六
空は未だ暗く、星ひとつ見えない重く淀んだ闇だった。ようやく海は水平線の辺がおぼろげに明るくなり始めているので、夜明けが近いと知れる。
真冬の切りつけるような寒風の吹き晒すに任せて、風見はただ海を見ていた。
眠らなくてはならない事は解っている。今日の―――と言ってももう差し支えないだろう―――昼に、自分はザイールへ出発する事になっているのだ。世界を守る為の戦いに、再びその身を投じる為に。次にゆっくりと眠れるのがいつか解らない以上、今のうちに眠っておかなくては、と思いながら夜半にふと目が覚めてそれきり寝つかれなくなってしまったまま、足は何故かこの海岸へ向いていた。
自分でも未知のものとの戦いを控えて緊張しているのだろうか、と苦笑しながら、しかしどこかで風見は別に理由があるような気もしている。
遥かな海の彼方へ自問するように一瞬目をこらして風見はふと肩を震わせ、そしていつの間にか本郷がすぐ後ろに立っていたのに気づいた。
「…本郷さん」
「ここだろうと思ったが、やっぱりな」
本郷はそれでも少し眠そうにまばたきすると、寒くないか、と尋ねた。大丈夫です、と答えながら、風見は言葉を探す。
「…おかしいですね」
そのかすかに自嘲ぎみの口調に眉を上げた本郷に笑ってみせて、風見はまた海を見やった。
「デストロンと戦って…俺の戦いは自分の為ではなく、この世界を守る為のものだと解っていたし、他の奴にもそう言った筈なのに、俺は目が冴える程何を身構えてるんですかね」
「…お前は何も身構えてなんかいないぞ」
本郷は静かに答えた。
「風見…答えたくなければ、答えなくてもいい」
そして豊かに光を含んだ瞳が、風見を見た。
「お前はこの海の向こうに、何を待っている?」
「…?」
「そんな不思議そうな面をするな」
困ったように首をすくめると、本郷はゆっくりとまなざしを海へうつす。朝日の先触れを告げる光が、水平線にさざめいていた。
「俺も隼人も、伊達に何年もお前の先輩をやってるわけじゃない」
「本郷さん…?」
「俺達が迎えに行った時も、お前は海を見ていたな」
その時も今と同じ目をしていたと、本郷はふと思い返して目を細めた。哀惜や追憶や、それら様々な感情が混然となり―――そしてその重さを突き抜けて澄んだその目に、一瞬声をかける事さえためらわれた事も覚えている。
そしてどうかすると、この十日というもの時折思い出したように海のほうばかり見ていたのに、風見は自分でも気づいていなかったのだろうと本郷は思う。
風見はしばらくあっけにとられたように本郷を見つめていた。やがてゆっくりと自分自身の心を探るようにそのまなざしが宙をよぎり―――そしてそのまま、再び海へ向けられる。
(この海の向こうに、待っているものは)
胸に呟くと、返る答があった。
「…先輩」
それが自分が気づかずにいた―――しかし心を騒がす理由の正体である事も同時に風見は悟る。
「先輩」
うん、と首を傾けた本郷とはしかし視線はあわせずに低く海へ向けたまま、風見は呟いた。
「…あいつは死んだんです」
静かに寄せ返す波の音が、沈黙を埋めた。
「俺は確かに、爆発を見届けた…あいつは死んだ筈なんです」
「…確かめたのか?」
少し考えてから、本郷が尋ねる。風見はかぶりを振った。
「生きている訳がありませんよ…」
「だがお前はそうは思っていない」
珍しく威圧的なその口調に、ふっと反発するように風見は顔を上げた。が、そこには口調とは逆に、慈しむような本郷のまなざしがあった。
「勿論彼は俺やお前のような改造人間ではないんだろう…だが普通の人間とも違う。俺にはなんとも言えないが、彼を知っているお前にしか、解らん事もある」
ゆっくりと言葉を選びながら語る声が、風見の心をほどいていく。
何故か時が経つ程に、希薄になっていく悲しみのその理由は、自分がその死を本当には見届けていないためなのか―――それとも。
「…風見、ザイール行きは俺に譲れ」
本郷は肩をすくめながらそう言った。
「代わりに南大平洋へ行って…お前の目で、ちゃんと確かめて来い」
「本郷さん…」
それであきらめもつくだろう、とは流石に言わなかったが、本郷には勿論結城が生きているとは思えなかった。いくら強化服があるとはいえ、大半は生身のままの人間が生きて脱出できるとは到底考えられない状況である。普通の人間と違う自分達が、無意識のうちにそれを忘れて、自分達のもつ力をその友人に期待する事で希望を繋いでいるとしたら、それは悲しく―――また戦いを前にしては危険な事だった。
たとえそれが残酷な結末になろうとも、中途半端な希望よりはましだ。
しかしそんな厳しい決意とはうらはらに、一方で後輩のあわい希望が掬われる事を自分が願わずにはいられないのも、本郷は知っている。
そうならばいい、と思う。まだ会った事もない青年だったが、後輩の語り口や表情から、その人となりをある程度察する事はできた。
風見は黙って海を見ていた。何か言おうとする唇がかすかに震え、きっと結ばれる。
(…俺は…)
自分でも思ってもみない事だった。しかし今は、はっきりと解る。
(俺は結城の死を信じてはいない…)
理由は風見自身にも説明できなかったが、ことばにするとそれは不思議な確信となった。
「…本当に、行っていいんですか」
それでもまだためらいがちに振り返って、風見は尋ねた。
「ようやく少しはお前らしい面になったな」
本郷は笑って、そう答えた。
燦々と降り注ぐ眩しい陽射しと白い砂浜の間で、少年の姿は主のない影法師のようだった。
アオレレのバスケットは重い。
一体どこへ行ったんだろう、と思った。
まだそんなに動ける筈はない、とだいぶ歩きまわったが、探す青年の姿はどこにもない。昨日は少し場所を変えたのだろう位に考えて、あまり気にしなかったのだが、その時置いてきた水も食料も手つかずのまま残っているとなると、どうしてもこれはただ事ではないと思えた。
何か悪い事が起こったのでなければいいが、と溜息をついて、持ってきたものを定位置になっている洞窟の入り口に置きながら少年はふと眉を曇らせる。
(…ティアレにどう言おう)
家で待っている弟の事を考えると気が重くなった。
言葉もスムースに通じる訳ではない東洋人に、いつもは人見知りをする幼い弟が不思議と良くなついた。初めて彼を見つけて自分に知らせにきた時から、別段何を話しかけるという訳でもなかったが、ただ近くに座っているのが嬉しいらしかった。そしてそんな弟を、青年も笑顔で迎えてくれたものだったが。
だから一週間前、もう来てはいけない、と彼に言われた時の弟は可哀想だったと思う。
弟の代わりにその理由を求めた自分に、少し困った顔で返された《危険だから》という答の意味は、今もって解らない。
しかしそれ以上説明ができる程、青年がフランス語に通じていない事も解っていた。そしてその短い答に何かを感じとったアオレレは、毎日様子を知らせるから、と言い含めて弟を家に残して来ていたのである。
(…まさか嘘を言う訳にも行かないし)
溜息をついて視線を上げ、アオレレはそこで自分が随分帰り道を逸れてしまっていた事に気づいた。やれやれ、ときびすを返そうとした、しかしその時である。
『…?』
砂浜を透かして行きつ戻りつする波の上で、何かが転がされていた。まるで波が弄びながら、飽きて浜に上げてみた、という感じにくるくる揺れているそれに近寄ってみる。
(ヘルメット…かな?)
しかしそれにしては形が変だった。普通なら空いている筈の目の位置には大きな昆虫の目に似た赤いグラスがはめこまれ、そしてかなり曲がってしまってはいるもののそのすぐ上の二本のアンテナは明らかに昆虫の触覚を模したものと知れる。
(…あれ)
拾い上げ、真剣なまなざしであちこち調べ始めた少年の横顔には、いつか家族にも級友にも見せた事のない表情が浮かび始めていた。
(これは…もしかして…)
辺りを見回し、人影のない事を確かめると急いでそれをバスケットに押し込み、アオレレは走りだした。
行き先は町の中心から少し外れたところにある軽食堂である。カウンターにいた若い店主に軽く挨拶すると、そのまま店の奥へ駆け込みながらシャツに隠しているペンダントの鎖をたぐった。
丸いペンダントヘッドを柱の窪みに押し当てると、ただの壁と見えていた漆喰塗りの白い扉がかすかな作動音と共に開く。
そしてその奥には、さして広からぬとはいえ一通りの通信・探索装置一式を備えた小部屋があった。表向きどこにでもある平凡な店構えの奥に、こんな隠し部屋のある事を知る者は数人しか居ない。少年は慣れた動作で通信機の前に座り、横のテレタイプを引き寄せた。まだ気分が高揚し
ていて何からどう伝えれば良いか解らなかったが、とにかく自分の見つけたものの形状をなるべく詳しく綴り、それからふと思い出して、同じ海岸に流れ着いた東洋人の事もつけ加えておいた。
打電先は、日本の少年ライダー隊本部。
そして打電元は、少年ライダー隊南大平洋支部である。
「―――あ、おやっさんですか」
そう話しかけた途端に本郷がひょっと受話器を耳から離したのを、空港ロビーのソファにくつろいでいた一文字は怪訝そうに見やった。
二人はほんの十分前に、風見を乗せた飛行機を見送ったばかりだった。
丸一日かかるんですか、と苦笑しながらそれほど嫌でもなさそうに、風見は発っていった。
そして一応立花に連絡を、と立った本郷に、そこまでする事もあるまいに、と一文字が笑いかけようとしたその矢先の事である。
「…え?風見ですか?…風見なら今さっき…あの、おやっさん?」
言いかけて本郷は眉を寄せ、受話器を置いて振り返った。
「…切れたよ」
「どうしたんだ、一体?」
さあ、と首をかしげる本郷に、こいつがこういう顔をするとなんでもおおごとに見えるな、と一文字は密かに肩をすくめる。
「なんだかおやっさん、ひどく慌ててるんだ。どうも風見に何か知らせる事があるらしいんだが…」
ポケットを探った本郷の手は、そのまま一文字に差し出された。ああ、と了解してその掌にあるだけ小銭をのせてやりながら、一文字は時計を見た。
「もう精神波も届かんな」
「きくだけきいておこう。着いてから風見が連絡を寄越すかもしれんし」
ダイヤルを回しながらそこまで一文字に答えて、本郷は再び受話器に向かった。
「…あ、もしもし。どうしたんです、そんなに…ええ、風見はついさっき発ちましたが…」
一文字はその後の長い沈黙を、窓の外を眺めながらはかっていた。立花がずっと喋っているらしく、本郷は相槌もはさまずに黙ってきいている。
「…え?」
しかしややあって返された本郷の声の調子に、一文字は視線を転じた。
本郷は奇妙な顔をしていた。
「…ええ。それは…そうですか」
彼にしては珍しく驚いている―――しかし微笑している。それもただ嬉しいというよりも、もっと複雑に、見ようによってはどこか誇らしげにさえ見えたのだった。
「はい。俺達のほうからも。…でもおやっさん」
そして窓の向こうの青空を見やる。細めた目が、少し悪戯っぽく笑っていた。
「もしかすると、知らせる必要もなくなるかもしれませんよ…」
何かに呼ばれるように、目が覚めた。
樹木の間がぼんやりと白んでいる、穏やかな早朝である。
どれだけの間眠っていたのかは解らないが、だいぶ熱もひいたようだった。身体はまだ鉛のように重たかったが、静かに流れる霧を見定めるようにゆっくりとまばたきしている内に、意識はこれまでになくはっきりと醒めてくる。
まるであの爆発の瞬間から今の今まで、長い夢を見続けていたような気がした。
そんな無明の眠りから、誰かに揺り起こされたような目覚めだった。何かを待つ為に目覚めた胸騒ぎにも似て、それが何の為かも解らなかったが、しかし不思議と不快ではなかった。
七
少年の家はその朝から慌ただしかった。
と、いうのは正確ではない。実際には、忙しがっているのは彼だけだった。アオレレは―――それでも彼はいつもと同じ風を装っているつもりだったのだが―――動揺している。
年令よりはずっと大人びて賢い少年だったが、そんな彼にさえ昨日の夕方もたらされたその情報は刺激的に過ぎた。彼だけに知らされ、誰にも秘密であるだけに一層の事でもあった。
『…午後からはクラブがあるから』
いつも使っている口実を残して、家を出た。
今日の授業は午前中で終わる。しかし午後には、アオレレは空港へ行くのだ―――未だ会った事のなかった、彼の英雄を出迎える為に。
遠い国の本部からの連絡の内容はどうもいまひとつ理解できない所もあったが、とにかく重要なのは《彼》がやって来るという事実と、そしてもうひとつ、自分が知らない内にとても重大な発見に関わっていたらしい、という事である。
アオレレはいつもの彼らしくもなく、すっかり舞い上がっていた。無口な弟が、何か言いたげに自分の周りをうろうろしていた事にさえ、全く気づかなかった程だった。
元々独りでいる事の多い内気なティアレの遊び場が、その海岸だった。漂着した結城を見つけたのも、いつものように浜へ遊びに行った時の事だったのである。
しかしそれが禁じられてから、もう十日にもなるのだ。
兄の命令にはおよそ逆らった事もないおとなしい子供だったが、もう理由も教えられない我慢にも飽きてきていた。一体いつまで行ってはいけないのか聞いてみよう、とようやく決心したまでは良かったのだが、そんな時に限って―――というべきだろう―――今朝の兄はとても忙しそうにしていた。兄には自分に構うより大変な事が沢山あるのだ、ということをわきまえてしまっていた気弱な弟には、まるでとりつくしまもなく見えた。
(…どうしよう)
そしてさっさと出掛けてしまった兄の後姿に結局追いつけず、ティアレはぽつんと戸口に座っている。
もう陽も随分たかい。
行ってしまおうか、とふと思った。いつも遊んでいた場所である。危ない事など、何もありはしない。
危ないから、とあの人に言われたのが何故なのか、全然解らなかった。
(…でも…本当に、なんでなんだろう?)
意地悪や迷惑で言われているのではない事だけは、なんとなく解っている。内省的な分、そういう他人の感情には聡い子供だった。
言葉はちゃんと解らない事のほうが多いけれど、あの異国の人のまなざしはやさしい。
元気にしているだろうか、と心配になった。昨日も一昨日も、兄は何も言ってくれなかったのだ。一週間前には手を伸ばして自分の頭を撫でてくれたけれど、まだ起き上がる事もできなかったのだ。悪い想像をするのはあまりに簡単で、戸口に膝を抱えて座っている内にだんだん足の指がむずむずしてくるような焦躁感が立ち上ってくる。
ちょっとだけ、行ってみてはいけないだろうか。
(本当に、ちょっとだけなら…誰にも見つからないように行って、すぐ帰ってくるだけなら)
思いつきは小さな胸の内で、たやすくふくらんだ。
辺りを見回して、ティアレはそのまま小走りに駆け出した。
今日は変に鳥が騒ぐ―――と結城は思った。
森の中を、けたたましい鳴声が交錯している。
しかしその時どうして森の外へ出る気になったのかは、後になっても解らなかった。どうやら普通に歩く事ができる程にはなっていたが、まだほとんど傷は治ってはいなかったし、身体のだるさもとれない。そんな体調をおしてまで、森の外へ出て行った理由をあえて探すとするなら。
何かの予感がした。
そうとしか形容のできない、不思議な衝動だった。
実に三日ぶりに森を抜け、遥かに海岸を臨む岩場まで出たところで、そして結城は思いもかけないものを見る事になる。
それでもさほど驚かなかったのは、結城が以前からこの時を予期していたせいでもあった。
まず幼い弟を、そしてその兄をここから遠ざけるようにしむけたのは、自分と彼らの戦いに巻き込むまない為だったのだから。
遠浅の海に、小型の潜水艦が停泊していた。そして海岸に今しがた着いたばかりのボートから、この平和な光景にはおよそ不似合いな黒装束の男達が下りてくるところだった。
その行くところ、破壊と恐怖を引き起こすもの。今はこの地上から消し去られた筈の、悪の組織デストロンの残党がやはり生き残っていたのか、と結城は海岸から死角となる岩影に身をひそめる。
(…?)
しかし良く見ると、それは結城の見慣れた衣装ではなかった。
その胸には骸骨の代わりに象形文字に似た文字が白く染め抜かれている。覆面の頭にも目だしの穴を縁取ってそれと同じ文字が飾られていた。
どうやらデストロンではなさそうだ、と思いながら結城は尚も目をこらした。たとえデストロンでなかろうと、港でもないこんな海岸に潜水艦で上陸してくる集団がまともな団体であろう筈もない。
五人の男達はしばらく何か話していたようだったが、やがてその内の二人はボートに乗り込むと、沖に待つ潜水艦に向かって漕ぎ出していった。
残った三人は持ってきた荷物を解き、中身を砂浜に並べはじめる。遠くて良くは解らないが、何かの機械の部品らしい。
荷が解き終わると、組み立てが始まった。
せめて何を話しているのか解ればあの機械の見当もつく。
そう思い、結城がもう少し近づこうと立ちかけた、その時である。
不意に男の一人が振り返った。
反射的に身構えた結城が気づかれた訳ではなかった。男が振り返ったのは、町へ続く海岸線の方向―――その砂の道をやってきた小さな子供に気づいたからである。
仲間が立ち上がったのに他の二人がその子供に気づくのと、子供が遊び場の異変に気づくのとほとんど同時だった。
訳は解らないながら本能的に危険を感じた子供がぱっときびすを返す。逃がすまいとする黒装束が立ち上がるのは僅かに遅れたが、それでも子供は既に彼らに近づきすぎていたのだった。
余裕のある大人の足が子供の足跡を軽く踏み越え、まさにその手が子供の襟首にかかろうとした、その瞬間である。
久しぶりの陽光を背にうけて、長身が岩壁を躍り越えた。
よくあれだけ一気に走れたものだと、後で結城は自分でも思った。
とりあえず子供を捕まえようとしていた黒装束の肩を掴んで引き戻しざま、膝の裏に足をいれてすくい倒す。そのまま子供を背に庇う形に割ってはいると、結城は息を整えた。
「―――お前達は何者だ」
通じるとも思えなかったが、日本語で低く尋ねる。
それに対する答は、その胸先をかすめて振り切られた棍だった。すんでのところで躱したものの、踏んだ足場の砂が崩れて上体が揺らぐ。
(…しまった)
その隙をついてくり出された棒の切っ先をかろうじて脇に抱えて止め、締めた脇を支点にする形で先を掴んだ左手に棒を捻り取りながら、結城の身体は重心を失っている。どう身体を起こせばまっすぐになるのかが解らないのだ。まだ急激な動きに平衡感覚が耐えられる程、身体は回復してはいない。
奪い取った棒で倒れかかる方向の砂を突き、返す反動で黒装束の鳩尾を抉る。
倒れ伏したその身体は瞬間痙攣した、と見る間にそのままの形で砂になった。ティアレがぎゅっと背中にしがみついてきたのが解った。
(改造人間か…)
予想はしていた事だったが、結城も目を見張る。
(…まだこの技術を使う組織があるのか)
ならばなおの事、退く訳にはいかないと思う。
立ち上がるとうまく血の巡らない自分は不利になる。片膝をつき、揺らぐ身体を地に下ろした棒の先で支えながら結城は息をついた。そう長くは身体を起こしていられない。
「…っ!」
気合一声、黒装束の棍が宙を切った。からくも伸ばされた棒の先が絡めとられて空に弧を描く。しかしそれは結城の計算の上だった。棒を放して空手になった間を置かず、そのまま身体ごとぶつかる形で相手を地に倒す。なまじ武器を握っていただけに無防備になったその腹へ、体重をかけて一撃をいれる。
(…あと一人)
振仰いだとたんにぐらりと視界が揺れたが、そんな事に構っている暇はなかった。残る一人はまさにその時、高々とナイフを振り上げたところだったのだ―――その足元で転んだきり起きあがれないティアレに向かって。
考えるより早く、身体の方が動いた。
鋭い刃と、同質のものがかみ合う不快な音が響く。
結城はまばたきひとつしなかった。
半ば子供の上に覆いかぶさる形のままで、ナイフを止めている右腕に力をこめる。不安定な体勢から息を詰めてじりじりと上体を起こすと、刃先が人工の表皮を削る嫌な音が、骨まで届いた。それに構わず、ぐいと押し返して振払うと、相手がたたらを踏んでいる間に立ち上がる。
『…!』
ティアレが声もなく息をのんだのが、気配で解った。今までその腕を隠していた包帯が切れてずり下がり、その隙間から機械の右腕が現れる。その滑らかにすぎる硬質の輪郭は、まぶしい陽光を鮮やかにはね返していた。
(…そうか)
結城の口元に、不思議な微笑が浮かんだ。
まとわりついて邪魔になる包帯を引き切り、ようやく自由になったその拳に、力を溜める。
何が解ったのかは、結城にも説明はできない。
しかしその時視界の隅に、自分を見るおびえた瞳の色を残しても、それが結城の心を曇らせる事はなかった。普通の人間とは違う身体が疎まれるとしても、それを恐れる事はない―――誰に拒まれようとも、結城は自分が今、その右腕を誇りに思える事を知っている。
それが誰かを守り、何かを救う為に自分が持つ力なのだから。
しかし結城の体力もそろそろ限界にきていた。ナイフをかなぐり捨ててかかってきた男の拳を避ける間もなく、腹をとらえられたまま背が岩壁にしたたかぶつかる。反撃しようにももう左腕は上がらない。二度三度と拳がはいる度に、足先が浮いた。間に合わないか、と覚悟するその意識さえも、否応なく薄らいでいこうとした、まさにその瀬戸際で。
覆面の口元に余裕の笑いを浮かべ、とどめの一撃を加えようと引いた拳より一瞬早く、男の鳩尾には結城の右拳がはいっていた。
時間はかかったが、今の結城に溜められるだけの力をこめた、渾身の一撃である。
ゆっくりと前のめりに倒れかかってきた黒装束の姿が急に狭くなった視野の内でそのまま風に四散していくのを見届けて、結城は息をついた。身体は岩壁にもたれかかり、もうそこから起き上がる力すら今となっては残っていない。
全ての力をかけた右腕からも、みるみる熱と力がひいて行くのが自分でも解った。それでもものうく頭を動かして、結城はティアレを見た。
子供はまだそこに立ちすくんでいた。
済んだ目は大きく見開かれて、結城を見つめたまま微動だにしない。怖がらせてしまったな、と僅かに苦笑しながら、結城は言葉を探す代わりにふと海岸を見やった。
町のほうから、少年がやってくるのに気づいたのだ。
『ティアレ!』
その名を呼ぶ兄の声に、はっと緊張が解けて振り返り、転びそうになりながら走り出した子供の後姿を、結城はこれまでになくやさしい気持ちで眺めていた。
だから、それでいい。
守りたいもの全てが、その望むままに生きていける事。それがきっと、自分の望みでもあるのだった。その為になら、自分は普通の人間とは違う部分を持つ事にも意味を見るだろう。
だからきっとその為に、自分は生きていけるのだ。
それは―――の、ように。
結城はその時、弟をぎゅっと抱き締めた少年の後ろから、もう一人の青年がやってくるのを見ていた。
まばゆく照り返す波光と、南国の太陽の惜しみない輝きに包まれて、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。それはひどくまぶしく―――しかし決して見間違うはずのない姿だった。
(…夢だな…)
少しずつかすんでくる意識の内で、思う。
彼がこんなところに居る筈がない。
どこかでこれと同じ事を思った事があったな、という気がしたが、それ以上の事を考えられるだけの力はもうなかった。
ただ、太陽としろく光る砂に交互に視界を灼かれながら遠のいていく意識の底で、無造作だがしっかりと自分の身体を崩れおちないように支えてくれている誰かの腕の感触が、ひどく懐かしかった。
八
目が開いても、自分がどこに居るのかはなかなか解らなかった。
見ている漆喰塗りの天井を、窓枠の形に影の抜けた青白い光が薄ぼんやりと照らしている。そしてその光をのろのろと追った目は、やがて窓際に立っている長身の青年をとらえた。
まさか、とおぼろげな意識の内でさえ思った。幾度も見た夢の続きだろうか、と自問してみる。
「…まだ起きるのは無理だ」
腕組みしたまま、聞き慣れた声が低く言った。
もたれた壁からゆっくりと身体を起こし、結城が横になっているベッドの脇に近づいてくる。
どうやら今は夜らしい、と結城にもその頃ようやく解り始めていた。部屋の灯は床に下ろしたスタンドだけで、むしろ窓から射す外の街灯の光が頼りになった。
そんな僅かな光の内でも、その端正な顔だちははっきりと見定める事ができた。記憶にあるよりもずっと、静かで柔らかな表情だった。
「…風見…」
ようやく呼ぶ事のできたその名は、少し震えて響いたかもしれない。
何も言わず、風見はつと上体をかがめて、指の背を軽く結城の額におろして熱をみた。少し笑ったように見えた。
「結構、運は強いな」
「…本当に、君なのか?」
上体を起こしかけた結城を仕草で軽く押しとどめ、代わりにその背に片手を入れて支えながらクッションを二つ三つ押し込む。手を放しながら、熱も下がったな、と独り言のように呟いたのは結城にも聞こえた。
「水を持ってきてやるから、ちょっと待っていろ」
「…風見」
冷蔵庫の飲料水は冷たすぎるだろうか、と思いながら風見は振り返る。
「何だ?」
しかし何も言わずに、結城はじっと風見を見ていた。
まだ意識はどこか眠っているようだったが、しかしようやくはっきりとした実感になりつつあった。
夢ではない。
もう二度と会えないかもしれない、と幾度も思った彼が目の前に居る。会えたら言いたい事はあった筈だったが、今は何も思い浮かばなかった。
ほら、とコップを渡そうとする風見のまなざしは穏やかで、まるであの山中で別れたのがつい昨日の事のような錯覚を起こさせる。
「三日も熱が引かなかったんだ…無理してでも、少しは飲んでおけ」
そう言うと、風見は床に置かれたスタンドをベッドサイドテーブルに引き上げ、その横に引いた椅子に腰を下ろした。
三日前、空港に降り立った風見を出迎えたのはこの島の少年ライダー隊員だった。昂奮しきった彼の話がのみ込めるまで少しかかったが、その足で案内された海岸へ向かった風見である。
それと意識してからほんの僅かな時間に、予感から根拠のない確信に変わっていたが、流石にその腕に抱きとめた時、その身体の重みは胸に深く満ちた。
そしてやはりその傷は、本人が思っていた以上に深かったのである。急いでこのホテルに運び、手当てをやり直したものの、傷からくる熱が風見を悩ませた。
不思議な程、その生命力に不安は抱かなかったが。
(…やっぱりお医者を呼んだ方がいいんじゃないでしょうか)
足しげく通って来てくれている少年の心配そうなまなざしに、しかし風見は答える術を持たなかったのだ。結城が頑に医者を呼ぶ事を拒んだ理由は、風見にも良く解っている。そしてそれを、このまっすぐな目をした少年に説明できない事も、風見は誰よりも知っていた。
「…三日?」
冷たい水が、少し結城の意識をはっきりさせた。
そしてそれにつれて、直前の記憶もゆっくり甦ってくる。あの黒装束の男達の事が思い出されるのに、それほど時間はかからなかった。
(…奴らは何者だったんだろう…)
上体は風見にいれて貰ったクッションに預けたまま、少しずつ水を口にしながら考える。
あれはデストロンではない。が、彼らはその死と同時に肉体を分解させる改造手術を施されていた。その技術をもつ組織が、まだこの地上に存在するという事実は、結城に既視感に似た目眩を起こさせる。
(…まだ終わってはいなかった)
不意にそんな言葉が、脳裡をかすめた。何が、なのかは解らなかったが。
「…どうした」
はっと視線を上げると、いぶかしげに風見が覗きこんでいた。
「どこか痛むのか」
「…風見」
そしてその瞬間、結城は風見がここに居る理由を悟っていた。
「君は…奴らと戦う為に、ここに来たんだな」
そうでなければ、彼がこんなところに居る訳がない―――と思った。
その確信に満ちた問いかけに、しかし風見は一瞬とまどったような顔をした。言われた言葉を自分で繰り返すようにかすかに唇が動き、ややあってようやくそのまなざしが結城をまっすぐに見据える。
「そうだ。…と言っていいと思う」
考えた割には妙に歯切れの悪い答に、結城は眉をひそめて見上げた。少し笑いかけ、風見は窓の外へ視線を転じる。
「多分そうだろうな…としか言えんが。なにしろまだ俺達には肝心の敵の正体も解らんから」
「解らない?」
「解っているのは」
窓の外は深い夜の闇だった。
「改造人間を操って世界征服を企む組織があるという事だけだ。だが、だから俺達は…仮面ライダーはその正体を突き止めて戦う。それだけだ」
そう静かに言い切った横顔を、結城は改めて眺めた。
先の見えない闇を前にしても揺るぐことのない、その信念をあるいは正義と呼ぶのだろうか。
(デストロンが滅びたら、君はどこへ行く?)
その時ふっと、かつて夢の中で尋ねた答が返ってきたのに結城は気づく。
(デストロンが滅びても…君の戦いは終わらないんだな)
それは寂しく―――しかしどこか、心騒ぐ感覚だった。
仮面ライダーの戦いは、この地上に悪のある限り終わる事はない。だからその名をもつ風見も、その力の続く限り往くのだろう。海を渡り、国を越えて―――この世界を守る為に、その全てを賭けて。
「…あいにくまだ手がかりはないが、じきに尻尾も掴めるさ」
「風見」
結城はふと思い出して聞いてみた。
「あれは…あの時、海岸で奴らが組み立てていた機械があったろう。あれは手がかりにならないか?」
「機械?…ああ、あれか」
気のない風に呟いて、風見は肩をすくめる。
「あれならだいぶ大事な代物と見えて、さっさと持っていかれたよ。仲間が居たんだな。…お前をここへ運んでから行ってみたら、もう無かったからな」
「そんな」
今度は風見が制するより早く、結城は身体を起こしていた。
「どうして…それなら僕に構わず」
「結城」
風見は低く友人の言葉を遮った。その語調に思わず口をつぐんだ結城の、しかしまだ責めるように見つめてくる瞳を間近に見据える。
「お前…本当に生きていたんだな」
今更のように、しみじみと呟いた。
本郷に言われるまで、自分が結城の死を信じていない事に気づかなかった風見だった。そして気づいてからも、何故それが信じられなかったかという説明はつけられない。
ただ。
「…でも君は知っていたんじゃないか」
その時、ぽつりと結城が言った。え、と風見に聞き返されると、しかしはっとしたようにまばたきし、気まり悪げに笑った。
(…そうか、あれは夢だったな…)
まだ少し意識が混濁して、夢と現実の境界が薄れかけていたらしい。
「…済まない。何でもないんだ」
気を取り直して笑いかけると、しかし今度は風見が真面目な顔をしていた。
「風見…?」
「そうだな」
説明はできないが―――ただ。
「知っていたな」
風見は探るように、そう囁いた。
自分は結城が生きている事を知っていたのだ。理由はないが強いていうならば、呼ばれるように。
遥かな海の向こうから、自分を呼んでいた声がある。
「だが…呼んだのは、お前だ」
懐かしい瞳が、きょとんと自分を見ている。そのまだ熱っぽいこめかみにつと指先で触れて、風見はもう一度繰り返した。
「お前が呼んだんだ」
「…僕が?」
いぶかしげに聞き返す黒い双眸を、じっと見つめた。
思えば不思議な縁だった。
初めて出会った時、この瞳は憎悪とかなしみに滾っていた。デストロンに植えつけられたまやかしの理想に固執し、真実の声に耳を塞ごうとするかたくなな隻腕の科学者を、それでも放っておかれなかった。
(デストロンは、君のような男の居るところではない)
言葉にこもる怒りは、もどかしさにも似ていた。
(…どうして解らない)
あるいは、解っていながらも破綻への道を自ら歩もうとするものへの怒りだったろうか。ほとんどまだ初対面に近かった相手に、あの時覚えた感情には辛い既視感があったのだ。
(だから高木、お前こそ俺と一緒にここから脱出するんだ)
とうとう届かなかった言葉の記憶は、今も触れれば灼けつくような痛みを心に呼び覚ました。
差し伸べられる手を拒み、信じたものが悪魔だったと知りながらも自分の信念に殉じていくような無惨な決着を、なすすべもなく見届けさせられるのは一度で沢山だ。
だから自分は呼ばれたのかもしれない、と思った。
「…だが、これで本当に終わったな…」
いつになくしみじみと、風見は呟いた。
「…風見?」
「お前はもう、充分に償った…」
デストロンにかかわった事で、どれだけのものが失われたろうか。家族や風見自身の生身の身体や、そして友人ばかりでなく。
(だが俺が何もかも、失った訳ではないんだと…)
「…だから」
知らず声が揺らぎかけるのを抑えて、風見はどうにか笑顔をつくった。
「傷が治ったら、日本へ帰れ」
「風見」
「お前はデストロンに見込まれる程、優れた科学者だ。これからは本当に、この世界の為の研究ができるんだ…」
眠り続ける結城を見守りながら、ずっとこの三日間、そんな事を考えていたようにも思う。
それで本当に、この戦いも終わるのだ。
「ただ、俺と共にデストロンと戦った日々があった事だけは覚えて居てくれ」
再び戦いの日々に向かう自分と、もう会う事もなくても。
「時々でもそんな風に思い出されれば…俺達も、お前の居る世界の為に戦っているんだと思えるだろう…ただそれだけでいい」
「…待ってくれ、風見」
もどかしく言葉を探そうとして、結城はふと思い出した。
あの時あの雨の中で、失った事に気づいたその言葉を、自分は取り戻している。
ずっと風見に伝えようと思いながら、言い出しかねたまま忘れられてしまったその言葉は、思いもかけず甦っていたのだ―――あの海岸での戦いのさなかに。
「…風見」
まだ自分のこめかみにかかっている風見の指に、右手を伸ばして触れてみた。最初は悲しみに呪ったその機械の腕を、今は誇りにもしようと思う。
それが自分の持った、彼らに近い力なら。
次の言葉を促すように自分を見ている、そのつよい光をもつ瞳を、初めて何の気負いもなくまっすぐに見つめ返せたように思いながら、結城は口を開いた。
「―――僕も共に戦う」
スタンドの光のつくる微妙な影に、風見の表情がほんの少し変化したのが解った。
「…もうデストロンはないんだ、結城」
ややあって低い声がそう言った。
「お前は自由だ…もうどこへでも行ける」
「解っているよ」
結城も静かに答えた。
「だから決めたんだ」
過去の宿縁からはなれて自分の意志で選べるならば、選びたい道は一つだ。
「デストロンが滅びても、この地上から悪の組織が消えない限り、僕も知らないふりをして生きていく事はできない」
だから、まだ終わってはいない。
「君達程じゃないが、僕も戦う力を持っているからな」
風見の手に触れているその指先に、つと力をこめた。
「もしも君が、本当に僕が自由だと言うなら…今度こそ、一緒に戦わせてくれないか」
そして人の目からも自分の目からも隠そうとしたこの腕に、今度は誇りをこめるだろう。
まだ何か言いたげな風見の目を覗き込んで、結城は言葉を継ぐ。
「僕はずっと君にそう言いたかった」
風見は無言のまま結城を見つめていた。
思いもかけない友人の言葉を、胸に反芻する。ここへ至る迄の様々な出来事が次々と思い返され―――そしてやがてそれは、つい半月足らず前の、あの真昼の空へ向かって自分が告げた言葉の記憶に収束していった。
(俺は君に―――)
あの時相手を失ったまま告げた言葉が、時と場所を遠く隔てて今ここに甦ろうとしている。
(―――の名を贈るぞ…)
それは不思議な偶然のようにも―――またずっと前から約束されていた必然のようにも思えた。
「…仮面ライダーの名を負うのは俺達三人だけでいいと、思っていたのにな」
そう言って、風見は少し笑ったようだった。そしてそのまま席を立ち、部屋の隅に置いた荷物を解く。
「後悔しないな?」
背中を向けたまま、念を押すように風見が聞いた。その背中に力をこめて頷きながら、結城はもう一度その右腕を見た。まだ修復していないその表皮は傷ついているが、やがて来る日々を待って密やかに光っている。
「…結城」
声をかけられるのと同時に軽く投げ渡された物を受け取ろうと、結城はその手を伸ばした。
長い間波に洗われてところどころ傷んではいたが、青いマスクの重みはもうずっと昔から馴染んだもののように、久しぶりの持ち主の手におさまったのだった。
<完>