一
仰ぐ空には雲ひとつなく、遠く臨む水平線の果てまで青い空が続いていた。眼下に視線を転じれば、岩に白い波頭を砕いてのんびりと波が打ち寄せる。
この岬からの眺望は、風見志郎にとっては故郷のように親しんだ風景だった。時にその深い蒼に絶望を宥められ、時にただ淡々と打ち寄せる波音に心を鎮められた、懐かしい故国の海である。
その波音が、しかし今日は耳の奥に残って胸を騒がす。
何をぐずぐずしている、と自分を叱った。この日はいつか来ると知っていたし、それを望んでもいた筈だ。
良い天気で良かった、と思いながら空の青さに細めた目の奥が、つんと滲みるように痛くなる。
ふいと吹き過ぎた強い海風に眉をひそめると、風見志郎は思いきったようにきびすを返した。
半分がた開けた窓から気持ちの良い初夏の風が滑り込んできて、真新しいカーテンを揺らした。
風見は間に合うだろうか、と本郷猛はぼんやりと考えながら、様子を伺っていた窓辺から身体を起こした。
事情を知る「先輩」としていささかの責任は感じない訳ではなかったが、ともあれ予定通りに事は済んでいる。その後、風見がどう動くかなど口うるさく詮索するつもりもなかった。そもそも今回に関しては自分にそんな資格もないのだ、と思いながら、地下の手術室からさっき運び上げてきて手入れの済んだ検査機械の片づけの続きに戻る。
人手が欲しいところだな、と大型の機具を元の戸棚に押し込んでいると、階下で呼び鈴が鳴った。
誰か来たのか、と戸口へ向かいかけた足を、ふと止める。
開けてもらうつもりはなく、どうやら自分の来訪を知らせる為だけに鳴らしたらしい。
彼は合鍵を持っているのだ。
ややあって重い鍵がドアの内で回る音を、本郷は手を動かしながら遠く聞きとっている。
もう来る頃だろうと思っていた。
途中で幾つかの部屋を覗いているとみえ、廊下で何度か足音が止まりながら近づいてくる。自分を探している訳ではなく、単に半年の不在の間に何か変わったところがないかを確かめているだけなのだという事も知っていた。この前にこの別荘に来た時も、友人は同じように覗いて回っていたのだ。
やがてドアが開き、陽焼けした顔が覗いた。
「ようっ」
くるりと目を見開き、思い出したように帽子を取った一文字隼人に、本郷はふっと笑顔を返す。
「遅かったな」
いつ来るかと待っていた。最後に彼の気配を感知した時には、遅くとも昨日中には着くだろうと思っていたのだ。
「いやー参った。北回りルートなんて選ぶんじゃなかったよ。モスクワで十八時間も足留めくらってさ、羽田に着いたのが今朝の四時だ」
言いながら荷物を降ろし、帽子を壁の釘にかける。参った、と口にはしながらも、言葉ほどには見えないのが一文字の一文字たる所以である。考えてみれば一年ぶりの再会なのだが、会うなりつい昨日別れたばかりのような気持ちにさせるのも、また一文字らしい。
「だもんで来る途中におやっさんとこに挨拶に寄ったんだが、留守だったよ。何でも誰かの結婚式に出るとかで」
言いかけて、辺を見回した。
「あれ、風見は?」
「ああ、ちょっと東京に…」
一文字につり込まれてつい続きそうになった言葉を何となく飲み込み、本郷は取り繕うようにつけ加えた。
「…夕方には帰ると言っていたが」
「何だ、風見も留守か」
どうも空振るな、と溜息をつくと一文字は本郷の手元を見やり、それから室内を見回した。
「えーと、それじゃもう終わったんだな」
「ああ、ついさっきな」
そうか、と今度は少し気まり悪げな表情になり、ふいと小首を傾げて本郷の表情を伺う。
「ま、その分だと別に問題はなかったみたいだな」
「予定通りだな。検査数値も予定の範囲内だったし」
本郷が答えると、ならいいか、と表情を戻した。専門外の細かい事は根掘り葉掘り聞いたところで仕方ない、と一文字は心得ている。彼にとって問題なのは、自分が帰国した時に誰がこの別荘に居るのか、という事だ。
「それじゃ先生も、まだ寝てるな?」
そうだな、と答えながら本郷は時計を見た。
「まだ後二時間位は、麻酔が効いてるだろう」
ちぇっ、と一文字は少し唇を尖らせる。
「折角、良い豆持って帰ってきたんだがな」
「豆?」
「ああ、キリマンジャロ。旨いのがあったから土産に持ってきたんだが」
それは有り難いな、と本郷は笑った。
思えば一昨日の夜に日本に着き、今日は朝から細かい神経を要求される再改造手術だったのだ。まだ緊張が節々に残っている身体が、今更になって意識された。じっくり煎れたコーヒーの香気が俄に恋しくなる。
「じゃ、一足先に煎れるか」
手早くナップザックの紐を解き、一文字は無造作に包まれた紙袋を荷物の底から引っぱり出した。
ええとミルはどこにしまったかな、と独りごち、コーヒー豆の袋を掌に軽く放りながら勝手知ったる台所に向かう。
「おやっさんとこにまず持ってこうと思ったのになあ」
いつもの場所にしまわれていたコーヒーミルを手に、思い出したように一文字はふと呟いた。
二
思えば若い頃には気にも留めなかったようなあれこれに、最近ふと感じ入ったりするようだった。
たとえば見上げる空の青さ高さに、訳もなく胸が詰まったりするのだ。
(いや、なんて言おうもんなら「おやっさんもトシですね」位の事は言われかねんぞ)
遠慮のない性格の教え子の風貌を何人か思い浮かべてあわてて表情をひきしめ、立花藤兵衛は扇子を握った手にふと力をこめる。
それにつけても、これ以上は望むべくもない好天に恵まれた結婚式だった。
元々面倒見の良い立花は、結婚式に招かれる事も多い。
祝詞や三三九度がないとどうも結婚式という気がしない、と以前は思っていた立花ではあったが、最近の若い娘達が挙げたがる教会の結婚式にも、数年前から続けて出席する内にもうすっかり慣れていた。
そもそも戦いの日々を共にした娘の晴れの日となると、そこにはまた別の感慨があるというものである。戦友―――と呼ぶには、それは傍目から見れば随分危なっかしく、また当の彼女達にも「そんなカタい呼び方されても、ねえ」と顔を見合わせて笑われたりしたものだが。ともあれかつて果敢にショッカーに立ち向かった娘達は、彼女達の戦いを終えてしばらくした頃に、それぞれの伴侶を得ている。
その頃、当の立花は新たに台頭してきた組織―――デストロンとの戦いのさなかにあったのだが、だからといってそれが元・ライダーガールズ達の幸せを祝う心に影を落とす事はなかった。それはそれ、これはこれだと、立花は既にその当時から割り切っている。
だから今日の式に際しても、立花の心にはもとより一片の翳りもない。
たとえ今も世界は真実に平和ではなく、どこかで世界征服を目論む秘密組織とそれに対抗し得る力をもった異形の戦士達の戦いが続いているにしても。
彼等は、この青天の元に新たな生活へ向けて歩き出した二人の平和も守ろうとしているのだ。だからそんな時には彼等の分まで祝うのが自分の役目でもあると、立花は思っている。
「…やだなあ、泣いてんのかよ」
隣席から、仏頂面が目に見えるような声が低く囁いた。立花も声をひそめて、こっそり囁き返す。
「泣いてんのはお前だろうが」
顔を見ないでやるのは武士の情けだぞ、と胸に呟く。思えば始めて出会ったのは、隣の少年がまだ小学生の頃だった。しかしどれだけ身体が大きくなっても、姉を思う気持ちはあの頃と変わらないのを立花は知っている。
ステンドグラス一杯に、初夏の陽光が眩しく射し込んでいた。ベール越しに透ける花嫁の静かな表情を、ふと仰ぎ見る。ややうつむき加減に聖歌隊の合唱に耳を傾けている横顔は、立花が知っていた表情のどれよりも美しかった。
幸せそうだな、と思う。
しかしこの一見平和に見える世界が、幾多の危機を乗り越えた上に存在している事を知る者が一体どれだけ居るだろうか。余儀なくその戦いの宿命に巻き込まれ、世間に知られる事のない戦いにその身を投じた者達が守った世界だ。
しかも彼等は、決して晴れがましい場に出てこようとはしないのだった。それが戦いのない時であっても、まるで自分達が現れる事が平和な光景に影を落としてしまう―――とでも思い込んでいるかのように。
(…堂々と祝ってやればいいものを)
ちらりとまた思った。
招待状が届いているのは知っていたし、まだ日本に居るのも解っているのだ。半年ぶりに帰国した教え子は、一昨日ふらりと顔を見せている。
その時に、まさかすっぽかしたりしないだろうな、と立花は念を押している。しかしその時には笑って曖昧にいなされ、それ以上問いつめられなかったのだ。どうも嫌な予感はしていたから、念の為に、と昨日訪ねてきた本郷にも話を通してはおいたのだが、思い返してみればそういう意味では本郷もいわば同罪の前科持ちだった。したり顔で後輩を説得できるとも、してくれるとも期待はできそうもない。全くどいつもこいつも、と胸に呟く。
(カッコつけた真似しやがって)
今はベールに秘められている、花嫁の横顔をまた見上げる。その慎ましやかな稜線が、つい先刻の光景と重なった。
式の開始時刻より、少し早めに立花は式場に着いている。
「あ、会長」
花嫁の両親に挨拶しているところに、ここ数年で見違える程背の高くなった少年が声をかけてきた。
「良かった。ちょっと来て、姉ちゃん見てくれよ」
「いいよ、どうせ式に出るんだから」
花嫁控室のドアまで半ば引きずられるように連れてこられても、立花はまだ踏み止まっている。照れくさくって仕方ない、と渋る立花の袖を、しかし珠シゲルは放さなかった。
「何言ってんだよ。折角来てくれたんじゃないか。久しぶりだし、姉ちゃんも会いたがってるし」
畜生図体ばっかり大きくなりやがって、と毒づく間もあらばこそ、そのまま立花は開いたドアの中に引きずり込まれている。
「姉ちゃん、会長が来たよ」
遠慮のない弟の声で堂々と宣言されてもう逃げ場がないと悟り、立花は慌ただしくまばたきする。
とっさに用意した祝福の言葉は、喉元で飲まれていた。
窓から入る初夏の明るい陽射しが、天井にも壁にも白く照り映えている。
そんな中にひときわ眩しく、純白のドレスとベールに包まれた花嫁が座っていた。
そのウェディングドレスの膝には、見事な花束が抱かれている。
控室には、他にも友人達の心尽くしらしい可愛らしい花束が所狭しと並べられている。しかしその中でもひときわ目立つのが、花嫁の膝に零れんばかりに咲き誇るその深紅の薔薇の花束だった。少なく見積もっても百本以上はあるだろう。ふっくらと開いた花々が、薄紅色のラッピングペーパーに包まれている。
いやあ綺麗だな、と口まで出かかって、そこで気づく。
立花が入ってきたのにも気づかない風だった。花嫁の視線は花束に注がれたまま、微動だにしない。
花束の包装の外側には、小さなメッセージカードが留められていた。立花はそっと近づいて、カードに記された名前を確かめる。
あの馬鹿、と息だけで呟いた。
その言葉に我に返ったように、花嫁が身じろいだ。花束に深く腕をまわし、そっと頬を寄せる。
それはどこか―――行ってしまうと解っていても引き止められない誰かの背中を見つめ、そしてただじっと寄り添うのにも似た、静かな仕種だった。
実際には、別れの言葉すら告げずに彼女の前から姿を消したのだ―――と立花は思い出している。
それが伝わったかのように、つと花嫁が顔を伏せた。ベールからつややかな黒髪が滑り流れて花を揺らす。ビロードのような光沢の花びらの上に音もなく露がこぼれた。と見る間に、幾粒もの露が花びらの上を転がり落ちて純白のドレスの膝を丸く濡らした。
「ああ、花嫁さんが泣いちゃいかん」
居心地の悪さを紛らそうと咳払いして、立花がハンカチを差し出す。受け取って、はい、とまだ涙声で答えながら、花嫁は立花を見上げた。
「全く仕様のない奴だ」
「…すみません」
「いや、純子さんじゃなくてだな。志郎だ、志郎」
この場にいない相手を叱ったところで仕方ないが、どうにも言わずにはいられなかった。
「ちょっとくらい顔出すとかしたっていいものを…本当に勝手な奴だ、なあ」
「ええ」
睫に宿る涙を押さえ、しかし花嫁はどうにか笑おうとしたようだった。
「でも、風見さんらしい」
まだ目は潤んでいたが、今度はしっかりと笑うと花束を改めて深く抱きしめた。
それにしたってこんな綺麗な花嫁さんを見てやらないってあるか、と立花はまた心に呟く。
「…人ト、人ヲ繋ぐものは、愛でス。…」
来日して二〇年になる、という割には日本語のたどたどしい神父の話を、じっと聞いている花嫁の横顔には、もう先刻の涙の名残はなかった。
どうして天晴れじゃないか、と深く思う。これを彼女は風見に見せたかったのだ。それを見届けないとはけしからぬ。やはり説教してやらにゃ、と立花は心に決める。
同じ道を進む事はもうなくても、共に戦った日々の記憶はその胸にある。決してそれを忘れる事はないから、彼等に守られているこの世界で、力の限り幸せになる。そう彼女は決意している。
誓いまスか、と問う声に、誓います、と答えた。
静かにベールが取られる。
たおやかに見えて芯の強いまなざしが、ステンドグラスから射す眩しい陽光の中に凛と上げられた。
三
海は静かに夕暮れに染まっている。
二階の窓から美しい橙色の海を眺めながら、その穏やかな波音がもう自分の心を乱さないのを、風見はぼんやりと確かめている。
結局会わなかったな、と思った。
それでいい、と思いもする。
実は控室に花束を届けて貰った後も、すぐには立ち去らなかったのだ。数年ぶりに見る、その眩しい晴れ姿が控え室から教会へ進んでいくのを、風見は少し離れた場所からしばらく見つめていた。それで充分だった。
「…帰ってたのか」
背後からものうげな声がして、風見の追想を遮った。風見が帰ってきた時にはまだ眠っていたが、ようやく麻酔から醒めたらしい。
「さっきな」
振り返らずに答えた。
その素っ気無い返事にどうやら納得できなかったとみえ、起き上がろうとする気配が伝わってきた。しばらく努力していたがうまく行かなかったらしく、ややあってかすかに息をついて寝返りをうつ。
当たり前だ、と風見は背を向けたまま思う。つい六時間前に、腹を開けて神経組織の基幹部を機械に置き換えたばかりなのだ。
結城丈二の生体部分と機械部分を繋ぐ新しいインターフェースは、まだきちんと機能していない。
「行ってきたか?」
しかし声に力を込めて、低く念を押してくる。彼なりに気にしているのだ。
珠純子の結婚式の話を、風見は周囲に伏せていた。
たまたま再改造手術の為に帰国する、という用事がなければ、本郷や結城に知られる事もなかったろう。招待状は少し前に受け取っていたが、正直なところ最初から出席するつもりはなかったのだ。
もう自分は彼女の前に姿を見せるべきではない、と思ったのは、デストロンとの戦いが終わった時の事だった。
いや、本来ならずっと前に、そうしているべきだったのだ。デストロンを目撃した事が引き金となって風見の家族を犠牲にさせた―――と罪の意識を抱いていた彼女を、自分は解放できないまま、その好意にいわば甘えてデストロンとの戦いに巻き込んでしまったのだから。
ましてやそれも遠い日の事となった今となっては、わざわざ自分が顔を出して思い出させる迄もないではないか。
ただそれを、いちいち説明するのもわずらわしかった。
それに手術の日と同日になったと知れば、何も言わなくても結城が手術の日程を先送りしようとするだろうとも解っていたから、なおさら伏せておくつもりだったのだ。ちょっとしたトラブルで結城の帰国が日程ぎりぎりになった偶然も好都合だった。当日さえ過ぎてしまえば、後になってあれこれ言わせないだけの自信もあった。
だから誤算だったのは、忙しい仕事の合間をぬって帰国した本郷が、律儀に立花を訪ねていた事だ。まさかそこから話が伝わるとは思いもしなかった。
(早く教えてくれれば、来週にしたんだ)
昨晩、本郷から話を聞いた結城は本気で怒った。一刻を争う手術ではなかったが、それなりにスケジュールを組んできたのだ。もう前日になっては、今更明日に延ばすという訳にも行かない。
(大体前から言ってるが、何も毎回僕の手術につきあってくれる事はないんだ)
別にそれとこれは関係ない、とは風見も重ねて断言している。とはいえ自分の事情が関わっているのが、生真面目な結城には我慢ならなかったのだろう。
(もういいから。純子さんの結婚式のほうに行くべきじゃないか)
そこまで言われては、言い返さずにはいられなかった。
(…別にお前の手術のせいで行かないとは言ってない)
(何?)
(手術が時間通りに終われば、十分間に合うんだ)
しかし思えばうっかりそう断言してしまったお蔭で、行かない訳にはいかなくなったのだ。
手術は予定時間より少し早く、正午前に終わった。ちょっと出掛けてきます、と仕方なく別荘を出たものの、しばらく海辺をぶらぶらしたりしていたが、まさか日暮れまでそうしている訳にも行かなかった。
伊豆から東京までは高速道路を使えばそれ程時間はかからない。式場は風見が生まれ育った街からそう遠くなく、学生時代にはすぐ近くの繁華街にも良く通ったものだ。道に迷う筈もなければ、途中で祝福の花束を用意するのにまごつく訳もなかった。
(お祝いですか?)
式場近くの花屋も心得たものだった。一応、という趣で問いかけられた声の記憶と共に、綺麗に包んでくれた店員の明るい笑顔や、店先で差し出されたカードの透かし模様が、不意に眩しく面映く甦った。
「ああ」
返事は我ながら不機嫌に響いた。
「綺麗だったろうな」
対して結城の声は、まだどこかまどろんでいるように穏やかだった。
いい加減振り返りたかったが、どんな顔をしていいのか解らなくて風見はまごついている。そう矢継ぎ早に聞くな、と八つ当たりしそうになるのを抑えている。折角落ち着いていた気持ちがまた波立ちそうだった。
「…風見?」
沈黙している自分の背中を気遣うように見つめているのだろう、誠実な黒い瞳が不意に意識された途端、喉が塞がれたようにもう何も答えられなくなった。
自分に関われば不幸になる、とどこか確信のように思っていた。幸せになるなら尚の事、いっそ忘れて貰った方がいい。だがそう思いながらも心が騒ぐ。
何故なら彼女はかつて、背負う危険を承知の上で手を差し伸べてきたのだ。巻き込むまい、と思いながら向けた自分の背を、彼女が見つめているのを知っていた。
(…そうか…)
ならば会わなかったのは彼女の為ではなく―――自分の為でもあったのだ。あの頃ほのかに抱いていた感情の名残りを、呼び覚まさないようにと。
窓枠を掴んだ手に、知らず力がこもっていた。以前から補修しなくては、と思いながらそのままになっていた木枠のささくれが、棘となって指先を鈍く刺すのを感じている。今度は意識して、静かに力をこめた。
「…ああ、綺麗だった」
その痛みを確かめて、手を放す。
忘れるまい、と思う。そんな密やかな記憶への哀惜を抱いて、自分はまた新たな戦いの日々を生きていく。
夕暮れの涼しい海風が、ふわりと窓から入ってきた。
その風に誘われたように、背後でまた身じろぐ気配がした。まだ少し苦労しながらも、結城がゆっくりと上体を起こしたのが解る。
「幸せになるといいな」
ややあって独り言のように呟かれた言葉はだいぶ物憂さも拭われて、いつもの落ち着いた結城の声に戻っている。予定通りに行われた再改造手術の全容は、当の結城自身が一番良く把握していた。もうそろそろ普段通りに動けるようになる筈だ。
「…大丈夫だ」
風見は低く答えている。自分から切り出しておきながらどう言葉を継いでいいものか少し迷っていたらしいが、そうか、とやがて結城が小さく呟くのが聞こえた。
橙色に染まる海は、いつか風見が見た海の色だ。その時はどんな気持ちで海を眺めていたのか、そんな事ももう忘れてしまっていたが、確かな事は―――その時に抱えていた筈の幾つもの煩悶を越えて、自分達は今ここにいる、という事だ。
ノックの音がした。
一文字が二階から下りてくると、本郷は電話に向かっていた。
「…ええ、帰ってますが。はい」
一文字は視線を上げた。受話器の向こうで誰かが大声で喋っているのが、離れていても解る。その上、本郷に合の手を挟む間さえ与えない相当の早口だ。
「これからですか?」
本郷にしては珍しく困惑の浮いた声に、一文字はふいと耳をそばだてた。
「いや、それは構いませんが。…あ、もしもし?」
どうやら相手の話が済んだところで一方的に切られたらしい。受話器を置いて、本郷は少し困惑したような顔で一文字を振り返った。
「…おやっさんだったよ」
「あ、俺か?」
それにしてはどうも何か怒っていたようだが。何か自分は機嫌を損ねるような事でもしたろうか、と一文字は眉を寄せる。
「いや、風見だ」
「風見に?」
「お説教があるらしい。これから行くから待ってろと言っとけ!だとさ」
「何だそりゃ」
さあ、と答えながら本郷はひっそりと苦笑する。状況は断片的にしか解らなかったが、大体の察しはついていた。
実は自分にも身に覚えのある事だ―――などとは明かせないが。
「とにかくこっちへ来るらしい。良かったな」
「うん?」
「お前のコーヒーが早速の出番だ」
「あ、そうか」
結果オーライだな、と何故か胸を張る一文字に柔らかく笑いかけて、本郷は二階へ上がっていった。
<完>