の包帯をしっかりと巻き付けて固定した。
「痛いか」
「…いえ」
指先が動くのを確かめ、結城はどうにか笑顔をつくる。
人工の腕だが、内部機構が破壊されていない限りはこの程度の傷なら時間さえあれば自己修復する筈だ。
「それにしても、何者なんでしょうか」
それでもやはり痛むらしい。包帯を巻いた右手をさすりながら呟いた結城に答えかけて、はたと一文字は顔を上げた。
「あ、写真忘れてたな」
まだ少し湿っている印画紙を紐から外し、少しでも早く乾かそうとひらひらと振りながら居間へ戻ってきた。
「引延機があれば、もっと大きなサイズの写真にできるんだけどな」
また言いながら、荷物からルーペを引っ張り出す。
ルーペで印画紙を睨むと、うーん、と一文字は唸った。
「見てみるか」
渡されて、結城もルーペを覗いてみる。大雑把と見える手順にもかかわらず、ネガと同じ大きさに焼きつけられた写真は鮮明だった。
ネガでは白い靄のようにしか見えなかった観客席が、はっきりと映っている。
画面の中央に捉えられているのは、一見すると観客と見える東洋系の男性だった。しかし普通の観客でないのはすぐに解る。さっき見たネガの前後の写真からすれば数人の選手がトップを競り合っていたレース終盤に撮られたものの筈だが、客席の熱狂に比して被写体の男のまなざしの無関心さが対照的だった。
こんなレースには何の興味もない―――と言いたげに冷ややかな眼差しを、一文字のカメラは鋭く捉えている。
「その襟見てみろよ。バッジみたいのつけてるだろう?」
一文字の声に、結城はルーペを動かした。
醒めたまなざしでレース場を見つめる写真の男の背広の襟には、確かに何かが留められている。その小さな徽章はどこかの会社の社章と見えない事もなく、ルーペで拡大して見ても細かい所までは判別できなかった。
(…だが)
何故か胸騒ぎがした。
どんな種類であれ、模様はそれ自体が意味をもつ。
不鮮明ながらもその襟の徽章は、何かを主張しているように見えるのだ―――それも自分達が、良く知っている、ある野望を。
「で、これだ」
ルーペから目を離して振り返ると、一文字は最初に倒した男が残した砂を指先で崩していた。ほどなくその中から、小さな徽章をつまみ上げる。
「ほら」
手のひらにのせて差し出した。
そこに刻まれた模様は、写真の男のつけていたバッジの模様に確かに似ていた。
「うーん、この分だと本郷もお邪魔されてるな」
苦笑する一文字を、結城は怪訝に見やる。
「一文字さん…?」
「…こっちへ来る途中にな」
世間話をするようなのんびりとした口調だった。
「何だか変な連中が五、六人来るのとすれ違ってな」
「変な連中?」
「なんて言うかな」
もどかしげに手を動かしかけたが言葉に詰まり、解るだろう、と結城をねめつける。
幾多の改造人間と戦い続け―――そして自身も改造人間である自分達には、いわば同種の存在を見抜く感覚がいつの頃からか備わっている。たとえ人込の中に紛れていても見逃す事はない。
「はっきり見えなかったが、これと似たマークをつけていた。俺も急いでたからそのままやり過ごしちまったんだが、その連中がまっすぐ行くなら」
本郷が居る町の名を口にする。
「…へ行くつもりだった可能性は高いな」
結城は一文字を見つめている。
仮面ライダーの中でも、とりわけ目が良いとは知っていた。しかしそこまで一瞬にして見てとれたというのも驚きなら―――そこまで察していながら一文字がそのままレースの写真を撮りに来た、というのもある種の驚きだ。
「…それじゃ、本郷さんもこの連中の仲間に襲撃を」
「多分な」
言いかけて結城の表情に気づいたらしい。
「まあ、心配は要らないからな」
肩をすくめた。
「あれ位で本郷をどうこうできる訳がないだろう。大体」
そして足元を顎でしゃくる。さっきまでほのかに煙を漂わせていた砂は、もう冷え始めている。
「大体この程度で仮面ライダー二人を襲えるつもりだった連中だぞ? もう図々しいってもんだ」
ナメてるよなあ、と靴先で砂を崩す。
何か思い出したように唇をかすかに尖らせるとなおも崩した砂を踏み、ぐるぐると弧を描いた。踏む砂がなくなる程かき回してようやく気が済んだらしく、足を上げて靴の裏を眺める。
「…まあ、何だ」
独り言のように呟いた。
「お互い、独走型の相棒を持つと、苦労するってとこだな」
向けられた微笑に、結城の表情は僅かにこわばっている。
果たして自分を風見の相棒と呼べるかどうかはともかく。
一文字と自分が襲撃され―――そして一文字の話によれば、別部隊が本郷の居る街に向かったという。だとすれば。
(…まさか、風見も)
「ああ、だから心配要らないって」
そんな結城の考えを見透かしたように、一文字が笑った。
「一ダースでかかってきても、敵にはならんだろ」
「それはそうですが」
言いかけて、しかし反駁する言葉を持たずに黙り込む結城を、一文字は横目で見やる。
解っているのだ。
自分が一人でも戦えるように、ましてや友人は余程の事でもない限り誰に手を貸して貰う必要もない。自分達は自分を信じる以上に、多分その友人を信じている。
だがそれと、友人を案じるのはまた別の事なのだ。
灰色の石壁とコンクリートで固められた路面に、風が吹き過ぎていった。
石壁に体重を半分預けて、風見は昏く暮れていく異国の空を仰いでいる。まだ身体の内には風の感覚が残っていた。しかしその感覚は、レースの時とはまた別種の―――それも身体に馴染んだ鋭敏さに塗り替えられていた。
(…やはりか)
その足元には、今しがた倒したばかりの「敵」の残滓がまだ残っている。吹く風に、しかしその痕跡もみるみる払われていった。
自分達がレースや研究に没頭していられる日々―――そんな平和な時間が長く続かない事は、どこかで知っていた。
何故なら自分達は「仮面ライダー」なのだから。
この世界をその手中におさめようと目論む野望がある。そしてそんな奴等にとって、まず邪魔になるのが自分達だった。風見がレース中から感じていたのは、その殺気だ。
だからこそわざと人気のない帰路を選んで、襲撃し易いようにしむけてやったのだが。
思惑通り敵は襲ってきたものの、わざと生かしておいたリーダー格らしき男には自決されている。あえて身体を張ったにもかかわらず、敵の手掛かりは皆無も同然だった。
(だが)
再びこの地上に何かがおころうとしているのは確かだ。
それが何なのかは解らないにせよ、次のレースはしばらくお預けになりそうだった。
(―――行くか)
自分に呟いて、風見は壁から身体を起こした。
「…それにしても遅いですね、風見」
それはもう何度目になるだろうか。また繰り返した結城の苛立った口調に、一文字は振り返らずに苦笑する。
刺客の化した砂も、その甘く焦げたような匂いも、窓から入る夜風がすっかり綺麗に払っていった。今は窓も閉めて、煎れなおされたコーヒーの芳香が、柔らかく室内を満たしている。壊されたドアと結城の右手の包帯さえなければ、襲撃があったのも嘘のようだった。
「やっぱり」
風見の前にも「敵」が現れたのではないか。
言いさして口籠る結城を、一文字はソファの背に顎をのせて見やる。
風見本人を前にすればまた別なのかもしれないが、そんな結城の正直さが妙に面映くもあった。
力になりたいと思い、けれど自分にそれだけの力が果たしてあるものかと煩悶し、あるいは力の及ばないもどかしさに一人口惜しさを噛み締めた記憶は、一文字にも無縁ではない。
「…ま、そうだとして」
少し人の悪い笑みになったかもしれない。
「賭けてもいいが、絶対自分だけを狙ってきたと思ってるだろうな」
まだ事態の飲み込めていない結城を眺め、風見が自分達を先に返した理由を知ったらこいつはさぞかし怒るだろうな、と思う。
風見はレースの最中、スタンドから自分を見ている「目」に確かに気づいていた筈だ。
(全く、良く似た先輩後輩で困る)
脳裡に浮かぶ別の面影にも、軽く釘をさしてみた。
一人で戦おうとする事を、咎める訳ではないのだ。
だが自分が傍に居るというのに、何も言わないというのは水臭くはないか。
共に戦う事を、この命を懸けて誓ったというのに。
確かに自分は、彼の戦いに途中から加わった存在に過ぎない。だがその時、自分は「彼に守られる世界」の一部である事を拒んだのだ。
ふと結城が耳をそばだてる。
一文字はやや眠たげに目を細め、外の階段を上がってくる風見の靴音を聞いていた。
<完>