5.疾走
結城は走った。
腕時計の示す残り時間は、あと十五分余だ。おそらくもう管制室ではオペレーションコマンドの投入は終わって、コンピュータ自身によるシステムの自動立ち上げと調整に入っているだろう。五分前迄に着いていればまだ間に合う、と思いながら、要所要所で立ち塞がる戦闘員を相手にしていてすっかり時間を取られてしまった事に唇を噛む。
外部から止められる恐れのあるエレベーターは使えず、管制室のある七階まで、非常用の階段を一気に駆け昇った。
重い扉を押し開けると、壁の一面にとられた窓にはめ込まれたガラスが淡い黄昏の光を透かして輝く。そのガラスの向こうに、今日も平和に暮れ行こうとする大都市へ永遠の夜をもたらす為の使者―――ミサイルロケットがその巨大な頭部をのぞかせていた。
「貴様!」
やはりここにも待ち構えていた戦闘員が間髪入れず襲い掛かってくる。身体をひねって振り下ろされるナイフを躱し、結城の右腕が風を切った。
「…結城くん?」
何が起こったのか解らず立ちつくす科学者達にちらりとまなざしを向けて、とどめの一突きを入れる。拳にかかる手応えがすっと抜けて指の隙間にはいる砂を払うと、結城は拳銃をぴたりと構えた。
「結城くん、一体何を…」
撃つつもりはもとよりなかったが、不穏な気配を感じてか動きかける科学者に銃口を向けて制しながら、メインコンソールに近づく。
(…やはりな)
ディスプレイに次々と現れては流れていくメッセージは、ロケット発射の為のシステムが着々と準備を整えている事を告げている。
《ACF起動完了…DEM起動完了…PF調整開始/調整終了…》
主要なシステムの立上げを告げる合成音声を背中に聞いて、結城は科学者達に向き直った。
「このロケットは、打ち上げさせる訳には行かない。…それは貴方達にも解っている筈だ。あれが」
窓の外で静かに時を待つ殺戮兵器を、まっすぐに指差す。その手が弱い光の内に、はっきりと造られたものの輪郭を露にする事など、その時の結城に気にかけている暇はなかった。
「あれが何を生み出すものかを…一千万人を殺す殺人者になる、その事実を、貴方達はGロケットの成功の自己満足ごときと引き換えるつもりなのか?」
科学者達が不安げに顔を見合わせる。やがて一人が、こわごわと口を開いた。
「だが今更、設定は変えられない…そもそも目標の設定をしたのはここの奴らだ、我々の手では…」
「それでも貴方も僕も、僕達がつくり出したものは人を殺す為の道具に過ぎない事を知っている。その犠牲の上に、本気で誇りを持とうというのか?」
「…そんな事を言ったってどうなる!」
ついに耐えきれなくなった一人の科学者が叫んだ。
「もうGロケットを止める方法はない…そして我々の設計に失敗はあり得ない。それは君にも解っているじゃないか!」
「方法はある!」
思わず怒りに任せて声を荒げてしまってから、はっと我に返って結城は時計を見た。
あと九分。
「僕が止める。だからもし、東京を救いたいと思うなら、今からでも考え直してくれるなら、黙って出て行ってくれ。今なら脱出できる…階段で三階まで降りて」
科学者としての良心、などという甘い同業者意識に頼るつもりはなかった。むしろそれよりも、ただ普通の人間としての良心に賭けたい。周りの人間を惨殺された上で拉致され、正体の知れない怪物―――としか映らないであろう改造人間―――に明日の生命すら脅かされる日々に、いつか自分の命も他人の命も、その重みの感覚が鈍くなっていった事は想像に難くないのだ。
「非常口から裏門へ抜けるんだ。そこから一本道を降りて行けば、三十分くらいで麓へ着く。ここはS県H市の外れだ」
だからその逆に賭けてもみよう、と思った。
(それで駄目なら…仕方がないが)
拳銃を握った手に力を込める。
それは時間にすればほんの数十秒だったろうが、結城には何時間にも感じられた。
「…」
戸口近くに立っていた科学者が、むせぶように息をついて小走りに出て行った。そしてそれにつられるように一人二人と続く。
ほっと肩から力が抜けるのを感じながら、結城はコンソールに向き直った。
《QRX起動完了》
残り時間は六分。まだ充分間に合う。
指が強ばる程きつく握りしめていた拳銃を振り捨て、コンソールに向かった。
結城が隠しておいた「切り札」の出番である。
既に起動している発射用システムに割り込んで強制的に終了させ、同時に記憶媒体から主要なファイルを消去して再起動不能に陥れる外部システム。彼等に協力すると見せ掛けてひそかに結城が開発し、組み込んでおいたそのシステムの起動コマンドをコンソールから投入すれば、たとえカウントダウンにはいっていようとも、結城の予想ではロケット発射は食い止められる筈である。
淀みなく破壊へのメッセージを明滅させるディスプレイを一瞬きつく睨み、結城はコンソールに指を置いた。
既存のシステムに組み込まれたそのシステムを起動させるコマンドは、結城だけが知っている。
実行キーをうつ、その瞬間まで背後に警戒していなかったのは迂闊だったと結城は後になっても思う。コンソールに自分以外の影が落ちた、と見たのと、感じた殺気に反射的に肩を引いたのは同時だった。
「…くっ!」
肩口に鋭い痛みが走り、倒れかかるのを止めようととっさに掴んだキーボードには赤く飛沫が飛んでいる。
「…よくかわしたな。流石はライダーマンだ」
それに続く低い含み笑いを、結城は右肩を押さえた手がべったりと濡れるのを感じながら聞いた。
(まさか…)
何よりも信じたくない思いで見上げた。
残光に、昏く―――紅く染め上げられた白衣の長身。
しかしその袖口から覗く手は、人間のものではない。漆黒のつややかな短毛に覆われた細い指、そしてたった今、結城の右肩を切り裂いた鋭く長い爪先はその血に汚れている。
「―――川島さん!」
フリーズラットの左刃はその根元から折られ、鈍色の切口がひかっている。
対するV3も息が上がっている。息をつく度に、右脇腹に抉りまわされるような痛みが走る。
動きを抑えて戦える相手ではなかった。だがこのままでは決着がつく前に自分の方が力つきてしまう―――と、かすみ始めた視界をまばたいて現実に引き戻しながらV3は思う。
(早く…けりをつけなくては…)
雄叫びと共にフリーズラットが切りかかってくる。袈裟がけに振り下ろされる刃をかいくぐってその腕を抱え込んだV3は、そのままその腹に膝頭を続けて打ち込んだ。
離れて戦うのは不利だ。相手の武器を封じて接近戦で一気にかたをつけなくては、と自身の痛みをこらえて膝に力を込める。
「…がッ!」
呻いたフリーズラットが苦し紛れに振り回した左腕の、折れた刃の切っ先がV3の仮面をかいて目元まで滑った。
「!」
思わず放してしまったが、だいぶ効いたらしくフリーズラットも動けない。今を逃すと後がない事を、V3は本能的に悟る。
「V3キック!」
全力とは流石にいかなかったが、必殺の一撃はフリーズラットの心臓部にきまっている。
「…おのれ…V3…」
フリーズラットは吠えた。しかし断末魔の表情の内に、かすかに笑うようにその口辺が歪むのを、その時V3は見てとっている。
「…だが…これで終わったと、思うなよ…もうすぐ、あの方が…」
「…あの方?」
「そうとも…日本へ、帰ってこられる……焼野原になった、東京へな…」
得体の知れない―――しかしどこか予感にも似た不安が、ふと背筋を強ばらせる。振り払うようにV3は声を荒げた。
「馬鹿な」
「?…そうか、あいつが…止められると、思っているのか…」
今にも絶えようとする息の下から、フリーズラットは苦しげに笑った。
「止められんよ、…止められん」
カチリ、とその体内でかすかな作動音がしたのに、V3は反射的に飛び退っている。
「…メルトバット、後は頼むぞ…!」
言葉が途切れるより早く、爆音がそれをかき消した。
とっさに逃れたV3の仮面にも、爆風が白く粉塵を吹き付けている。
そして張り詰めた気が弛んだように、V3の変身も解けていた。
途端にぐらりとまわった視界を、両膝に手をついてどうにか持ち堪えさせる。まだここで倒れる訳には行かないのだ。フリーズラットの最期の言葉の意味を考えなくては、と息を整え、ぼんやりと霞のかかったような思考に意識を集中させる。フリーズラットは、あの時風見が管制室の結城に一瞬意識を走らせた事を知っていた。
(…止められん)
そしてその声が耳元で呟かれるようにはっきりと響いた瞬間、風見は身体を起こしていた。
(しまった!)
何故こんな簡単な事に気づかなかったのか。このアジトに居る筈の、もう一人の改造人間―――それが今、居るに最もふさわしい場所はどこなのか、少し考えれば解りそうなものだったのに。
意識するより早く、跳ねた感覚に友人の気配が飛び込んできた。緊張している―――もしかすると、戦っている。それ以上の事は解らないが、それだけで充分だった。
(…畜生)
きびすを返そうとした拍子によろめいて、壁にしたたか打ちつけた脇腹の痛みにどっと冷や汗が涌く。こみあげる吐き気を無理矢理飲み込み、風見はもつれる足で走りだした。
「フリーズラットめ…もう少し使える奴かと思っていたんだがな」
独り言とも、結城に話し掛けるともつかない口調で川島は呟いた。つと伸ばした―――左はまだ人間の―――手でキーボードに触れ、流れるように指を走らせて幾つかのコマンドを入力してみる。
《ORC強制終了―――パージします》
《PGM強制終了―――パージします》
しかしそのコマンドのどれもが受け付けられない事を確かめると、忌々しげに指を離した。
「やられたようだな…」
床に片膝をついたまま自分を見上げている青年の、少し青ざめた頬に浮かぶ微笑から、川島は視線を逸らした。
結城は間一髪のところで成功したのだ。
《truth》のコマンドで起動されるシステムは、コンピュータの処理状況にかかわらず即時に割り込む事ができる。そしてその時点から処理履歴を遡行する形で起動されたサブシステムを全て終了させ、最終的にはOSそのものを再起動不能とする破壊用システムだ。一度起動されればもはや中断を許さず、いかなる介入も受け付けない。
《PCLE接続解除。MCF強制終了―――パージします》
合成音声は無機的な明るさで、自分自身の消去へ向かうカウントダウンを告げている。
「…川島さん…」
爪で掻き切られた三筋の傷はそれでも浅手である。まだ肩を押さえながらも、結城は息を一つつくとようやく立ち上がった。
「まさか…貴方が改造人間だったとは思わなかった」
「自己紹介がまだだったね」
声こそ変わらず穏やかではあったが、その細めた目はもう結城が見た事のない色だった。
「DIC日本支部、支部長代理メルトバット…もっともそれは明日からの話だがね」
ゆるりと伸ばされた左手が、右と同じ異形に変わって行く様を目の当たりにして、結城も思わず息をのんだ。
「あの晩、僕達を監視していたのも貴方か…それで、あの時あそこに」
「そういう事になるな。ついでに、どうして私が君達の動きを突き止めていたかも教えてあげようか」
そう言うと、川島はその黒い手をついと上げて袖口のボタンに触れてみせた。
その意味を悟った結城の顔色が変わるのを、面白そうに眺めながら言葉を継ぐ。
「私の耳はね、大抵の通信用電波なら傍受できるんだよ」
「それじゃ」
結城は我知らず身体が竦むのを感じていた。それは今迄に幾多の改造人間と戦ってきて一度も感じた事のない、不可思議な恐れだった。
「だがそれじゃ、貴方は最初から僕の正体を知っていた事になる…それを承知で、自分達の計画に僕を加担させようとしたとでも言うのか」
「それは少し違うな」
軽く肩をすくめてみせ、川島は答えた。
「君を選んだのはフリーズラットだ。私はただ、黙っていただけだよ」
「何故だ」
畳み掛けるように尋ねながら、結城はぐっと右腕に力を溜める。
「そうだね」
しかしそんな結城に対して、川島はまるで世間話でもしているかのように穏やかな口調を崩さない。
「強いて言うなら、…そうだな。君のお手並み拝見…というところかな」
「何を」
「君はさっき、最初から…と言ったね」
結城の反駁を高圧的に遮って、川島は初めてまっすぐ結城に向き直った。
「だが私は、君が考えているよりずっと前から、君の事を知っていたんだよ」
「結城!」
不意に声をかけられて振り返った結城は、次の瞬間倒れ込んできた―――と見えた―――友人の身体をかろうじて抱きとめている。
「…風見!」
「やれやれ、フリーズラットも力及ばずか」
苦笑するように響く声に、まだ身体は結城に預けたままで風見は川島をきっと仰いだ。
そのまなざしがいつもと変わらない事に安堵しながら、しかし支えた手に伝わる風見の身体の冷たさに結城はどきりとする。だいぶ無理をしてきているのは確かだった。
《TSMIT-OSを削除します。OS-D強制終了―――パージ…》
単調な語尾はコンピュータの断末魔のような甲高い電子音に遮られた。
それと同時にディスプレイからも全ての文字が消える。問いかけるように振仰いだ風見にしっかり頷き返してみせると、結城は再び川島に視線を戻した。
「僕の事を、ずっと前から知っていただと?」
「とうとうこちらも止まったか」
川島は少し寂しげにキーボードを撫でた。
「フリーズラットも浮かばれない事だ…せっかくあの方を日本へお迎えする為の貢ぎ物のつもりだったのにな」
話を逸らすな、と言い返そうとした言葉は声になる前に止まった。結城はその瞬間、腕の内の風見の身体が緊張したのに気づいている。
「東京潰滅は、あの方の忌わしい過去を塗り替えるステップの一つだった…一つに過ぎんがね」
(…何を言いたいんだ)
自問しながら、結城の胸には奇妙に予感めいた不安がよぎる。どこかで、自分は何かを知っているような気がする。
「私はその為に、日本へ呼ばれた。だがメルトバットの計画の内に結城くん、君が居る事を知って、メルトバットとしてではなく川島誠として動く事にしたんだよ。怪しまれない為に他のメンバーと同じ形で誘拐されるという芝居までうってね。…それは結城くん、君の実力を見せて欲しかったからさ」
川島の双眸がその一瞬変に光った、と結城は見た。敵意とも憎悪ともとれる―――しかしそれよりも複雑な、名状し難い光だった。
「あの方の宿敵である、君のね」
低く心に滑り込んでくるようなその言葉の意味を理解するのに、一瞬の間があった。
自分を宿敵と位置付ける、そんな心当たりはただ一人しかいない―――しかし。
「馬鹿な…奴は」
知らず声が裏返っていた。
「ヨロイ元帥は死んだ筈だ…」
「嘘かどうかは彼に聞くといい」
川島が視線を転じたのは風見だった。
「風見志郎。…君は知っていたから、わざわざ日本に帰ってきたんだろう?」
「…風見?」
問いただすように見下ろす結城とはまなざしを合わせずに、風見はじっと川島を見据えていた。
ややあって、低い声が呟いた。
「…やはり本当だったか」
「風見」
言いかけたきり絶句した友人に、済まんな、と小声で謝ると風見はまたひどくなってきた痛みを堪えながら目の前の敵に尋ねた。
「…それでどうするつもりだ、ヨロイ元帥の腹心」
「そうだな。手土産代わりにその首を貰う…というのも良いと思ったが」
肩をすくめながら、その時床から突き上げた鈍い衝撃に僅かによろめいて川島は片眉を上げた。
「どうやらその時間もなさそうだ」
訝しげに見上げる結城を、ふと見やる。
「君の隠した破壊システムは私には発見できなかった。だが、君も私の切り札は知らないんだよ」
口調だけは変わらず穏やかに、川島はゆっくりと窓へ向かって後じさっていった。
「このコンピュータはどのみちロケット発射後にシステム停止する筈だった。そしてコンピュータの停止を確認して十分後、証拠隠滅の為にこの基地は跡形もなく吹き飛ぶように設計されているんだ。…後七分だな」
ちらりと異形の腕に留めた時計に目をやると、そのまますいと腕を上げた。勢い良く背後の窓ガラスを叩き割る。
「惜しいが勝負は預けておこう。まあせいぜい頑張って脱出してくれ。こんなところで死んでくれるなよ」
最後の陽光が、次の瞬間軽々と窓の外へ身を躍らせた長身のまとう白衣にひらめいた。
そしてその白衣がはためく下から、蝙蝠に似た漆黒の翼が風をきってふわりと舞い上がるのを結城は見たのだった。
「!」
後を追いかけて思いとどまる。追う方法などない。
それよりも今は、ここを脱出する事が先決だった。
「風見」
声をかけると、光の加減を差し引いてもさっきよりはっきりと青ざめた顔がこちらを向いた。
「済まないが、もう少し我慢していてくれ。ここを出るまででいい」
「…お前、誰に向かってものを言っている…」
口調こそ普段の風見だが、その瞳には明らかに光がない。風見の左腕を自分の右肩から背に回して支えると、行くぞ、と結城は囁いた。
長い階段を駆け降り、さっき科学者達に教えたのと同じ近道を通って裏門から抜ける。途中から不意に肩にかかる重みが増したのを感じたが、結城には足を止めて気遣う時間はなかった。とにかく少しでも遠くへ、と一心に山道を走り続ける。
そして地を這う気味の悪い地響きが背後から足の裏に追いついた、と思った刹那、ほとんど抱えている形の風見の身体ごと地に伏せた。
次の瞬間、背後で起こった大爆発で砕けた建物の細かな破片が、ばらばらとその上に降りかかってくる。二度、三度と地を揺るがす震動を、そのままで堪える。
ようやく身体を起こせるようになった頃、森の中はすっかり暗くなっていた。じっとりと蒸し暑い空気の内に、爆風のまき散らした埃が細かく淀んで結城は咳き込んだ。
「…風見」
はっと思い出して友人の身体を抱き起こし、ぐったりと仰向いた顔を胸にもたせかける。その頬を軽く叩いてみるが、すぐには意識が戻りそうもなかった。触れた頬も、抱き支えた上体もひどく冷たい。一刻も早くきちんと診なくては、とその膝の下に腕をいれて風見の身体を抱き上げたまま、しかし結城はすぐには動けずにいた。
(あいつが…)
それを風見が自分に黙っていた事を、責める気はない。
(あいつが、生きている…)
そう胸に呟いた自分の瞳に宿る光を、風見が喜ばない事も知っている。だからこそ、おそらくは―――その目で確かめる迄、風見は自分には言わないつもりでいたのだろう。
とらわれる力は、自ら断ち切った筈だった。もう私怨にこだわる事はないとも思う。それが、結城がもう一つの名に誓う自信である。その自信が今更揺らぐ事はない、と思いながら、宿敵の名がなお自分の心に呼び覚ます憎しみが、結城を不安にさせるのだ。
そんな不安を振り切るように風見の身体を抱き支えて、昏い空を見上げる。
その時結城は、先刻窓から飛んだ白衣の下にひらいた黒い翼の主が、その高みから自分を監視するように滑空する姿を見たように思った。
エピローグ
風見はさっきから窓枠に頬杖をついて、夕暮れの空を眺めている。
そして結城は黙々とその背後で部屋を片付けていた。一日風を通したから、もう床には薬の匂いも血の匂いも残っていない。片付けるといっても、元々それ程の荷物がある訳でもなかった。
「…まとめるから、その新聞かしてくれ」
思い出したふりをしてかけられた声に、風見は仇のように握りつぶした新聞を振り返りもせずに放った。その背後で、結城が改めて唇をきつくかんだのが気配で解った。
今朝の新聞の三面トップには大きな活字が躍っている。
《行方不明の研究者 三名が遺体で発見》
予期できた筈の報復だった。だがまさかそこまでは、と油断した自分達の甘さへの怒りが、二人を無口にさせている。
誰が手を下したのか、口に出して確かめるまでもなく風見にも結城にも解っていた。
そしてその名も、記事には登場している。
《… なお二十九日S県で発見された川島誠さんは事件のあった期間について「何も記憶していない」と語っており、事情聴取は難しいとみられている》
被害者を装い続ける事で、川島は見事に世間の追及をかわしきったのだ。誰一人気づく由もない―――奇跡の生還者が加害者の主格であり、他の被害者の口を封じた当の本人である事を。
結城は旅行鞄一つにまとめた荷物を提げて、室内を見回した。僅か半年程の、忙しいながらもしかし平穏だった日々の思い出に、別れを告げる。
「…もういいか」
風見がゆっくりと声をかけて立ち上がった。
「行こう」
結城も答えた。
もう二度と開ける事のない扉を開けると、熱い風が頬を過ぎた。夕立が近づいてきているらしく、湿気を含んで重いその風の流れに、ふと結城は予感する。
世界を脅かすもの達の足音が、近づいてくる。
「…風見」
そして飽くなき野望をもって繰り返される再生に、しかしだからこそ立ち向かう自分達が居る。
「何だ?」
先を歩く風見が、振り返らずに答えた。
「これから、まずどこへ行く?」
「…そうだな」
言いかけて考える、その横顔はまだ少し色が悪かったが、その傷はもう結城の肩傷と殆ど変わらないまでに回復している。後は時間の問題だった。
「川島…メルトバットから目を離す訳には行かんが、まず簡単に尻尾も掴ませんだろう。
俺が追ってきたDICの上陸ルートを辿り直して、日本支部とやらの場所を突き止めるとするか」
そこまで独り言のように呟くと、風見は振り返った。
「…まあどのみち、奴と出くわさない訳がないがな」
結城は頷いた。
「解った。…それじゃ行こうか」
あの科学者であり―――同時に悪魔の使徒である青年の風貌をふと思い返してみる。底知れぬ力と、はっきりとした敵意をもって挑んできた敵。既に戦いは始まっている。
「行こう」
もう一度、自分に言い聞かせるように呟くと、結城は風見にならって自分のマシンのハンドルをとった。
西の空遠く、雲の内で雷が低く鳴っている。
もう夏も終わりの、今にも夕立の来そうな日暮れだった。
<完>