4. 暗中の風
「…その時に」
不意に話を遮られて風見が顔をあげると、結城は枕を高くしたベッドに横になったまま、じっと窓の外を見つめていた。
「君は…僕より先に降りていったか…?」
ともすれば手の中から擦り抜けそうになる何かを捕らえようとするかのように、身動きもせずに呟く声も、遠くガラス越しの闇に向けられている。
「…その通りだ」
風見は低く答えた。
「…それから」
目をこらしても、ぼんやりと二つ三つ街灯らしき小さな灯が見えるばかりの星もない夜だった。どうやら海が近いらしく、窓の開けられる昼間には潮の匂いが運ばれてくるが、ベッドの上からでは視界は水平線まで届かない。いつも見えるのは空ばかりだ。
しかしその深い闇は、時に引金となった。
ここ数日になって、時折唐突に脳裡に過去の光景が甦る事があるのだと結城は言う。風見の言葉が想起させるイメージと呼ぶにはリアルすぎるその光景は、確かに結城の記憶の一部に違いなかった。
「…良い」
しかし風見は無造作に遮ると、腰を上げた。
「少し眠れ。お前はまだ本調子じゃない」
まだ何か言いかけようとする結城を制して、有無を言わさず灯をベッドサイドだけにおとすとふっと窓の外を見やった。光の加減か、その横顔にあるかなきかの緊張がよぎったようでもあった。
「…思い出したいんだ…」
それでも抗おうと見上げる真剣なまなざしに、かすかに笑いかける。
「大丈夫だ」
焦る気持ちは解らないでもない。だが少しずつ、確実に記憶は戻りつつあるのだ。そう自分にも言い聞かせて、風見は宥めるように呟く。
自然に思い出すのはいい。だが放っておけば、記憶を遡ろうとするあまりに際限なく自分を追い詰めていってしまう。
それは立花にも言い含められていた事だ。
(お前もあいつもな…)
まあそれを言っちゃあ俺も同類かもしれんが、と笑いながら言った。
(どうもせっかちでいかん。病気だの怪我だのはなあ、根気が肝心だ。せめてこんな時位、どーんと腰を落ち着けて養生させるんだな)
ともすれば気が急いてしまう自分を、押しとどめてくれるのはその言葉だと風見は思う。
窓の外にふと感じた空気に本能的に立ち上がりながら、まだ友人にそれと気づかせまいとする意識がはたらいている事に安堵もした。
「お前は思い出しかけている…今は無理をしない方が大事だ」
ちょっと出かけてくるから寝ていろ、と言いおいて、風見は上着を取った。
「風見」の背中がドアの向こうに消えるのを見送って、目を閉じた。
瞼の裏には、どこか薄暗い建物の奥へ足音を潜めて忍び入っていく「風見」の背中が映っている。さっきから思い出そうとしている光景の続きだった。
それが自分の失われた記憶の一部である事は解っている。どうやら自分は本当に「風見」の語る「結城丈二」であるらしい。
今日こそあの光景が見える前に、全てを引きずり出したい―――と思う。自分の感情の底を知る恐れに怯む前に、思い出してしまいたいのだ。
どうしても消せない疑いがあった。
優しい目で語られる「結城丈二」の話。それは自分の事なのだと「風見」は言う。
だかそれならば、この違和感は何なのか。
それと知らず悪の組織に与しながら、脱走してやがて真実に目覚め、正義の戦いに身を投じて東京を救う為に命を懸けた科学者。もし自分がその本人ならば、何故こんなに後ろめたいのだろうか。
自分の為した(と言われる)話を聞きながら、心の奥で最初に芽生えたあの疑念は、より深く根を張っていくようだった。
(彼らに惜しんで貰う価値が、僕にはあるのか)
目の奥に焼きつく―――白い光。
またあの光景だ、と寝返りをうった。
(僕が死んでも誰も悲しまない)
意識的に遡ろうとすると、記憶はいつも眩しい光の中に収束する。その光に照らされるとそれ以上何も思い出せなくなり、そしてどこか清々とした諦念が一瞬甦る。
多分これも自分の失われた記憶の断片なのだ、という事も解り始めていた。
悲しくもなければ寂しくもなかった。こうするのが一番良い事だったのだ、という充実感さえあった。そして同時に変な解放感がある。死によってしか償えない罪悪感の昇華のように。その底には、かつて覚えた感情が透ける。
復讐と、それにまつわる殺意。
拭えないその感情が、しかし誰に向けられていたのかが思い出せないのだ。
(僕は本当に…「風見」の仲間だったのか)
ふとそんな事を考えていた。
もしもそう信じていたのは「風見」だけで、自分の内心では違う事を考えていたのだとしたらどうだろう。この深い後ろめたさが、現実には「風見」を欺いていた事からくるものだとしたら―――思ってもみなかった再会に、苛まれるのも納得できる。
(…だが、何の為に?)
また寝返りをうった次の瞬間、慄然とする考えに思い当たって、はっと目が開いていた。
自分は元々、デストロンの一員だったのだ。デストロンに育てられ、忠誠を誓った人間が、味方を装ってその宿敵に近づく目的といえば。
ベッドサイドの小さな灯は、天井までは届かない。窓の外と同じ闇を宿す天井を仰ぎながら、心に浮かぶ考えの奥を探る。
それは―――考えられる事だろうか。
自問しても答えのない事を知りながら、しかし一度湧いた疑念はどうにも振り払えない。
そっと肘に力を込めて、上体を起こした。軽い目眩をこらえて、足をベッドから下ろす。素足のままゆっくりと立ち上がって薄闇の室内を見回すと、小机の脇に靴があった。
まだ急に動こうとすると目の前がふらつくが、頭を動かさないようにして、壁に身を寄せれば歩けない事もなかった。
自分が何を探そうとしているのかは知らない。
ただこの部屋から外に出たかった。外の世界に、自分の目で確かめなくてはならないものがある。そんな気がしてならなかった。
小机にのっていた服に着替えて、廊下へ出た。時計がないので解らなかったが、どうやら真夜中らしく、廊下にもフロントにも人気はない。カウンターにぽつんと置かれたベルを照らすフロントの灯を背に外へ出ると、しんと滲みてくる寒さに知らず身震いがきた。
玄関に灯された白熱灯が、ぼんやりと足元の敷石を照らす。玄関の前は小石の敷かれたロータリーになっているが、そのすぐ先は光の届かない闇だ。
初めて見る光景がなかなか把握できず立っている内に、やがて少しずつ目が慣れてくる。
ホテルは海を臨む高台に建てられていた。玄関前のロータリーから下っていく坂道は、どうにか自動車がすれ違える程の狭い砂利道だ。
気を抜くと小石に滑りかける不安定な足元に息を詰めながら、ゆっくりとその緩やかなカーブを降りていった。やがて時折エンジン音を遠く響かせて走り過ぎていく自動車のライトの軌跡がなぞる鋪装道路が眼下に見えてきた。
夜目にも白くひかるガードレールに縁取られた道路の向こうは、遠く黒い海だ。
風に吹かれたせいか、また傷が痛みだした。闇に溶けそうな意識を引き戻して、足に力をこめて歩をすすめる。すぐそこと見えていた道路まで降りてくるのに随分時間がかかって、自動車もほとんど通らない車道をどうにか横切ってガードレールを掴んだ時にはすっかり息が切れていた。
覗き込んだ下には、街灯に照らされて青白くほの暗い砂浜が広がっていた。
その向こうに続く黒い海から、自分は還ってきたのだと聞いている。しかし空との境界さえ定かでない黒い世界が、心に呼び覚ますものは何ひとつなかった。
その時である。
頬を夜風が吹き過ぎて、ふっと振り返っていた。
視線の先は、今しがた降りてきたホテル側の斜面に続く雑木林があった。道に面した木々は街灯にぼんやりと照らされているが、その奥は木々の輪郭すら伺えない深い闇だ。
しかしその闇に引かれるように、知らず足が動いた。
道路を横切り、反対側の木立に沿って歩く。少しずつ休みながら、どれ程歩いたろうか。
遠く聞こえる物音に、ふと耳をすました。
枯れ草を踏み荒らす足音や殴り合う鈍い音が、闇の中では普通より良く響く。何故かためらいなく、道路を外れて木立に踏み込んだ。何かがある。確信ではなかったが、疑う事もしなかった。
不意に視界がひらけた。
木立にぐるりと囲まれる形で、砂利を敷いた狭い更地が申し訳程度の水銀灯にぼんやりと照らされている。どうやらホテルの駐車場らしい。
そのおぼろげな光の下に、見間違えようもない面ざしがあった。
思わずかけようとした声は、しかし喉で止まっている。
相手の姿は頭の先までぴったりと包んだ黒衣のせいで判別しにくかったが、その切れ長な目が配られる範囲で数が一人や二人でない事はすぐ解った。木立に半ば身体を隠す形で黒い影が立ち囲む、その中央に「風見」がいた。
「風見」は辺りとの間合いをはかりながら、目にも止まらない鋭さで繰り出した手刀で影に似た敵の一人を打ち据える。倒れ伏す敵に目もくれず、残った敵を無言で牽制しながら自分の体勢を整える。その動きには僅かの隙もない。
その光景を、木立の蔭からじっと見ていた。
一体これは何なのか、という疑念は不思議と浮かばなかった。ある種、違和感のない光景だった。人気もない深夜の林の中で、誰とも知れない―――しかし明らかに人智を越えた雰囲気を漂わせる黒衣の群れにただ一人対峙する「風見」の姿には、およそ非現実的でありながら不思議な存在感があった。
呪詛めいた呟きを口中に低く唸り、襲い掛かってくる黒い影を倒すのに、「風見」はほとんど表情さえ変えなかった。ただかすかに一瞬だけ、その瞳に奇妙な光が走った。哀れみとも怒りともつかない光だった。
その光を知っている、と思った。
あれは時に、自分を見た目だ。いつの事かは解らなかったが、確かに覚えている。
「…死ね!」
低く叫んだ影の手に閃いた青白い光はナイフだった。危ない、と声をあげようとした次の瞬間、その光は無造作についと伸べられた茶色のドライビンググローブの平に脆く弾け飛んでいる。
「…今更そんなもので」
笑うように響いた声は、どこかで醒めていた。
突いてきたナイフを易々と跳ね返した手をそのまま返すなり首の後ろに一撃を叩き込み、「風見」は間を入れず蹴りを繰り出す。骨の砕ける鈍い音がして、黒い人影は自分の足元まで転がってきた。
と見る間に、その影の質感が変わった。僅かに痙攣してぐったりとなったその身体は、音もなく細かい砂となって砂利に吸い込まれていく。幻のような光景に、知らず息を飲んでいた。
「風見」と目が合ったのはその時である。
結城、と呼ぶようにかすかに唇が動きかけて止まった。
しかしふいとその薄い唇が引き結ばれた、と見る間もなく、背後からかかってきた影を後ろ回し蹴りで牽制するや「風見」は再び襲い掛かってくる敵に向き直った。
その背中を眺めながら、ふっと足はその場から離れていた。
「風見」は普通の人間ではない。
それは前から解っていたと思う。常識を越える科学力をもって世界を征服しようとする組織がある位なら、戦うにも相応の力が必要だろう、位の事は漠然と考えていた。それ以上の事を考えていた訳ではなかったが、「風見」の触れてはならない部分に踏み込んでしまった気もしていた。
しかしその一方で、生々しく呼び覚まされる感情がある。友情と憎悪の相半ばする奇妙な感情だった。
自分は誰の敵で―――誰の味方だったのか。
誰も本当にその答を与えてはくれない。自分が思い出さない限りは。
ただあの時の「風見」の目に潜む光に、何かが駆り立てられる気がした。
敵でも味方でも変わらないもの。「風見」は全てをその目で見ているのかもしれない。
しかし自分はそれでは納得できないのだ、と思った。たとえ「風見」が気にかけない事であっても、自分が何者であったのかを見定めたい。
何故なら。
掴めない記憶の底から、震えが込み上げてくる。闇の中によろめく歩を速め、ただ足の動くままに歩き続けた。喉の奥で鳴る息が、忘れてしまった感情を掻き出そうとあがく慟哭のように聞こえた。
敵でも味方でも変わらないものがあったのは、自分も同じだ。
だがあのまなざしを見つめ返す為には、真実を思い出さなくてはならない。たとえその先に何が待っていようとも。
そう思った瞬間、弾かれるように視線が上がっていた。
目の前に、暗黒の海が広がっている。
いつの間にか、また道路まで降りてきていたのだ。つられるように進めた足をガードレールに阻まれてもどかしく目をこらすと、遠い闇の彼方から細く鈍く寄せる波頭が、自分をゆるやかに手招いているようだった。
あそこに置き忘れたものがある。
不意にそんな確信に心をとらえられて、暗い海に目をこらしていた。
5.夜の言葉
とうとう見られたな、と思った。
覚悟していた事ではあった。今はまだ言う必要がないと思っていただけで、別段隠していた訳でもない。いつかは解る事だ。
そう自分に言い聞かせながら風見が部屋に戻ってみると、結城は何事もなかったように眠っていた。ただ室内に漂う外の空気の匂いは、自分より先にこの部屋に戻ってきた存在を知らせている。
その目に、明らかに普通の人間同士の戦いではないあの光景はどう映ったのだろうか。
揺り起こして聞きただしたくなる子供のような衝動を溜息をついて宥めながら、風見も上着を脱いだ。どのみち見られてしまったものを、今更焦ったところで仕方ない。明日の朝になってから考えれば良い、と自分に言い聞かせて思考を逸らす。
あれだけの人数をかけてきたからには、当分はデストロンの残党も姿を現すまい。あるいは今夜の襲来が最後になったかも知れない、と風見は何がなしに思っている。
勝てるとは彼ら自身も思っていなかったのではないか、と思える程、半ば捨て鉢な攻撃だった。そこに滅び行くものの最期の光芒に似たあがきを感じたのは、そうであって欲しい、と思う自分の気持ちのせいかもしれないが。そうなれば風見の懸念もひとつは消える筈だった。後は結城の事だけだ。
そう思いながら横になると、すぐ眠りにおちた。
だから何故目が覚めたのか、最初は解らなかった。
風見はソファの上で薄く目を開いたまま、自分を起こしたものの正体を探ろうと闇の中に視線を走らせた。
敵ならばとうに跳ね起きている。しかしそれとは違う、とまだ覚め切らない意識の奥で囁くものがある。先刻の生き残りが襲撃してきた訳ではない。ならば何が、とゆっくりと巡らせた視線が、やがて頭をのせたひじ掛けの横に立っている青年の姿をとらえた。
まだ夜明けにはとおく、青年の表情も定かには見えない。
「…どうした…?」
眠たげにまばたきしながらも、多分自分は笑いかけていたと思う。
しかし結城はかすかにぎこちなく笑い返しただけで、しばらく黙っていた。
「眠れないのか…?」
風見の問いかけには小さくかぶりを振った。
僅かに言い淀むように唇を引き結び―――そしてゆっくりと、結城は言葉を選んだ。
「…僕は」
独り言のような、低い声だった。
「君が好きだったな…」
そのまなざしは何もなかったかのように柔らかく寂しく、風見を見つめている。
「…たとえ最後には敵味方に別れても、それでも絶対変わらないと思っていた位、君の事が好きだったんだ…」
風見は身じろぎもしなかった。
「…それだけは覚えているのに」
結城はそこで口をつぐんだ。戻らない記憶を手繰るように、もどかしく視線が宙をさまよう。しかしおぼろげな光の中で、その表情はふと思いつめた影を映した。
「解らない。…解らないんだ…」
思わず風見は跳ね起きるところだった。
その言葉は。
かつて彼自身が口にした言葉だ。思えば初めてデストロンへの疑念がその心にきざしたかもしれない、助手の墓前で彼自身を詰った言葉だ。
問いかけようとして風見は止める。
言葉とは何と不自由なものだろうか。言葉の偶然に動かされながら、その彼の無明をはらう言葉を風見は持たないのだ。
「…だから」
しかしふと息を整えたきり、再び風見を見た結城の目は奇妙な落着きを取り戻していた。何もかも思い出したかと錯覚させる程、昔通りのまっすぐな目だった。
「僕は思い出さなくてはならないんだな…」
けげんそうな風見に、かすかに結城は笑いかける。
「…すまない」
ただそれだけ言っておきたかったんだ、と口の中で呟くと、結城はゆっくりときびすを返した。
風見はまだどこか夢の中にいるような気持ちで、その背中を見つめていた。
6.リターン
薄い雲が切れて、陽光が髪に射した。まだいくらか冷たさを残しながらも髪に含むと柔らかな早春の陽光を浴びて、風見は海へ向かう道を急いでいる。
デストロンとの戦いが終わりを告げて一ヶ月余。
そして結城が姿を消して、五日が過ぎていた。
あの夜再び眠りに落ちる間際、ふと風見にも不安はあったのだ。しかしそれでも、黙って出てはいかれないだろうと思っていた。不本意ではあるが、多分たかをくくっていたという事になるのだろう。
しかし結城はあの日の夜明け前に、忽然と姿を消してしまったのだ。眠っていたとはいえ風見に気配さえ気づかせずに。探そうとしても、結城が向かいそうな場所の心当たりもなかった。
(…きっと)
立花は言う。
(何か思い出しちまったんだろうなあ…俺やお前には言いたくないような事を)
(ですが)
あの夜以来なりをひそめているとは言え、まだこの近辺をデストロンの残党がうろついていないとも限らない。
(…それも承知だろうよ)
表情を少し厳しくして、しかし立花は言ったのだ。
(お前の事も。デストロンの事も)
あの夜、あの現場を結城は見ている。その上で黙って出て行ったのは、それなりの事情があっての事に違いないのだ。生きてさえいれば、必ずどこかでまた巡り会う。それもひとつの信頼だ―――と言う立花に頷きながらも、風見は彼にも似合わず迷っていた。
待つのは元来どうも性に合わない。かと言ってこのまままた旅に出るのも、何故か気が乗らなかった。立花の言葉には納得しているものの、まだ復調していない筈の身体では危険すぎる、という不安が拭えない為だけだろうか。
結城は出て行く時に、風見のジャケットを持って出ていた。という事は、記憶も完全に戻った訳ではないのだろう。それなのに一体、何をしにどこへ向かったというのか。
(心当たりの場所か…)
自問して、ふっと溜息をついた。
風見は出会う前の結城について何も知らない。昔話をするには、一緒にいた時間が短すぎた。たとえば幾らか戻っている記憶があるにしても、それがデストロンにいた頃より前の事だとしたら、今度は風見の方が知らない事だ。結城に関する場所で風見が知っているといえば、今はもう無いデストロンのアジト位のものだった。後は亡き助手のねむる墓地か。それとも。
(どこに)
その時、遠く聞こえた波音は錯覚だったかもしれない。
けれどふっと駆り立てるような風が吹き過ぎて、風見は目を細めた。
また陽がかげって、少し風が出てきた。道を外れて砂浜に入るか入らないかの内に潮の匂いが運ばれてきて、風見は知らず歩を速めている。
どうしてもっと早く気づかなかったのか。
結城が戻ってくるとしたら、それはここではないか。
踏むとたやすく靴を沈める砂に、小石程の金属片が混ざって鈍く光っている。ほんの三週間の間に誰かが片付けでもしたのか、大きな破片はほとんど見当たらない。
しかしそれ以外は変わらない―――と思いかけて、風見は視線を上げる。
もうひとつ、違っているところがあった。
波打際に、自分のジャケットの背中が座っている。
「…驚きたいのはこっちの方だ」
笑い出したいのをこらえて風見は言った。
気配に気づいて飛び上がるように膝をたて、結城はまじまじと風見を見つめていた。
「風見」
やがて悪戯の現場を押さえられた子供のような表情になる。
「…済まない」
気まり悪げに空を仰いで呟くと、膝の砂を払った。
「いつから思い出していた?」
風見は溜息混じりに腕を組み、ゆったりと近づいていった。
波打際に結城と並んで立つ。そう言えば前にもこうして二人で立っていた事があったな、と思い出していた。まだ二ヶ月程しか経っていない筈だったが、もう随分昔の事のようにも思えた。
「本当は…今も自信はないんだ」
結城は少し自嘲的に笑って呟いた。
「今でも忘れているところがある…」
もう思い出せなくても構わない事なのかもしれないが、とつけ加えると、思い出したようにジャケットを脱いで差し出した。
「…そう言えば、これは君のだったな」
ジャケットを受け取りながら、風見は眉を寄せた。
振り返った時の結城の目で、何もかも解ったような気がしていたのだが、もう少し話をきく必要がありそうだった。
結城は海の向こうへ視線を向けて、眩しげに少し目を細めた。
「…一番最初にはっきり思い出したのは、デストロンに居た時の事だったよ」
夢から覚めるような劇的さとは程遠く、記憶はもどかしい程ゆっくりと、しかし少しずつ戻っていたのだ、と言った。
それでも断片的にしか甦ってこない記憶は時の流れに沿わず、しかも感情が伴ってこなかった。脳裡に浮かぶ光景の意味が解らず、自分の行動の真意が図りかねていた。
見つめている背中にふと覚えた孤独。V3の前に立ち塞がり、デストロン首領を庇った自分を、一瞬見据えた仮面の複眼。アジトの外に晒されていた「本物の」裏切者の末路。
そんな一つ一つの情景が、どうして記憶に鮮明なのか。
「だから最後まで解らなかったのは」
言いかけて少し口ごもったが、それから結城はまっすぐにまなざしを上げて風見を見つめた。いつか見慣れた、強く誠実な目だった。
「僕が本当に、君達の味方だったのかという事だった」
意識を回復して以来感じていた後ろめたさや罪悪感の正体が、どうしても解らなかった。
もしや自分はデストロンを裏切ったふりをして風見に近づいたのではなかったか、という懸念は、今朝がた目的の物を見つけるまで完全には払拭できなかったのだ。
「お前にそんな器用な真似ができるとも思えんが…」
風見の憮然とした言葉に、結城は照れたような笑顔で答えた。それで風見は思い出す。
(…お前は良い奴だな)
今のように二人で海岸に立っていた。あの時、自分にそう言われた事は思い出しているだろうか、と思いながら水平線へ向けた目を細めた。
「…しかし君もひどい」
不意に軽く結城が睨んだ。風見はまばたきして、何の事だ、と眉を寄せてみせる。
「もっと早く言ってくれれば、…いや」
何か思い当たる節があったらいく、結城はそこで止めた。
「良いんだ。もう解ったから」
あの夜、と独り言のように呟いた。
「ここに忘れたままにしてきてしまったのを、ようやく思い出したんだ…」
海の向こうから呼んでいたのは、戦いの記憶に呼び覚まされた自分の半身だった。
それならそう言っていけば良いものを、と言いかけて風見は止める。お互い様だった。
「…何日もずっと探して、ようやく見つけたよ」
どこへしまっていたのか―――と風見はぼんやりと思う。いつもの事だったが。
ほら、と誇らしげに差し出されたのは、傷つきところどころ欠けてこそいたが、確かに見慣れた青いマスクだった。
「これでようやく思い出せた…」
愛おしげに、ひびの入ったその表面をゆっくりと撫でながら結城は呟く。
自分が何者であったのか。その復讐と憎悪と、あの爆発の瞬間まで残していた負の意識と、そして自分と風見とつなぐものが何だったのか。確かな証拠が見えずに随分遠回りもしたが、その全てを自分はようやく取り戻したのだ。
「ただ…もう一つだけ残っている」
いぶかしげに見やる風見をまっすぐ見据え、結城はその目の前に静かに右腕を上げた。
随分薄汚れていたが、指先から肘までしっかりと包帯の巻かれたままの右腕だった。
風見は結城の顔からその右腕へ視線を移した。無言のまま、巻かれた包帯を見つめる。
(…そうか)
これを解く迄は自分も旅に出られなかったのだ、と風見も思った。
ゆっくりと手を伸ばし、結城の右腕に指を置いた。
引いた一瞬だけ僅かにためらったが、そのまま小さなゴムの留め金を外す。封印の白帯がみるみるうちにほどかれていく。
やがて久しぶりに外気に触れる機械の右腕が、その姿を現した。
「…ああ、だいぶこっちも傷ついたな…」
陽光を眩しく照り返す、滑らかで固い外装のあちこちにも、細かな傷が幾つも刻まれている。一番深いのは、小指の外側から腕の線に沿って十五センチ程も入っているひび割れだった。ほとんど外装が割れて中も覗けようか、というその傷に結城は左手で懐かしげに触れる。
刻まれた傷を癒すように、そっと掌で覆った。
不意に両肩に友人の手が置かれた。
結城が驚いて顔を上げようとするより早く、そのままもたれかかるように肩から背へ荒々しく両腕が回された。あわてて足を踏ん張って支えながら、結城は耳の奥深く、いつになく懐かしく響く声をきいた。
「…お帰り」
かすかに声は掠れている。どんな顔をしているのか、きっと見られたくないのだろうと思った。だから両手で、友人の背を抱いた。生身の左手と機械の右手に同じだけの力をこめて、深く抱き締めて囁く。
「ただいま」
我ながら間抜けな返事のようにも思ったが、他に言葉も見つからなかった。
風見も笑っているのかもしれない。
背が小刻みに震えていた。
<完>