四
どこかで予期していたのかもしれなかった。
それは例えば、あの男を出し抜いて受け取った白木博士の実験データを持ち帰った時の、結城
の表情で。
どうやって手に入れたのか、ともそもそもこれは何だ、とも聞かなかった。中をちらりと見た
だけで、調べてみよう、と結城は大きな封筒をあっさり受け取ったのだ。
そしてそのまま自室にこもって、何時間も出てこなかった。おおかた未知の研究データに夢中
になっているのだろう、と思いながらも、それにしてはその反応の薄さが心のどこかに引っ掛かっ
ていた。
ちょっと話がある、と少し険しい顔の本郷に声をかけられたのは、それから少し経っての事だっ
た。
「前もって話しておく事にした」
何ですか、と聞き返しながら風見は窓の外を見やる。
「今夜の手術の件だ。脊髄シールド中のフレキセル剤の電解濃度を上げて、反応速度を調整する
予定だった」
「はい」
それは聞いていた。
機械に置き換えた身体の各部をコントロールしているのは、結城の生身の神経だ。
変身していない時ならば普通に反応できても、ライダーマンのマスクによって起動されるパワ
ーを制御するには機械部分の変調システムだけでは不十分だった。それも改造部分が右腕だけな
らまだ多少のオーバーフローも吸収できたが、全身の機械化によって向上した戦闘力に対応する
には生体部分の神経を保護しつつ、信号を変動的に制御する媒質を充填する必要があった。脊髄
を包み込む被膜を満たしているゲル状の媒質は、手術の度に上がっていく変身後のパワーを生身
の神経にコントロールさせる役割を果たしている。
「だが、今後の方針も含めて大幅に変更しようと思う」
「?」
風見は本郷を眺め―――そして結城へ目を向けた。結城はかすかに伏せかかる目を上げ、手許のファ
イルを取り上げた。
差し出されたファイルをしかし受け取らずに、風見はまた本郷へ視線を向けた。
「頚椎C5からC8と胸椎Th1を人工神経に置き換える」
本郷の表情に、きっと自分は怪訝そうな表情をしているのだろうと思う。
言われた言葉の意味を理解するのに、少しかかった。
「それは」
言いかけながら、風見は忙しく考えている。
「……どうしてです。パーセンテージを上げれば対応できる筈だったじゃないですか」
段階的に手術を重ねてきたのは、その為だった筈だ。
一気に改造するのではなく、少しずつパワーアップする事で生身の神経と改造部分を融合さ
せていくのが結城の改造プランだった。
これまでそんな方法で保護してきた生身の神経部分にメスを入れ、導線を含む人工回路に置
き換えるなら、それはそんなプランを根底から覆すに等しいではないか、と本郷を見た。
「僕の設計が甘かったという事だよ」
しかしそれに対する返事は、予期していなかった方から聞こえてきた。
結城はもう後ろめたげな顔はしていなかった。
投げやりになっている訳でも、非情になっている訳でもない。ただまっすぐに、風見を見つ
めている。
「生身の神経が大きくなってきたギャップを吸収できずに、切り分けできなくなってきている
んだ。今が変身前なのか変身後なのか、無意識だとどちらなのか判断できずに誤動作も起き始
めている。……この間もそうだったが」
飴細工のように捻じ切られた把手が、不意に眼前に浮かんだ。
ならばあの時に気づいていたのか―――と、ふと思う。
「正直に言えば、今のままでもいずれ限界は来る。改造部分の負荷が想定以上に大きくて、生
体の神経が耐えられなくなってきているんだ。それを回避するには改造部分のパワーレベルを
今より下げるか、脳以外の神経も改造部分の視野に入れていくかのどちらかしかない」
そして自分が選んだのは後者だったのだと、その瞳が語る。
妥協はしない。
少しずつ劣化していく生身の部分を残していく道を捨てても、強くなる方を選ぼうとする。
そんな事は解っていた、と風見は思う。
生身の身体に執着するなら、四肢の改造だけで止めておく事もできた筈なのだ。
だが。
「―――それでお前はいいのか」
正直なところ、風見には「C計画」の全てが把握できている訳ではない。だがその理念は分っ
ている―――と思っている。
その先を突き詰めていけば、いずれは脳以外の全てを機械化していくという道に繋がるので
はないのか。元々機械と有機的な人工組織を融合させる改造手法は、自分という形でひとつの
完成系をみていたのだったが―――もしも神経まで機械化していくなら、それはむしろ神博士
の提唱した「カイゾーグ理論」に近くなる。
「それなら一度に、脊髄全体を置き換えたらどうなんだ」
そして結城の言葉が正しいなら、神経組織の改造部分はいずれ上肢に関連する神経だけではな
く―――全身に及ぶ筈だ。それならばいっそ、生殺しのように対処療法的な手術を重ねていく
よりも、一気に脳以外の組織を機械化した方が早くはないのか。
「君らしいな」
少し笑ったようだった。
「確かにそうかもしれないが。だが僕は、もう少し悪あがきしてみたい」
何に―――と問いかけようとして止めた。
生身の身体にか、それとも自身の計画にか。
どちらでもあり―――どちらでもないのだろう。ここまで段階的に手術を重ね、どこまで生
身の神経を残せるかを追究してきた友人であり、その独自の改造理論を貫いてきた友人なのだ。
だが、と思う。
「少しでも生身の部分を残しておいた方が、何かと都合がいい事もある。例えば」
言いかけてしかし、しまった、というように口籠った。風見の問いただすようなまなざしを、
珍しく逸らすと小さく咳払いして言葉をすり変える。
「……それに、これも貴重な機会だと思っている」
「何だと?」
「C計画は、機械構造に生体神経を融合させるシステムだ。ここまで数年間かけて取ってきた
データは、人体の神経がどの程度インターフェースとして機能できるかの一つの実証になる」
そんな言い方は止めろ、と言いかけて風見は唇を結ぶ。結城の瞳は揺るぎない。迷わずに突き
進んで行こうとする、そのまなざしは時に持て余す程まっすぐだ。そもそも機械の腕を自らの
右腕とした時から、全身改造された怪人を敵にまわすには力不足だと解っていてもその力の限
り戦ってきた友人だった。
だが戻れない一歩をまた踏み出そうとしている彼を、自分はどこかで危ぶんでいる。
「呆れたな」
そう言い捨てて、風見はコーヒーを淹れる為に席を立った。
自分で決めたのならいちいち俺に伺いを立てる必要もないのに、とも思う。
どうせ俺が反対したところで、意固地な子供のように言い張って引き下がるつもりなどない
のだ。そう思うと、いつになく腹が立った。
何度か話しかけたげに息をつく気配がしたが、風見が振り向かないのに諦めたらしい。その
視線を背中に感じながら、風見は結城のファイルを読んでいた。
薄い印字で打ち出されたデータは、一年半前に伊豆で行われた手術の時に測定したデータか
らの変動を示している。あちこちに結城の字で計算式や数値修正があり、更にその上から本郷
が補足とも覚え書きともつかないメモを書き込んでいる。その紙束をぼんやりと眺めている内
に、否応無しに風見にも事態は飲み込めてきていた。
既に十年近く、普通の人間以上の力を発揮する手足とそれを支える内部機構をコントロール
してきた神経の疲弊は予測以上に進んでいたのだった。このままでは、確かにそう遠くない内
に今のパワーすらコントロールできなくなるのは目に見えている。反対しようとする方がどう
考えても不合理なのだ、という事は解っていた。自分でもそれは解っていながら、素直に同意
できないのは何故なのか。
あの男に会ったせいか、とちらりと思う。
(科学者として生きるべきだ。お前はそう思っていたんじゃないのか)
共に戦う事を認めたあの日の先に今日の現実があるとしたら、果たして自分達の選んだ道は正
しかったと言えるのか。頭をよぎったそんな考えを、静かに押し殺した。
(―――馬鹿な)
惑わされたりするものか、と心の内で呟く。
いつの間にか窓から斜に入る陽光が、ジーンズの膝も細かい数字の書き込まれたファイルも
鈍色を含んだ朱に染めている。ふと背中に、席を立つ気配を感じた。
「それじゃ」
そう言いおいて席を立つと、結城は地下室へ下りていった。術前の準備を自身でするのは、伊
豆での手術と同じだ。既に見慣れている筈のその背中が、しかし違う眺めのせいか初めて見る
もののように見えた。
(それでも、お前は迷わないんだな)
目だけでちらりと肩ごしに振仰ぎながら、そう風見は思う。
「風見」
結城の動きにつられたようにシャツの袖を肘迄折り返して、本郷がふと振り返った。
「もし」
そこで言葉を飲むように言い淀んだが、何を言いたいのかは解っていた。
常に立ち会ってきたとは言え、自分はあくまで助手に過ぎない。居なくても、手術におそら
く不足はないのだ。
手術の方向性に納得していないのなら、無理に同席しなくてもいい。
そう本郷は言いたいのだ。
だが。
「―――立ち会いますよ」
反射的に風見はそう答えている。
今更引き下がれないと思ったからか。決断の重さに臆したくないからか。どちらでもあり、
どちらでもなかった。ただ、自分も戦うと決めた時と似て―――しかしもっと静かな覚悟が沸
き上がる。
友人がそう決めた事なら、彼を仮面ライダーの宿命に導いた自分も正面から向き合わない訳
には行かない。
本郷はかすかに案じるように風見を見やったが、そうか、と答えるとソファから立ち上がった。
五
手に吸いつくゴム手袋を注意深く外して、本郷は珍しく深い息をついた。脱いだ手術着をソ
ファの背にかけ、そのまま深く腰を下ろす。
「神経系はどうも緊張するな」
風見から差し出されたコップを、ありがとう、と受け取って喉を湿すと、膝に預けて天井を仰
いだ。しばらく思いを巡らすようにそのまま窓の外を眺めていたが、やがてふと思い出したよ
うに口をきった。
「この間、隼人が来た話をまだしていなかったな」
そう言えば、と風見も思い出す。一昨日本郷が到着したのも、こんな明け方近い時間だった。
あの時何か本郷は言いかけて、そのままになっていたのだ。
「先月の末頃だったかな。知り合いを訪ねる途中で寄ったんだが、その時に」
おそらく空の色で思い出したのだろう。本郷はゆっくりと記憶を手繰るように目を細めた。
「お前とそっくりな男が、会いに来たと言っていた」
「……そうですか」
「お前と違うのは一目で分かったが、何と言うのかな。敵とも思えないような気がしたと」
「敵ですよ」
風見の硬い声に、まあそうなんだろうが、と宥めるように笑った。
「だが喋り方も癖もお前と同じだからかな。俺はすれ違った印象だけだが、どうも悪い奴とも
思えない」
「本郷さん」
言いたい事は解っているのだ。
「ですが、あいつは」
悪の組織によって作り出された、自分の影だ。このままにしておく訳には行かない。
そう言いかけて、何故言葉が止まったのかは自分でも良く解らなかった。
ただ、不意にあの幻の光景がふとよぎっている。
(―――兄を、待っています)
十年近くも昔と変わらない声で、そう告げた妹の幻が待っていたのは《風見志郎》だったのだ。
馬鹿げた話だ、と思う。元々あの時にも自分にしか見えなかった少女の姿は、いわば自分の
感傷が生み出した錯覚だ。
しかしそう呟く理性とは裏腹に、本当にあの透き通ったまなざしが見ていたのは過去の幻だっ
たのか、とどこかで別の冷静な声が言う。それならば何故、あの幻は工場にしか現れなかった
のかと。彼女が待っていたのは―――まさにもう一人の《風見志郎》ではなかったのか。
自分が居る以上、彼は仮面ライダーとして戦う宿命をもたない。そしてもしもそう望み、友
人のように組織を離れて生きていけるとしたら。それはひとつの可能性だ。
たとえ悪の組織に生まれた存在であっても。
そう思い至った瞬間、何かが噛み合う気がした。
「……あいつは、一文字さんに会いに行ったんですか」
そう呟いた自分の声を、風見はどこか静かに聞いている。
「ああ。……そう言えば」
そして後輩の気持ちを読み取ったように、本郷の声も宥めるように冗談めかした響きを帯びて
いた。
「コーヒー代を、お前にツケて行ったそうだぞ」
え、と聞き返しながらも風見は笑っている。
「それじゃ、十月に返しますよ」
少なくともそれで、彼とは貸し借りなしになる筈だ―――と思った。
地下室の灯が最低限に抑えられているのは、術後の眠りを妨げない為なのだろう。点滴の細
い管が、帯びる微光に柔らかい輝線を描いていた。
手術台に転用したリクライニングシートに横たわっている友人を、風見は見下ろしている。
時として局部麻酔だけで意識を保ち、自ら手術のサポートをしたりもする結城だったが、流石
に神経を扱う手術ではそうも行かなかったらしい。まだ麻酔が効いているその面差しは、しか
し眠りの内にあってさえ何かを考えて瞑目しているようにも見えた。
測定機器のパネルを眺め、数値が安定しているのを確かめる。後は自然に目が覚めるのを待
つだけか、と思いながら眺めるともなく眺めていると、やがてかすかに瞼が動いた。
うっすらと開いた目がぼんやりと天井を仰ぎ、やがて覗き込んでいる友人の顔を捉える。
「……風見か」
「―――まだ起きるのは無理だろう。寝ていろ」
身じろごうとするのを風見に制されるまでもなく、少し息をついて諦めたらしい。その代わり
に右手の指先がかすかに動いて、風見の手に触れた。
「……昨日から、言わなくてはと思っていた」
何だ、と顔を近づけると、まだ少しけだるげにまばたきしながら黒い瞳が風見を見上げた。
「白木博士の研究だが」
「うん?」
「見せて貰ったデータで、少し手掛かりが掴めた。あれは」
珍しく言い淀んだ。
「おそらく、空間偏倚と粒子加速による亜空間転位のテストだ。それも原子レベルの研究を越
えて、物質そのものを移動させる段階に入っている。但し加速に失敗して物質が崩壊する確率
が一番高く、移動できても明らかにこの空間からロストしたり、再びこの空間に出現しても物
質の形質が保てなかったり、と殆どは失敗しているが」
「それは、つまり」
ようやくおぼろげに事態を察し始めた風見のまなざしに、僅かに頷いてみせた。
「そうだな。所謂ワープとか瞬間移動と呼ばれる事象だ。今のところ成功確率はまだ低いよう
だが、ダイヤモンドを使った実験では完全に成功している。博士は―――間違いなく天才だな」
喋っている内に、その瞳に少しずつ普段の光が戻りはじめるのを、風見はいつになく怖いよう
な心持ちで眺めている。
「だがこれが実用化されれば、この地上のどこにでも、どんなものでも瞬間的に送り込める事
になる。そんな技術が、敵の手に渡ったら」
「―――行ってこよう」
皆迄言わせず、風見はドアノブを掴んだ。
「……そう言えば」
その声に振り返ると、結城が肘をついて身体を起こしかけようとしていた。まだ麻酔が醒めきっ
ていないらしく、ややふらつきながらも上体だけ起こす。
「どうやって、博士の居場所を突き止めたんだ?それに」
あのデータを手に入れたのは、と尋ねたかったのだろう。
だが風見も、その先は言う間を与えなかった。
「帰ったら、全部説明してやる」
それだけ答えると、外へ出た。
六
三度目に通る道は、もう考え事をしていても迷わなかった。
帰ったら、結城にいろいろと説明してやらなくてはな、と思う。
どうして自分が、易々と白木博士の研究データを手に入れる事ができたのかも―――そして
おそらくは、この先に待っている事も。結城が短時間でデータの解析をできたという事は、白
木博士の研究はかなり具体化しているという事でもある。そしてそれを敵組織も知っていると
なれば、自分達ものんびり構えている訳には行かなかった。
既に陽は高い。蒸し暑い空気が、頬にも腕にもまとわりつく。大通りへの近道になる路地に
入る角を曲がり、風見は足を止めた。
相変わらず青々と茂る草木に覆われた濡れ縁に、白木博士が腰を下ろしていた。その傍には、
年期の入った旅行用らしき鞄が置かれている。
風見に気づくと立ち上がり、ゆっくりと戸口まで出てきた。しかしそこで足を止めると、見
定めようとするように少し眼鏡の縁を上げて目を細めた。
「そうか」
ややあって、少し笑った。
「勘違いをしていたな。君はもう一人の風見志郎なのか」
骨張った肩に白衣をまとい、背を丸めるようにして下から仰ぐ。
「仮面ライダーV3」
それにしても本当にそっくりだな、とまじまじと見つめられて、風見は訳もなくまごつく。
「それじゃあ私の待っている迎えは君ではない。帰りなさい」
「博士」
科学者ならば先輩や友人にもごろごろしている。大学や研究室で、師と仰いだ科学者も多い。
そもそも風見自身も、一度は研究者の道を考えた事もある。
だが今、目の前に居る「科学者」は、そんな馴染み深さとは全く異質な存在に思えた。自分
のどんな言葉も伝わらないような、奇妙な予感にとらわれながら、風見は言葉を探す。
「博士を行かせる訳には行きません」
ほう、と白木博士は笑った。
「懐かしいな。そんな目をされると、デストロンのあった頃を思い出す。と言っても、君や結
城くんは私の事は知らないか」
「……結城は知っていましたよ。貴方がかつてデストロンの協力者だったと」
「そうか、それは意外だ」
ひっそりと肩をすくめるときびすを返し、また濡れ縁に腰を下ろした。
「首領は彼を、生え抜きの研究グループ以外の科学者とはほとんど接触させなかったからな」
かすかな憧憬とも揶揄ともつかない感情が、その横顔に一瞬よぎったようにも見えた。
「あんな内紛がなければデストロンも滅びずに済んだかもしれん。デストロンが今もあれば、
彼も今回のようなつまらない仕事を引き受けたりしなくて済んだろうに。惜しかったな。…
…過ぎた事を言っても仕方ないが」
それは違う、と言い返したかった。だがどう言葉にしていいのかが解らないまま、風見は老科
学者を見つめていた。
「だから私は、もし彼が望むなら一緒に来てはどうかとも思ったんだよ。あの才能は、確かに
市井に埋もれるには惜しい」
白木博士は嘆息するように空を仰いだ。
「だが君が来たという事は、結城くんにはそのつもりはないという事だったんだな」
「それでは、あの手紙は」
貴方が出したのか―――と聞き返しかけて、風見はふと口をつぐんでいる。
「私はね」
どことも知れない遠い彼方をまっすぐに見つめているその横顔に、何の脈絡もなく友人を思い
出していた。
「もう充分過ぎる程、この世界と付き合ったんだ。科学の本質を理解できず、損得勘定にしか
結びつけられない愚か者や、上っ面を撫でただけで分ったつもりになっている馬鹿者に、我な
がらよく付き合ったと思う。だがもう私も年だ。残りの人生は、もう好きに過ごしたっていい
とは思わんかね」
「ですが貴方の研究は、人類を滅ぼす為に使われるかもしれないんですよ」
「そうかもしれないな。それでも構わんよ」
「博士」
「正義とか世界平和とか、今更そんな説教は遠慮したいな。……私も若い頃は、そんな幻想を
抱いた事もあったよ。人類には自由と平等の元に繁栄していける可能性があり、科学者は愛す
る世界の発展に寄与していける筈だとね」
まばたきした一瞬だけ、その瞳は往年の理想を思い出すように懐かしげな光を宿したようでも
あった。しかし次の瞬間、僅かに撓められて弛んだ瞼の下には憎悪とも絶望ともつかない昏い
色だけが残っている。
「だが所詮、この世は臆病な羊のように似通ったもの同士で群れるばかりなんだよ。理解でき
ないならまだしも、優れた能力をただ恐れ排斥するのがこの世の常だ。まだ若い君らにこんな
事を言うのも酷だが、それが私が半世紀以上かけて掴んだ真理だな」
夏の陽光が、喋る毎に動く深い皺をくっきりと浮かび上がらせた。
「だから今、君が迎えを始末して私を引き止めようとしても無駄だよ。私はただ、自分の研究
を極めたい。それが叶わないなら、ここで死んだ方がましだ」
声は嗄れ気味だったが、その語気に風見は知らず気押されている。
そこに居るのは、長い年月をかけて自身をこの世の風に晒してきた一人の天才だ。そしてそ
の目に映る世界は、遂に彼を失望させるものでしかなかったのだと―――その瞳が語っている。
「さあ、もう行ってくれ。そろそろ迎えが来る頃だ」
白木博士の目は、もう風見を見ていなかった。
それと気づかずに少しまどろんでいたらしい。
外光の入らない、殺風景な地下室の天井を仰いでいると、ふと昔の事が思い出された。もう
十年近くも昔、復讐の一念だけで麻酔もなく右腕を移植した時の事だ。
追手を逃れて逃げ込んだ地下道の片隅で、激痛に仰いだ天井は光もほとんど射さない闇に満
たされていた。まだ何が起こったのかも完全には理解しきれておらず、ただ裏切られた怒りと
絶望の中で、空を遮る分厚い天井を眺めていた自分だった―――と思い出す。
次回は伊豆にするか、それともここで手術するならもう少し明るい灯につけ換えなくてはな、
と思いながら時計を確かめて、ゆっくりと身体を起こした。どうやら手術は成功だな、とマッ
トレスを掴んだ指先の加減で確かめる。少なくとも違和感はなかった。むしろ今までよりも、
機械の神経回路はしっくりと馴染む。
階段を上っていくと、僅かに傾きかけた陽光が足先に射した。
「もう起きてきたのか、早いな」
物音に覗いた居間では本郷が鞄の鍵を閉めていた。結城に気づくと、少し驚いたように笑った。
「時間ですか」
「志郎が帰るのを待とうかと思ったが、飛行機があるからな」
宜しく伝えておいてくれ、と言いながらきつく締めた鞄のベルトを確かめると、ふと思い出し
たように振り返った。
「そうだ。例の《刷り込み》トリガーの解除試薬だが、チンパンジーの実験で《恐怖》に関し
ては一〇〇%有効を確認できたそうだ。戻ったらレポートを送っておく」
「ありがとうございます」
「しかし相談は、もう少し早くして欲しかったな」
ちらりと鋭い光を含んだ視線に、すみません、と結城は頭を下げる。
「犠牲者が出ているから一刻も早く確かめたかったのは解るが、その度に自分自身で試してい
たら幾つ身体があっても足りないぞ」
言いながら、しかし本郷の声音は穏やかだった。同じ科学者としての業を、この揺るぎない先
輩と自分はおそらく共有しているのだ―――と思いながら、すみません、とまた謝って結城は
頬を掻いた。その指先が、はっきりと術前よりも柔軟に動くのをまた確かめている。
「じゃ、風見の北欧レースで会おう。十月だったな」
玄関の外で結城から鞄を受け取ってマシンの荷台にくくりつけると、本郷は笑うように目を細
めてそう言った。
レースの話は正直なところ初耳だったが、はい、と結城は答えている。風見がレースに出る
というなら、おそらく自分も二週間程前から現地入りしてサポートする事になる筈だ。
暑く揺らぐ空気の内に僅かな排気音を残して、本郷のマシンは静かな通りを抜けていく。や
がてその姿が角の向こうに消えても、結城はじっと見送っていた。
動くものひとつない真夏の舗道を。
(そうだ)
白木博士の居場所は解らなかったが、意識を研ぎすますと大気の内に遠く風見の気配が掴める。
この気配を辿っていけば追いつける筈だ、と歩き出そうとした、その時である。
その頬に、ぽつりと水滴が当たった。
(……?)
どこかのクーラーの室外機から飛んできたか気のせいか、と頬にやった手に、更に水滴が当た
る。と思う間もなく、足元の乾いたアスファルトにもぱらぱらと黒い染みが現れ始めた。
いぶかしげに仰ぐ空は明るい。
晴天よりも眩しく思える、その遥かな彼方からしかし柔らかく、細かな雨が落ちてくる。南
国のスコールにも似て、それよりも穏やかな温帯の雨だった。
音もなく降り込める雨の中、そして友人とはまた別の気配が近づいてくる。
結城は静かに振り返り、そのほの明るい混沌の内からゆっくりとこちらへ歩いてくる人影を
待った。
「―――よう」
軽く手を上げて、友人と同じ顔はそう挨拶した。
「……生きていたのか」
信じられない思いで呟きながら、しかしどこかで知っていたようにも思う。
あの工場の地下は、三年前のままだった。破壊されていた再生装置《RB―1》の割れたガ
ラス槽も、静かに切口を曇らせていた。
空のまま。
当たり前だ、と解ってはいながら、その殻のような乾いた残骸を、ただ見つめていたように
も思う。
三年前、この街で結城は初めて彼に会ったのだ。
人知れずひそやかに夏の闇の中で育てられていたひとつの命は、自分の見立てではまだ培養
槽の保護なしでは生きられない筈だった。それでも禍根を断とうと思うなら、とどめを刺して
おくのが本当だったろう。それができなかったのは何故なのか、と結城は後になって幾度も思
い返していた。
無抵抗な命を断つのにためらいがあったせいか、それともそれが、友人と同じ姿をしていた
為なのか。いずれにしても繋がれた栄養チューブをあの時断ち切っておけば、その後の事件も
また少し違った形を見せていた筈なのだ。
彼がコピーされた風見の記憶を持ち、同じ姿同じ物腰で自分の前に姿を現す事もなかった。
(何故見間違わない)
だがもう彼もそうは尋ねないのだな、と結城は思った。
表情に浮かべない自信はあったが、どうやら再会にとまどっていたのは自分の方らしかった。
まっすぐにこちらを見据えてくる黒い瞳には、不思議に落ち着いた光がある。そういう奴だっ
たな、とふと思った。感情的にはひどく分りやすい友人だったが、時として驚く程の冷静さを
見せるのだ。それにしても喜んでくれとまでは言わないが、少し位は慌てるとかしてくれても
いいんじゃないか、と肩をすくめた。
「やっぱり解るんだな」
返事の代わりに、つと指が伸ばされた。
機械の指がそっとこめかみに触れてくるのに、反射的に目が閉じている。自分達の手と同じ
に超人的な力を発揮するその指は、しかし変に感覚の鋭くなっている皮膚に優しく触れかかっ
た。
目元に刻まれた、今も残る傷痕に。
半年前に異国の崖の上でシザースパンサーともみあいになり、その刃につけられた傷は、自
分だけにあるものだ。
(……そうか)
いつもは恐ろしく鈍い癖に、と思いながら、そのまっすぐな仕草に訳もなくうろたえる。
お前は本物の風見志郎ではない。
そう断じられても後ろめたくなくなったのがいつからなのかは思い出せなかったが、その底
にはいつもこの瞳があったようにも思う。まだ意識と言える程の自我もなかった昔の、原始の
記憶に残るまなざしだ。同じ風貌で仮面ライダーを撹乱させようとする《M》の思惑は最初か
ら通用しなかったが、そんな事はどうでも良い事のように思われたのだった。
自分が本物の風見でないと解っていてもまっすぐに見つめてくれるこの瞳の為ならば、だか
らもう命を懸けても良かったのだ。
そんな事を思いながらただ触れられるに任せていた。その指が離れたのに目を開けると、そ
こには見慣れた黒い瞳があった。
「生きていたとは思わなかった」
どこか強ばって見える表情に、だから自分から少し笑いかけてみた。
「それは残念だったな」
三年前のこの街で、まだ自分が何者であるかも知らなかった青年の姿の胎児にとどめを刺して
おかなかった事を、今も後悔しているのだろう―――とは本人でなくても解っている。そう知
らせたかったのだが、うまくは行かなかった。唇の端が変に上がって笑みが歪んだのが、自分
でも分った。
しかしその瞬間、結城の目には怒りが宿っている。
「馬鹿な事を言うな」
何故お前が怒るんだ、と尋ねたかったが止めた。
自分でも少しとまどったらしい。結城はかすかに眉を寄せて、息を整えた。
「……うまく言えないが」
言いさしながらもまだ口籠っていたが、やがてまっすぐに顔を上げた。
「君が生きていて良かった」
思いもかけない言葉に、不意に胸が詰まった。
自分の言葉を、結城も反芻するようにしばらく黙っていた。
柔らかく、しかし胸の騒ぐ無心さで雨は降り続けている。
しんと辺の音が消えた中、自分の声がおうむ返しに呟くのを聞いた。
「良かった……?」
言葉にした途端、そんな訳がない、と思っている。
自分はいわば、不協和音の種子だ。風見志郎と同じ姿同じ記憶で敵組織に加担する、正義の
味方達にしてみれば―――見間違われる事がないだけで―――不快な感覚しか呼び覚まさない
異分子だ。そうでなければ、そもそも生まれてきた意味がない。
そんな自分が生き延びていても、仮面ライダー達にとっては厄介事がひとつ持ち越されただ
けではないのか。
「敵だぞ、俺は」
「そんな事は解っている」
だが、と言いかけてまた結城はしばらく考えていた。
「君が風見の記憶をもつなら、覚えている筈だ。僕のかつての過ちを」
言われた言葉の意味を考えた途端、思わず笑い出したくなる衝動をかろうじてこらえている。
かつてデストロンを世界平和の為の組織と信じていた頃の記憶を、もしかすると自分にも重
ね合わせようとしているのか―――この単純な男は。
自分もいつかは組織の欺瞞に気づいて正義に目覚める筈だとか、まさかそんなおめでたい期
待をかけているのか。
いかにもこいつらしい、と思いながら、静かに困惑する。
物事はそんなに簡単には行かない。そう説明するのは純粋な理想を説くより確かに難しいな、
などと考えていると、やがて黒い瞳がまっすぐに見つめてきた。
「今は駄目かもしれない」
僕もそうだったから、などと続けられたら流石に殴ろうと思ったが、不思議と手は動かなかっ
た。
「だが、それなら君が納得するまで」
そして結城はふと口をつぐんでいる。何か言いかけようとして、その度黙り込んだ。
(……そうか)
自分達が思っている程、この男は鈍くはないのだな、と彼は気づく。
俄に薄雲が切れて、一際眩しい陽が射した。まだ雨は降っていたが、濡れたアスファルトの
路面が細かな凹凸に宿す光を一面に照り返す。
そろそろ行かなくては、と思った。白木博士が迎えを待っている。自分はこれから遠い海の
向こうへ、市井の人間としての生活を捨てて自ら行こうとする老科学者を連れて行くのだ。
それが約束だ、と思いながらも結城の肩ごしに見つめる路面の先がひどく眩しくて、知らず
目を細めていた。ありふれた路地が、いつか見た遠い海原のように光っている。こんなに広い
道だったかな、と眺めている内に、その細かな光が潮のように胸に満ちてくる。
理由などなくても、どんな理想も信じられなくてもいい。
(そうなのか……)
生き延びているだけでいい。
かつてそう友人に望んだのは―――自分だ。
一緒に来なくてもいい。たとえ道は分かれても、友人がただその心の命じるままに行けるな
ら、それでいい、とかつて思ったのを「覚えて」いる。
まだ言葉にはできなかったが、不思議な確信が胸に落ちた。ならば今はそれだけでいい、と
も思う。
「……お前は来ないんだな」
ゆっくりと結城が頷くのを、静かに閉じた瞼の裏に焼きつけた。
「そうだと思ったよ」
わかっていた筈なのにな、とは言葉にしなかった。
「そう言う事だ。……ああ、もう言わなくていい」
自分に言い聞かせるように呟き、すいと手を上げて結城を制した。
もう解っている。
たとえ生まれがどこであっても、どんなに宿命づけられていようとも、その信じるままに往
く。もしかしたら悪あがきに過ぎないのかもしれない。最後には逃れられないかもしれない。
だが少なくとも、目の前にはその運命に抗ってここに立つ一人の科学者が居る。
それならば―――と思った。
「俺も行くから」
今度は自分でも驚く程、自然に笑えた。
「もうお前も行け」
この真摯なまなざしがこの先何を見るのか。どこまでもまっすぐに進んで行けるのか、あるい
はもう戻れない遠い未来のどこかで無力感と絶望に沈むのか。その行く末も見定めてみたい気
がしたが、どこまで行っても彼の傍に居るのが自分ではない事も解っていた。
自分にできるのは、ここで別れる事だけなのだと。
「風見志郎が、待っている」
いつの間にか幻のように降り始めた雨が、いつ上がったのかもはっきりとは覚えていなかっ
た。
帰ろう、と思いながらも、どこへ、と風見は自問する。
ここは生まれ育った東京だ。だが生家にはもう住む人もない。今更のようにそんな現実が
思い返される。どこまでも続くような気のする懐かしくも見覚えのない路地を、答えのない
問いを抱えるようにさまよい歩いたようだった。
気づけば空は再び明るく晴れて、黒く湿った路面からは息の詰まりそうな熱気がみるみる
漂い始める。そのむせ返るように密な大気の中、ふと意識に触れてくるひとつの気配があっ
た。まっすぐこちらへ向かってくるその身近な感覚をかすかに持て余しながらも、やがて角
を曲がって現れる姿をぼんやりと待っていた。
「風見」
珍しくワイシャツの襟元は緩めたままだったが、真夏でも決して手放さない右手の手袋ときっ
ちりボタンを留めた袖口を、風見は奇妙に懐かしく眺めている。歩み寄る自分を待たずに、
いつものように小走りに駆け寄ってくる友人を、手術したばかりだろう、と諌めるのも忘れ
ていた。
「どうした」
ただ、いぶかしげなそのまなざしに、随分自分はひどい顔をしているのだろう―――と思った。
「白木博士は」
そう問いかけて、しかし結城もその先の言葉を呑んでいる。珍しく良い勘をしているな、と
思いながら、風見はまだ何があったのか説明できずに居た。
ただ友人のまなざしにほっとしている。目の前にあるのは自分と道を共にして、その為に
自己改造すらためらわなかった強い意志だ。そう思うと、ようやく声が出た。
「……何でもない」
何でもない事だ、と自分に言い聞かせるように呟いた。
届かない声がある事も、どれだけ人間離れした力をもってしても力及ばない現実も、今更
思い知らされた事でもない。いちいち傷ついたりするものか。
そう思いながらも、何か言いかければ声が掠れそうだった。
それともあの場に踏み止まって「迎え」を待ち、戦うべきだったのだろうか。天才科学者
とその研究が世界征服を企む組織の手に渡るのが解っていたなら、たとえ本人の意志に反し
ていようとも阻止するべきだったのだろうか。たとえ同じ力をもつあの男が相手でも、決し
て後れを取らない自信はあった。
そう思いながらそれも正しくはなかったのだと、どこかで風見は知っている。戦いに勝っ
たところで、当の博士に望まれてはいないなら、それは所詮自分が信じているだけの正義で
はないか。
知らず表情は曇っていたかもしれなかった。
「……それなら」
友人が軽くつくった拳の指頭が、小突くように頬に触れかかったのはその時である。
「そんな情けない顔をするな」
少し困ったように笑いながら、結城は風見を見据えていた。どう言葉にしていいのか迷った
らしく何度か言い淀みながらも、その目は初めて出会った時と同じ、真摯な光を満たしてい
る。
「君が迷えば、僕も道を見失う」
嘘をつけ、と思った。
そんなまっすぐな目をして、誰が迷うものか。
そう思いながらも、その瞳に力づけられている自分に風見は気づいている。
「誰が迷う?」
ぎこちなくはあったが、ようやく笑えた。
(そうだな)
迷ってなど居られない。
自分達は既に歩き出している。
人類全体が選ぶ未来が正しいものだと信じ、その叡智に希望を託し―――その為には自分
自身が人間という存在からかけ離れたものになっても戦い続けていく事を選んで。
何が正しいとも言えない。人類を守ろうとする自分達の戦いが本当に人類の未来を救うと
も、白木博士やあの男の言葉が詭弁だとも言い切れない自分に、風見は気づいている。人は
間違うまいと思って、間違わずに進めるものではない。
ただ言えるのは、それでも自分は―――自分達は歩いていくという事だけだ。
それでも正義はあると信じて。
「行くか」
軽く肩をすくめて見やると、ああ、と結城も笑った。
その屈託のない笑顔に背中を押されるように、風見はまだほのかに油と雨の匂いの漂う舗
道に歩を進めた。
<完>