一
仰いでも星のひとつも見えない、暗い夜空だった。
空気は蒸し暑く淀んでいる。歩を速めると、それだけで髪に湿気が重く絡まりついてくる気がした。
遠からず一雨来るだろう。
傘を持ってくれば良かったな、と思いながら結城丈二は提げた鞄に目をやった。中には持ち帰って
今夜中にチェックするつもりで、帰る間際に仕上げたテスト項目表が入っている。あまり濡らしたく
はないな、と思っていると果たせるかな、ぽつり、と水滴が頬に当たった。
(……降ってきたか)
見上げる間もなく、雨がアスファルトの路面を勢い良く叩き始める。一時間もすればやり過ごせそう
だが、あいにくまだ空き地も目立つ住宅街では雨宿りできそうなところも見当たらない。
(仕方がないな)
せめて早く帰ろう、と鞄を深く抱え込んで走り出そうとした。その時である。
激しい雨音に紛れて、どこからともなく低い声がした。
「―――結城さん」
思わず足が止まっている。空耳か、と思いかけて打ち消した。
(何者だ)
振り返らずに辺を伺う結城の耳にはもう一度、今度ははっきりと自分の名を呼ぶ声が聞こえている。
「……結城さんでしょう?」
人目を忍んでひそめたのか、掠れて抑揚のない声だった。
(……まずいな)
雨は細かな気配を消してしまう。わざと弱々しい声で自分をおびきよせようとしているのか―――それ
とも違うのかすら判断がつかない。迂闊には動けないな、と思いながらそっと鞄を足元に置いた。戦
闘員相手ならば右腕だけで充分だが、両手が自由にならないといざという時に対応できない。
背後で空気が動いた。振り返りながら、反射的に右拳には力がこもる。
「―――!」
身じろいだ影に繰り出されようとする拳を、しかしかろうじて結城は寸前で止めていた。
街灯のつくる青白い光円の内に、雨が落ちている。激しい雨に打たれながら、その光を求めて闇の
中からはい出してこようとしているその姿は―――普通の人間ならば逃げ出していたかもしれない。
だが。
結城はまばたきもせずに、ブロック塀の影からゆっくりと現れる異形を見ていた。
爬虫類の改造人間なのだろうか、雨のせいばかりではなく濡れた厚い皮膚に、頭から指の先まで被
われている。濡れて光る路面に踏み出してきた足が照らされて、その表面が未分化の細かい鱗状になっ
ているのが見てとれた。街灯の光に眩しげな顔が、どこかこわごわと上げられる。
(どうして)
おそらく本当に問いかけたかったのは、別の事なのだろうとも思う。だが雨音に耳を塞がれながらぼ
んやりと思っていたのは。
(―――目だけは変わらない)
おずおずと、だがまっすぐにこちらを見上げてくる、黒い瞳。
それは遠い記憶の内にありながら―――その純粋さが妙に忘れられないまなざしだった。かつてデス
トロンの秘密研究所で、自分が指示を出す度そのひとつひとつに律儀に答えてきた目だ。
それでも自分の声は、まだ疑わしげに響いたと思う。
「……城崎」
カーテンを閉めながら、結城は窓の外に目を走らせた。
雨上がりの街角はしんと静まり返って、通る人もない。電柱や壁の陰にも動くものがないのを確か
めて、鍵を確かめた。
「気分は悪くないか」
「大丈夫です」
明るい灯の下で結城を仰いだのは、伸び過ぎた黒い髪の下で神経質そうにまばたきする黒い瞳だった。
ありがとうございます、と返されたタオルを受け取りながら、結城は改めてその瞳を見下ろす。
まだ肌にはどこか濡れたような艶は残っているものの、やや浅黒い肌の色は人間のものだ。最初に
見た時のトカゲか蛙に似た表皮はすっかり消えている。ありふれた夏背広の肩をこごめた青年は、居
心地悪げにソファに浅く腰を下ろしていた。
記憶にあるよりもそれなりに年令を重ねた風貌は、しかし往年の素直な面差しを残している。もう
何年も前に同じ研究室で働いていたのが、つい先日の事のように思われた。最初からその姿で現れて
くれれば、こちらも余計な警戒をしなくて済んだのだ。などと思いながらタオルを椅子の背もたれに
かけ、結城は冷蔵庫を開けた。
「……すみません」
ぽつりと城崎が呟いた。
「雨が降ってくるとは思わなかったものですから」
気持ちを見透かされたようで、結城は思わず手を止めている。
「―――自分の意志では、変身が解けなかったのか」
「はい」
なるべく何気ない風で尋ねたつもりだったが、青年は更に身の置きどころのなさげな表情になった。
「雨に反応したのは初めてだったもので」
その頼りなげな声を背に聞きながら、とにかく何か飲むものでも、と結城は冷蔵庫を覗いている。し
かし元々あまり構いつけない質な上に、ここ一週間程は夜遅かった事もあってほとんど空に近い。
「缶コーヒーでいいか」
「あ、すみません」
青年はまた一層恐縮した面持ちになりながら結城の差し出した缶を両手で受け取ったが、しかし膝の
上で掴んだまま、なかなかプルタブに手をかけようとはしなかった。仕方なく、力を入れ過ぎて引き
ちぎらないようにいつもより注意しながら、結城は手にした缶を開けて渡してやった。
雨くらいでは冷えない夏の夜気は、重く生温い。
「……御殿場の研究所以来だな。何年になる」
沈黙を振り払うように声を明るくすると、青年は缶を持ったまま指先で数えていた。
「六年半ちょっと……ですか」
それきりまた黙り込んだ青年を、それ以上結城も急かそうとはしなかった。お互いに昔からあまり喋
るのが得手でないのは知っていた。
缶を手の内で動かしながら、城崎はどこから話し始めたものか考えあぐねている風だった。
じろじろ見られているのも気詰まりか、と結城はふと思い出した鞄を開けた。中のテスト項目表は
端だけ湿っているものの、大した事はないのを確かめる。だがついさっきまでは見なくても頭に入っ
ていた筈の内容が、急に単なる文字の羅列に変わって見えた。
「―――結城さん」
ややあって、城崎は思い切ったように顔を上げた。
「力を貸していただけませんか」
「力を?」
はい、と頷いたそのまなざしからは、先刻までのおどおどした色は拭われている。
「解った」
結城は静かに答えた。
「だがその前に、もう少し詳しい話を聞かせて貰えるか」
闇の中で、結城はふと目を開いた。
耳をすますと、規則正しい寝息が聞こえる。近くに住んでますから帰ります、と遠慮するのを何度
も結城に勧められてようやくベッドに横になった城崎だが、よほど疲れていたらしい。
(……どうして)
その眠りを乱さないように気をつけてソファに寝返りをうちながら、結城はまた自問する。しかしそ
の答も、どこかで自分は知っている気がした。
デストロンという組織に与した過去がある限り、終生逃れられない宿命がある。ましてや科学者グ
ループのリーダーを務めていた自分には、自分自身の決着とは別に背負わなくてはならない責任があ
るのだと。
(ご覧の通り、僕の身体は改造されています。覚えていらっしゃるでしょうか……フロッグサンダー
です)
どこからお話ししましょうか、と独り言のように呟いて、城崎はやや背を丸めたまま結城を見上げた
のだった。
(フロッグサンダー?)
その名前には聞き覚えがあった。
世界統一の為の行動を起こした当時、デストロンでは既に百体近い改造人間計画が立案されており、
中でも即戦力として期待できるプランは日本各地のアジトで併行して進められていた。ヨロイ元帥に
よって結城がデストロンを追われた頃、まだ実用化できる計画の数は両手に余るほどあった筈だった
が、作戦に投入されたのはザリガーナまでだ。デストロンの壊滅時点で着手されていなかった幾つか
の計画に関しては、そのまま白紙に帰したものと思っていたのだが。
そう思いながら、遠い記憶を探った。
(両手に放電端子を備えた、水陸両用型の改造プランだったな)
確か比較的早い時期―――それこそマシンガンスネークやピッケルシャークが立案されていた頃から、
その名前は計画の中にあったように思う。結局実用化に至らなかったのには何か理由があったのだろ
うが、すぐには思い出せなかった。
(だが……一体いつから)
(六年前です)
(六年前?)
思わず聞き返した結城に、城崎は叱られた子どものように居心地悪げな表情になった。
(……僕達はデストロンが滅亡した事を知らなかったんですよ)
総力を挙げての攻撃にかかる為、それまでは御殿場に置かれていた科学者グループの中枢を戦闘グル
ープの前線基地に統合して、デストロンは体制の集中化を図った。だが急激な組織の再編や戦況の展
開の中、結果的に日本各地にあった小拠点の幾つかは本部からの指揮系統を失って情報的に孤立した
らしい。中にはデストロンの滅亡も知らず、仮面ライダーならぬ新たな組織の襲撃にあえなく壊滅し
たアジトもあったと聞く。当の結城はその頃まさにデストロンを自らの手で滅ぼす為の戦いの中にあっ
て、そんな悲劇が起こっている事すらそれから数年経って初めて知る事になったのだが。
幸か不幸か現実を知らないままに既に無い親組織の為に粛々と研究を続けていたアジトは、日本中―
――いや世界中に、一体いくつあったのだろうか。
今となっては知る由もない。
そんな底なし沼にも似た悔恨を、結城はまた噛み締めていた。