一九八八年夏―1
空調の効いた静かなロビーに足を踏み入れると、つい先刻までの喧噪と興奮の名残りが身体の
奥に残っているのを感じる。埃と熱と、吹き過ぎる風の感覚だ。
無造作に指先だけで提げたトロフィーは、まだレース場の熱を帯びていた。人待ち顔にたむろ
する人々の密やかな注目を集めながら、風見志郎はまっすぐに通り過ぎていった。
フロントで部屋番号を告げるより早く、ホテルマンは勝利者への敬意を込めた一礼と共にキー
を差し出した。
『それと、ご伝言をお預かりしております』
キーと一緒に渡された封筒を、ありがとう、と風見は受け取った。
既に逗留は三ヶ月に及び、考え事をしていても部屋へ向かう足取りは迷わない。メモの伝言主
は、一足先に帰国していた友人だった。
短い文面を睨みながらエレベーターに乗り、三階で降りた。
部屋に入って、まずコーヒーを淹れる。
事の起こりは、一ヶ月前に日本で起きた二つの事件だった。世間的には無関係と思われている
その事件に、彼らにしか解らない特有の匂いを感じとったのは、日本に残っていた仮面ライダー
スーパー1―――沖一也である。
後輩からの知らせを、風見はレースの為に渡った外国で受け取っていた。
行き先は知らせていなかったが、彼らに不自由はない。その気になれば、同じ名前をもつ相手
の所在を知るのは互いに易しい事だった。中でもいつの間にか後輩達を束ねる形になっていた風
見の「存在」は最も感知し易いのだと、何かの折に自称「一番鈍い」結城丈二は言った事がある。
(…君ならどこにいても、僕にでも解る)
その言葉通り、たいていは海を隔てた電話一本で結城はレース前の調整の手助け役に駆けつけて
いる。ただ今回は沖一也の連絡を受けて、レース当日を待たずに急遽帰国していた。
(レースは明後日じゃないか。君まで急いで帰国する事はない…)
そう言われて、風見はそのまま残ってレースを迎える事になったのだ。
伝言という事もあるのだろうが、文面は必要以上にシンプルだった。
結城が帰国する前に、ある程度済ませておいた打ち合わせ通り事態は動いたらしい。いよいよ
故国は真打ちの登場を待つ形になっていた。
(良には連絡済。帰国の連絡を待つ)
レースの終わるのを待って届けるよう気遣われたらしいものの、文面はすっかり新たな戦いの方
向へ向いていた。いかにも結城らしい、とも思う。
(レースはどうだった、位聞いてもバチは当たらんぞ)
そんな悪気のかけらもない気の回らなさは、きっと何十年生きても変わらないのだろう。
そう思いながら、奇妙に笑える自分に風見は気づいている。
知り合ってから、それでももう十数年にもなる。
失った右腕を機械に代え、自分を育ててくれた組織への愛憎を胸に一人無謀とも思える戦いを
始めた結城にとって、風見は最初敵だった。数々の紆余曲折を経てようやく真実を知り、かろう
じて友人と呼べるようになったのもつかの間、そして彼はデストロンの切り札・プルトンロケッ
トと運命を共にしたのだ。
(俺は君に、仮面ライダー四号の名を贈ろう…)
それだけが風見―――仮面ライダーV3に、あの時告げる事のできた唯一の言葉だった。
しかし結城が奇跡的に助かった時、風見は一度彼を市井の安らぎに返そうとしている。爆発に
巻き込まれた後遺症でたとえ身体は多少不自由になるにしても、科学者として生きていく事はで
きる。今度こそ人類の未来に寄与する為に、その頭脳を役立てて欲しいと―――遠い回り道の果て
であっても、それこそが本来の彼の道ならば遅くはない筈だと。
しかしその友人は、風見と同じ道を選んだのだ。復讐の為でなく私怨の為でなく、ただ自分以
外のものの為に戦う為に、その身体を変える事を。
正直なところ、風見はどこかでまだ彼の真意を受け止めかねているのかもしれない。
戻れる可能性があったにもかかわらず、あえて普通の人間からはなれた世界へ、自ら進んで行
こうとする―――更なる改造を重ねて。
不完全だと思われていた右腕だけの改造は、やがて全身の戦闘能力を右腕と同等に引き上げて
いく為の第一段階だった。元はデストロンの科学者グループが、世界平和に貢献すると信じて開
発した計画のもつ意味を、本当に知っているのは結城ただ一人である。自らを被験者とする事で、
その計画に殉じた人々を弔うかのように―――あるいは志半ばにして計画からはなれた人々の無念
を引き継ぐように、結城は科学者らしい冷静さで、自らの改造を進めていった。
だからむしろ、とまどっていたのは風見の方だったかもしれない。
結城の改造は、それまでの風見の「改造」に対する概念とは大きく異なっていた。生体部分と
改造部分との有機的な融合を廃し、殆どの組織を人工物に置き換える。改造部分は各々独立した
システムを持っており、危険な時には接続を切り離して本体を保護する事ができる。接合ユニッ
トで生体電流の電気信号を変調させ、僅かに残した神経組織を活かしてコントロールの基盤とす
る。それ故に改造は時間を要した。
それが結城がまだデストロンに居た頃、「人類の進歩に寄与する為に」立案した計画―――C計
画の基本理念だった。
数年をかけて完成される、緩慢な覚悟だ。
勿論何を悔やむ訳でもなかった。だが例えば自分の時には性急過ぎて確かめるすべさえなかっ
た、改造の意味を風見は見つめたかったのかもしれない。
(…だが君もいちいちつき合ってくれなくて良いんだ)
結城に笑って言われながらも、約一年に一度のペースで行われる手術に必ず立ち会う事を、風見
は自らに課した。
しかし計画は進行していくにつれて、やがて結城に予期しない覚悟を迫る事となった。
生体の神経組織が、強化の進む改造部分とのインターフェースとしての負荷に耐えられない事
が解ったのは、改造が八割方進んだ頃である。このまま当初の計画通り改造を進めようとすれば、
神経すらも人工の配線に代えていくより外はない―――その事実を風見が知ったのは随分後の話に
なる。執刀の主担当である彼の先輩は彼も友人もおもんばかり、友人はあえて彼に語ろうとはし
なかったのだ。
(…あまり言いたくはなかったな)
それが何故かは言わなかった。
どうでも良い事だった――と、問いつめれば言ったのだろう。
(…まあいい)
確かにそうかも知れなかった。
どう改造するかが問題なのではなく、そこには改造された身体―――という現実があるだけだ。
今更何を惑おうか。最も新しく彼らの戦列に加わった村雨良に至っては、外見だけが往年の面影
を留めているだけで、その体内は脳の大部分までが機械化されている。
そして風見は自分の目が確かめたものを知っている。幾度もの手術を重ねて生身を失いながら、
しかしその度に少しずつ、まるで重荷から解き放たれていくように快活になっていく友人の表情
を。外見は知り合った頃とほとんど変わらないまま、明るい笑顔と真摯なまなざしをためらいな
く向けてくる。むしろこちらこそが本来の結城丈二だったのかも知れない、と風見は思うのだ。
改造は、この十数年ほとんど変わる事のない身体能力と外見を等しく彼らにもたらした。いわ
ば時を止めて長い日々を過ごしているような彼らはそれ故に、ひとつの場所に長く留まる事がで
きない。
彼らを置いて、時代はどんどん流れていく。
しかしそれは逆に自分達から見れば、もしかすると友人として一緒に過ごしてこられたかもし
れない時の帳尻を合わせているようなものなのかもしれない。時間の外に置き去られる孤独を、
共有できる誰かが居る―――そう知っているから、一人一人でもこの世界を旅して行ける。
そんな幻想に風見はふと浸る。
だから何も言わない。
それでも、奇妙な懸念がある。どうでも良い不安だ。
実際のところ、彼らは一緒に時間を過ごしている事の方が珍しい。平和な時間にはそれぞれに
仕事があり、同じ場所に居る必要もなかった。もう何年も会っていない仲間もいるが、風見はそ
れで別に何の不安も感じてはいない。その気になればいつでも会える事は知っていたし、むしろ
集結はそのまま新たな戦いを意味した。
それでも平和な時間には本業の傍ら風見のトレーナー役を勝手に自任しているらしい結城は、
他のメンバーよりも風見の近くに居る事が多い。
故国に居るのは、ためらわない改造を結果とする後輩だ。
先に返すべきではなかったかも知れない、と何故ともなく思っていた。
フロントに電話をかけて、チケットの手配を頼んだ。多くもない荷物をまとめ、別に送れるも
のは送るように荷造りするのにはさして時間もかからない。
そこまで動いてどうやら疲れているらしいのに、自分でもようやく気づいた。明日の為に寝て
おくか、とベッドに入り、ふとTVをつけた。友人は自分の大まかさは棚に上げて存外口うるさ
い。TVをつけっ放しのまま眠るなど、と大仰に眉を顰めて叱られた事がある。
(…大丈夫だ。ちゃんと消す)
記憶の内のまなざしに唇の端を曲げて、横になったまま今日最後のニュース番組を眺める。
それでもそのまま、少し眠ってしまったようだった。
西暦消失後―――1
薄闇の内にも抑えようとする息が、しかし堪えきれずに半ば呻きとなって零れた。
「…結城」
不十分な光の内でも、風見の目には横たわる相手の姿がはっきりと見てとれている。
熱のこもった額に掌を押し当てると、それでもかすかに瞼が開いて風見を見上げた。
「…良い。休んでいろ…」
目を開けている事どころか、意識を保っている事さえ既に結城には辛い筈だ。それが解っていた
から、風見は低く囁いた。
「…休めば良くなる…」
それが嘘である事は風見自身にも解っていた。
結城の横腹には、目を疑いたくなるような空洞がぽっかりと開いている。
しかしその傷口からは一滴の血も流れない。血の代わりに透明な栄養液やオイルが溢れ、肉の
代わりに服の裂け目から覗いているのは、絡まる被覆線やセラミックの部品だ。何回もの改造手
術を重ね、更にその後の地球規模の急激な環境変化に適応して戦い続けられるよう改良を重ねた
末、既にその身体から生身の部分が失われて久しい。
初めて出会った時、まだ結城は右腕だけを機械に代えていた。
そんな事を、風見はふっと思い出したりしている。
今から一五〇年程前の事だ。
長い、長い時間の果て。
何が最初の誘因だったのかは思い出せなかった。確かなのは、既に地上は人間の世界ではなく
なっているという事だ。かつて緑と水に満たされていたこの地上は、今は砂塵が文明の残骸を覆
う黄砂の世界だった。海は両極に僅かに残っているらしいが、真水は固い岩盤を余程深く掘らな
ければ得られない。
一年中続く異常な高温は、生態系をも一変させた。今の地上を跳梁跋扈しているのは、岩のよ
うな乾いた固い肌をもつ古代の恐竜に似た奇怪な生物だ。それがどこからやって来たのか―――そ
れとも元々地球のどこかにいたものなのか、それは風見達のあずかり知らない事である。どうや
らある程度の知能も持ち合わせているらしい岩の竜は、廃虚の荒野を走り、この世界の先住者達
を次々と喰い尽くしていった。
地下シェルターにでも逃れてまだどこかに生き残っているのではないか、と探し続けてはいる
が、ここ数十年人間の姿を見ていない。
結城が小さく呻いて身体を捻った。
「…結城」
慌ててその身体を支え起こしてやりながら、どうしてこの洞窟はこんなに蒸し暑いのだろうと風
見は思う。
「…しっかりしろ…」
自分でも気休めだと解っていた。
結城の目が、少し笑ったようだった。
「…自律系システムが…そっくりやられたな…」
その身体の構成を一番良く知っているのは結城自身だ。この傷が致命傷である事も、彼が一番良
く解っている筈だけに、何が言えようか―――と震える唇をつぐみかけ、そして風見はふと思い当
たって身体を起こした。
「もし柵状素子で代替できるなら」
元々風見の身体と結城の身体とでは改造の基本から違う。まだこの世界が荒廃する前は部品を入
手するのもそれ程難しい事ではなかったが、しかし人類の文明そのものが消失したこの百年余、
新品のネジ一つ手に入れるのも不可能に等しくなっていた。
地上を歩くには、岩の竜との戦闘を避けては通れなかった。何度か風見が傷ついた時に結城が
選んできたのは、埃や温度変化による劣化の可能性が最も低い部品―――即ち結城自身の体内の部
品である。実際にはそのまま置き換えられる程単純なものではなかったが、風見の改造も自分自
身の改造方法も熟知した結城には、どうすれば問題なく変換できるかも解っていた。
「…ちょっと待っていろ」
それならば逆も置き換えがきく筈だ。風見も素人ではない。自分の身体の体温維持機能に使われ
ている補助部品が、おそらく一時的になら代替できる―――と器具を探しかける手を、しかし結城
の手が止めた。
「…止せ…」
使っても無駄になるだけだ。
今は外しても支障はないが、補助部品はまだこれから先、風見の役に立つ日がくる。
見上げるまなざしが、そう諌めていた。
それなのに笑っているように見えるのは何故なのだろう―――と風見は思っていた。
一九八八年夏―――2
夢を見たようでもあったが覚えていない。
しかしカーテンを透かして射し込む朝日の眩しさのせいばかりでなく、何故か目が辛くて苛立
たしく目尻に涙を擦った。
囀るような明るい外国語にふと見やると、結局つけっ放しのまま眠ってしまったTVの画面は
人気ハイスクールドラマの映像を律儀に流し続けていた。
風見は不機嫌に起き上がる。
カーテンを引くと、青く乾いた異国の空があった。窓を開け、湿度の低いさらりとした風を室
内に満たす。
寝覚めの悪さを振払うように髪を掻き上げて、湯を沸かしに立った。
独りでも案外に風見はこまめである。むしろあれこれ世話を焼こうとする人間の方が、かえっ
て大雑把だったりするのだ。
(…茶でも淹れようか)
と立って行きながらさっぱり戻ってこないのに痺れをきらして様子を見に行ってみると、すっか
り忘れて何かの計算に夢中になっていたりする。
(あ、すまないな)
何故か風見が淹れた茶を飲んで、ようやく思い出したりするのだ。
一つの事に夢中になると、どうやら外の事はほとんど忘れてしまうらしい。先輩の本郷猛にも
そんなところがないでもなかったから、優秀な科学者と何とかは紙一重、のようなものかもしれ
ないが。
湯が沸いたところで、袋に一枚残ったペーパーフィルターを開いてコーヒーを淹れた。ふわり
と立ちのぼる香気に目を細めながら、向けるともなく意識を遠くへ向けてみる。
流石にこれだけ距離が離れていると、その友人も気配位しか感知できない。ざっと時差を計算
して、寝ているか、などと考えた。それとも作戦を立てるのに夢中で、ベッドのサイドランプを
点けたまま忘れて机に向かっているか。
どちらにしろレースの事など忘れているな、と思う。
(…まあいいだろう)
一人で淹れたコーヒーを飲んで、風見は窓の外を見やった。
それでもそこに、彼は居る。
遥かな故国で、自分の帰りを待っている。
知らずかすかな笑みが、薄い唇に浮かんだ。
必要な手配は昨晩の内に済ませ、後は空港へ向かうまでする事もない。唯一荷造りされていな
い荷物は、テーブルに乗っていた。
トロフィーを眺めて、少し風見は考えた。
西暦消失後―――2
「普通の人間としての幸せも、普通の人間としての最後も、お前に捨てさせたのは俺だ…あの時、
俺がお前を止めていれば」
今更そんな事を言って何になる―――と解ってはいる。
それでもこの百数十年、ふとした折に思い返していたような気もする。
たとえいつまでも同じ道を行かれないにはしても。変わらない自分に、疑わないまなざしを向
け、静かに人としての一生を全うしていく友人の姿を思い切れてはいなかった―――と言えば嘘に
なる。少なくとも百年以上もの時を越えて、結城がこんな地獄を見る事はなかった筈だ。
「…そうじゃない…風見…」
しかし熱い指先が、風見の頬に触れて止めさせる。
「僕が選んだ事だ…」
外気以上に洞窟内の温度が上がっているのは、結城の体機能の一部が破壊されているからなのだ
―――と風見は気づいた。抱き支えている身体は、異常な程熱くなり始めている。それでも風見は
手を緩めようとはしなかった。
「…君と一緒に戦う事ができて…君の戦いを、ここまで見届けてこられた…人よりも長い時間を生
きて、何ひとつ悔いもない…ただ」
見上げてくるまなざしは、その身体を苛む熱さえも忘れさせる程奇妙に清しかったのだ。
「…もう君を、診てやれる人間が居なくなるな…」
それだけが心残りだ、と掠れた声で呟いた。
「…それでも君が生き続ける限り、僕もまた、君と共にある…」
百数十年前のあの日の誓いのままに―――と声にならない声で語る。
それは生涯忘れえない約束だった。
(同じ場所にいても、離れていても、たとえどちらが先に死ぬ事になっても)
「だから…約束してくれるな?…」
息が苦しいのか、声は泣くように裏返った。
「…負けるな…」
風見の目が見開かれる。
「…無敵の…仮面ライダーV3…風見志郎……君こそは、僕が」
しかしその先は言葉にならなかった。
ぎゅっと丸められる背に、慌てて風見は友人を抱き支える手に力をこめた。
「喋るな…」
もう助からない事は二人とも解っている。
自分の望みは、彼の苦しみを長引かせるに過ぎない事が解っていながら、しかし風見はその命
を自分の腕に繋ぎとめようとしている。
(もう良い…)
そう思いながらも、どうしても腕から力が抜けずに唇を噛み締めた。その時である。
「…?」
ものうげに身じろぐ動きにふと腕を緩めると、結城の左腕がその右肘の付け根をたどたどしく
探っていた。何をしようとしているのか―――と尋ねる事も忘れて、風見はただじっとそれを見つ
めていた。
ふっと息をついて、やがて結城の目が仰いだ。見つめ返す風見の目の前に無言で差し上げられ
たのは、外された肘から先の右腕だった。彼の最大の武器である腕の損傷も著しく、手首から手
の甲にかけては中の機械が覗く程の亀裂が入っている。
(…使い方は…)
そう唇が動いたが、声にはならなかった。
黙って頷くと、風見はその腕を取った。ゆっくりと―――ひしぐ程きつく、胸に抱く。
友人を抱き締める代わりに。
その瞳が永遠に閉じられるまで、かろうじて涙を堪える事はできた。
(…どうしてそんなに勝手に満足していく…)
そう思いながらも、それだけが風見にできる事だったからかもしれない。
(誰も彼もが、俺を置いていくんだな…)
ただ一人遺されるいたみは、彼の心の一番深いところに今もある。
一瞬のうちに目の前で殺された両親と妹に、手を差し伸べる事さえできなかったように、死は
いつも風見にその無力を問うのだ。どんなに強い力を持っても、やがて失われゆくものを引き戻
す事だけができない。
(それが遅いか早いかだけの違いなら、俺にとっては同じ事なのかもしれない…それでもお前は
勝手に満足だったと言うのか…)
普通の人間としての平和な一生を捨て、身体を造り変えてまで自分と一緒に来る事の意味は本当
にあったのか。
「…結城」
それを問う瞳は、もう開く事はない。辺りの暑さに紛らせて気づかないふりをしても、その身
体の温みも少しずつ掌に失われていく。
一人ならば、声を限りの慟哭を聞く者もなかった。
大きな太陽が、地平線を炙り揺らめかせて燃えていた。
V3は最後の一掬いを盛り砂に重ねて固め、スコップ代わりの棒杭を捨てた。
印は置かなかった。ここへ帰ってくる事も二度とはないような気がしていたし、どのみちこの
地上は墓標のない墓で満ちている。どこもが墓場だった。
それでも生き続けなければならない。
そう約束したからだ。
ある日、数年ぶりのスコールが地上に降り注いだ。
V3は近場に洞窟を見つけて足を踏み入れた。
風見志郎の姿を現す必要がなくなってこのかた、彼はずっとV3の姿をとっている。苛酷な環
境から、V3の外骨格は完璧に内部機構を守っているが、できれば酸の雨は避けたい。ここで雨
が通り過ぎるのを待とう、と思いながらふと暗がりに目を向けた。
何を思い出したのか、最初は自分でも解らなかった。
それよりも先に、目が洞窟の奥に―――記憶の場所を探していた。
同じ場所ではないのかもしれない。あれからもう数十年が経っていた。温度変化の激しい気候
は、地形の凹凸すらも削って地上をやがて一面の砂漠に変えていく。この洞窟も、昔は今よりずっ
と広かったに違いない。自分があれからどこをどうさすらったのかも覚えてはいなかったが、お
そらくは別の場所だ。
そう思いながらも、胸の奥が波立った。
思い出さないよう記憶を塞いでも、かつて感情だった衝動の名残りが溢れる。しかし声に出し
てその名前を呼ぶ事も、もうできなくなっていた。
既に忘れてしまった涙の代わりに、雨だけがいつまでも降り続いた。
それからまた数百年が過ぎた。
V3は見渡す限り一面の砂漠を歩いている。ずっと敵にも出会わないまま、もうどれだけ歩き
続けているのかも思い出せなかった。朱く乾いた空と黄砂の外に、目に映るものもない。全てが
死に絶えた地上には、風も吹かなかった。
指先から外れかける武器を抱え直そうと、ふと足を止めた。
すっかり古びて錆の浮いた機械の腕は、今は銃の形で彼の胸に抱かれている。
(…いつか、こんな風に持っていた…)
ふっと心にかかった感触の記憶が、腕にかかる重みに重なった。その重みを確かめるように、知
らずしっかりと抱き締めていた。
(…使い方は…)
そんな風に伝えられた願いだった。
どんな顔をしていたろうか、と思い出そうとしてみたが、記憶の肝心な部分は茫漠と遠い。思
い出すのがまだ辛かった頃、深く心の底に沈めたまま、友人の記憶は風化するに任せられていた。
託されたのは戦う為の武器と、約束の言葉だ。それだけはまだ覚えている。
(負けるな…)
しかしその声すらも、幾ら反芻しても記憶の中で避けがたく薄れていく。
何にとも、何の為とも言われないまま、ただ告げられた言葉の形見を思う。
(だが俺は、いつまで戦えばいい…)
思いかけて仮面の下で苦笑した。
(…大丈夫だ。俺は負けたりしない…)
その約束だけが、今も生き続けている。無為な死を許さない誓いだ。
V3は顔を上げて、再び歩き出す。
片腕が古びたように、自分も外から見たら随分疲れて見えるのだろうか。
休息した記憶は全くなかったが、疲労している気はしなかった。疲れる筈も、損なわれる筈も
ない。この身体には、先輩達と友人の意志が込められている。
それ故に自分が生き続ける限り、彼らもまた生き続けるのだ。
遥か一千年。
守るべきものを全て失った地上に、戦う理由だけが残されていた。
一九八八年夏―――3
頭上で空調の動く微かな唸りと、独特の匂いのする風に前髪を吹かれて、風見は目を開けた。
どうも胸が重苦しい―――と思ったのは、抱えた荷物のせいだった。手荷物の域を越えて大きく
目だつ荷物は、機内に持ち込む前からひと悶着起こしている。押し問答の末、ようやく乗り込ん
だ時には一般乗客の視線も思いきり集めたものだが、風見はもとより気にしない。
機内アナウンスにふと窓の外へ視線を向けると、既に眼下には区画一杯に詰め込まれた家やビ
ルの並びと、思い出したように鮮やかな緑を落とした東京の街が広がっている。
飛行機は定刻通りに成田空港に到着した。
連絡はしなかったが、迎えに来ている事は知っていた。
旅客機の車輪が滑走路に着地するより早く、風見の感覚は懐かしい故国の風と、すぐ近くまで
来ている友人の存在を捉えている。
しかし無頓着に提げた荷物のお蔭で、風見は案の定またもやゲートでひと揉めする事になった。
分解検査されるのだけはあやういところでどうにか食い止めたが、どうも日本の役人は相変わら
ず頭が固い、と憮然としながらも風見は改めて一年ぶりの空気を深く胸に溜めた。
夏休みという事もあるせいか、空港ロビーは行き交う人と荷物とでごった返している。しかし
その人込みの中に、結城を見つけるのは簡単だった。
結城の方でもほとんど同時に風見を見つけたらしい。気恥ずかしくならないのかと思う程、大
きく手を振っているのに、風見は一瞬他人のふりをしたくなった。
そんな事をしなくても、嫌でも目につくのだ。大体長身なだけに、やたら悪目だちして仕方な
い。あいつは子供か、と肩をすくめながら風見は歩を進めた。
「…お帰り」
風見が歩いてくるまで、結城も待っていなかった。足早に走り寄ってきて、いつも通り明るく手
を差し出す。
「早かったな」
「…まあな」
生返事にその手を握り返すと、目につく前に風見は提げてきた荷物を無愛想にその鼻先に突き出
した。
「…?」
「土産だ」
押しつけられるままに結城はトロフィーを受け取った。一瞬怪訝そうな顔をしながらも、その途
端に思い出したらしい。
「優勝、おめでとう」
屈託なく笑うと、改めてしっかりと胸に抱えた。その笑顔を見ると、忘れていたろう―――などと
今更突っ込む気も失せる。
無言のまま肩をすくめて、風見は歩き出した。トロフィーを抱え直し、あわてて結城が追って
くる気配に苦笑する。
「一也は?」
振り返らずに声をかけた。
「ああ、午前中に用事で出て貰ったんだが、もう帰ってる頃か…基地で待ってる筈だ」
「そうか」
「風見」
足音がした、と思うより早く肩ごしに声がした。
「…時差は大丈夫か?」
風見がいぶかしげに振り返ると、ぎょっとする程近くから黒い双眸が覗き込んでいる。
「何だか寝不足な顔をしてるぞ」
「…そんな事もないんだが」
答えながらもふと当惑して、風見は言い淀んだ。
「…夢を見てな」
「夢?」
風見に合わせて歩を進めるとトロフィーが落ちかけるのを直しながら、結城は風見の横顔を眺
めた。
少し細めた切れ長な目は、陽の光を浴びると不思議な色に透ける。その端正な横顔は、どこ
か遠くを見ているようでもあった。
時々、風見はこんな顔をする。その度に結城は、自分にはまだ知らない事があるような気が
するのだ。
「…変な夢だ」
ぽつりと呟いた。どんな夢だったかは、風見自身にもはっきりとは思い出せなかった。
にもかかわらず、夢にしては奇妙に生々しい感情のかけらは、まだ風見の心のどこかに残っ
ているような気がする。
「…君らしくもないな」
しかし笑っていなす結城の声が、耳に馴染んだ。
いつも懐かしい声だった。
「だが」
それで風見も、ようやく少し笑える。
「…しばらくは、夢ひとつ見る暇もないんだろう?」
え、と聞き返す結城には答えずに、風見は目を細めた。
(…何にしても、行くさ)
胸に呟いて、故国の風を胸一杯に吸い込んだ。
新しい戦いの日々の始まりを告げる、それは目の覚めるような蒸し暑い風だった。
<完>