スタンドの光が、広げられた資料類を眩しく照らしている。
数時間前に終わったばかりのエラーテストの結果は、まだ半分程チェックを残していた。旧式の
プリンタで細かく印字された文字列をペン先で辿りながら、目立つ数字をマークしていく。
(デッドロック判定からの復帰が、どうも予想値より遅くなるな)
通常運用ではまず発生する可能性のないエラー事象だ。システム全体の構成を考えればそれ程こだ
わる必要はないと解ってはいるのだが、思うような結果が出ていないところが一ケ所でもあればど
うにも気になって仕方ないのが昔からの性質である。
(考え過ぎか)
誰が見ている訳でもなかったが、肩をすくめた。
設計さえしっかりしていれば、いざ実用化しても何とかなるものだ。あらゆる事態を想定した筈
のテストであっても完全とは必ずしも言えず、また理想と現実とは別ものだという事はその後色々
な場で身をもって知ってもいた。
(……まあこの程度ならどうやら予定通り、来週から通しテストに入れるか)
カレンダーを確かめてペンを置く。コーヒーでも淹れるか、と椅子を引きかけて、ふとその手が止
まった。
大通りに面していない軒先には遠い街灯の光も届かない。カーテンの引かれていない窓ガラスの
向こうは深い夜の闇だ。
しかし結城丈二の目は、その闇の中からこちらへ向かってゆっくりと歩いてくる姿を映していた。
窓を開けると、しんと冷えた夜気が流れ込んでくる。友人の足取りが迷わないように、まだ光の
届く中に入ってこない友人に向かって結城も迷わずに声をかける。
「―――久しぶりだな」
静かに目をこらした。
やがて屋外へおぼろに溢れる光が、濃い栗色の髪にぼんやりと照り返す。闇に慣れた目には少し
眩しいのか、気持ち目を細めて風見志郎は友人を仰いだ。
いきなり来るなら連絡くらいしろ、などと今更言っても無駄なのは承知していた。そもそも風見
が訪ねてくるにはそれどころではない理由がある筈だ、とも知っている。
「いつ、こっちに来た?」
「三日前だ。もっとも今朝まではカーザに居たんだが」
それでは途中でひと休みする暇もなかったろう、と頭の中で計算をしながらキッチンに向かい、薬
缶をコンロにかける。どのみちコーヒーは淹れるつもりだったのだ。
「こっちに掛けておくから、貸してくれ」
促して受け取った革のジャケットには、まだ夜の冷たい空気がまとわりついている。軽くその空気
ごと払うように形を整えてクローゼットに吊るして振り返ると、風見は足元に小さな鞄を置いてソ
ファに腰を下ろしたところだった。そこに座ってくれ、と言う手間は省けている。
「……忙しそうだな」
もうずっとそうしていたようにゆったりとソファにもたれかかり、しばらくは物珍しげに辺を見回
していたが、やがて風見は資料が積まれたままの机を見やった。
「まあな」
「今は、何の研究をしてる?」
「簡単に言えば、脳波を電気的な信号に変換して解釈・分類するシステムだ」
風見の眉が何か言いたげに寄せられたのを見てとり、結城は少し笑って言葉を継ぐ。
「今更と思うだろうが、これで結構奥の深い研究だよ」
生身の脳から機械の回路や強化筋肉へ指令を伝える技術は、表立って公表されている科学技術で言
えばまだ夢物語の域だが、現実にはその機構を当たり前のように体内に持っている自分であり友人
である。今更そんな研究を自分が手掛けるのも、友人から見ればあるいは韜晦と映るかもしれない
な、と思いながら結城はキッチンを振り返った。
沸いた湯を、用意しておいたサーバーにゆっくりと落とす。自分ひとりで飲む時よりは幾らか丁
寧に淹れた。
「まだ感覚的な制御の不安定な子供とか、生まれつき四肢の感覚のない人とか。どんな人にも対応
できるようにするには、自由度の高いシステムが必要になる」
戦闘に特化した改造人間ならば元々高い運動能力をもっているケースも多く―――そうでなければ脳
自体に何らかの改造を加えて常にその活動を励起状態におく。そうすれば脳波による指令を強化筋
肉に伝えて超人的なパワーを発揮するのもたやすい事だ。だがそれはあくまで、運動能力に優れた
人間か非人道的な改造を施された人間に対しての話だった。
「いずれはどんな患者でも、脳神経に接続するだけで生身の筋肉が日常生活に支障なく動かせるレ
ベルの回路を目指している」
また何か言いたげにこちらを見やった風見の視線には、気づかないふりをした。
「まあ、まだまだ先の話だな。今はその前段階の実験というところか。……だが」
風見の前にコーヒーカップを置き、結城はちらりと友人を見やった。
「そんな話をしに、わざわざ来た訳でもないんだろう?」
問いかけられると、風見はさりげなく視線を逸らす。うるさく問いただされるのが嫌いなのは知っ
ていた。だが自分が回りくどい真似を嫌うのも知っている筈だ、となおもねめつける。
ややあって、溜息混じりに風見はカップを手にした。
「……旨いな」
一息ついて低く呟かれたのがコーヒーの感想らしいと気づいて、身構えていた結城は密かに拍子抜
けするところだった。
なおも静かにカップから立ち上る香気にかすかに目を細め、風見は珍しく逡巡しているようにも
見えた。
しかし思い切ったように足元に置いた鞄を膝に上げると、中から折り畳まれた紙を取り出す。
丁寧にテーブルの上に広げられていく薄い紙は、しかし左半分近くが不規則に破られていた。畳
んだまま無理矢理ちぎり取られたらしい。何かの図面らしく、細かい線や文字が一面に書き込まれ
ている。どこかで見たような、と思いながら読み解こうと凝らした結城の目は、次第に大きく見開
かれていった。
「……これは」
「何だか解るか」
斜に見上げてくる風見のまなざしに、応える余裕もないまま頷いた。
「これを……どこで」
おそらく自分の声は随分切羽詰まって響いたのだろうと思う。風見がひっそりと肩をすくめたのは
解っていたが、テーブルに広げられた図面から目が離せなかった。
「俺はカーザで来月のレースの準備をしていたんだが、先週ルートの下見に行った時に怪しい奴ら
と出くわしてな」
大きな町とはいえ郊外につくられたレース用のコースは、人通りも少ない辺鄙な場所にあった。
当日は観客や関係者で賑わう筈の丘陵地も、見渡す限り動くものといえば空の雲と時折空高く舞う
鳥くらいのものだ。調整したばかりのエンジン音を聞くともなしに聞きながら軽く流していたとこ
ろで、風見の耳は普通の人間には聞こえない悲鳴を遠く聞きつけている。
何だ、とマシンを止めて耳をすましてみたが、辺はやはりしんと静まり返っていた。空耳か、と
思いながらも何がなしに気にかかったのは、仮面ライダーとしての勘だったろうか。コースから外
れて荒涼とした窪地へさしかかったところで、そして風見は探していたものを見つける事になる。
雑木林から走り出てきたその男は、なだらかな平地へ抜ける稜線を足をふらつかせながら必死に
辿ろうとしていた。逃げているのか、と視線を巡らせると、続けて雑木林から数人の男達が飛び出
してくる。その全身を包んでいる黒いスーツに白く紋章らしき模様が染め抜かれているのを見てと
るや、風見は一気に加速してその直中に割ってはいる形でマシンを滑り込ませている。雑木林に突っ
込む直前でハンドルを切り返してタイヤを滑らせ、慌てて踏みとどまる追手を横目にブレーキをか
けた。
『何をする!』
怒声は覆面に塞がれて、ややくぐもって聞こえた。
『鬼ごっこの邪魔をしたのは謝るが』
エンジンを切り、ゆっくりと風見はシートから下りる。
『ひとつ混ぜて貰おうと思ってな。今度は俺が鬼になってやろうか』
『そこをどけ、人間風情が』
言いさした先頭の男の肩を、気づいたすぐ後ろの男が引き戻した。
『貴様……仮面ライダーV3だな』
どうやらリーダー格らしく、同輩の肩を引きざますいと前へ出る。
『本来ならばただでは返さないところだが、我々は重大な任務中だ。今日のところは見逃してやろ
う。―――退くぞ』
最後の言葉は同輩へ向けたものだった。
『待て』
風見が追おうと身体を起こした時には、既に黒衣の男達の姿は雑木林の中へと消えていた。木々の
間に遠く見え隠れするその後ろ姿に一瞬身体は動きかけたものの、耳に入ったかすかな呻き声が風
見を引き戻している。シート越しに振り返ると、逃げてきた男はうつ伏せに倒れていた。
『……しっかりしろ』
見たところ東洋人か、と抱き起こしかけた手にぬるりとした感触があった。囚人が着るような灰色
の服の脇腹は大きく破れて、赤黒く濡れている。相当の深手らしい。
『おい』
傷に触れないように支え起こすと、血の気のひいた顔がぼんやりと仰向いた。
『もう大丈夫だ。今すぐ病院へ連れていってやるから』
言いながら膝の下に回そうとした腕は、しかし冷えた指にたどたどしく掴まれている。乾いた唇が、
溺れた人間のように動いた。
「あ……貴方は」
擦れて聞き取り辛くはあったが、それは確かに日本語だった。
「風見……風見志郎……?」
「そうだが」
見も知らぬ男が何故自分の名前を知っているのかはともかくとして、今は一刻も早く病院へ、とそ
の指を解こうとする。しかし腕をとらえている力は怪我人とは思えない強さだった。何だ、と風見
が苛立たしく男の顔を覗き込むと、その目はふっと僅かに伏せられた。
「いい……僕はもう」
言いかけた言葉は苦痛の為か一瞬途切れている。もどかしく息をのむと、男は風見の腕を掴んでい
た手を放してものうげに自らの胸元に伸ばした。
(……?)
指先の動きにつられて見やると、粗末な服の襟の間から何か紙らしきものが覗いていた。気づいて
代わりに引き出してやる。薄い紙は幾重にも折り畳まれていたが、途中から無理矢理に引きちぎら
れたらしく下半分には掴まれたような皺がよっている。
「……何だ、これは」
片手で軽く振ってみたが、引っ掛かって簡単には開けなかった。
「それを……渡して」
指そうとしたのか上げられた手は、しかしそのまま風見の肩を掴む形になった。
「頼む……」
「―――解った」
低く風見は答えた。
「誰に渡せばいい?」
しかしそう問いかけた途端、男の身体からはがくりと力が抜けている。慌てて風見が支え直すと、
閉じかけられていた瞼はかろうじて上がったが、しかし既に何も見えていないのは明らかだった。
「……キネイ」
何、と聞き返して口元に耳を寄せると、擦れた声がもう一度囁いた。
「……キネイ……ナ」
ふっと息が途切れた気配に、風見は思わず腕に力をこめた。
「おい」
もう一度言え―――と揺さぶろうとひらいた指先で、しかしもはやそれが無駄である事を悟っている。
鼓動の感じられなくなった手を慎重に下ろして、名も知らない男の身体を横たえた。せめて服だ
けでも整えてやろう、と襟元に指をかけたところで、しかし風見の目は見開かれている。さっきは
紙の下に隠れていたので見えなかったが、男の胸―――心臓のある位置辺に、薄青い模様が刻まれて
いた。
(……刺青?)
何かの紋章か、となおも目をこらそうとしたその時である。まだ支えていた手にかかる感触が急に
軽くなった、と感じるのと、つい今しがたまで確かに生きて呼吸していた人間の肌が不意に無機的
なざらつきを帯びたのとはほぼ同時だった。
「―――!」
肌色がみるみる青みを帯びた灰色に変わり―――やがて表面から乾いた砂のように崩れていく。その
輪郭はあるかなきかの風にさらわれ、風見の指の間を空しくすり抜けていった。全てが吹き払われ
て服だけが抜け殻のように残されるのに、数分とはかからなかったろう。
(……改造人間か)
世界征服を企む組織の構成員は、その組織の証拠を残さないような改造を必ず施されている。体内
に仕込まれた爆薬で自爆を遂げるか、粉や液体レベルに肉体を分解されるかだ。見たところ怪人ど
ころか戦闘員とも思えなかったが―――と思いかけ、風見はふとまだ掴んだままだった紙に気づいて
いる。破らないよう注意しながら広げてみると、機械の設計図のようだった。但しやはりちぎられ
ているらしく、線も文字も途中で切れている。
(持ち出そうとして見つかったのか……それとも)
その辺の事情は考えたところで想像の域を出なかったが、少なくとも自分の顔を見知っていた事や
こんな資料を持っていたところを見る限り、単なる戦闘員とも考え難い。そもそも戦闘員らしくも
見えないところからすると科学者か、と思う。
改めて追手の消えた雑木林を見やったが、既に影ひとつ見えない。おそらく敵はこの設計図を完
全に取り戻せなかったもののむざむざ持ち去らせず、そして脱走者に余計な事を喋らせないよう致
命傷を負わせたのだ。自分に追われる前に退却したのは確かに好判断だったな、と苦く思いながら、
紙を畳んで懐に収めた。
この辺を探索してみるのも地道な方法ではあるが、自分に気づかれた事が解っていて敵が迂闊に
うろうろしてくれるとも思えない。
(だとすれば)
ちらりと友人の顔を思い浮かべた。
(あいつに聞くのが早道か)
どのみちレースの準備が思ったより煩雑になった事もあり、数日くらい手伝いに来られないかどう
か近い内に連絡してみるつもりではあったのだ。少しそれが早まったと思えばいい。そう思いなが
ら、しかしいつになく懐の重みを風見は持て余していた。
「―――それで僕のところに来た訳か」
黙って風見の話を聞いていた結城が、ようやく口を開いた。話の途中から深くひそめられたその眉
が一向に緩められる気配がないのを眺めながら、風見は静かに頷く。
「だが、間違ってはいなかったろう?」
まあな、と答えて結城はテーブルの上の図面を睨んだ。
「僕が知っているのは、この設計よりも多分古いタイプだが」
言いながらも、その指先は確かめるように図上の線を繰り返し辿っている。勿体ぶるな、といい加
減風見が言い出しかけようとした頃、ようやく友人の黒い瞳が風見を見据えた。
「……改造人間分解光線、というのを知っているか」
耳慣れない単語に一瞬聞き返しかけ、しかし風見の唇も止まっている。
それは―――その名前は。
「まだショッカーという組織があった頃、開発されていた武器だ。一応完成はしたものの、実際に
は起動するのにかなりのエネルギーを必要とするせいで、ほとんど実戦には使われなかったときい
ているが」
昔の話だ、と自分に言い聞かせる。
当時はまだ自分を育ててくれたデストロンを世界平和の為の組織と信じてその研究所で働いてい
たという結城が、あの事件を知る筈もない。
そう頭では理解しながらも、友人の声がひどく遠かった。
「対改造人間の兵器だが、目を介して脳に誘導波を送り込む事で細胞的な自壊をはかるから、改造
人間であろうと生身の人間であろうと作用する筈だ。……デストロンに居た頃、首領自ら改良の依
頼をされた事があった。軽量化と命中精度のアップをはかり、更に強力な武器にできないかと」
手袋を嵌めた右手の指が、すいと一点を指した。
「ここがそうだ。僕が設計した回路が残っている。理論上ではともかく簡単にテストもできなかっ
たし、他の研究の方が優先度が高いという事で、結局そのままになっていたんだが」
「……もういい」
遮った自分の声が、ひどく感情的に響いて風見はひそかに唇を引き結ぶ。
自ら望んだ道だ。だが自分がどんな戦いに巻き込まれたのかも敵の正体もまだ何ひとつ知らない
内に、自分をこの運命に導いた直接的な一件は―――あの禍々しい光に収束する。
「風見」
はっと我に返ると、結城の黒い瞳がいぶかしげに向けられていた。
「何か思いあたる事でもあるのか」
いや、と答えた声が知らず擦れて、苛立たしく咳払いした。
「……だとすれば、それは俺達にも通用するのか」
言いながら、我ながら空々しいと思う。
「する。と思う」
それこそ設計図しか見ていない結城よりも余程、自分の方が良く知っているのだと。
「設計図が欠けているから何とも言えないが、生身の脳が残っている限りは光線の影響を受ける筈
だ。こんなものが実用化されているとなれば、見過ごす訳には行かないと思う」
「そうか」
ならばここに来たのは正解だったな、とは言葉にはせずに軽く肩をすくめた。
「……で、これを持っていた男が『キネイに渡してくれ』と言い残したんだが、お前にそんな名前
の心当たりはあるか」
「キネイ?」
日本人かな、と独りごちて結城はしばらく考えていた。その横顔を眺めながら、ふと風見は妙な居
心地の悪さに駆られている。
昔の事を思い出したせいだろうか。
この―――元デストロンの科学者を、同じ宿命に引き込んだのは自分なのだ、と今更のように思う。
かつて先輩達を逃がそうとして改造人間分解光線を浴びた自分を救う為に、やむなく先輩達が仮面
ライダーV3としたように―――友人に仮面ライダー四号の名を贈ったのは自分だ。そんなあれこれ
も、もう割り切って顧みないつもりだったのだが。
「―――杵井……杵井直之という科学者の事かもしれない」
ふっと結城が呟いた。
「誰だって?」
「杵井直之。専門は確か分析光学の筈だ」
「そいつは今、どこに居る?」
「ちょっと待ってくれ」
机の横の本棚に指を滑らせ、ややあって一冊の学会誌を抜き出す。
「……ああ、ここにあった」
開いて示したページには「結晶体性分離に於けるスペクトル偏倚の特性」という論文タイトルと
「杵井直之」の名前があった。
「どうやら今はベスカーで研究をしているらしい」
この街から百キロ程離れた地方都市の名を冠した大学名が、論文の発表者名に添えられている。
「そうか」
やはり科学者か、と独りごちて風見は設計図を畳んだ。
「邪魔したな」
そのまま立ち上がろうとする友人を、学会誌を本棚に戻しかけていた結城は慌てて呼び止める。
「どこへ行くんだ」
「ベスカーなら、急げば明日の午前中には着く」
設計図を懐に入れ、風見は時計を見やった。現地へ乗り継いでいける電車には間に合わないだろ
うが、まだ日付けが変わる前ならターミナル駅へ向かう電車はある筈だ。
ここへやって来たのは、この設計図の意味と―――そして例の男の言い遺した名前の手掛かりを
知る為だ。今の時点では敵の目的も解らないとは言え、良からぬ計画が動き始めているのは間違
いない。のんびりしている訳には行かなかった。
「それじゃ」
「おい、待てよ」
結城の声に、何だ、と面倒げに振り返る。
「僕も行こう」
言いながら机の上を慌ただしく片づけている友人をちらりと見やり、すげなく答えた。
「別にお前まで来なくていい」
杵井という科学者がこの設計図とどのような関わりをもつのかは解らないが、うかうかしている
とその身に危機が及ばないとも限らない。まずは本人に接触する事だ、と戸口に手をかけた、そ
の時である。
「君は杵井直之の顔を知らないだろう」
確かにそうだが名前と所在さえ解っていれば別に困る事はあるまい、と言い返そうとした風見に、
結城は少し得意げに笑いかけた。
「二、三年前に学会で紹介された事がある。もし彼が何かこの件について知っていて、危険を察
知していち早く姿を隠していたとしたら、顔見知りが居た方が余計な警戒もされないだろう」
それはそうかもしれないが、自分も顔を知らない相手を探すのにそうそう手間取るような素人で
もない。そうは思いながらも、いつもにも増して言い出したらきかない勢いの結城に、風見は小
さく溜息をついた。
「……早く支度しろよ」