プロローグ
重く激しい雨音が、窓の外を満たしている。
夕方から降り始めた雨は夜になって、一層激しさを増したようでもあった。風向きが変わったのか
不意に勢い良く扉を叩き始めた雨音に、ふと我に返って手を止める。
慌てて見た腕時計で、約束の時間にまだ間に合うのを確かめてほっとした。
帰る途中で研究に関する新たな切口を思いついたものの、書き留めようにも珍しくメモの持ち合わ
せがなかったのだ。忘れない内に、と走って帰り、部屋に戻るや靴も脱がずに机にかじりついていた
のだった。研究に夢中になると他の事が眼中になくなるのは、今日や昨日に始まった事ではない。
だが約束までそっちのけにするのはまずい。
待ち合わせの駅まではバイクで走れば三十分程の距離だったが、そろそろ出かけないとカールを待
たせる事になるな、と椅子を立った。鞄をどこに置いたか、と部屋の戸口へ立ちかけて、妙に近い雨
音に嫌な予感がよぎる。
記憶を反芻してみるが、帰ってきて玄関の鍵を閉めたかどうか覚えていなかった。
気はすすまなかったが廊下へ出てみると、低く唸る風音が吹き抜けた。
暗い夜に向かって、風にあおられた扉が開きかけては慌ただしく閉じてまた跳ね返り、その間から
容赦なく雨が吹き込んできている。
やはり閉め忘れていたか、と肩をすくめて髪を掻き、戸口へ向かった。
激しい雨は戸口のカーペットまで跳ね返り、細かな飛沫は粒子となって宙に浮遊している。
(……?)
その湿気の内にふと生々しい匂いが漂うのに、知らず眉を寄せている。叩きつけてくる雨に目を細め
ながらも片手で扉を掴んだまま、結城丈二は辺を見回した。
風に流れる雨に少しでも濡れまいと壁に身体を寄せ、闇の内に何かがうずくまっている。不十分な
光でも、幾らか色の薄い髪と肩から腰へかけての輪郭を見間違う筈はなかった。
名前を呼ぼうとして、声が喉で止まっている。それが何故なのか、最初は解らなかった。
まさか、と自問する。
目で見ているものと、しかし言葉にできない感覚は違う答を出していた。どちらが正しいのかははっ
きりしていたが、それでもしばらくためらったようにも思う。
思い切るようにきつく唇を引き結び、そのまま雨の中へ踏み出した。
重い雨粒が容赦なく叩きつけてくる背の下に庇うように、その人影を抱き起こす。おぼろな光の下
にぐったりと仰向いたその見慣れた面差しが照らされると、解ってはいてもやはり心が騒いで眉を寄
せた。気を失っている身体は濡れて重かったが、半ば引きずるようにして戸口の内へ抱え込むと、も
どかしく手を伸ばして扉を閉めた。
雨音が遠のく。
補助灯の弱い光が、廊下に横たわる青年の姿を柔らかく照らしていた。この近くで建設中の工場で
良く見かける作業服姿は、事実に気づいていなければ友人が何かの扮装か潜入捜査をしているのかと
思うところだろう。指摘されればさも心外そうに眉を寄せてみせるのだろうが、どうも友人はけれん
味のある趣向が好きなのだ。
それとも彼にも、同じような気質があるのだろうか。
それでも不思議はないな、と思い返した。
何故なら。
見下ろすと、ほの暗い中にもくっきりと浮かび上がる端整な風貌がある。
どこかで同じ光景を見た気がして、ふと手が止まった。
(……いや)
のんびり考え事をしている場合ではない、と自分に言い聞かせて、肩と膝の下にそっと腕を回して抱
き上げた。
一
意識は覚めかけていたが、重い瞼はなかなか上がらなかった。
瞼の裏側に穏やかな白い光が透けるのを、力の入らないまましばらくは眺めていたようにも思う。
乾いた布に暖かく身体が包まれているのに気づいたのは、もう少し後の事だ。粘ついて固まった睫を
ようやくもどかしく開き、見上げると仰いだ先には見知らぬ天井があった。
クリーム色の漆喰塗りの平面を、ぼんやりと眺めた。
ここがどこで、自分が何故ここに居るのかもなかなか思い出せなかったが、それにしては何ひとつ
不安にならないのが不思議だった。
「……痛むか」
聞き覚えのある声がした。
ゆっくりと視線を巡らすと、枕元に青年が立っていた。
程よい長さで撫でつけられた黒髪の下の額の線は滑らかに、明るい内で見ると驚く程整った目元か
ら頬への輪郭に続いている。こちらを見下ろしている黒い瞳は、かつて世界征服を目論んだ組織に見
込まれた程の天才的な知性と、ある意味相反する直情さを同時に宿して懐かしい。
もうつきあいも数年になろうかとする友人の、見慣れた面差しがそこにあった。
「……お前か」
自分でも意識していなかった緊張が解けたらしく、乾いた枕や毛布の感触が不意に近くなった。天井
に照り返す光は妙に明るく、視線を動かすと窓枠の端にかかる白い太陽が痛い程に目を射た。その色
からどうやら夕暮れが近いらしい、と見てとる。空調の温かな空気を胸一杯に吸い込んで友人を横に
仰ぎ、安堵に更に身体は弛緩しかかろうとした。
しかしそれを引き戻したのは、その黒い瞳だった。静かに、だがはっきりと一線を引いて見つめて
くるまなざしだ。
どこまで正直なんだ、とかすかに思いもした。
腹芸と無縁なのはともかくとして、敵を前にして感情が出過ぎるのは、悪い癖だと「前にも言った」
記憶があるのだが。
怪我人相手に少しくらいは良い夢を見せてくれても―――と言うか、そこまであからさまに敵意を
見せなくても良いではないか、と思う。それにしても向けてくるまなざしがまっすぐ過ぎて、ひとつ
はぐらかしてやろうか、という悪戯気も掠めた。言葉を額面通りに受け止める気質は飲み込めている。
まだ頭が十分に動いていなくてもこの単純な性格の科学者を混乱させる位の自信はあったが、傷のせ
いかそれも面倒だった。
どちらにせよ、いつかは判る事なのだから同じ事か。などと思いながら、ウインクめかして瞬きし、
困惑したようにかすかに相手の眉が寄せられるのを仰いだ。
「いつ、判った?」
苦笑しながら身じろぐと、鈍く傷の痛む背中に包帯の感触があった。傷に負担をかけないように加減
しながらもしっかりとした包帯の巻き方は、息をついても少しも苦しくならない。それも馴染んだ感
触だった。自分は確かにそれを覚えているのだ、と思いながら、言葉を継いだ。
「改造部分も、簡単に見分けはつかない筈なんだがな。一応うちの科学者の自信作だ」
「そんな事じゃない」
遮って言いかけて、しかし科学者は自分の語気にとまどうように口ごもっている。
既に傾きかけている陽射しが、ワイシャツを照らしていた。
まばゆいばかりのその白さを自分自身でも持て余すように、彼は立ち尽くしている。おそらくこの
事態に、とまどっているのは彼の方なのだろう―――と思い、そしてふと眉を寄せた。動いたせいか、
背中から右肩へかけて感じた違和感が少しずつ痛みに変わり始めていた。
自分の表情で、彼も気づいたらしい。
「―――動かない方がいい」
制するように伸ばされた右手に手袋が嵌められているのを、右肩の鈍痛をこらえながら仰いだ。それ
も見覚えのある光景だ。いつの事とも覚えてはいなかったが、傷の手当てを受けて横たわったまま、
友人を仰いでいた記憶は鮮明だった。
こんな風に。
「肋骨が折れているんだ。処置はしてあるが、一日くらいはおとなしくしていろ」
その前に飲み込んでいる言葉も、唇の動きで判った。
(いくら君でも)
そう言おうとしたのだろう。
だがその言葉は、自分の為のものではない。それは判っていた。だからやはり、聞き返さずにはい
られないのだ。
「どうして、判った?」
「……そう聞かれて、僕が素直に答えるとでも思うのか」
触れる事すら気遣うような動きとは正反対に、声は尖って固い。しかしその響きにどこか子供じみた
身構えを感じて、また笑みが浮かんだ。
どうしても、自分には手にとるように判ってしまうのだ。揺らぎながらも善悪を潔癖に切り分けよ
うとし、几帳面に線引きしようとするその気質は、知り合った頃から変わらない。
「そんなに警戒するなよ。……別に悪巧みがある訳じゃない」
そもそも身構えるなら自分の方だろう、とも思う。
身動きもままならないこんな状態で「敵」の手の内に転がり込んできた自分の方が余程に不利な筈
なのに、これでは逆だ。
「ただ、不思議なだけだ。肉体的にも精神的にも全く同じ筈なのに、お前はどこで見分けたのか」
俺自身にも良く判らないのにな、と呟くと、不意に奇妙な感情がこみあげてきた。
本当に、その境界はどこにあるのだろうか。
少なくとも自分には「見分け」はついていない。自分を生み出した「組織」どころか、こうして「友
人」が傍にいるとこの世界中のどこに居るよりも安心していられるのだ。
それが偽の―――植えつけられた記憶だとも、知っているのに。それでも緊張は緩み、いつになく
言葉もほどけるように唇をつくのだった。
「なのにどうして、お前には判るんだろうな」
「どうして?」
おうむ返しに呟いて、黒い瞳がまっすぐにこちらを見据えた。
「……それは君が、本物の風見志郎ではないと言う事をか」
あからさまな言葉にされてもさしたるショックも受けなかったのは、解り切っていた事だったか
らだろうか。
「はっきり言う奴だな。まあ、そういう事だ」
知らず笑みが浮かんでいたかもしれない。そう答えると、しかしこちらを見下ろしている瞳ははっ
きりと戸惑う色を宿した。
これではまるであべこべだ。
もしかすると、言い当てられたからには俄に凶悪な形相になるかどうかしてみせなければならな
かったのだろうか、と思わず省みそうになる。
「あれか、仮面ライダー同士の精神感応という奴か」
そういう感覚がある、という事は知っている。体験したように解る概念の一つだったが、実際には
自分では使えない力だ。
「……そうかもしれない」
まっすぐにこちらを見つめて答えながらも、あまり自信がないらしいのはその黒い瞳で解った。
その理由も知っている。
揺るがない正義の味方としての記憶の中に、彼が登場してくるのはしばらくしてからの事だ。
世界征服を企むデストロンの科学者として―――初めて出会った時、この瞳は余人に切り崩され
ない強い色を宿していた。当時の彼にとって、育ててくれたデストロンこそが世界の平和に寄与す
る組織だったからだと、植えつけられた記憶は語る。
(デストロンの悪口を言うな)
そんなまっすぐにも程のある言葉を尽くしてまで信じていた組織の真実を、彼が知るのはそれから
遠からぬ日の事だった。
現実を受け止め、信じるべきものを求めてこの世界を懸命に再構築しようとしていくその彷徨を。
その全てを目の当たりにしていなくても自分自身の事のように感じるのは、あえて何も語らず、た
だ彼が絶望の中から立ち上がるのを信じて待っていた風見志郎の記憶なのか―――それとも。
それ以上は考えずに、かすかに肩をすくめた。
「何だ、頼りないな」
走る痛みに顔をしかめながら「友人」を見つめ返す。
真実を知り、正義に生きると誓い―――その命を賭けて罪を償いながら、それでも彼はまだ、ど
こかでためらっているのだ。
自ら「仮面ライダー」と名乗る事に。
かつて「ショッカー」と呼ばれた組織があった。
元来「仮面ライダー」とはその組織の犠牲者でありながら単身反旗を翻して戦う者であり―――
その理想を継ぐ者の名だった。
かつて悪の組織を信じて働き、あるいはその研究によってもはや知る術すらない犠牲者を出した
かもしれない自分が、たとえ贈られたとはいえその名を名乗り、その列に伍する事が許されるのか。
そんなためらいを、彼は捨てきれずにいる。
それを「自分」は知っていたのだ、とぼんやりと思う。
それでも何も言わなかったのは、正義の味方たる「自分」にはどうする事もできないと解ってい
た為だろうか。それとも大した問題ではない、と気にも留めていなかったのだろうか。おそらく両
方だろう、と思った。
「だが、少なくともお前は見分けているんだろうが」
思わず口をついた言葉に、しかし黒い瞳は思いもかけず強い光で対した。
その誇りにも似た色に、かすかにまた苦笑する。
(……俺如きに同情されたくはない、か)
確かに彼は明日も解らない無明の中にあって自力で道を切り開いてきた、ただ一人のオリジナルな
のだ。体験した訳でもない記憶を元に、したり顔で意見されたくはないだろう。
「……悪かった」
息をつくように呟いて、天井を仰いだ。
色々と考え過ぎたせいか、横になっているにもかかわらず視界が茫と揺らぐ。馬鹿馬鹿しい、と
小さく溜息をついて、目を閉じた。
とにかく正体があっさり見破られた以上、早く体力を回復して次の手を打たなくてはこちらの身
が危うくなりかねない。
そう思いながらも、しかしまだどこかで緊迫感に欠ける理由も解っていた。よくもこんなややこ
しい記憶を植えつけてくれたな、とつい最近ようやく覚えた組織の科学者の顔を思い浮かべて心の
内で呪詛を吐く。そう言えばあの科学者も、この「友人」を殊更に意識していたようだったか、と
ふと思い出した。
そして「友人」が幾度か何か言いかけては口をつぐんでいるのは、目を閉じていても空気で解っ
ていた。
「……とにかく、今の状態で」
ようやく選んだ言葉は、変に改まっても静かに耳に馴染む。
「手負いの君を倒そうとする程、僕も馬鹿でないのは、君にも解っているだろう。……こう言うの
もおかしいが、安心していい」
何故こんなに笑い出したくなるのかは、自分でも良くは解らなかったが。意識して唇を引き結んで
いなければ、けたたましく笑いだしてしまいそうだった。
「今はゆっくり休む事だ」
彼ならそう言うだろう、と解っていたせいか。それともその声が、耳に親しみ過ぎている為か。あ
るいは。
ちらりと仰いだ視界の端に、傾きかけた陽を透かして撓む細いチューブが映った。ベッドの傍に
吊るされた平たいビニールパックから、薄くその液体の黄金色のつたう管を通して自分の身体に流
し込まれているのはおそらく栄養剤の類いなのだろう。その向こうに、こちらを見下ろしている落
ち着いた眼差しがある。
どこかで同じ光景を見たようにも思う。
それともこれも、自分自身の記憶ではないのだろうか。
それ以上は考えるのを止めて、目を閉じた。
二
『……昨日はすまなかった。急用が入って……ああ。何か解った事があったら、明後日にまた聞かせて
くれ。……ああ、有難う。それじゃ』
フックを押して静かに受話器を戻し、結城はふとベッドを振り返った。
最初の頃は寝たふりをしていると流石に解ったが、気づくと本当に眠っているようだった。まさか
この状況で、とまじまじと覗き込んでみたが、まだ色の悪い薄い瞼はしんと閉じられて、顔に影が落
ちても睫一本動かない。熟睡している。
どうにも分が悪い、と溜息をついた。
結城が故国の気候に似たこの小国にやって来たのは、一ヶ月程前の事だった。
一昨年から非常勤の形で結城が通っている研究所と共同研究を続けている企業から招聘され、週明
けには企業が主催する会合に出席する予定になっている。
そんな研究の日々に不穏な空気が漂い始めたのは、二週間前の事だった。
(―――親戚の話なんだが)
昼食の折、ふと思い出したようにそう切り出したのは以前から顔見知りの研究者である。学生時代に
日本に留学していた事もあって親しくなったものの、生まれも育ちもこの都市近くの小さな村だとい
う青年は身近のささやかな噂話を面白おかしく仕立てて話すのが癖だった。結城の方でも、最初はさ
ほど真面目に話を聞いていなかったのは否めない。
(十五の年から半世紀も毎日毎日畑で育ててきた南瓜が、ある日いきなり触るどころか見るのも駄目
になったんだとさ)
(それは飽きたとか、そういう事か?)
(いやいや、そんな生易しいものじゃないんだ)
結城が聞き返すと、金髪の頭を芝居めかして重々しく振った。
(何でも朝から一日姿が見えなくなって、次の日ひょっこり帰ってきたんだと。ほら、日本語でも言
うだろう。カミ……何とかって)
(ああ「神隠し」か)
そうそれだ、と頷くと、プレートのポテトフライを三本まとめてフォークに刺した。
(従妹も心配していたから随分問いつめたらしいんだが、自分が姿を消していた、という事自体覚え
ていないし、別に怪我もしていなかったから、まあ無事に帰ってきたならいいじゃないかって事にな
りかけたんだが)
そのまま無造作に口へ運びながら、話を進める。
(覚えはなかったが実際疲れてたし、もう年も年だから念の為に何日か休んで。でも放ったらかしに
していた畑が自分でも気になったらしいんだな。一週間ぶり位に自分の南瓜畑へ出て)
その薄い青色の瞳は、それでもまだどこか面白げな色をたたえていたようにも結城は思う。
(幸い気候も良かったから、畑には特に問題はなかった。至るところですくすく育っている南瓜を見
た途端、ところが彼は悲鳴を上げて頭を抱えたんだと。あれほど面倒を見てきた南瓜が、怖くて怖く
て堪らなくなったらしい)
(……怖い?)
(そうらしいんだ。それが、自分がもう何十年も毎年育ててきた南瓜だと解ってはいるんだと。だが
現物を目にすると、悪魔よりも恐ろしい物体に見えて直視もできないらしい。ただ南瓜が怖いだけで、
それ以外では日常生活に何の支障もない)
この先どうするのかなあ畑、と呑気に呟いて、彼はコーヒーカップに手を伸ばした。
(よく「カミカクシ」でも、帰ってくると性格が変わったり、超常能力が備わったりするって話は聞
いたけど、でも南瓜が怖くなるってのは何か違うような気もするんだが)
違うだろう―――と、あの時言ったろうか。
(まあ、それだけの話なんだがな)
それでも話しながら、彼なりに何か不安に思うところがあったのだろうか。その翌週にまた昼食が
一緒になった折、彼は待ちかねていたように結城を捕まえてまた話し出したのだ。
(どうも近所で「カミカクシ」が流行ってるみたいなんだ)
その表情からは、流石に以前の気楽さは消えていた。
(週末に帰ったんで家族に聞いてみたんだが、大叔父と同じような人が他にも居るらしい。ちょっと
姿を消して、帰ってきた時にはそれまでは平気だったものが怖くなっていたり)
僅かに言い淀んだのは、どうやら彼自身言葉にするといかにも馬鹿げている―――と思ったかららしい。
(……何でもないものが大事に見えたりするらしいんだ)
(と、言うと?)
(二つ先の家の娘なんだが)
ためらいがちに口にしたのは、この国ならどんな食料品店にも置いてあるトマトケチャップメーカー
の名前だった。
(その瓶を見ると、奇跡を見るような敬虔な気持ちになって―――触れる事すらできなくなるそうだ。
ずらりと並んでいる店の棚なんてもう、畏れ多くてまともに直視すらできないと)
流石にこの期に及んで、笑い話にはできない―――と思ったらしかった。
(日本では「カミカクシ」は珍しくもないんだろうが)
そんな事はない、と結城に誤解を正す間も与えない程、彼の目は必死だった。
(なあ。一体何が起きていると思う?)
問いかけられても答は返せなかった。
確かに人間の脳には、まだ未知の部分が多い。
かつて優れた科学力を駆使していた組織の一員だった結城は、表の世界では未だ一般的にはなって
いない知識も幾らか持っていたが、それでも現状でははっきりした事は何ひとつ言えないも同じだっ
た。ウイルス等による一種の風土病とでも呼ぶべきなのか、あるいはそれ以外の原因があるのか。
ただそれと同時に、意識の隅で自分にだけ聞こえる警報が鳴っていた。理由は自分でも説明できな
い。だがおそらくは、この数年にわたってまがりなりにも「仮面ライダー」の名を背負って戦ってき
た《勘》が呼ぶのだ。悪の陰謀は、時として全く無縁と見える中にも静かに潜んでいる。
思わず険しくなった視線は、しかし彼には別の意味に取られたようだった。
(……すまない)
日本人だからって「カミカクシ」のエキスパートじゃないものな、と独りごちて、肩をすくめた。
(まあそれ以外に実害はないんだが。……だけどやっぱり、普通じゃないよな。気になるから、また
週末に帰ってみようと思うんだ)
それでもどこか不安げなそのまなざしは、一緒に行ってもいいか、と結城が尋ねると俄に嬉しそうに
なったのだが。
(じゃあ、金曜日の夜十時に。十五分には最終列車が出る)
しかし思いもよらない訪問者のお蔭で、結城がそれを思い出したのは約束の時間からゆうに一時間も
経ってからの事だった。突然の事態だったとはいえ、すっぽかす形になったのは否めない。連絡を取
ろうにも、実家の連絡先までは聞いていなかった。
少し待ったものの、列車の時間があったので結局一人で帰ったという彼の方から電話をかけてきて
くれて、正直ほっとしていた。どうやら今のところ、まだ非常事態には至っていないらしい。
そう考えて、ふと眉を寄せる。どうも気を回し過ぎているのかもしれないな、と思いながら、窓の
外へ視線を向けた。
いつになく、神経質になっているようだった。何かがすぐ傍まで迫ってきているにもかかわらず、
自分だけがそれに気づいておらず―――そして気づいていない事だけが解っている。そんな訳の解らな
いもどかしさに、落ち着け、と言い聞かせる。
もうすぐここに、本物の友人もやってくるのだ。
(まあ、いいタイミングだな)
色々考えた末に結城が友人に連絡を取ったのは、この週半ばの事だった。レースの合間に引き受けて
いる仕事も丁度目処がついたところだ、という友人は、結城のあまりうまくない説明を彼らしい辛抱
強さで聞き分け、週明けにはこちらに到着すると折り返し連絡してきた。
(何だ、大して調べもつけない内からこの俺を呼びつけたのか)
到着したら皮肉混じりに肩をすくめられるのは覚悟していたのだが、どうやらその心配はなくなった
と言って良さそうだった。
思わぬ形で、いわばこの裏に《敵》が動いているという生きた証拠が飛び込んできた今となっては。
日本に居た頃思っていたより実際の地球は狭いとはいえ、流石にこれを偶然と考えるのは無理があ
るというものだろう。それでもまだ、どこか信じられないような心持ちでベッドに横たわっているそ
の横顔を見やる。見れば見る程、錯覚を起こしそうだった。
(……当たり前か)
柔らかく額にかかる前髪もその下の整った面差しの稜線も、窓から射す最後の陽光にくっきりと縁取
られている。
見間違いようもなかった。
今年の夏、レースに参加する為にヨーロッパの小国を訪れていた風見の前に、彼は幾度となく姿を
見せては挑発を繰り返していたのだという。そして風見が突き止めた謎のアジトと共に姿を消したそ
の目的も出自も、確かなところはまだ何ひとつ解ってはいなかった。
風見に瓜二つな外見と、廃棄されたアジトに残されていたひとつの装置―――人間の記憶を情報と
してコピーして他の脳に移植する《IM装置》と呼ばれていた機械から、どんな存在であるのかは、
ほぼ解っていたが。
そう考えると何の不思議もないか、と思いながら、またその寝顔を見下ろした。
風見には、自分からすれば奔放とも思える程剛胆なところがある。例え敵の陣中だろうと、休息と
回復が必要だと解っているなら平気で身体を休められる大胆さだ。意識の底で本当には警戒は解いて
いないにしても、自分が今の彼に危害を加えないとも、彼には解っているのだろう。
彼は―――風見志郎と同じ肉体と記憶を持つのだから。
自分の性格も見抜かれているか、と肩をすくめた。
(それに)
ふと脳裡をよぎった光景を、思い出すまいとするのは一瞬遅かった。
自分には、まだ風見に話していない事があるのだ。浮かび上がってくる後ろめたさをどうにか心の
隅へ押しやって、結城はふと手を伸ばした。
手当てをした時にしっかり拭いたつもりだったが、昨晩の雨にうたれた髪はまだ心持ち湿っていた。
指先に残るほのかな湿り気が、ふと幻の感覚を呼び覚ます。
それは実際には触れていない髪の記憶だ。
賑やかな蝉時雨が耳元に甦る。
外は真夏の眩しい陽光が照りつけていたが、東京の外れにある廃工場の地下はしんと暗い。埃と熱
気のこもった闇の中で、結城はその白日夢のような光景をただ見つめている。
栄養液のパックが空になったのを見計らい、そっと毛布をめくって横たわっている青年の腕から点
滴の針を外す。ついでに触れかかったこめかみはまだ微熱を帯びていたが、ここへ運び込んだ時より
は随分落ち着いたようでもあった。
流石だな、と思った。その回復のスピードは予測していた通りだったが、それでも結城は妙に安心
している。後は夜明けにもう一回栄養を補給して、回復を待つだけだ。明日の昼頃には、そろそろま
ともに話もできるようになるだろう。
そう考えながら、あえて先の事は考えないようにしている自分にも結城は気づいている。考えよう
とすれば、怪我人だと解っていても胸倉を掴んで揺すり起こしかねなかった。
少なくとも、今の彼は自分が何者なのか知っている。
だとすれば、自分を生み出した者の正体も―――そしてその目的も、知らないと考える方が不自然
だ。そんな彼が何の為にこんな傷を負ったのか。おそらくはここへやってきたのも、偶然ではあり得
まい。
尋ねたい事は沢山あるのだ。
お前を作り出したのはどんな組織で、どんな目的でここへ来たのか。後ろにある筈の組織は、一体
何を企んでいるのか。
(止めよう)
頭を振って息をつく。
その辺をどう探り出したものか、となるべく落ち着いて考えようとしながら、しかしその一方で妙
に心が波立つのを持て余している。
まるで警戒する風もなく眠っている横顔は、睫一本まで友人のものだ。
(だが)
それでもここに居るのは、友人ではないのだった。
元のように毛布で肩までしっかりと包み込み、結城はカーテンを閉めて机のスタンドを点けた。
すっかり予定が狂ってしまったが、来週半ばには会合もある。その前に、貰ってあるレポートに目
を通しておかなくてはならなかった。
本来ならばやや畑違いの分野ではあったのだが、あるきっかけで聞いた今回のテーマに興味が涌
き、伝手をたのんで参加できるように手配して貰った会合だ。生物の遺伝情報に関する解析結果は、
もしかすると、科学者としてというよりも―――仮面ライダーとしての感覚が呼んだのかもしれな
かった。
いつになく頭に入りにくい文字の羅列をどうにか読み下し、疑問点をメモに書きつける。書き出
してみると我ながら馬鹿馬鹿しい疑問は線を引いて消し、残った数行を改めて読み返す。これは週
明けに片づけよう、とメモを鞄に入れて机から立ち上がった。
時計は既に二時をまわっている。
振り返ると、ベッドの上の起伏はスタンドの光におぼろげに照らし出されていた。どうやら良く
眠っているようだ。四時頃にまた栄養補給をしなくてはな、と思いながら見下ろしたその寝顔は、
やはりともすれば友人と見分けがつかなかった。
何がなしに溜息をついて、スタンドの光を落とす。ソファに昨晩からひいたままになっていた毛
布を広げ直して、身体を横たえた。思えば昨晩は、まだ身動きできるような状態ではないと解って
いながらも妙に緊張して寝つかれず、ようやく眠りに落ちたのは夜明け近くなってからだったのだ。
これから先、どう事態が転ぶか解らない。休める時に少しでも眠っておかなくてはならなかった。
ソファの肘掛けに頭をもたせて仰いだ天井には、唯一の照明であるベッドサイドのフットライト
がかすかに照り返して微妙な陰影を刻んでいる。
ふとまたあの風景が甦ってくるのを意識の隅へ押しやって、目を閉じた。
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