四
室内の光に惹かれて闇の内から飛んでくる蛾が、網戸に時折乾いた音をたてている。
「……地下かどこかに潜っているのかもしれないな。どうも出力が弱い」
結城は眉を寄せて、地図にペンを走らせた。
今日一日の調査結果を書き込んだ地図上には、いびつな円形が描かれている。
「だが、君が探ってくれたこの辺なのは間違いない。妙な奴もうろうろしているとなると、
かなり怪しいな」
そして地図上には、稲妻のように曲がりながら円の外から内へ突き刺さっている一本の線が
書き入れられている。途中で「?」マークがうたれているその線は、風見が謎の黒装束を追
跡した軌跡である。
どうやら探索中の風見を尾行してきていたらしい相手は、話を聞いただけの結城にも「敵」
であろうと判断できた。RB―2が作動している事実と結びつければ、何らかの陰謀が動き
出しているのはいよいよ確実になってきたと考えて良いだろう。
「明日はここの工場を中心に探ってみるか」
顔を上げ、そこで風見があらぬ方向を見上げているのに気づいた。天井へ向けられたまなざ
しは、さっきからどことなく気のない風に見える。
夕方に約束の場所で落ち合った風見は、工場地帯一帯で感知できた電磁波と、謎の尾行者
について言葉少なに告げた。僅か数時間の探索にもかかわらずあっさりと大きな情報を掴ん
できたのに、正直なところ結城は少し面くらったのだが、同時にどこかで何の不思議もない
感もしている。長年仮面ライダーとして戦い続けてきた風見の感覚は鋭い。
「どうした?」
何か気にかかる事でもあったのだろうか、とだから思った。
風見が敵の気配を鋭く感知するのと同様に、敵や―――逆に敵に狙われる人々にも、どう
やらどこに居ても風見の気配は闇夜の星のように目指されるらしい。
それがおそらく、仮面ライダーという名の宿命でもあるのだろう。風見が動き出せば、空
気が変わる。平和と見えた日常に潜んでいたもう一つの現実が、風見の来訪で動き出す。
望むと望まざるにかかわらず。
「…結城」
風見は天井を見上げたまま、口を開いた。
「うん?」
「RB―2を動かしている奴がいるという事は」
そこで珍しく言い淀む。
「例えば何か……何者かが今、RB―2の中で再生されているという事なのか」
しばらく沈黙があった。
結城は一瞬、問われた言葉の意味を考えている。
そんな事は、正直なところ考えてもいなかったのだ。
「……可能性としては」
どうにか科学者としての意識に立ち返って考える。
「それも無いとは言えない」
考え考え、言葉を継いだ。
「ただ、測定できた電磁波は、電源が入っているだけのスタンバイ状態でも発生するものだ。
起動させているだけなのか、既に再生実験を開始しているのかは、今の時点では何とも言え
ない」
風見の指摘は当然の事だ―――と、その頃ようやく思い当たっていた。
むしろ自分はあえて、その事実を考えまいとしていたのかもしれない。
それを今まで考えから遠ざけていた理由も、結城には解っている。おそらくは、どこか後
ろめたく。
それも結城が南の島で、RB―2を初めて見た時の話である。
(これさえあれば、貴方の右腕も元通りになるんです)
ヨロイ元帥の計略にはまり、結城が自らの生身の右腕を失った事を、デストロン科学者グル
ープの一員だったその科学者は知っていた。そして今は結城が仮面ライダーの側に立つ身で
ある事を承知の上で、彼はそう切り出したのだ。
RB―2を使って結城の右腕を再生しないか、と。
再生怪人を造り出す為の主幹となるRB―2だが、使い方によっては夢のような機能をもつ
装置である。その培養槽の内に収めるのはほんの僅かな細胞でも、肉体の一部を欠損した身体
でもいい。
今も仮面ライダー達が帰国すると必ず顔を出す伊豆の本郷猛邸の地下には、本郷の研究室が
ある。元は機械改造された本郷の身体を、生身に戻す研究の為につくられた施設だ。いつか普
通の人間に戻る日を夢見た事もあったのだと、何かの折に本郷から聞いた事があった。
それと同じ望みが、自分の中に全くないと言えばそれは嘘になるだろう。
(そうすれば何もかも、元通りになるじゃないですか……)
そう言いつのった後輩の目も思い出す。そこに駆け引きはなく―――おそらくは純粋に、好意
である事も解っていた。
元々デストロンに於いて、結城をそのリーダーとする科学者グループは戦闘部隊とは基本的
に一線を画していた。そのメンバーには結城のようにデストロンに育てられた科学者ばかりで
はなく、資金や設備的制約もなく研究に没頭できる環境に惹かれて加わった科学者も多く、純
粋に科学技術を発展させる事を崇高とする空気があった。
目に見える実利ばかりを求めようとする戦闘部隊を、どこかで遠ざけていたのも確かである。
だからあんな事件さえなければ、結城が自らの開発した義手を装着して戦うなどおよそ思い
も及ばない事だった。何も科学者が改造人間まがいの真似をするまでもあるまい―――戦うべ
きデストロンも既に地上にはないならば尚更、と後輩が思う気持ちは、だから結城にも良く解っ
た。ましてや改造人間と呼ぶにも不完全な身体ならば、むしろ元通りの身体を取り戻し、再び
科学者として生きるのが、結城にとっては正しいのではないかと。
だが。
(僕の右腕は、この機械の腕だ)
そう答えたあの時、少しも迷わなかった事も結城は思い出している。
それは目の前にあるこの瞳が、胸にあったからかもしれない。経緯は決して望んだものでは
なかったが、自分は復讐に生きる内でこの世界の真実を知り―――それは少し遅かったかもし
れないが、せめて自らの過ちを償う為にも戦うと決めたのだ。
それはデストロンの壊滅とは関わり無く。
例えばこの先、デストロンと同じ世界征服の野望を抱く組織が現れた時には、持てる力の全
てを賭けて戦おうと誓ったのだ。
その誓いを支えてくれたこの瞳には、そんな事を話すのも今更に思われて切り出せなかった
が。しかし風見が居る限り、もう自分が迷う事はないと結城は知っている。
だから余計な事は言うまいとも思う。
しかしどうやら自分の答は、風見には納得が行くものではなかったらしい。かすかに目をす
がめて見つめている風見に、結城はまごつきながらも言葉を探そうとした。
その沈黙を遮ったのは、電話のベルだった。
思わず腰を浮かせかけた結城を目線で制して、風見は立ち上がっている。
そう言えばここは風見の家だったのだ、と思い出した。約束の場所で落ち合った時のは夕方
の事で、もう大学の建物も閉まっている。少し明日以降の打ち合わせをしておこう、と風見が
言い出したのだった。
「―――もしもし」
電話に応対している風見の声を聞きながら、空いた向かいのソファを結城はふと懐かしく眺め
ている。
初めて結城がこの部屋を訪れたのは、まだデストロンと戦っていた頃だった。その後日本を
離れる事となり、ここ数年は風見自身もおそらくほとんど帰ってきてはいない筈だったが、部
屋はきちんと片付けられている。
風見愛用の古いギターケースが、一時代前のステレオの横に立て掛けられている。ステレオ
の上には、こちらも古びた木製の写真立てが置かれていた。
(……?)
この前来た時にあんな写真は飾られていたろうか、と思った。何の写真だろう、と目をこらし
てみる。
写真には一人の少女が、風見と肩を寄せあうように映っていた。年の頃は十七、八というと
ころだろうか。額の左側で分けた髪をつややかに肩まで垂らしている。風見に甘えかかるよう
に気持ち傾けた上体も卵型の頭も、小作りでどこか子供らしい輪郭を残していた。
随分親しいようだが誰だろう、と考えかけ、次の瞬間打たれるように思い当たる。
写真の内の風見は少し照れたように―――しかし翳りのない微笑を浮かべている。それは結城
が見た事のない、風見の明るい表情だった。
それで少女が誰なのかも察せた。ぱっと見た目にはそれ程似ているとも思われないが、良く
見ると目元や表情に漂う雰囲気に、不思議な程似通ったところがある。何よりも寄り添う二人
の間に通う空気が、写真越しでさえ解るのだ。
「待たせたな」
風見が戻ってきた。ついでに探してきたらしい缶コーヒーを二本、手にしている。一本を結城
に差し出した。
「……ああ」
そして結城の視線を追って、写真に気づいたらしい。
「誰に花を手向けてるか位、知ってた方がいいだろう」
「風見」
聞き返そうとして、結城はその意味を悟っている。
知られているとは思わなかった―――と言うか、知られたくはなかった。
所詮は自己満足だ。
かつてデストロンを世界平和の為の組織と信じて与していたその過去で、自分が何をしてい
たのかを完全に知る術はない。どれだけの人を傷つけ、不幸にしてきたのか―――その全てを
知る事はできないし、知ったところで今更償う術もない。それが解っているから、風見には知
られたくはなかったのだが。
「……で」
しかし風見はそれ以上その話題に触れようとはせずに、ソファに腰を下ろした。
「明日はどうする?」
五
「―――ここだな」
照りつける陽射しに目を細めながら、結城は道路沿いに長く続く塀を見上げた。
「それにしても随分敷地が広いから、手分けするか」
二人は昨日、風見が探索した工場まで来ている。
ええとこちらが正門だから、と結城は手にした地図を開く。昨日の調査結果が書き込まれた
地図を眺めながら、ああそうだ、と独りごちた。
「あれから、もう一度考えたんだ」
思い出したように、風見を振り返る。
「昨晩、君に聞かれた事だが」
唐突に切り出され、何の事を言われているのか風見は一瞬掴みかねていたが、結城はそのまま
言葉を継いだ。
「RB―2はスタンバイ状態でも弱い電磁波が発生する、と言ったが、もしも地下に隠されて
いるとしたらそれこそ微弱で探知機にも引っ掛からない筈だ。だとすれば」
手にした探知機を、ちらりと見やる。
「君が言う通り、RB―2は……何者かは知らないが、再生を開始している可能性が高い。その
場合には、とにかく止めるべきだ」
そう言い切ると、結城は風見を見た。少し言いにくそうではあったが、そのまなざしがまっす
ぐなのを、風見は不意に眩しく思う。
中で再生されているのが何者かは解らない。
だがそのシステムが動いているとすれば、それ自体がこの世にとっては既に災いなのだと、
結城は言いたいのだ。それがかつては正義と信じた組織の忘れ形見であっても。
おそらくもう結城には、負い目はあっても何の迷いもないのだろう―――と思う事がある。
(貴方に解るのか)
かつてそんな言葉で、自分に相対した事があったのも遠い昔に思えた。それはまだ、デストロ
ンという組織の理想を結城が信じていた頃だ。あの頃の結城は、デストロンに奪われて機械に
替えた右腕をその復讐の拠り所としていた。
(憎しみの姿だ)
その言葉をまっすぐに受け止めたのは、それがかつての自分の姿に重なった為もあったろう。
家族を殺された悲しみに、自らを改造人間にしてくれるよう頼んだ自分だった。もう取り戻せ
ない幸せなら、それを償わせる為に自分は生まれもった身体も何もかも賭けてもいい―――と。
しかし思えばデストロンとの戦いの果てに、自分はこの友人を得たのだった。
「それじゃ、僕はあっちから回って調べてこよう」
ぐるりと塀を巡るように示した右手には黒の革手袋を嵌めていたが、腕を伸ばすと袖口からは
肌色に塗装しただけの機械の手首が覗く。
「何かあったら呼んでくれ」
夏の陽光を浴びて、その外装がちらりと光った。しかし気にする風もなく、軽く手を振って角
を曲がっていく結城の背中を、風見はしばらく見送っていた。
白いワイシャツの背に、明るく陽は照り返す。
その屈託のなさを眩しく見やって、風見も歩を進めた。
今日も暑かった。変わらず半分だけ下ろされたままの工場入口のシャッターは、手をかける
と手袋越しでも指先をじんと焼く。昨日と同じようにその下をくぐって工場に入った。
工場の窓から整然と射す陽が目を射る。人の気配はない。
ゆっくりと工場の内を見て回った。昨日と同じように、ところどころ錆の浮いた機械群の間
を抜け、僅かに黒ずんだ壁や天井にも目を配る。
ふと足を止めた。
足元の床を覆っている埃が、変に乱れている。
(……足跡か?)
上体を低くして、窓から入る陽に一帯の床を晒して眺めてみた。入口から北側の壁を伝うよう
にして重なり合った足跡が、やがて視界の内にぼんやりと浮かび上がった。
誰かが―――少なくとも最近―――ここを通ったという事だ。
なおも目をこらしながら、風見はその足跡の行方を辿った。
入口からは反対側にあたる壁際にひっそりと、半畳ほどの鉄板が伏せられている。鉄板の厚
みに合わせて床が作られているところを見ると、どうやら何かの蓋らしい。把手らしき小さな
窪みに触れてみると、明らかに開け閉めがされていると見えて埃も溜っていなかった。
そして足跡はそこで途切れている。
風見はその場に静かに膝をつくと、鉄板を持ち上げた。横から射す陽が、蓋と風見の上体の
形を切り抜いてその下の闇を照らす。
地下へと続くコンクリートの階段が現れた。
かなり急な傾斜の手すりが、腕を伸ばせば届く程の床下から片側だけにつけられている。こ
もった空気は外気同様に熱く、その内に妙な匂いがした。刺激性の薬品と金属と、そして何か
生臭い匂いの混ざった、不快な匂いだった。
目をこらして階下を伺うと、夏の陽射しは階段の行き止まりに白く四角く落ちている。
四メートル位か、と目測で深さを計ったが、くっきりとした光が強くてその奥に何があるの
かは見えない。
ペンライトを持ってきていた筈だが、とポケットに手をやり、そこで気づいた。
ポケットの探知機が、反応音を鳴らしている。出して階下に向けてみるとスクリーンの光点
が画面中央に輝き、一層大きな音が階下の闇まで響いた。どうやらこの地下に―――自分達が探
しているものがあるのは間違いない。
(結城を呼ぶか)
意識を研ぎすまし、友人の気配を掴む。この工場の裏手にある倉庫の二階を調べているところ
だった。
(結城)
声にはせずに、呼び掛けてみた。
返事はなかったが、結城の気配がこちらへ向くのが解る。
仮面ライダー同士の交信能力にはそれぞれに差があり、例えば風見にとって結城の居場所を
突き止める事や、伝えたい言葉を送るのはたやすい。しかし逆に、結城の側からは風見の居所
はどうにか感知できても、自分の情報を伝えるのはどうも苦手らしい。大抵は、むしろ風見か
ら結城の気配や状況を読み取って判断していた。
しかしそれで充分だ。
風見の呼び掛けをキャッチして、こちらへ急いで向かってこようとしている結城の意識を確
かめると、風見はそのまま鉄板を大きく開いて反対側へ倒した。一足先に闇へと続く階段に足
を踏み入れようとした、その時である。
視線を感じて、振り返った。
入口を塞ぐように、昨日の少女が立っていた。華奢な肩をきつくそびやかせ、まっすぐに風
見を見据えている。
「……どうして行くんですか」
独りごちるように呟き、ぎゅっと握りしめた両の拳の小ささを、風見はやはりどこかで見たよ
うに思う。だがどこで、と思いながら、足を止めた。
「君は」
「それがあれば、帰ってこられるんです」
風見の言葉を遮って畳みかける少女の目は、じっと風見を見据えている。その真摯なまなざし
に、ふと風見は気後れしている自分に気づく。
「……RB―2で再生されているのは」
言いかけて止めた。
結城には言わなかったが、昨日から風見はあるひとつの可能性について考えていた。
かつて悪の組織は、体力と知力に優れた人間を拉致し、洗脳・改造をくわえて自らの怪人と
してきた。
ならば、RB―2の中で誰かが再生されているとして、それを―――例えば悪の組織が再び
改造手術を施す前に奪い返せば、それはあるひとつの悲劇を回避する事になりはしないか。平
和に暮らしてきた人生をいきなり断ち切られ、戦いの犠牲となる人を一人でも救えるなら、そ
の可能性を考えてみるのは過ちだろうか。
そんな事を、おぼろげに風見はずっと考え続けてきたようにも思う。仮面ライダーとしての
戦いの中でも、そしてこの地上で飽く事なく繰り返される戦争の中に一人のドライバーとして
身を置いていても。
自分が力の限り戦っても、なす術もなく目の前で人の命は失われていく。たとえばどんな方
法であれ、その身体を甦らせ―――待つ家族の元へ返せるとしたら。
だが。
それはやはり、正しくはないのだ。
何が悪いとも説明はできない。しかしもしも―――それが罪なき人間であっても、一度失われ
たものを甦らせるのはやはり許されない事なのだと。
風見は黙ったまま、きびすを返した。
まだこちらを見つめているまなざしに背を向け、階段に足を踏み入れる。階下の気配を探り
ながら手すりを掴んで一歩一歩地下へと降りていく。背中の気配をつい伺いかける意識を抑え、
足元に広がる闇に集中する。
思ったより広い地下室だった。
光の届かない闇にペンライトを向けるが、陽の明るさに目が慣れていてなかなか見通せない。
それでも辛抱強く照らしている内に、やがて少しずつ見えてくる。
闇の内でぼうと光を反射したのは、巨大なガラスの円筒だった。人ひとりの身体くらいは楽
に収められる程の大きさの円筒は内側を何とも知れない透明の液体に満たし、その底から何本
もの被覆線を触手のようにもたげて揺らしている。円筒は一段広い金属筒の台の上に据えつけ
られており、どうやらこの金属筒に制御回路がおさめられているらしい。表面のパイロットラ
ンプが、小さく緑色に点灯していた。
(……あれが)
初めて見る機械だったが、それが何なのかは解った。
(RB―2か……)
ごぼり、と音がしてガラスの円筒の内に気泡が浮いた。
その向こうで何かの影が身じろいだように見えて、風見は慎重に歩を進める。
(やはり)
ガラスの培養槽の内では、誰かが今まさに再生されようとしている。だがそれが誰であるにし
ても、自分がなすべき事はひとつだった。
工場の敷地を突っ切ってこちらへやって来ようとしている結城の気配は、まだ少し遠い。門
外漢の自分だが機械を停止させるくらいは出来るだろうと、昏く息づく再生機械に近づこうと
した、その時である。
すぐ横の闇に、何かが蠢いた。
常人を越えたスピードで襲い掛かってくるその大きな爪先をとっさにかわした瞬間、風見は
濃い橙色と黒の毛並が目の前を流れるのを見ている。
一瞬奇妙な既視感がよぎった。しかしその意味を考えるよりも、突進をかわされた影が再び
体勢を整えて飛びかかって来ようとする気配に風見の身体は反応している。最初こそ不意をつ
かれはしたが、敵の存在が解っていて簡単に攻撃を許す程、風見は甘くはない。
背後から飛びかかってこようとする気配を読んで繰り出した風見の右足の蹴りは、しなやか
な腹の筋肉を捉えていた。生体レベルで強化されているとはいえ、急所の鳩尾を避けようとす
れば体勢は崩れる。風見の爪先を避けようとして捻った身体は宙でバランスを失し、そのまま
もんどりうってガラスの培養槽に叩きつけられている。薄闇の内でガラスが砕ける嫌な音がし
た。
あるいは自らをも育んだであろう機械を傷つけた事への悔しさか単なる痛みか、慟哭にも似
た咆哮が響いた。猫科の動物の鳴声に似た、奇妙に哀切な声は長く尾を引く。まるで悪夢のよ
うだ、と風見は思う。
地下室の空気は粘ついて暑い。
敵の姿は闇の内に溶け込んで、次の攻撃にうつるタイミングを計っている。風見も呼吸を整
えようとして、湿気が濃くなったのにふと気づいた。塩気混じりの匂いが鼻をつく。足元を見
やると、地下室の奥からゆるゆると液体らしいものが流れてきていた。
更に目をこらすと、尖ったガラスの輪郭らしきものをかすかな光が縁取っている。
何にしても、この闇の内ではまだ目の慣れない自分の方が不利だ。風見は注意を配りながら、
ゆっくりと後じさる。左手で階段の手すりを掴み、背にしたまま階段に足をかけた。
明るい地上で、敵の正体を見定めたい。そんな気持ちもあった。動きが制限され、ましてや
地上からの光が射して姿があらわになる階段の途中では自分は無防備も同然になるが、とにか
く上へおびきだそう、と階段を昇る足が階上まで後二歩、というところまできた、その時であ
る。
喉元を狙って繰り出されてきた爪を、不安定な体勢から身体をひねってどうにかかわしざま、
風見は右肘をまたその脇腹へ叩き込んだ。その勢いで階上へ飛び出した敵の背の毛並が明るい
陽光に照らされて光るのを、かろうじて手すりを掴んで身体を支えながら振仰ぐ。そのまま一
段を踏み越えて、風見も階上へ躍り出た。
いきなり夏の陽射しに満たされた地上へ引きずり出される形になった敵は、金色の目を細め
て低く床にうずくまっていた。
それは―――奇怪な生物だった。
全身は獣じみた毛皮に覆われている。骨格は一見人間のもののようでもあるが、四肢でコン
クリートを踏んでいる体勢はむしろ猛獣に近い。新たな攻撃に転じるべく、間合いをはかって
いる。
しかしその姿は、風見にとって生涯忘れ得ない改造人間にまさに生き写しだった。
濡れたようにつややかな毛皮は豹の斑紋を浮かべ、頭頂部から背へかけての少し毛色の変わっ
たたてがみは怒りにさあっと逆立っている。ただ違うのは、両手―――と呼んで良いものとし
てだが―――は猫科の動物らしい肉厚の五指それぞれに鋭い爪を備えているところと、機械改
造が加えられていない左半身や頭部も、獣の表皮に覆われているところだ。
それを除けば、そこに居たのはまさしくデストロンの改造人間・ハサミジャガーだった。
何故、だのどうして、などと考えている余裕はなかった。よしんば不完全な改造体であるにせ
よ、確かなのはそこに怪人が居るという事だ。工場の外に出す訳にはいかない。
変身を、と腕を上げようとした、その時である。
風見の闘志を察してか、敵の背のたてがみが、窓からの陽光を浴びて青銀色に光った。
その後ろに、いつの間にかあの少女が立っていた。表情に怯えた色がないのは、自分が何に直
面しているのかがまだ理解できていないせいなのか。どこか幻を見るようなまなざしで、風見と
謎の怪人を見ている。
そして風見の視線に気づいたのか、敵が僅かに頭を傾げて背後を伺った。
(危ない)
このままでは。
かつて―――良く似た光景を、風見は見ている。だがあの時と違うのは、目の前で家族が殺され
るのをなす術もなく見つめていた風見志郎ではない事だ。
構えをとろうとする一瞬、それでも風見は僅かにためらったかもしれなかった。
「―――変身、V3!」
赤い仮面に、ぎらりと夏の陽光が照り返した。
敵は再びこちらに視線を向け、じりじりと間合いを詰めてくる。コンクリートに立てられた前
足の爪に、力が入った。飛びかかるタイミングをはかっている。
巨大な鋏の腕を持たない今の怪人なら、多少の攻撃でもV3の外骨格に致命傷を与える事はで
きまい。しかし獣の爪でも、生身の少女を引き裂くには充分だ。とにかく自分に引きつけて、そ
のまま倒さなくてはならない。そう思いながら、V3はじりじりと後じさる。
「風見!」
入口から声がした。見やるまでもなく、誰かは解っている。遅いぞ、と呟き、しかしいい時に来
てくれた、と思い返した。
飛び込んではきたものの、結城はその場に立ち尽くしている。何をしている、と苛立たしげに
ちらりと見やった。
「その子を。早く外へ!」
V3の目線で、結城は振り返り―――しばらく見回すと、しかしとまどったように視線を戻した。
「結城?」
結城の目は確かに少女の居る場所を見ていた。が、少女を見てはいない。その目に映っているの
は、ただ眩しく陽を跳ね返すコンクリートの壁ばかりだ。
結城の唇が動きかけた。続く言葉を、何故かとっさに聞くまいとV3が身構えた次の瞬間、入
口近くに立ち並ぶ機械の落とす影と見えていた闇が不意に動いた。音も立てずに、物陰から黒い
影が身を起こす。
「!」
無言のまま羽交い締めをしかけてくる腕を、結城はとっさにとらえて防御している。右の腕を脇
に捕えて捻り上げたまま右側へ身体を落とし、コンクリートの床に叩きつけた。
昨日風見を尾行してきたのと同じ、黒装束の男だった。コンクリートにしたたか右半身を打ち
つけたにもかかわらず、素早く結城の押さえ込みを振り払う。ぱっと身を翻すと、開いたままだっ
た地下への入口に飛び込んだ。
「待て!」
すかさず結城も身体を起こして、その後を追おうとする。それで思い出し、振り返らずにV3は
呼び掛けた。
「その地下に、RB―2がある」
「解った」
短く答えると、結城は階段を降りていった。
その足音を背にききながら、V3はなおも敵に対した。
次の瞬間、敵がやおら行動を起こした。明らかに野生の獣を越えた速度で、鋭い爪が空を切る。
避けたつもりだったが、左の肩口に薄い痛みが走った。獣は軽々とV3の頭上を飛び越え、反対
側の壁を斜に数歩駆け昇るや、再びV3目がけて飛びかかってくる。
白いマフラーが風に舞った。
かっと開いた獣の牙の下をかいくぐったV3のキックは、獣の喉笛を捉えている。攻撃のスピ
ードを逆に利用され、獣はもんどりうって壁に叩きつけられた。低く唸りながら、なおも身体を
起こして飛びかかってくるが、最初ほどの速さはない。
V3の拳が、今度は深く横腹に食い入った。獣の身体はしたたか壁にぶつかり、そのままずる
ずると床にくずおれる。
窓の形に四角く射す陽光が、倒れ伏した獣を明るく照らした。弱くもがいた背中の毛皮が、一
瞬さざなみをうって光った。それが最期だった。
こんなに脆いものだったろうか―――と、V3はぼんやり思う。静かに暑い陽光の下、砂の像が
風にさらわれていくように、再生された獣の輪郭はみるみる崩れていく。
V3はそれを見届けると、ゆっくりと振り返った。
少女はまだそこに立っている。
「……いつまで、そこに居る気だ」
声は僅かに掠れてぶっきらぼうに、しかし優しく響いた。
少女の目は、遠いところを見ている。
「……兄を」
その言葉は、誰の為のものなのか。
「待っています」
自分は何故気づかなかったのだろう―――と風見は思う。
その面差しを懐かしいと思ったのも、少女が時代遅れの白いワンピース姿なのも。その理由が、
ようやく解っていた。実際には聞かずに済んだ結城の声が、ふと耳元に聞こえたようだった。
(どこに?)
あの時、結城には少女の姿が見えていなかったのだ。
風見はゆっくりと、目を上げた。
「……もう」
自分は今、どんな表情をしているのだろうと思う。
「待たなくていい」
まだ自分も、こんな幻を見るのだな―――とも思った。
もう十年も経とうとしているのに。
RB―2がなくても、人は人を甦らせようとする。郷愁に呼び覚まされ、時に―――無意識の
内に。
「俺はこのまま、生きていくから」
生身の身体は捨てても、先輩達がその技術と心を込めてくれたこの身体で。
心の奥に眠る喪失感を抱え、これからもあらゆる戦いの内に生きていく。
それが人智を越えた科学力との戦いであっても、人間ひとりの無力を思い知らされる巨大な戦
争であっても、一刻一瞬の速さを競うコース上の勝負であっても。自分は同じように、その最前
線に立ち続けるのだろう。
いつかその果てにある、何かを掴むまで。
少女は黙って、風見を見つめている。懐かしいその面差しとワンピースの白さが眩しくて、風
見はゆっくりと目を閉じた。
ただそれでも、決して後悔はしない。普通の人間としての身体も、平和な生活も、捨てる事を
決めたのは自分自身だ。
自分の選んだ運命だ。
静かに瞼を上げると、そこにはただ、明るく夏の陽射しを跳ね返すコンクリートの壁と床があ
るばかりだった。
知らず唇が、その名前を呼ぶ形に動いていた。
しかし声にはならなかった。
いつの間にか、結城が地下から上がってきていたのにも気づかなかった。
「―――風見」
どう声をかけようか、随分迷っていたらしい。
「済んだか」
振り返らずに尋ねると、ああ、と返事があった。
「と言うか、もう壊れていた」
少し考えて、友人は生真面目に言い換えた。
結城が地下に降りた時、そこにあったのは再生機械の残骸だったという。謎の獣の再生によって
前から何らかの無理がかかっていたのか、風見と獣の格闘中の弾みで壊れたのかは定かではない。
どちらにせよ、ガラス槽が壊れた時に溢れ出した培養液が作動中の回路を浸し、システムの中枢は
既に破壊されていたのだ。そして破壊されたガラス槽の中に何があったのか、何故か結城は後になっ
ても語ろうとはしなかった。
「あの男は?」
黒装束の事を思い出し、風見は尋ねてみた。
さっきより、少し長い沈黙があった。
「……済まん。何も喋らなかった」
そうか、と答えた。
それは予期していた事でもあった。秘密組織の戦闘員は、その正体や組織を仮面ライダーに明か
すくらいならば、むしろその前に死を選ぶ―――あるいは選ばされるように肉体改造されている。
「どうした?」
まだ何か言いたげな気配を背に感じた。
眉を寄せて促すと、結城は珍しくためらいがちに口をきった。
「……それと、あれはRB―2ではないと思う」
「何?」
「僕が見たRB―2よりも、かなり旧式だ。多分その前の、RB―1と呼ばれていたタイプだろう」
肉体は再生できても、かつての記憶や知性は付加できないシステムだ、と結城はつけ加えた。
(……成程)
それで納得が行く事もある。まだ肩口にかすかな痛みを残しているあの爪の持ち主は、仇敵であっ
て仇敵ではなかった―――という事なのだろう。
「……まるで」
知らず口元に微苦笑が浮かんでいたようだった。
「幻だな」
それも日本の夏らしいか、とも思った。
記憶の底に眠るものたちが、むせるような熱気の内にあらゆる形で立ち上がってくる。照りつけ
る陽射しの下に、くっきりと影まで落として。
「……冗談じゃない」
背中から、ややむっとしたらしい生真面目な答が返ってきた。どうやら茶化されたと思ったらしい。
いつになく、むきになっているようでもあった。
しかし説明するのも面倒だったので、風見はかすかに肩をすくめたきりで答えなかった。
これから考えなくてはならない事は、沢山あった。この地下に、既に旧式となった再生機械を持
ち込んだものの目的、そして暗躍する黒装束の男の出自や再生機械との関係も、おそらくゼロから
調べ始めなくてはならないのだ。
先は長くなりそうだ、と思いながら、風見はふとまなざしを上げる。
窓の向こうには、相変わらず暑くぎらつく空があった。その抜けるような青の中を、どこからと
もなく飛んできた一匹の蝶が高く昇っていくのが見える。
小さな白い羽が、眩しく光っていた。
<完>