一
春先の陽が、柔らかく射していた。
代々の学生の手で拭き磨かれてきた木の机とコンクリートの床は穏やかに白く、机上の試験管
やビーカーはまばゆい光を宿して鎮まっている。壁際の書棚に雑然と詰め込まれたファイルや書
物の背表紙も、その照り返しを受けてしんとした静謐の内にあった。
夢だな、と本郷猛は思っている。
懐かしい風景だった。だが見慣れた機材や資料がこんな風に並んでいたのは、ずっと昔の事だ。
その主が「原因不明の」失踪を遂げた城南大学の研究室は、もう何年も前に閉鎖されている。今
は戸口の名札も、本郷の三年先輩にあたる新進気鋭の教授の名に懸け変えられている筈だ。
そう思いながら、今は思い出の中にしかない風景をぼんやりと眺めた。
初めて緑川研究室に足を踏み入れた時、本郷はまだ二十才前の学生で―――そしてここで、こ
れからどのように研究を続けていくべきかを導いてくれる生涯の師と出会ったのだった。それま
で独学で得ていた知識は、この静かな秩序の内で生化学の基礎から学び直される事で体系化され
た。いわば科学者としての本郷は、ここで育まれたとも言える。穏やかで厳粛な風景は、本郷の
心の底に常に還るべき場所として刻まれていた。
たとえここで過ごした日々が、あの運命の日に続くとしても。
背後でドアの開く音がした。
誰なのかは判っていた。かつてまだ平和だった頃、彼女は父親の忘れた弁当や着替えを持って
良く研究室に来ていたものだ。夢の内でさえ軽やかな足取りが、幻となって眺めている自分の傍
を通り抜けていく。
そのたおやかな容姿に似合わず勝ち気な彼女と初めて出会ったのも、もう随分昔の事だ。ほっ
そりとした後ろ姿を、本郷は懐かしく眺めた。
ワンピースの裾からすんなりと伸びた足が、しかし部屋の中でつと止まる。辺りを見回し、や
がて小走りに机を回って書棚の陰や続きになっている部屋を伺う。その美しい横顔に少しずつ不
安の色が濃くなっていくのを、本郷は痛ましく思う。
(……もう、居ないんですよ)
思わずそう語りかけていた。
彼女が訪ねてきた相手は、もうこの世には居ない―――自分一人が、その死と懺悔に立ち会っ
たのだから。
その声にはっとしたように、彼女が振り返った。豊かな髪が春の波のように揺れて、黒い瞳が
本郷を見上げる。
じっと凝らされた目が、ややあってふっと伏せられた。弁解する事も、慰められる事も拒むよ
うに。
(何故目を逸らすんです)
手をさしのべかけて思いとどまる。この手は、もはや生身の人の悲しみを柔らかに抱き止める事
の出来ない手だ。
(僕を裏切ったのは、貴女ではない)
手ばかりか―――この身体を人間とはかけ離れたものに造り変えた悪魔の手に、自分を渡したのは
この部屋の主だった。
けれどその人を、自分も父のように慕っていたのだ。だからこそ、あの時何ひとつ責める言葉は
浮かばなかった。恩師が最後に与えてくれたのがこの運命なら、それに立ち向かい、ただ一人でも
戦う事で弔っていく。
そしてそれでも、いや何があろうとも貴女を―――と。
決して言葉にしてはいけない思いをもどかしく持て余しながら、本郷は白い顔を見つめている。
斜に陽射しを浴びて、その半顔は輝くようだ。けれども滑らかな額には、くっきりと苦悩の皺が
刻まれている。
何かに引き戻されるように、目が覚めていた。
はっと見開いた目に映ったのは、しんと静かな室内だった。光を落としたライトが浮かび上がらせ
る作り付けの家具の輪郭も闇におぼろだ。旅の数少ない道連れである腕時計の文字盤が、闇の内で
ぼんやりと光っている。
まだ夜明けまでは二時間もあるのを確かめて、本郷は寝返りをうった。
エアコンの吐き出す空気が汗ばんだ肌に心地よいと同時に、ふと寒気めいた感覚を呼び覚まして
本郷は息をつく。
何故今頃、と僅かに苦笑した。
緑川ルリ子はここから二回国境を越えた静かな町で、幸せな家庭を築いている。あんな夢を見る
程、今更何が心にかかっているというのだろう。現実のようにまだ生々しく瞼の裏に張りついてい
る光景を反趨して、本郷はふと眉を寄せた。
(……違うな)
あれは―――緑川ルリ子ではなかった。
夢の内の面影は曖昧だったが、全く見知らぬ女性の目鼻立ちだ。誰だろうか、と記憶を探ってみ
ても、思い当たる風貌はない。
ただ、その伏せられた瞳の色と眉間に刻まれた陰影がまだ瞼の裏に焼きついている。明かせない
苦悩を秘め、深い憂いに満ちていたあの表情が。単なる夢だ、と片付けるには強く心に残る。
(誰だ……)
再び闇に自問する。
(……君は誰だ)
あるいは、夢を見たのは。
頬に射す陽の眩しさに、神敬介は目尻を撓めた。真横に仰ぐ窓と天井をいぶかしみ、そこでよう
やく自分が机に開いたアルバムに頬を置いているのに気づく。
(……寝てたのか)
誰が見ている訳でもないのに奇妙に気まずい気持ちになって身じろぐと、頬に薄いフィルムがぺっ
たりと貼りついてきた。重いアルバムの感触が残る頬を苦笑混じりに擦りかけ、手の中に握ったま
まだった感触に表情をひきしめる。
今月に入って子供が姿を消す事件が三件、立続けに起こっていた。学年にも境遇にも共通点はな
く、子供同士にも面識はない。身代金の要求がある訳でもなく、営利誘拐と断定するのは難しい。
しかし状況から家出とも考え難い、と警察も捜査を進め倦ねているらしかった。
そして今朝、四件目の事件が起きている。
おそらくこの事件にはGODが絡んでいる、と睨んだ敬介は独自に調査を始めていた。これまで
の事件の発生地点から割り出したポイントを見回り始めて三日めの朝、敬介の耳は普通の人間の耳
には聞こえない悲鳴を捉えたのだ。
急いで駆けつけたものの僅かに遅く、既にその場には子供の自転車が横倒しになっているだけだっ
た。しかし敬介は、自転車の傍に落ちていた海藻とも植物ともつかない一束の繊維を手にしている。
今はどんな小さい手掛かりでも、ないよりはましだ。何よりそれをどこかで見た事があるような気
がして―――思い出すのにそれ程時間はかからなかった。
(―――親父の標本だ)
海洋工学を専門にしていたというばかりではなく、海が好きな父親だった。まだ子供だった自分を
朝に夕に浜辺に連れ出しては、貝や魚の名前を教えてくれたものだ。昆虫を集めるように、標本に
できる海草類もアルバムに綴じて楽しんでいたのを覚えている。最後に見たのは沖縄に行く前だっ
たが、どこにあるのかもすぐに思い出せていた。
大学がまだ残していてくれていた、父親の研究室だ。
ここに初めて来たのは、まだ自分が小学生の頃だったろうか。そんな時間の流れを全く感じさせ
ない程、全くその佇まいは変わらない。研究の文献も趣味の標本も全く区別されずに詰め込まれた
書庫から見覚えのあるアルバムを見つけだして調べ始めたものの、いつの間にか睡魔にとらわれて
いたらしい。
この懐かしい空気に誘われるように。
窓から射す陽にまばたきして、敬介は改めて室内を見渡した。
(……夢)
そう言えば夢まで見ていたな、と思う。
懐かしい夢だったように思うが、はっきりと覚えているのは目覚める間際に見つめていた色白の
顔だけだった。
それもこの部屋に来たせいだろう。あえて思い出さないようにしていた水城涼子の面影は、夢の
中でさえ今なお鮮明だった。
父親の新しい助手として彼女と初めて出会ったのも、この研究室だった。アメリカ育ちの才媛と
いう肩書きとは裏腹に、優しく物静かな彼女に惹かれていくのに時間はかからなかった。
ついつい売り言葉に買い言葉で衝突しがちになる父と自分だったが、いつも笑いながら間に入っ
てくれる彼女が居てくれて随分助かったものだ。少なくともここ三年程は、自分よりも彼女の方
が父親と過ごしていた時間ははるかに長いだろう。気難しく変わり者の父親だったが、彼女を気
に入っていたのは知っていた。
だからこそ、あの日の事は今も悪い夢のようだった。
まだ自分達の敵が何者なのかも解っていなかったあの夜。父親の開発した防弾チョッキを燃や
していた侵入者の正体を暴いたあの瞬間は、自分の目が信じられなかった。
覆面の下から現れた白い顔。街灯の光を避けて伏せられた横顔に、くっきりと刻まれていた苦
悩の色は、たった今夢に甦ったばかりでまだ瞼の裏に灼きついている。
(涼子さん……?)
GODの手先として、自分を死に追いやる。潜入捜査官としての使命を果たす為には婚約者を犠
牲にするのも厭わない覚悟だったのか、それともその死から父親がカイゾーグとして自分を甦ら
せる事まで見越していたのか。そんな事も、そう言えばとうとう解らないままだったと思い返す。
そもそも彼女が双児だという事すら、自分は知らなかったのだ。
それも今にして思えば、彼女達の素性を自分に隠す為だったのかもしれない。巧みに入れ代わ
る事で敵どころか時には味方すら撹乱できる、同じ容貌。それは彼女達の最大の武器だった筈だ。
国際秘密警察の調査官というその身分を、父親は知っていたのだろうか。
おそらく知っていたろう、と思う。いくら気に入っていたとは言え―――いや、それならば尚の
事、あえて彼女を危険に巻き込む筈がない。GODに命を狙われている事を知りながら、父親はあ
の秘密の研究室に彼女を同行させたのだ。それだけの理由があった筈だ、と考えるのが自然だろう。
父親は彼女の任務を知り、彼女は父親の覚悟を承知の上で、最後の砦となるあの研究所へ向かっ
た。非道と思われようが、裏切りと誤解されようが、せめて自分だけは助ける為に。
結局何も知らなかったのは、自分だけだったのだろう―――と思いかけて、敬介は眉を寄せる。
(……いや)
それは今も変わらない。
実際のところ、本当のところは何ひとつ解ってはいないのだ。ただ信じようとする自分が、あれ
これ推測を巡らせているだけで、今となってはその真意を知る術はない。父親も恋人も、命懸けで
全てを引き受けながら、最後まで自分には何ひとつ語ろうとはしなかった。そして今となっては、
ただ一人生かされた自分がそんな覚悟に応えるにはただこの身体を懸けて戦い続けていく以外にな
いのだと。
そう思いながら、廊下を走ってくる足音に耳をそばだてる。
「―――敬介さん」
歌うように呼び掛けられ、敬介は振り返った。
「チコか」
コーヒーハウス「COL」の快活なバイトが、ひょっこりと戸口から顔を覗かせている。
「……良くここが解ったな」
「マスターが、おおかたここだろうから行ってみろって」
「おやっさんが?」
「ここのところさっぱり顔出しやがらないって、御機嫌斜め」
「そうか」
知らず微笑が浮かんでいた。
もう父親の遺志を継いで戦う以外には、何も残されていないと思っていた自分だったのだが。そ
れでも不思議な縁で、GOD以前から数年にわたって悪と戦い続けてきた人と知り合う事になった。
そしてそれも、父親が与えてくれた名前とつながっている。
(―――仮面ライダーX)
初めは意味も解らないまま、名乗った名前だった。
だがそれは、この世界を支配しようとする悪と戦う者の名なのだと教えてくれたのが―――今は
「COL」の店主におさまっている立花藤兵衛だった。
(俺は仮面ライダー一号、二号、V3も、そしてライダーマンだった四号も知ってる)
生身の人間でなくなった悲しみと怒りを抱え、それでも世界征服を企む巨大な悪の組織に単身戦い
を挑んできたのは自分ばかりではない。今は海外に暮らしているというまだ見ぬ先輩の話は、立花
から良く聞いている。
いつか会える日は来るのだろうか、とふと思った。
二
とうに太陽は水平線に没し、空も海も藍色に暮れている。僅かな残光を含む波頭は穏やかに打ち
寄せていたが、幾つもの足に踏み荒らされて乱れた砂浜には淡い紺の影が生々しい。
腕に抱えたままのシャツの袖が、南国の風に揺れる。
抜け殻のような衣服を支える手には、まだ力がこもっていた。ここにはつい数十分前まで、半年
近く一緒に研究していた科学者が袖を通していたのだ。
(帰ったところを済まないが、急いで頼みたい事があるんだ。ちょっと戻って来てくれるか)
そんな電話を受けて研究所へ向かった結城丈二は、しかしこの砂浜で当の科学者と、彼を追う謎の
男達に出くわす事になった。事情は解らないまま、とにかく彼を助けなくては―――と半年ぶりに
ふるった拳も、戦いの名残にまだ熱い。
謎の追手を最初はデストロンの残党かと思ったのだが、黒装束の胸に刻まれた紋章は見た事のな
いものだった。とは言え纏う空気に、名前は違っても同じ流れをくむ集団だろうと察しはついてい
た。倒すとその身体を砂状に変質させる身体改造を受けていたのも、予想の範疇だ。
だが思ってもみなかったのは。
(日本の、ジン教授に……伝えてくれ、貴方は正しかったと)
僅かに間に合わなかったこの手がかろうじて抱きとめた科学者もまた、その死と共に身体をこの砂
浜に帰した事だった。まさか、と思いもした。お互いの過去を語る事はなかったが、この南国の空
のように明るく屈託なかった年上の科学者には自分のように語れない過去などないだろうと、勝手
に思い込んでいた。
(……《神》の手が、近づいてくる……)
苦しい息の下から伝えられた言葉は、その意味も良く解らなかった。だが彼を助けられなかった自
分にできるのは、その言葉を覚えておく事だけなのだと、改めて心に誓う。
日本に居るらしい、という事以外は何も解らない科学者を探すあてなどなかったが、とにかく一
番早く日本へ帰れる飛行機を調べよう。
(伝えてくれ、逃げるようにと……)
文字通りに受け取るなら、その見も知らぬ科学者にも彼と同じように危機が迫っている筈だ。
そこまで考えて、結城はふと耳をそばだてた。
陽の名残で熱い風が、砂浜を低くよぎる。その砂を踏んで、ゆっくりと近づいてくる足音がある。
先程の襲撃者の仲間がまだ残っていたのか、と静かに身構えた。それならばいっそ好都合だ。今
度こそその素性と、そして彼を狙った目的を聞き出してやろう。そう考えながら間合いをはかり、
足先にぐっと力をこめる。振り返りざま相手の胸倉をとらえようとした、まさにその時。
その胸元で、結城の手はかろうじて止まっている。
『―――所長?』
慌てて拳を引きながら、それでも声は幾らか険しく響いたかもしれなかった。
白衣の肩を落として立ち尽くしている初老の男性は、いつもより一回り小さく見えた。研究所の
所長の灰青色の瞳は、結城が抱えたままのシャツに向けられている。
『……まさか、本当だったのか』
掠れた声が、風に流れた。
『所長』
もう一度かけられた声で、そこでようやく結城の存在に気づいたように視線が動いた。
『どうして、ここに?』
しかしそれには答えずに、ゆっくりと手を伸ばして中身を失ったシャツの襟に触れる。何かを堪え
るように、繰り返し指先がカラーを撫でた。いつもは柔和な微笑をたたえている目元に、深い苦渋
が滲んでいた。
『何も聞くな』
節くれだった指先が、そっと襟をなぞる。
『研究者は、今の研究が全てだ……過去の栄光も醜聞も関係ない』
それは所長の口癖だった。
重要なのは実力と熱意だ、という主義の元、以前書いた論文の提出を求められただけでそれ以外
には自分も何も聞かれなかったと、結城はふと思い返す。
自分の知識も技術も、忌わしい過去と無縁ではない。尋ねられれば隠すつもりはなかったが、そ
れでも問われない事にどこかで安堵もしていた。
おおらかな南国の空気と、研究に熱中できる環境の中で、それもごく当たり前のように受け入れ
ていたのだが。
だが楽園は―――罪なき者の為にある。
『……所長は何か、知っているんですか』
低く結城は尋ねた。
『もしそうなら教えて下さい。僕は、マイケルの遺言を伝えなくては』
『何も聞くなと言ったろう』
きっと見据えられて、思わず息をのんだ。
薄闇の内で、淡色の瞳がいつになく感情を込めて光っている。興味本位や迂闊な言葉を許さない、
厳しい光だった。
しかし結城も引き下がらない。
『ですが、僕は何も知らないんです』
かつて「知らない」が故に、数々の過ちを重ねてきた自分だ。もうこれ以上間違いを繰り返さない
為なら、それがどんなに酷い現実であろうとも知らずに済ます訳には行かない。
『少しでもいい。教えて下さい』
まっすぐにまなざしを向けた。
海からの熱い風が、砂浜を渡る。つい今しがたの戦いの痕跡も、少しずつ吹き均されていく。
ややあって目を伏せたのは、所長の方だった。
『私が所属していた訳でないが……もう二十年近くも昔、アメリカに本拠を置く特務機関があった。
第二次世界大戦の同盟国が共同して造り上げた、高度な科学技術をもつ研究機関だ。研究対象は多
岐にわたっていたが、一人でも一個中隊並みの力を発揮する兵士の開発―――人体改造なども扱っ
ていたらしい』
『人体改造?』
聞き返した声が険しくなったのに、結城は気づいている。
人体に手術を施し、時には姿を変えて人智を越えた能力を発揮させる。その技術は無論結城にとっ
ては既知のものだ。今更驚くにはあたらない。
だがそれを、国歌に所属する機関が保有しようとしていたとは、考えてもみない事だった。少な
くともこの世界では、改造技術に不可欠な人体実験も禁忌とされている筈だ。もしもその禁を侵し
たとすれば。
それはもはや―――世界征服を目論んだデストロンやショッカーと同じではないのか。
『まさか……そんな』
思わず唇をついた言葉は、しかし所長には別の意味に受け取られたらしい。恐ろしい話だろう、と
独りごちるように呟いた。
『もっとも、米ソの現状を見るに未だに存在しているとは考え難いがな。G機関―――と当時私の
周りでは呼んでいた。本当の名前を知る人間はおそらくごく少数だろうが』
『……そこに、マイケルが?』
『らしいな』
少なくなり始めた細い銀髪が、吹く風に揺れた。
『私が聞いたのはその位だが……マイケルは何か、その機関での研究に関する秘密を握っていたらし
い。半年程前だったか』
君がこの島に来る少し前だな、と思い出したようにつけ加えた。
『マイケルの家に、泥棒が入った事があった。何も盗まれたものはなかったと言っていたが、その
時彼は何か心当たりがあるようだった。研究があったから、すぐに……という訳には行かなかったが、
とにかく目処がつき次第一度本国へ帰っておきたいと言い出してな。自分が殺されたら、何ひとつ
残らないからと……まさかこんな意味だとは思わなかったが』
『それで……』
本来なら明日、彼は久しぶりの帰国の途につく筈だったのだ。
『そう』
小さく溜息をついた。
『だが本人が話したがらなくても、もう少し話を聞いておくべきだった。何かしてやれる事があっ
たかもしれん……もう今となっては遅いが』
『いえ』
結城はまなざしを上げた。
もうすっかり陽は落ちて、水平線も遠く夜の闇に閉ざされている。しかしその海の向こうには、
必ず朝を迎えている土地があるように。
『まだ間に合う事がある筈です。マイケルの死を無駄にする訳には行きません』
『君は』
言いかけて所長は眉を寄せた。
『マイケルの事は気の毒だと思う。だがこれ以上係われば、君まで命を狙われる事になりかねん。
まだ若い君の正義感は解らないでもないが、何もわざわざ自分から危険に飛び込む事もあるまい』
『所長』
海の彼方から吹いてくる風が、静かに結城の頬を過ぎていく。
常夏の国の熱い風に、しかし結城はふと乾いた匂いを感じとっている。あの日も故国の砂浜で、
自分はこんな風にただ吹き過ぎる潮風を感じていた―――と思い出す。
『僕はかつて、ある組織の為に働いていました』
思えばあれからまだ、一年も経ってはいないのだった。
『その組織が、人類の平和の為に貢献するものと信じて……だが、真実は逆でした。僕が進めていた
研究も造り出したものも、人間を不幸にするものだった。それを知った今も、僕がどれだけの人を
犠牲にしてきたのかは解りません』
皮肉にも、裏切られる事でようやく知った真実。ずっと騙されていた事よりも、愕然としたのは自
分が悪魔の所行に加担していたという事実の方だった。
『だからこそ、償わなくてはならない―――科学者として』
背負うべき過去を、逃れて楽園に暮らす訳には行かない。
『もしもマイケルが何か秘密を握っていて、その為に殺されたのだとしたら。そしてそれが人を不
幸にするような科学なら、僕は命を懸けても止めなくてはならない……そう思っています』
波の音が、静かに寄せてくる。
『……そうか』
ややあって、所長が静かに口を開いた。
『行きたまえ。大した事はしてやれんが、後は引き受けよう』
ゆっくり手を伸ばして、結城が抱えていた衣服を受け取る。そのままきびすを返しかけたが、ふと
立ち止まって振り仰いだ。
『ああ、そうだ。研究所に寄って行くといい』
『研究所に、ですか?』
無人の研究所に今更行ったところで、何があるというのか―――といぶかしげな結城に、目をすが
めて頷いた。
『これは私の推測だが、マイケルの事だ。ここまで出てきたと言う事は、何とか逃げようとしたの
か……あるいは』
シャツを掴む指に、つと力がこもる。その淡い色の瞳に導かれるように、不意に結城の脳裡にひら
めくものがあった。
『―――研究所に、何か隠してあったものが?』
そう言えば自分は自宅ではなく、内密の話にはむしろ不向きな筈の研究所に呼ばれたのだ。そして
半年前自宅に入ったという賊も、その目的を果たせずに今日マイケルを襲ったのだとしたら。
その可能性はある。
『だがくれぐれも、無茶はしないでくれ。君が立ち向かおうとしているのは、おそらく人間以上の
恐ろしい力を持つ相手だ……』
『それなら大丈夫です』
自分がどんな顔をしているのか、結城には解らない。
ただ、気持ちだけは不思議な程落ち着いていた。
共に研究を重ねてきた科学者が身体改造を受けていたように、自分もまたその過去をこの身体に
刻んでいる。
だがそれを後悔はしない。何故ならその力を、今は誇りにもするからだ。
『僕も、生身の人間とは違いますから』
所長の目が見開かれたようにも思ったが、幸か不幸か濃くなっていく闇の内ではっきりとは見定め
られなかった。
静かに一礼すると、結城はゆっくりと砂浜に歩を進めた。踏む砂は、さっき倒した謎の男達と同
僚の残骸を含んで、なお深く乾いている。
耳をすますと、低く海が鳴っていた。
どれだけ遠く離れていても、この海も故国の砂浜につながっている。
(……呼んでいる)
訳もなく、ふとそう思った。
三
ジャケットを羽織り、机の上のルームキーを取ったところで電話が鳴った。ホテルマンの慇懃な確
認に答えると、かすかなフック音と共に電話が切り替わる。
『もしもし?』
聞き慣れた声に、ふっと表情が緩むのを感じながら本郷はキーを机に戻した。
「なんだ、もう着いたのか?」
『ああ、今空港。昨日の最終便にキャンセル席があったんで滑り込んだ』
一文字隼人はいつも通りの屈託なさで答えながら、珍しくふと言い淀んだ。
『……と言うかな。妙に気が急いたって言うか』
不思議だな、と本郷は思う。
『お前の久しぶりのレースだからかな?』
気楽な笑いで紛らせながら、その底に真摯な光を含む一文字のまなざしが見えるようだった。
仮面ライダー同士ではたらく精神的な共振の理由を、同じ改造手法に結びつけるのは後付けの理屈
だ。それだけでは説明のつけられない奇妙な共振を本郷自身何度も経験しているし、逆に窮地に陥っ
ているからと言って、必ずしもそれが仲間に伝わる訳でもない事も解っていた。
ただ確かなのは、同じ名前をもつこのおおらかな旧友が、自分の揺らぎを感じ取っている事だ。そ
う思いながら、窓の外へ視線を向ける。
「隼人」
空には薄く雲がかかっていたが、夏の陽光は強い。窓の外に広がる舗道も壁も、この地方特有の白一
色に塗られて眩しく陽光をはね返している。その茫としたまばゆさにふと目眩にも似た感覚にとらわ
れて、言葉が唇をついていた。
「……最近、何か変わった事はないか」
夜明け前に見た夢の、どこの誰とも知れない女性のまなざしが、また目の前をよぎる。夢にしては鮮
明すぎる深い憂愁の表情は、まだはっきりと思い起こせた。もしもあれがただの夢ではないとしたら、
一文字も何か感知しているかもしれない。
『あ?』
しかし聞かれた一文字は面喰らったらしい。電話越しでも、首をひねっているのが判るような声だった。
『変わった事、ねえ……』
言いながら考え込んでいる。
見当違いだったろうか、とちらりと本郷は思う。一文字は感覚的にはむしろ本郷より鋭い処もある。
その彼が何も感じていないのなら、自分の考え過ぎかもしれない。いいんだ忘れてくれ、と口まで出か
かった、その時である。
『そういえば、時々ふーっと海の匂いがするな。お前か風見が海の近くにでもいるのかと思ってたんだ
が、違うのかな』
でも近い感じなんだがなあ、と独りごち、ふいと声を上げる。
『あ、もしかするとあの先生か。確か今、タヒチに居たっけ?』
誰の話題か気づくのに、一瞬の間があった。
雲が切れて、ぎらつく陽が窓から射し込んだ。
(―――そうか)
不意に本郷は思い当たっている。
先日来どこかで気にかかっていた一件が、こんな風に係わってくるとは思いもよらなかったが。一文
字の意識にかかってきた、結城丈二の気配。本人はまだ知る由もないだろうが、それは先日本郷の元に
持ち込まれたある相談事の鍵となってくれる筈なのだ。
そして夜明け前に見た夢の舞台。
あれは―――馴染み深い大学の研究室だった。
未だ全貌は見えないものの、全てはある一つの目標へ向かって収束していく。そんな予感に本郷は目
を細める。おそらく《彼》に出会う為に、自分達もまた動き始めたのだ。
共有する名前に導かれるように。
『おい、本郷?』
一文字の声に、本郷は我に返った。
「……何でもない」
どうにかそう答えている。説明できる自信はなかったが、詳しい話は直に会ってした方が良さそうだ、
と腕時計を見やった。
「ホテルは分かるな」
『ああ、昼過ぎにはそっちに着くよ。それじゃ』
電話が切れた。
本郷はジャケットを椅子の背もたれにかけ、机の引き出しから一通の封筒を取り出して机に置いた。
そう言えばこの件も、一文字には話しておかなくてはと思っていたのだ。
日本に比べればしのぎ易い気候とはいえ、冷房の入っていないバスに二時間も揺られると流石にホ
テルの涼気がありがたい。まだ熱気のこもった鞄を抱えて、一文字はドアを叩いた。
「よう」
半年ぶりに会う旧友は、変わらない笑顔で一文字を出迎えた。本郷の研究テーマとも関係の深い研究
を専門にしている生化学研究所に通う傍ら、来週開催されるレースに合わせて調整している為か、少
し以前より陽焼けしたろうか。しかしそのまなざしに、表情に浮かびにくい逡巡が浮かんでいるのを
一文字は見てとっている。
どうやら早めに来たのは正解らしいな、と鞄を置いた。
「―――で?」
エアコン直下のソファを占領して心ゆくまで涼んでから、おもむろに一文字が斜に見上げてくる。
本郷は机に置いてあった封筒を差し出した。
「ちょっと、目を通してみてくれ」
本郷と渡された封筒をいぶかしげに見比べながら、一文字は視線を落とす。差出人の署名は達筆な漢
字で記されていた。
「…ダイブツイチロウ?」
「ダイブツ、じゃない」
本郷は苦笑した。
「オサラギと読むんだ」
「知り合いか?」
「まあな。……と言うか、正確には緑川先生の知己だが」
久しぶりに口にした恩師の名前に懐かしげな表情になる本郷を、一文字は封筒越しにちらりと見やる。
かつてその恩師に見込まれたといえば聞こえはいいが、いわば売られた―――と言うのは逆に言葉
が悪過ぎるのだろうが―――形でこの過酷な宿命に投げ込まれる事となったにもかかわらず、本郷は未
だ少しも変わらない畏敬を込めてその名を口にするのだ。
「大佛一朗博士は海洋工学の専門家だ。ここ数年は、確か日本で海底施設の実現に向けたプロジェク
トに着手していると聞いていたんだが…」
しかし裏書の住所はどう読んでも日本のものとは思えなかった。うさんくさげに一瞥すると、一文字
は封筒を膨らませている紙の束を引き出した。
厚手のしっかりした紙には、一面に何かの図面が細い線で記されている。一見しただけでは、何の
変哲もない設計図としか見えるまい。
(…へえ)
その丹念に書き込まれた線の下に、しかし一文字の目は全く別のものを読み取っている。
「気づいたか」
紙をやや斜に傾けて目をすがめている一文字の背中に、微笑を含んだ本郷の声が届いた。当たり前だ
ろう、と口にはしないで一文字は肩をすくめる。普通の人間ならばいざしらず、改造人間の目なら―
――ましてや自分の目は節穴ではない。
「…どうやら研究以外にも、余程に用心しなくてはならん事があるらしいな」
「こんな仕掛けをするとはねえ。スパイ顔負けだな」
言いながら一文字はしばらく紙を窓から入る陽に透かしていたが、ややあって本郷を振り返った。
「読み易くしても構わんか?」
ああ、と本郷は答えた。
「どのみち、その図面は囮だ」
成程、と一文字は封筒を返してみて唇の端を軽く曲げた。
封筒には封を剥がして、注意深く貼りなおした跡がある。国境を越え、海を渡って本郷の手に届
くまでのどこかで、この手紙が少なくとも一度開封されたのは間違いない。
それが誰の仕業なのかは知る由もないが。
だが本郷に届けられたところを見ると、検閲者はこの手紙の真の意味に気づかなかったと見える。
《囮》の図面だけを見て、そのまま右から左へ通したのだろう。
一文字はポケットからライターを抜くと、開いた紙をかざした。
ぽっと灯る火に、厚い紙がほの明るく透ける。ゆるゆると紙の下を炎が行き来する内、普通の人
間の目には見えない文字が、ゆっくりと炙り出されて褐色に図面の下から浮かび上がってくる。
研究者同士の図面のやりとりと見せ掛けて、まさかその下にあぶり出しで真の用件が隠されてい
たとは気づくまい。
そして褐色の大きな文字は、やがて紙一面に綴られた文章となった。封筒の裏書と同じ筆跡の日
本語だ。改めてその文面を読み返すと、一文字は顔を上げた。
「それで?」
「うん?」
「帰るのはお前か。それとも俺が行こうか?」
しかし尋ねられた本郷は、僅かにまごついたような表情になった。
「実はまだ、別ルートの情報待ちだ」
「あ、現物はこのマイケル・ガーディアンとか言う先生が持って来るって事か?」
「いや」
少し迷ったようだったが、やがて低く答えた。
「もうその男は、この世には居ないらしい」
手紙を追いかけるように、海の向こうから電話が入ったのは昨晩の事だ。しかし電話の主は大仏博
士の手紙にあったアメリカの科学者ではなく、その遺志を引き継いだという―――僅か半年前に戦列
に加わったばかりの新たな後輩だった。
本郷にとっても思いもよらない知らせだったが、電話をかけてきた当の本人もとまどっているの
が、電話ごしでも解った。
「来るのは、結城くんだ」
アメリカの科学者がタヒチに渡っていた経緯や、どうして結城がこの件に係わる事になったのかは
おそらく直に話した方が早いだろう。本郷もあえて詳しい話は聞いていない。
「ふーん。いよいよ因縁めいてきたな」
眉をひそめて呟くと、一文字はソファの背もたれに頭をのせて天井を仰いだ。思案するようにまな
ざしを巡らせていたが、ややあって肩をすくめ、くるりと目を見開く。
「……まあ、なるようになるか」
考えたって仕方ないよな、と独りごちると、降参のつもりか厚い図面を傘よろしく頭にかぶってし
ばらくじっとしていた。それでもまた少し何事か考えていたらしかったが、やがてその下からちら
りと本郷をねめつける。
「で、話戻すが、誰か日本に帰らなくていいのか? どうもこのマーキュリー回路とやらを、本人
に渡せばそれで済むって問題でもなさそうだが」
ああ、と本郷は少し笑った。
「それならもう連絡済みだ」
離陸時の空港は、細かい霧雨の降る曇天だった。
しかし厚い雲を抜けた旅客機は、はるか眼下に雲海を臨んで青い夏空に銀翼を光らせている。窓
から射すまばゆい照り返しに僅かに目を細めて、風見志郎は少し眠ろうとした。
<完>