「太陽の涙」お試し読み


     一

 窓辺にしつらえられた観葉植物の濃い緑が、ぎらつく陽光を重く照り返していた。
 空気はぬるんだ果実か花のように甘ったるい匂いをほのかにはらんで、生暖かく湿っている。蜂の
羽音に似た低い唸りに眺めるともなく遠く見やると、数人がチェックアウトを待ってたむろしている
フロントの横で、大型のクーラーが二台並んで生温い風を吐いていた。冷房効果が作動音の大きさに
比例しない、冷蔵庫程もある旧式モデルだ。
(……確か昔、あんな型のが家にもあったな)
ふとそんな事を思い出しながら、風見志郎は布目の荒いソファに深々ともたれた。
 それにしても遅いな、と唇の端を曲げる。
 真面目で誠実な友人だが、それと約束の時間を違えない事とはまた微妙に別の問題だった。
 むしろそういう意味では、自分の方が時間にはうるさい。待たされる側となれば尚更だ。だがそん
な事は知っている筈だったから、それなら自分の機嫌を損ねないよう気を遣う位はしても良さそうな
ものではないか、と溜息をつく。
 午前中は仕事で外せないと言っていたから、どうせ手間取ってでもいるのだろう。それこそ研究に
没頭すると昼夜の区別もつかなくなるたちなのだ。困った奴だ、と今更ながらに思いながら、ロビー
を行き交う人々を眺めた。
 日本ではまださほどの知名度はないが、ヨーロッパではその独自文化がエキゾチックともてはやさ
れて、ここ数年人気が高まっているというリゾート地である。夏の休暇シーズンも終盤にかかった九
月ともなれば、流石にバカンスを楽しむ観光客の姿も最盛期程ではないのかもしれないが、玄関の外
に横付けされた空港行きのバスに乗り込もうとしている団体客で、ロビーはそれなりに賑やかだ。
(……?)
風見はふと眉を寄せている。
 見えているものと、五感以外の感覚が伝えてくるものとが食い違っていた。
 どちらが違うんだ、と目をこらしながら、余人には説明できないもうひとつの感覚を注意深く確か
めている。
 黒い髪を短めに整えた青年が、ロビー奥の階段を下りてくるところだった。
 南の島ならば誰でもそこそこ馴染む筈のいでたちだと思っていたのだが、世の中にはアロハシャツ
がおそろしく似合わない造作というものがあるのだな、と思う。周囲に合わせたつもりが、かえって
浮いているように見えるのは、その青年が風見自身を除けばこのロビーで唯一の東洋人だから―――と
いう理由だけではない。現に風見自身は先輩のハワイ土産の派手なアロハシャツでこの国に降り立っ
ている。
 あからさまに南国の装いが似合わない顔立ちというものがあるのだ。
 もっとも友人も日本人としてはくっきりした顔立ちと言って良いだろうから、それは単純に容貌だ
けではなく、むしろ性格的な問題なのかもしれない―――などと回りくどく考えている内に、ようやく
目が対象を正しく見定め始めたようでもあった。
(……人違いか……?)
それでもなかなか視線を外せなかった。
 濃い色のサングラスをかけているので目元のつくりは見定められなかったが、こめかみから頬へか
けての線といい、すっきりと通った鼻筋といい、あまりにもその青年は―――友人と似ていたのだ。
 しかし更にじっくりと見つめていると、少しずつ友人との違いも見えてきた。もうひとつの感覚―――
仮面ライダーが仮面ライダーを感知する感覚に、やっと視覚が追いつき始めている。
 似てはいるが、結城よりも幾つかは年上だろう。
 斜めに射す南の島の陽光が、青年の横顔を眩しく照らしている。南国暮らしが長いのか、やや陽焼
けした面差しのほんの僅かな頬の肉付きや表情に、まっとうに歳月を重ねてきた人間としての重みが
遠目にも見てとれた。
(それにしても)
そっくりだな、とついまじまじと見つめていた。
 生き別れの兄が居ると聞いた覚えはないが、そう言われたら素直に信じるだろう。などと思ってい
ると、不意に青年の顔が動いた。
(いかん)
慌てて風見は目をそらした。
 それとなく天井やフロントを眺めるそぶりをしながら時間を稼ぎ、さりげなく団体客を見やる流れ
で注意深く視線を戻してみる。
 しまったな、と心に呟いた。
 青年はおもむろにサングラスを外し、まだじっとこちらを見ている。二重瞼の形や黒い瞳までやは
り結城そっくりだった。知り合いかどうか見定めているのか、しばらくそのまま見つめていたが、や
がてゆっくりとロビーを横切って近づいてきた。
 わざとらしく席を立つのもかえっておかしいか、と風見はぼんやり思いながら、まっすぐにやって
くる青年を仕方なく見上げている。何も逃げる必要はなかったし、そもそも不躾に見つめていたのは
自分の方だ。
「―――失礼。待っておられるのは私でしたか」
やや低めの、それも友人に似た声だった。
「いえ」
やむなく風見も立ち上がっている。背格好もやはり友人とほとんど変わらない相手を目の前にすると、
まだ錯覚しそうだった。
「待ち合わせをしている友人が、来たかと思ったので」
ほう、と青年は笑った。
「それでさっきから私を見ていたんですか。てっきりどこかでお会いしていたかと」
「失礼しました」
しかし友人相手なら口が裂けても出てこないような言葉が、ごく自然に口をついていた。
 面差しこそ良く似ているが、こうして間近に対してみるとはっきりと別人だ。
 もうじき結城もやってくる。
 予定外の事態に如才なく対応できるとは思えない友人と、この青年が鉢合わせする事を考えると、
できればこの場は早めに収めたいところだった。だが元はと言えば自分がうっかり凝視したのが発端
だ。人違いでしたからいいですもう行って下さい、などと言える筈もなかった。これが友人相手なら
何の遠慮もなくそう言えたろうに、などと頭の隅で考えている辺、風見も普段の平常心はいささか失っ
ていたかもしれない。
「観光ですか?」
しかしそんな風見の思惑など察する風もなく、青年は屈託なく尋ねた。
「ええ、午前に着いたところです。……貴方は?」
こんな呑気な会話を交わしているよりもこの場を早く切り上げたい、と思いながらもあたりさわりの
ない答えを返してしまう自分を、風見はひそかに呪う。
「え?……私ですか、えーと」
聞き返された途端、しかし青年は妙に口ごもった。どうでもいい事を尋ねて余計泥沼化したか、と後
悔しながらも、まさか聞いてみただけですからいいですとも言えなかった。
「観光、……と言うか、仕事ですかね」
視線を宙に据えて腕を組んでいる結城に似た面差しの主は、どうやら妙に生真面目なところも似てい
るらしい。
「あ、ガイドとかコーディネーターで?」
何とか会話をまとめようと出した助け舟のつもりがかえって青年の混迷を深めたのが感じ取れて、風
見は心の内だけで頭を抱えている。
「いや、そうじゃないんですが……ええとその」
言いさして考え込む事しばし、ふっと思い当たったように青年は目を見開いた。
「まあ、商社関連です。ナフノール商会と取引があって」
それにしては考えている時間が長過ぎたようですが、などと突っ込みたくなるのを風見はかろうじて
堪えている。
 犯罪者らしからぬ雰囲気からすると、CIAかどこかの諜報機関のメンバーといったところか。眩
しい陽光が、ひなびた南国駐在の商社マンにしては明らかに胆の座り過ぎている横顔に射していた。
「……ああ、私も顧客との待ち合わせがあるんでした」
いかにもとってつけたように腕時計を見やると、青年は人の良い笑みを浮かべた。
「お友達が早く来られるといいですね。良いご旅行を」
笑顔と共に軽く会釈した。その死角になったシャツの陰から、衣擦れの音に紛らせてかすかな擦掠音
がしたのを風見の耳は聞き取っている。
(……カメラか)
普通の人間には聞き取れない程の小さなシャッター音だった。一般人が持ち歩くような代物ではある
まい。何より無駄に動かない目線と、不自然さを感じさせない物腰は、明らかに素人ではなかった。
「貴方も、仕事のご成功を」
風見が皮肉めかして答えると、しかし青年は改めて笑った。
「ありがとう。それでは」
素としか見えない笑顔に、やはりこの手の顔は相手の力量を見抜く洞察力や言葉の裏を読む能力に総
じて恵まれないのではなかろうか、と思いながら、風見は玄関へ向かう青年の背を見ていた。
 褐色の肌のドアボーイが慇懃に開けたドアから出ていく後ろ姿は、足早に正門前の噴水をぐるりと
回って繁華街のある大通り方向へ消えていく。そこまで見送って、風見は眉を寄せた。
(どこの機関か知らないが、日本人とは珍しいな)
いやそうでもないか、と思い返す。
 外国籍ではあるが、FBIに属している日本人の先輩も知己も居る。自分が良く知らないだけで、
外国の諜報機関で働く日本人もそれなりに居るのだろう。
(それにしてもあんな風に片っ端から撮って、一体何を調べているのかな)
少し気にかかった。
 風見がこの南の島にやってきたのは、勿論観光目的などではない。世界征服を企む悪の組織は、こ
の穏やかに明るい常夏の島にもその魔手を伸ばしていた。
 そして、それを知らせてきたのが。
「―――遅い」
振り返らずに、低く声をかけた。
お前が約束の時間に来ていれば余計なごたごたは避けられたのだ、と八つ当たりしたいところだっ
たが、説明するのも面倒なので止めている。
「すまない、待たせたな」
ロビーと渡り廊下でつながっている別館の方から現れた結城丈二は、珍しく少し息を切らしていた。
かなり走ってきたらしいな、と背を向けたまま風見は考えている。
「今、ちょっとそこで」
言いさして、いや、と結城は何故か口ごもった。
「どうした。生き別れの兄にでも出会ったか」
「え?」
何だ違うのか、と風見は肩をすくめる。考えてみれば方向が違う。それでなくても随分慌てている
ようだし、顔を合わせていないなら別に話してやるまでもあるまい。
 丁度良い具合に入れ違いになってくれたか、と思いながら首だけかしげて友人を振り仰いだ。
「まあいい。少し落ち着いて、話を聞かせろ」
玄関の外に、大型バスがゆっくりと斜めに止まった。
 続々と下りてくる新たな観光客の一団を、頭を下げたままドアを押さえているドアボーイが迎え
入れる。にわかにロビーの気温が高くなった。なにもこんな騒がしい所で話をしていなくても良い
だろう。
「ああ、そうだった」
思い出したように、結城はポケットを探って部屋番号の札の下がったキーを取り出した。
「行こうか」
急ぎ足でロビー奥の階段へ向かった結城について立ち上がりかけ、風見は何げなく玄関を見やって
いる。
 観光客に混ざってドアをくぐり抜け、一人の東洋人がこちらも早足で入ってきたところだった。
まだ二十歳になるかならないか、というところだろうか。観光客というよりはむしろ現地でアルバ
イトでも探している学生然とした簡素な身なりだったが、妙に光の強い目でロビーを見回している。
(客を迎えに来たガイドか―――そんな風体を装っているのかのどちらかだな)
渡航前にざっと調べた限りでは、のどかな南の小国という印象だったのだが。
 どうやらなかなか油断ならない土地柄のようだ、と思いながら、風見はゆっくりと結城の後から
歩き出した。