孵る記憶(3)


     六

「それじゃ、僕は行ってくるが」
居間へ続く扉から結城の顔が覗いた。
「ああ」
風見は洗面所から生返事をしている。ついさっき起き出してきたばかりでまだ回ってこない頭を覚
まそうと、蛇口をひねった。冷たい水を両手に受け、勢い良く顔を洗う。
 少なくともまだ表立って動いていないなら、結城はこれまでと同じように振舞った方が良いだろ
う、と言い出したのは風見の方だ。敵がこの近くに居るとすれば、もう数週間この街に滞在してい
る結城の動向は既にチェックされていると考えるのが自然だ。自分がこの街にやって来たのを知ら
れるのも時間の問題ではあったが。
「ちょっと午前中に、お前の言ってた村へ行ってみるかもしれないが」
少なくとも今のところ、それだけがこの事件の―――と呼ぶのが正しいのかすら、まだ解らない訳
だが―――手掛かりらしきものなのだ。どうして現地にも一度も行っていないのか、と思わないで
もなかったが。だがそれ以上問いつめるのを、風見は何となく避けている。
「すまないな」
ここ数日の話題になると、妙に友人の口調は曖昧になるのだ。しかし自分に話したくない事がある
なら、別に無理をして聞き出そうとも思っていなかった。
「何か解ったら教えてくれ」
まだどことなく後ろめたげな表情をどうにか笑顔にして鞄を取ろうとしたその時、遠く呼び鈴が鳴っ
た。そのまま玄関へ出て行った結城の、親しげな声が聞こえてくる。
『―――やあ、お早う。先週はすまなかった。……どうしたんだい』
どうやら顔見知りらしい。それにしては、お早う、と答えた声は変に怯えて聞こえた。
『すまない、ちょっと話があるんだが、今いいかな』
『別に構わないが、歩きながらでは駄目なのか?』
同僚かな、と手近のタオルで顔を拭いながら風見はちらりと思った。
『そろそろ時間が、……いや』
そこで結城の語調も変わっている。
『大丈夫か?』
ああ、と答えた声はやはり心細げに弱い。
『温かいものでも煎れよう。とにかく、入ってくれ』
足音が居間へと動いていく。ややあって、続きになっているキッチンで友人が手早く新しいカップ
を用意してコーヒーを煎れているらしき物音がした。
 タオルで前髪の水滴を拭いながら、風見は何がなしに耳をそばだてた。

『―――どうしたんだ、一体』
渡されたカップの温かさに、やがてその青ざめた頬も幾らか弛んだようだった。それでも結城を見
上げながら、カールの青灰色の瞳はまだ言葉に詰まっている。
『何かあったのか』
『……ああ』
自らを力づけるようにコーヒーを一口啜り、やっと口をきった。
 この一週間の間に、故郷の村では新たに三人の村人が人知れず姿を消し―――そして何事もなかっ
たように戻ってきていたのだという。
『居なくなっている時間は段々短くなってきているようだが、状況は同じなんだ』
表向きには何も変わったところはない。しかしいずれも、身の回りに当たり前にある日用雑貨や
ら特定の植物やらに、奇妙な反応を見せるのだという。当人自身にもそれがおかしいと解ってい
ながらも理由は解らず、どうにも止められないのだと。
『……それに』
そこまで言いかけて、カールは再び言い淀んだ。
 結城が自分の分のコーヒーを煎れて向かい側のソファに腰を下ろすと、ようやく顔を上げた。
『実は、妹が』
続く言葉を待ちながら、結城はふと壁越しに風見の気配を感じた。彼らしくもなく、出てくるタ
イミングを失っているらしい。
『僕が帰ってきたのは、土曜日の昼前だというんだ』
見上げてくるまなざしの深刻さに、結城はふととまどっている。
『それが、何かおかしいのか?』
約束の待ち合わせに間に合わず、連絡も取れなかった自分が電話を貰ったのは、土曜日の夕方の
事だ。その時の事を思い返すと、見慣れたまなざしの記憶が小さな棘のように脳裡をよぎる。
 今は考えても仕方ない事だ。そう自分に言い聞かせながら、カールが何を言い出そうとしてい
るのか理解しようと頭を巡らした。
『おかしいさ。十時十五分の最終列車が村の駅に着くのは、朝の七時前なんだ。そこからどんな
にゆっくり歩いても、家までは三十分とかからない。昼前になんてなる筈がないんだ』
『妹さんが、何か勘違いしているんじゃないのか?』
『それが昼食の用意を考えていたところへ僕が突然帰ってきたんだから、絶対間違いないと言い
張るんだ。……それに』
『それに?』
『そう言われてみれば僕自身も、それに反論できないんだ。時計も見ていなかったし。急いで列
車に乗ったところまでは覚えているんだが、本当に降りてまっすぐ家に向かったのかは……何
だか自分でもはっきりしないような』
言いかけて言葉に詰まり、唇だけが溺れた人間のように動いた。
『―――カール』
落ち着け、と結城は遮った。
『だが二、三時間の事だろう。単に途中で考え事をしていて足が止まっていたとか、そういう事
なんじゃないのか』
殊に研究が佳境に入っている時には良くある事だ―――と自分を尺度に片づけていいものかはと
もかくとして、少し神経質になっているのではないか。
『そうかもしれないな』
カールはまだ少し強ばった顔で、どうにか笑ってみせた。
『そうだよな。僕は別にポテトフライやビーカーが怖くなったりもしてないし。行く途中に何も
おかしい事があった覚えもなかったんだし。考え過ぎか……そうだよな』
その笑顔に、結城もほっとして立ち上がった。
『それを飲んだら、一緒に出よう。ちょっと遅くなったが、ミーティングは十一時からだったな』
自分のコーヒーを飲み干し、カップをキッチンシンクに置こうとして、風見の顔が洗面所から覗
いているのに気づく。いよいよ細かい話を聞きたくなって、じっとしていられなくなったらしい。
出ていってもいいか、と無言で問いかけている。
 まだ狼狽えているカールに話を蒸し返すのは酷か、ともちらりと思ったが、これから風見に動
いて貰う事を考えれば丁度良い機会かもしれない。軽く合図を送って、居間へ戻った。
『ところで、友人が来ているんだ。紹介しておくよ。今回の件でも手伝ってくれる事になってい
て』
結城はしかし、その先を続ける事ができなかった。
 風見が戸口へ顔を見せた瞬間、カールは悲鳴を上げてソファから転がり落ちたのだ。

 結城が戻ってきたのは、それから二時間程してからの事だった。まだ幾らか強ばった表情で、
何があっても取り落とすまいとするように鞄をしっかりと抱えている。
「―――とりあえず、会社の診療所でしばらく様子を見て貰う事にしたよ」
そうか、と風見は答えた。
「お前はいいのか、仕事は」
思い出したように尋ねてみる。
「カールが居ないと、ミーティングにならないからな。延期になった」
答えながら結城は机の上の資料類を片づけて、廊下の隅に置いてあった大型のスーツケースを
引きずってきた。
「……同じ症状なのか」
「どうもそうらしい」
一瞬言い淀みながらも、思い切ったようにそう答えた。
(……彼は何者なんだ。僕は)
どうにか家から連れ出し、診療室で安静にさせてからもカールはなかなか落ち着かなかった。
(どうしてこんなに恐ろしいんだ……)
言いかけると、それだけで思い出したのかその顔はまたみるみる青ざめ始めた。初めて会った
というのに、彼には風見が恐ろしい異形の怪物にしか見えないのだという。
(やはり、僕は)
しかしそれ以上に、自分が突き止めようとしていた状況に、自分自身が知らない内に陥ってい
た―――という事実が、一番のショックだったらしい。空白の数時間に何があったのか、それ
こそベッドの上でのたうつ程に思い出そうとしたが、カールの記憶は杳として曖昧なままだった。
(頼む。原因を突き止めてくれ)
顔を埋めた枕からこちらを仰いできた薄青い瞳の、縋るような色が甦ってくるのを感じながら、
結城は機材を机に上げた。
 鞄から取り出した数本の試験管には、濃い血が既にどろりと凝り始めている。
 簡単にチェックしただけだが、カールの身体に何らかの手術を施されたらしい形跡はなかっ
た。どうやら外科的に回路を埋め込まれたというような手口ではなさそうだ、と考えて、分析
用に採血させて貰ってきたのだ。シャーレやプレパラートを準備する手は、考え事をしていて
も迷わない。
「結城」
振り返ると、風見は遠く天井を仰いでいた。
「いよいよはっきりしてきたな」
「何がだ?」
最初に電話で話を聞いた時には、まだどこかで自分達の範疇ではない可能性もあり得る、と思っ
ていた。だが結城が留守の間に、風見にも充分考える時間はあったのだ。
「わざわざこの俺を、南瓜だのケチャップと一緒くたにしてくれたんだ。どう考えても、俺達
が動き出すだろうと承知して、先制攻撃を仕掛けてきたとしか思えないだろうが」
そうだな、と結城は答えた。そこには明らかな悪意がある。
「それと、もうひとつ解るだろう」
風見のまなざしが動いて、結城を見た。
「恐怖を植えつけられたんだとすれば、その時に―――あの男は、俺の顔を見ているという事だ」
「そうだな」
何気なく答えて、結城はそこでようやく気づく。
 風見が―――何を言おうとしているのか。
「俺と同じ顔を」
遠く自動車の通り過ぎる音がした。
 どんな方法かは解らないが、意識に恐怖や畏怖を刷り込もうとするなら、その対象となるその
ものを本人が「知って」いなくてはならない筈だ。だが風見自身はカールと会った事はない。
 だとすれば、カールが見たのは―――。
 風見はそう言いたいのだ。だが。
「それは無理だ」
思わずそう答えていた。
 カールとの約束の為に結城が出かけようとしていたまさにその時、彼はこのコンパートメント
の外で傷を負って倒れていたのだ。それから丸一日、隣の部屋で眠っていた彼が、カールの前に
姿を現せる筈がない。
「どうしてそう言い切れる?」
「どうしてって」
「―――結城」
静かに呼び掛けられて、結城は自分が何を口走ったのか気づく。
 風見はソファの背もたれに頭をもたせかけ、はかるように結城を見ていた。解り易い奴だな、
とその唇が動いたようだった。
「俺に遠慮しなくていい。……今更何を聞いたところで、驚いたりしないさ」

「成程な」
風見は深く息をついて、ソファを立った。
「そういう事だったか」
戸口に手をかけて、続きになっている部屋を見やる。
 最初にこの部屋に入った時の違和感の正体は、それだったのかもしれない。僅かに残っていた
友人以外の誰かの気配は、奇妙な既視感にどこか近かったのだ。
「―――で、話を戻すが」
言葉を継ぐと、友人の手許が面白いように危なくなるのが見てとれた。
「お前としては、どう思ってるんだ。ウイルスか?」
「……いや」
それでも声は冷静さを保っているのは流石というべきか。
「ウイルスなら感染力を持たせない筈はない。今のところ一旦姿を消した人以外には症状は出て
いないというし、人によって症状の現れる対象が違う。可能性は低いだろう」
「ならば、薬物か」
無言で頷く友人の横顔を、風見はいつになく険しく眺めている。
 同僚から採ったという血を、数種類の分析にかける為に取り分けているその横顔は、いつもと
変わらない生真面目な表情だ。科学者である友人は、自分達にとっては時として医師のような立
場でもある。ならば敵と解っていても傷ついていれば、助けずには居られなかったろう。まして
やそれが、自分と同じ顔を持つ男ならば尚の事。
 だから友人の行動を責めるつもりはない。
 逃がさないように縛りつけておく位はしても良かったのではないか、などと思っても、自分の
力を考えればそれこそ容赦なく拘束しなくては簡単に断ち切れるのは明らかだった。そう思いな
がらも、一体何が気にかかっているのだろう、と自問する。
「分析すれば、あんな状態を解除する方法も解るのか?」
そう尋ねるとこちらを見る、友人のその瞳がおそらく不安なのだ―――とおぼろげに思った。
「今の時点では、何とも言えない」
それは科学者のまなざしだ。ただ真実だけを追究しようとするその瞳の揺るぎなさは、時として
世間一般に言う善悪とはまた別の世界をもつ。
 もっともそんな事は、結城自身にも解っている筈だった。かつてその優れた頭脳故にデストロ
ンに見込まれ、善と悪の区別もつかないままに研究を重ねた、その過去は友人の記憶に深く刻ま
れている。もう見誤ったりしない―――と思い定めている、その決意の強さは誰よりも自分が信
じている筈だった。
 それは解っている。
 だがそれ故に、まだ友人がどこかで惑っているのも知っていた。生真面目な友人は、自らの過
去を棚に上げて正義の味方を標榜できる程気楽にはなれない。逆に言えば、そこにつけ込まれる
隙が生まれないとも限らなかった。
「で、どのみち特定するには一日位はかかるんだろう。そろそろ俺も動くか」
だがどうするかな、と独りごちて髪を掻きあげた。
 一度は現場の村に行ってみるのも無駄ではないだろうが、被害者―――と呼んでも、もう良い
だろう―――を目の当たりにした今となっては、何故か気が削がれているのも確かだった。
「……風見」
口をきったのは結城だった。風見の視線が向くと僅かに言い淀んだが、やがて思い切ったよう
に言葉を継ぐ。
 さっき出かけようとしていた時にソファにかけたままになっていたコートのポケットから、
掌に収まる程の黒い箱を取り出した。表面にはめ込まれた円形のパネルには、小さな緑色の光
点がひとつ、ぼんやりと浮かび上がっている。
「彼のシャツに、発振器を仕込んでおいた。どうやらまだ気づかれていないようだ」
おそらく自分は相当に間抜けな顔をしていたろう―――と風見は思う。結城はかすかにぎこち
ない笑顔になって、言い忘れていてすまない、とつけ加えた。
「一応所在だけでも掴んでおければ、と思ったんだが、近くの海岸で止まったままだ。多分地
下かどこかにアジトがあるんだろうが、僕には突き止められなかった」
つきあいはそろそろ十年にもなろうかとする。
 他の仮面ライダー達の居場所はたとえ地球の反対側であっても掴める風見だったが、中でも
結城の気配は一番掴み易かった。すぐ近くに居る時ならば、ある程度の感情の起伏まで把握で
きる程だ。そんな安心感に、いつしか悪い意味で馴れ始めていたのだろうか。
 そう思いながらも、笑っている自分に風見は気づいている。
「いつの間に、そんなに食えない奴になった?」
わざと投げやりに言い放って、手を伸ばした。
「そいつを貸せ。俺が探しに行こう」
まだためらいがちに揺れる黒い瞳に、屈託なく笑いかける。
 そこに何が待っているとしても。
(少なくともこいつを行かせるよりは、俺が行った方がはるかにましな筈だ)
それ位の自信はあった。



     七

 薄い灰色の雲が、渺茫と空を流れていった。鈍く光る水平線の彼方から、紺色の波は波頭を
立てて打ち寄せてくる。
 手にした探知機の表示を確かめて、風見は視線を上げた。
(確かに、まだ気づかれてはいないのか)
パネルの中心部に、緑の光点が浮かび上がっている。つまりこのすぐ近くで、発振器がまだ電
波を送ってきているという事だ―――と思いながら、風見はふと眉をひそめた。
 それは一見何の変哲もない岩だったが、風見の目はその輪郭に妙な鋭さを見てとっている。
風や砂の侵食では作られない不自然な形は、明らかに人の手が加えられたものだった。
 ゆっくりと近づいた。用心深く覗き込むと、ごつごつと隆起した岩肌に僅かに光を反射する
小さな円が見てとれた。隠しカメラのレンズだ。
 成程、と思った。
 どうやらここに、人目を忍ぶ何者かが潜んでいるのは確からしい。上体を屈めて隠しカメラ
の角度に目線を合わせ、辺を見渡すと、十数メートル程先にも同じような岩が点在しているの
に気づく。
(……さて、どうするかな)
あまり無計画にうろうろしていると、うっかりどこかのカメラに映り込んでしまわないとも限
らない。
(だがどのみち、カメラを避けて入るのは無理か)
しばらく考え、やがて風見は探知機をポケットにしまった。
 幾つかのカメラの位置を確かめ、そのまま無造作に歩を進める。
 足を沈ませる砂をゆっくりと踏みしめ、視線を動かさないようにしながら、カメラの視野の
重なる先にある岩場へ向かっていく。
(迷うな)
カメラの角度からして、必ずこの辺に入口がある筈だ。さりげなく足踏みをしてみたり、岩を
掌で叩いたりしながら、周囲の気配を探る。
(―――おそらくここには)
この推測が当たってくれればいいのだが、と思いながらあえて遠慮ない仕草で横の岩に手をか
けた、その時である。
 擬装したスイッチに気づかずに触れでもしたのか、その岩が音もなく真二つに分かれて左右
に動いた。その下には、コンクリート打ちの階段が地下の闇へ向かって続いている。思わず口
笛を吹きかけて、ふと風見は足を止めた。
 階下に人影が立っている。目を凝らして、それが頭から足の先まで黒いスーツに包んだ戦闘
員なのを見定めた途端、反射的に身体が戦闘体勢をとりかける。それを抑えて、わざと靴音を
たてて階段に足を踏み入れた。
 戦闘員は風見を仰ぐと、しかし無言のまま丁重に挙手の礼をとった。
「よう、御苦労」
笑顔を作って声をかける。思ったよりも簡単だった。そのまま無遠慮に階段を降りていくと、
戦闘員の方から身を引いて道を譲ってくれる。その前を通り過ぎてから、今度は本当にひっそ
りと微笑した。
(……やはりな)
やはり簡単には見分けはつかないらしい。
 発振器の持ち主は―――このアジトの中に居る筈だ。だとすれば同じ顔の自分が現れても逆に
怪しまれないのではないか、と考えたのだが、どうやら正解だったようだ。
 海岸の地下深くにつくられたアジトは、予想していたより広いらしい。両脇にぼんやりと赤
色灯をともした廊下は薄闇の中へ長く続いている。
 ついいつもの癖で周囲の気配を伺いかけ、苦笑しながら歩を進めていった。気の向いたとこ
ろで角を曲がっていくとまた見覚えのある通路に出たり、時折戦闘員に出くわす事もあったが、
風見の顔を見ると皆立ち止まって敬礼する。どうにも居心地が悪かった。
 しかし折角ここまで入り込んだからには何か突き止めなくては、と尚も歩き回っていると、
やがて鉄柵の扉が半分がた開いた部屋の横を通りかかった。
 掛金が外れたまま、鉄柵にひっかかっているのは頑丈な錠前だ。アジトの中でも立入が制限
されている部屋らしい。
 何か作業中なのか、と中を伺ってみると、息をつくような排気音がぼうと天井に反響した。
灯はついていなかったが、そっと足を踏み入れる。
 暗い室内の中央に置かれているのが球形のタンクだと見定められる迄に、少しかかった。人
が一人入れる程の大きさの金属製のタンクが、何本もの太いパイプに支えられる形で中空に浮
かんでいる。それはどこか、心臓とそれに繋がる血管を思わせる眺めだった。
(何だ、これは)
タンクの下方から延びている一本のパイプは温度計のついた大きなバルブを通って三本に分岐
し、その中の一本はまたタンクの上部に繋がっている。また別のパイプは途中からガラスを嵌
め込んだ濾過器とおぼしき瓶に繋がっている。近づいてみたが、何の為のシステムなのかは見
当もつかなかった。だが入口の鉄柵からして大事なものなのは間違いなかろう、と懐から小型
のカメラを取り出した。タンクを中心にした大まかな全体写真や、パイプが接続されているユ
ニットを片端から写真に収めている内に、タンクの後ろに置かれたコンピュータらしき箱型の
機械に気づいた。暗くて風見の目でもはっきりとは見定められなかったが、表面のカバーを開
けるとその下には制御盤らしきキーボードやスイッチ類があり、幾つものメーターがかすかな
光を放ちながら小さく針を揺らしている。更にシャッターを切り、カバーを戻して改めてタン
クを見上げた、その時である。
「あ、こちらでしたか」
声をかけたのは、数箱の段ボール箱を抱えて入ってきた戦闘員だった。一瞬ひやりとしたが、
不審がる風もなく段ボール箱を部屋の壁に寄せて下ろす。仕事を済ませると戦闘員は風見に黙
礼して、そのまま戸口へ促すように手を延べた。
「《M》がお探しです。研究室まで来て欲しいと」
「《M》?」
聞き返しかけ、慌てて咳払いする。
「解った。……ああ」
さも思い出した、という風を装った。
「頼まれていたものがあったな。すぐに持っていくから、そう先に伝えておいてくれ」
は、と敬礼して去っていく戦闘員を見送って、風見はひそかに肩の力を抜いた。
 どうにかごまかせたようだが、あまり長居するのはやはり危険だ。本物の風見志郎だと発覚
すればひと暴れして切り抜けるまでだが、その隙に証拠や手掛かりを隠滅されるのは目に見え
ていた。
 少なくとも敵の目的がはっきりする迄は、せっかく突き止めたこのアジトを失うのは得策で
はない。
 ここは一旦撤退してまた出直すか、と部屋を出ようとして、戦闘員が運んできた箱がふと目
に止まった。一見した限りでは封を切ったり細工した形跡のない段ボール箱の横腹には、この
国でポピュラーな飲料水のメーカー名が印刷されている。
(何に使うつもりだ?)
あまり意味はないかもしれないが、と思いながらも念の為に片手で軽くシャッターを切ると、
そっとカメラを懐にしまった。

 冷気を吸い込むとまだ傷の癒えない背中は少し痛んだが、もう動くには問題ない。
 何か考え事をする時には、砂浜から少し離れた第二ゲート近くにあるこの崖に来る事にして
いた。アジトの外れにあたる、曲がりくねった地下通路を通って上がってくると、目の前には
切り立った断崖と白く波頭をたてて打ち寄せる波だけが広がる。設置する事でかえって怪しま
れないよう、この近辺には監視カメラが置かれていないのも、この場所が気に入っている理由
だった。
 何を思うともなく、またぼんやりと海を眺めた。水平線近くまで垂れ込めた厚い雲の端は隠
された太陽に鈍く光り、冬の海は低く鳴っている。
「―――ここに居たのかい」
背中から声がかけられたが、振り返るのも面倒だった。
「いよいよ作戦を決行する事になったよ。予定通り、明後日の午後一時にスタートだ」
そうか、と答えた。
「何だ、せっかく知らせに来たのにな」
「誰も頼んだ訳じゃない。……どのみち俺もまた引っ張り出されるんだろうが」
「まあ、そう言われると身も蓋もないがね」
気配が不意に近くなった。けだるく視線を動かすと、白衣の裾を几帳面に膝に畳んで《M》が
すぐ横に腰を屈めていた。あまり近くに座られるのも嫌だったので少し場所を開けたが、あり
がとう、とにっこり笑って並んで腰を下ろされる。誤解したのかそれともわざとなのかは定か
でない。
「だが、ちょっと内密な話もしたかったのさ」
ここでも都合良いからね、と屈託なげに笑うと《M》は僅かに声をひそめた。
「どうやらね、例の会場に結城くんも出席するらしいんだよ」
思わず振り返るのも予期されていたらしい。いかにも困った、というような憂いを帯びたまな
ざしがこちらを見ていた。
「どうだろう。まだ時間はあるんだが……何とか彼を出席できなくするようにする方法はない
かな」
「それは、俺に動けという事か?」
「まあ、そう聞こえたなら否定はしないが」
どうしてこの男は無邪気を装う程に得体が知れなく見えるのだろう、と思いながら、前から気
になっていた事を尋ねるのには良い機会かもしれない、と考えを巡らした。
「……お前が今回の計画を立てたのは、あいつも一緒に抱き込む為だと思っていた」
自分達は組織に忠誠を誓う優秀な頭脳を必要としている。勿論今回の会合には新進気鋭の学者
から既に実績をおさめている実力者まで出席が予定されていたが、そんな中でも本当の天才と
呼べる人間は決して多くはないのだった。
「それとも、ヨロイ元帥から別の命令でも出たか?」
この作戦の標的の中に結城丈二が居ると判った時から、それぞれの思惑が動き出しているのが
解らない程鈍くはない。
 元々ヨロイ元帥と結城の間にある確執を考えれば、あの男としては改めて組織に迎えるどこ
ろかむしろ殺したい筈だろう、とは思っていたが、彼の忠実な部下である筈の《M》の考えは
未だに読めなかった。
「いや、その命令は出ていないと思ってくれていい。ただ僕としては、どうせなら計画からは
外したいんだよ」
「解らないな」
遠い海鳴りに耳をすましながら、目を細める。
「あいつを味方につけられるなら、むしろ好都合だろうに」
おそらくその方が、あの男にとっても幸せなのではないか―――と、どこかで思っていたよう
にも思う。あの生真面目な科学者には、このアジトの現実離れした空気が似合う気がした。
 そしてかつてのデストロンのように、ただ無心に信じられるものがあれば。迷いも何もなく、
信じていた頃に戻れるならば、その方が彼らしい生き方と言えなくはないか。
「ああ、まあそれでもいいんだが」
《M》は曖昧な微笑を浮かべた。
「でもそれじゃ、つまらないと思わないか?」
「うん?」
「だって結局は、元に戻るだけの事じゃないか。僕はね」
風に流れて雲が薄くなったのか、不意にぼんやりと光が射して《M》の口元に微妙な陰影を刻
んだ。見ようによってはひどく歪んだ表情だった。だが悪くないな、と思う。
「結城くんには、そんな簡単に楽になって欲しくはないんだよ」
少なくとも完璧な作り笑いよりは、この昏い感情のあらわになる笑みの方がはるかに好感が持
てるのだった。
「……考えておこう」
答えて、そのまま視線を海へ向けた。
 何があったのか、自分は知らない。しかしこの科学者の内にも、あの男への複雑な感情があ
るのをおぼろげに感じる事があった。憎悪とも屈託とも、あるいは憧憬ともつかない感情が深
く渦巻いている。それは自分の内にある―――同じ顔をした男への感情と、どこか似通ってい
るような気もしている。
 ややあって、また《M》が口をきった。
「それにしても、どうやら待っていたのは無駄だったのかな」
何の事だ、と見やると試すようにまた笑った。
「ついさっき、戦闘員が君からの伝言を持ってきたんだがな。研究室に行くからと言っていた
と。……まあ、何か頼んだ覚えもなかったし、もしかすると本物の君じゃないかもしれないと
は思ったが」
その意味を理解するのに、少しかかった。
「……まさか」
「まあ、見たのは戦闘員だからな」
やんわりといなしながら、しかし《M》の目は不意に底意地の悪い光をたたえてこちらへ向け
られた。
「だがこれだけ状況が揃えば、結城くんが呼び寄せている可能性は確かに高いか。……いや、
しかしこの場合《本物》というのはおかしいのかな。どう思う?」
何か言い返したかったが、言葉にはならなかった。口にすればそれはただの感情的な呪詛になっ
てしまう気もした。
 不意に乾いた笑いが込み上げてきた。

 カメラマンの先輩が見たらあまりの適当さに説教されるところだろうが、夜だしこんなもの
でいいだろう、と暗闇の中でも迷わない手で慎重にピンセットを動かした。廊下の灯も消し、
窓に布を張って作った即席の暗室で、風見は撮ってきたばかりのフィルムを現像している。
(……なかなか鮮明に写ってるな)
流石にあそこでフラッシュを焚く訳にも行かなかった。光量を心配していたのだが、定着させ
たネガを赤色灯にかざして眺めると、光の濃淡はくっきりと出ているようだ。
 使い終わった薬剤を流し、まだ湿っている印画紙を洗面所に渡した紐に吊るす。明日の朝に
は乾いているだろう、と紙端を指先で軽く弾いて、風見は居間へ戻った。
 海岸のアジトから帰ってきて、気づけば三時間程も経っていた。
 ひと休みするか、とテーブル上のポットを傾けると、今朝がた作ったコーヒーがまだ半分以
上残っていた。
 どうやら一日この部屋にこもっていたのに、友人はほとんど飲まず食わずらしい。
「いい加減にして、一息入れたらどうだ」
そう声をかけたが、結城は背中を向けたまま熱心に机に向かっている。
 戻ったぞ、と声をかけた時には、お帰り、とそれでもこちらを見上げて答えたのだが、それ
以来は自分が居る事も忘れているようだった。煌々と照らすスタンドの下に、かがみ込んだ黒
髪が短く照り返している。机の上の試験管立てには何本もの試験管が並んでいたが、横のビー
カーにまとめて突っ込まれている数本はどうやら実験に失敗したものらしい。
 仕方ないな、と取りかけたカップをまたテーブルに置き、自分だけすっかり温くなったコー
ヒーに口をつける。ひどい味だった。煎れ代えるか、とキッチンに立っていくと、シンクには
培地の溶け残ったシャーレや薬剤の溜まった試験管が置いたままになっている。こと研究に関
してはきちんとしている結城にしては、珍しい事だった。
 汚れた器具類を指先で用心深くシンクの端に押しやってポットの冷めたコーヒーを開け、薬
缶を濯いで冷蔵庫を開けた。この国の水道水は飲み水に向かない。冷蔵庫からまだ栓を開けて
いない飲料水のプラスチックボトルを取り出して、風見はふと眉を寄せる。
 アジトのあの部屋に置かれていたのも、そう言えばこのメーカーの飲料水だった。
(あれは一体、何の為だ……?)
ありふれたラベルを睨みながら栓を抜き、薬缶を満たして火にかける。
 やはり一番怪しいのはあの部屋だろう。
 低く無気味に排気音をたてながら、あのタンクやパイプは―――何を巡らせていたのか。そ
んな事を考えながら、やがてしらしらと蒸気を噴き始めた薬缶を火から下ろし、用意したコー
ヒーメーカーに湯を注ぐ。
 漂う香気に、かすかに目を細めた。
 気持ちじっくりと落としたコーヒーを、ポットに入れ替えるついでにカップに注ぐ。友人の
分のカップを手に取りかけたが止めて、自分だけコーヒーを啜りながら居間に戻った。
「ところでお前の発振器だが、役に立ったぞ。やっぱりあの海岸の地下に、アジトがあった」
尚も話し掛けたが、うん、と生返事をしただけでやはり振り返る気配はない。実験がいよいよ
佳境に入っているか、逆に全くの手詰まりになったか、どちらかなのだろう。どちらにしても、
今の結城には何を言っても無駄だ。
「明日もう一度、行ってみようと思っている」
ああ、と答は返ってきたものの、半分も聞いてはいないのは明らかだった。
 肩をすくめて、風見は天井を仰いだ。



     八

 熱を冷ました試験管を水を張ったビーカーから注意深く取り上げて、結城はふと息をついた。
どうやらこれで、目的はある程度突き止められたようだ。
 風見に知らせなくては、と水滴を拭った試験管を手に机から立ち上がり、続きの部屋に声を
かける。
「……起きてるか?」
声をかけたが、返事はなかった。
 帰ってきたのには気づいていたが、どうやら風見も何か忙しく室内をあちこち行き来してい
たようだったので、あまり気にかけていなかった。何度か話し掛けられたようでもあったが、
丁度その時は分離させた血漿を十本程の試験管に取り分けるのに集中していたり、化学反応を
得る為の温度をうっかり上げ過ぎかけたりと返事どころではなかったのだ。しかしそれ以上何
も言われなかったからには、大して重要な話ではなかったのだろうとあまり気に留めていなかっ
たかもしれない。
 もう俺は寝るからな、と言われて、お休み、と返事をしたのは自分だ。
 そんな事も、ようやく思い出した。
 闇の中に目をこらしてみたが、ベッドの上の盛り上がりが動かないところを見ると、どうや
ら本当に眠っているらしい。それ以上声をかけるのは止めておいた。悪かったな、と今頃になっ
て思う。思えば風見も仕事を急いで片づけて、国境を越えてやって来たのだ。
 そして結局自分は、風見に厄介をかけるのだ―――と思った。
 この件に風見と同じ顔と記憶をもつあの男が関わっているのは、今となっては確かだ。だと
すればあの雨の夜の一件も、敵の計画の一部かもしれない。
 そう考えると、またかすかに心が痛んだ。
(あの時、確実にとどめを刺しておけば)
それをためらった、自分の甘さの結果だ。

 試験管の底には、僅かに青みを帯びた白い結晶が指先程に凝っている。
 カールの血液からは、成分的な異常は検出されなかった。一応ウイルスや未知の菌類の可能
性も考えて培養用に少し回してはあったが、結城は当初から薬物だろうと見当をつけている。
おそらくは神経に作用する系統の薬物だろう、と抽出実験を重ねたもののなかなか思うような
結果が出ず、一日がかりでやっとここまで漕ぎ着けたのだった。
 蛋白質との化合物の形で人間の血液中には存在しない筈の物質を閉じ込めた試験管を、スタ
ンドの光に透かしてみる。
 粗い粒子は、のろのろとガラスの壁に流れながら玉虫色に禍々しく光った。
(……何なんだ、これは)
目を凝らしたところで解る訳ではなかったが、ゆっくりと試験管を回してその妖しいきらめき
を眺めていた。その時である。
「―――イノセンスドロップ」
不意に聞こえてきたその声が、窓の外からのものだと気づくのに少しかかった。
(……!)
音もなく射した影が、仰いだ顔に落ちる。鏡のように室内を映す窓ガラスの向こうで、夜より
暗く闇を塞いでいるのは黒い羽だった。窓枠を足で掴んで逆さにぶら下がり、やがて両の羽を
腕組みするようにゆっくりと畳んでこちらを見据えた。大きく張り出した耳をとりすました仕
草でぴくりと動かしてみせ、つぶらな黒い瞳が賢しげにまばたきする。その全身を覆っている
黒い毛皮がビロードのようにおぼろに光った。
「……川島さん―――いや」
声は幾らか掠れて響いたかもしれない。
「メルトバット……!」
それは―――もう数年前に一度だけ相対した事のある姿だった。
「久しぶりだね、結城くん」
メルトバットの声はどこか懐かしげに響いた。
 尖った口吻から流れるその落ち着いた声にどうにも違和感を覚えるのは、この改造人間の
変身前の姿とかつて一緒に仕事をした事があるせいだろうか。
 川島誠。
 結城がまだ学生の時分からロケット工学の天才として名高かった科学者に、もうひとつの
顔がある事を知る人間は少ない。
 いかにも学者然とした佇まいと、いつも穏やかなその声からは、まさか―――と誰もが思
うだろう。実際この姿に変わる様を目の当たりにしている結城にしても、未だにどこかで信
じられない思いになる事があった。
「それにしてもこれだけの時間でそこまで突き止められるとはね。流石は結城くんだ。こち
らの計画が終わる迄はまず大丈夫だと思っていたんだが」
 この異形の内には理知的で聡明な科学者の心が秘められており―――そしてその天才的な
頭脳は、世界を支配しようとする悪に捧げられているという事実を。
「貴方がこの件の指揮をとっているのか……?」
「いや」
逆さになったまま、にやりと口辺を釣り上げて笑った。
「まあ、今回の作戦の実動部隊の一人と言ったところかな。そう言えばもう一人には、この間
会っているね。礼が遅くなったが、先日は傷の手当てをしてくれて有難う。もうだいぶ良く
なったようだよ」
「……それでは」
思わず窓に歩み寄っていた。
「彼は、やはり貴方がたが」
「やれやれ困ったな」
そんな顔をされては、と肩をそびやかすとメルトバットはふと頭を巡らせた。
「―――君とは一度、ゆっくり語り合う時間があればいいとは思っているんだが。僕も夜明け
までには戻らなくてはならないのでね。……ああ、忘れていた」
深い闇の中に、音もなく黒い翼がひらいた。
「どのみち人体実験でもすればすぐに解る事だ。この短時間でイノセンスドロップを抽出し
た君に敬意を表して、ヒントをあげよう」
つぶらな瞳が、ちらりと試すような光を宿す。
「インプリンティングというのがあるだろう。あるきっかけで興味がわいてね、先日から
ちょっと研究テーマにしているんだよ」
「川島さん……?」
「それじゃ、今日はこれで失礼するよ。またいずれ」
思わず手が動いていた。しかし結城が窓を開けるより僅かに早く、巨大な翼は夜気をはらん
でふわりと宙に浮かんでいる。ついと動かしただけで空高く舞い上がり、あっという間にそ
の姿は星もない夜空に消えていく。
 底冷えのする夜風が、結城の頬をただ吹きすぎていった。



     九

 あまり爽快とは言えない目覚めだったが、その割には変にはっきりと覚めた意識に風見は
自分でもややとまどっていた。何かあったか、と横になったまま感覚を研ぎすましてみたが、
触れてくる気配に危険な感触はない。
 ちょっと神経質になっているのか、と苦笑しながら身体を起こし、ゆっくりと居間へ向か
う。ソファの背もたれごしに、見慣れた黒髪の頭が見えた。
 早いな、と声をかけようとして、風見はふと止めている。
 ソファでくつろいでいる、とも見えたのだが、結城は上体を丸めて深く腕組みしたまま眠っ
ていた。どうやらついさっきまで起きていたらしく、室内の照明は全部が点いたままだ。
 陽光の中でぼやけた光を放っているスタンドのスイッチを全部切り、風見は机の上に置か
れた実験器具を眺めた。何本もの瓶はまだ机に置いたままになっていたが、昨日シンクに放
置されていたシャーレやビーカー類はいつの間にか片付けられている。
「……ああ、お早う」
覗き込まれた気配で目が覚めたらしい。まだ眠たげに口を開き、しかし風見を見上げて幾度
かまばたきすると、やおら結城は立ち上がった。
「そうだ、ちょっと見て欲しいものがあるんだ」
何だだしぬけに、などと口を挟む隙も与えず廊下へ出ていく結城を、風見は眉をひそめて眺
めている。大体自分が振り回すのはともかくとして、結城に振り回されるというのはどうも
納得が行かないのだった。
 そんな風見の憂愁をよそに、結城は布のかかった大きな箱を抱えて戻ってきた。寒さ避け
らしい布を取ると、小鳥や小動物を飼うような中型のケージが現れる。
「これを見てくれ」
ケージの内では白い鼠が五匹、餌箱に頭を突っ込んだり敷かれたおがくずに潜り込んだりと
気侭に動きまわっている。
「実はカールの血液から、奇妙な薬物が検出された。組成はまだ分析できていないが、カテ
コールアミンや甲状腺ホルモン類の複合体のようだ」
テーブルにそっとケージを置くと、結城は風見を見上げた。
「その薬物をこのラット達に投与してから、この玩具と一緒にケージに戻してみたんだ」
ポケットから取り出してみせたのは、クリスマスツリーにでも吊るすような木製の小さなサ
ンタクロースだった。点と線の単純な顔だけで笑っている素朴な玩具を、風見は片方の眉だ
けを上げて訝しげに眺める。玩具を手のひらに転がしながら、結城は言葉を継いだ。
「しばらくはこの玩具に群がっていたんだが、三十分もしない内に全部が眠り出した。その
まま様子を見ていると、どれも一時間位で目を覚ましたんだが」
言いながら、ケージの口を開けておがくずの上にサンタクロースを置いた。
 次の瞬間、ラット達の蹴立てた細かい木屑がぱっと舞い上がった。一斉に動きだしたせい
で激しく動いたケージを、慌てて結城が押さえる。
「―――まさか」
風見は呟いた。
「そういう事だ」
まだ開いたままの入口とは反対側に身を寄せあい―――あるいは仲間を踏み台にして遮二無二
金網を登って玩具から逃れようとしている鼠達を見下ろしながら、結城は答えた。
「眠りから覚めると、全ての個体がこの反応を示すようになっていた。おそらく」
言いかけて、僅かに口籠った。
「人間でも、これに似た症状を示すと思う」
「どういう薬なんだ、これは……お前が前に言っていた、催眠暗示へ導入するような薬か」
仰いだ風見の視線を、かすかに結城は避けている。
「いや」
実際のところ、まだはっきりとした事は結城自身にも解っていないのだった。
「インプリンティング……刷り込み、という現象があるな」
「ああ、ヒヨコが生まれて初めて見たものを親だと思うっていう、あれか」
頷いて、言葉を継いだ。
「鳥の雛の事例が有名だが、哺乳類にも認められる現象だ。生まれてからある一定の時間内
で、それが過ぎてからでは得られないような高い学習効果を獲得できる時期がある。『臨界
期』と言うんだが」
見やった先には、空の試験管がある。
「この薬品は、おそらく人為的に『臨界期』をつくり出す一種のホルモン剤だ。実験で使い
切ってしまったから、僕にもまだはっきりした事は言えないが」
それでも徹夜の実験で、解った事もある。
「もしこれが催眠暗示なら、もう一度催眠状態に戻したりして解除する方法もある。だがイ
ンプリンティングで獲得された認識には、上書きする方法がないんだ」
「上書き?」
「この中の三匹のラットに、実はもう一度実験をしてみた。試しに二度目の実験では、これ
を使ってみたんだが」
ケージの入口を開けてサンタクロースを取り出し、代わりにこれも小さなクリスマスツリー
の玩具を入れる。しかしケージの中の鼠達は、先程までの大騒ぎが嘘のようにのんびりとし
た動きを取り戻していた。餌と間違いでもしたのか、クリスマスツリーの玩具を齧り始める
鼠まで居る。しかし結城がクリスマスツリーを取り出してまたサンタクロースを戻すと、再
びケージの中は鼠達の混乱に満たされた。
「見ての通りだ。同じ薬物では、どうやら一回目の実験だけが有効になるらしい」
「……そして一度認識されてしまったものは、もう一生消えないという事か」
呟いた自分の声を、風見は他人のように聞いている。
「まだ断言するのは早いとは思うが……だが薬品を解析して、対抗するか全く別の効果で上書
きできるようになるには、かなり時間がかかると思うし、もしかすると」
言いかけて結城は不意に言い淀んだ。何を言おうとしたのか風見に問いただす隙を与えず、
話を変える。
「……ちなみに人間なら、内服して効果が出始めるまでの時間は三十分から二時間くらいだと
思う。被験者は一旦眠りに落ちるんだが、その直前に見ているものを」
そっとサンタクロースを摘み上げるとケージの中は再び静かになる。入口の蓋を落として、
結城はケージを持ち上げた。
「―――恐れる。崇拝する。どんな感情づけをするかは成分バランスでコントロールできる筈
だ。おそらく人体実験を繰り返して、目的通りの効果が出せる精度を上げていったんだろう」
部屋の隅に丁寧にケージを置くと、元通りに布をかける。静かな部屋の中、やがて何事もな
かったかのように鼠が走り回ったり、餌を齧ったりするかすかな音だけが聞こえてきた。
 だがそれは、かりそめの平和に過ぎないのだ―――と、ぼんやりと風見は思う。自分達の
意識に刻まれた無条件の恐怖を、意識せずに済む間だけの。
(何を企んでいる……)
「せめてもう少し、現物が手に入るといいんだが」
「……そうか」
風見は呟いた。
「なら、今度はお前が俺の話を聞く番だな」



     十

 研究所の門を抜けると、結城は敷地内の道路を横切って総合センターへ向かった。企業の
広大な敷地を利用して建てられている建物は、深い木立に包まれている。
(もう大丈夫だよ)
カールは昨日の内に帰宅し、今日は通常通り出勤してきていた。もとより他に異状はないの
だ。彼の前に風見が姿を現さない限り、これ迄通りの生活に支障をきたす事はない。サンタ
クロースの玩具を目にしなければ、ラット達が何の恐怖も感じないで済むように。
 そう思うと、またちらりと胸が痛んだ。
 昨日は抽出に夢中になっていて話を聞いていなかったのだが、渡した探知機から風見は敵
のアジトを突き止めていた。どんな方法で忍び込んだのかについては何故か言葉を濁したが、
内部で撮ったという十数枚の写真はやや暗いものの鮮明で、写真を重ね合わせていくとどう
やら全体構成も見てとれた。
(多分この大きなタンクからこっちへ繋がって……ここへ濃縮された液体が蓄積されるよう
になっているんだと思うが)
写真だけで断言はできなかったが、何らかの化学物質を合成するプラントと見るのが妥当だ
ろう。それが何なのかはまだ推測には過ぎなかったが、今回の元凶である薬物が生成されて
いる可能性は高いと言えた。
(そうか)
結城が指した小型のタンクが写っている一枚を、風見は取り上げた。
(それなら、もう一度行ってくるか)
指先で挟んだ写真をくるくると回しながら、まるで買い物にでも出かけるような気軽さで言っ
た。
(僕も行こう)
実際に見てみればもっとはっきりした事も解るかもしれない。意気込んでそう切り出したの
だが、風見には言下に却下されている。
(何も二人がかりで行く事もないだろう)
言いかけて、かすかに眉をひそめた。
(それより、連中の目的だ。奴等がここにアジトを構えたのは偶然なのか、それとも何か理
由があるのか)
首都から少し離れた海沿いの土地は、密かな企てには確かにもってこいの場所だったが、こ
の件で一連の被害者が出ている村からはかなり離れている。むしろアジトに近いのは、この
街の方なのだ。となればそこには何か理由があるのかもしれない。
 結城が通っている企業は、この街のいわば代表的な存在だ。疑ってみる価値はあるのでは
ないか。
 そう風見は言いたいらしかった。
(研究員のお前なら、中の様子を探るのも訳はないだろう)
だがそんな口実で遠ざけられたような気がするのは気のせいだろうか。どうも自分をアジト
へ行かせたくないような口ぶりにも聞こえたのだが。考え過ぎか、と思い返して歩を進める。
 普段は一部しか使われていない総合センターだが、地下一階の大会議室が明日の会合の会
場という事もあってか、木立の間の一本道はいつもよりも人通りが多かった。
 小型トラックがのどかな駆動音をたてて、傍を通り過ぎていった。震動で揺れた幌の間か
ら、荷台の中に積まれた段ボール箱が覗く。会合の準備の資材らしい。
 思い当たるところがあるとすれば、明日の会合くらいだ。
 規模としては決して大きいものではないが、企業の客員研究者も含めてこの分野ではその
名を知られた学者も多い。とは言え今回の会合の発表テーマは、少なくともすぐに改造人間
や生物兵器開発に転用できるような研究成果ではない。たとえ奪ったところで役に立つとも
思われなかった。
『あ、結城さん』
センターのエントランスを抜けて地下へ続く階段を降りていくと、若い職員が大きな段ボー
ル箱を運んでいるところだった。手伝おう、と返事を待たずに片側に手を添えると、ずっし
りとした重みが伝わる。
『随分重いな。何だ?』
『プロジェクターですよ。先週テストしてみたら映像があまり良くなかったんで、新型を手
配して貰ったんです』
箱を大会議室に運び込み、演台の背にある大型スクリーンの位置に合わせて塗料の匂いも新
しい機材を設置する。配線を手伝いながら、結城は室内を見渡した。
 明日の午後には五十名を越える研究者で満員になる予定の会議室は、まだしんとした平和
な静謐の内にある。



     十一

 マシンを近くの林の中に止め、風見は海岸へ歩いていった。
 今日は探知機を持つまでもない。昨日と同じ位置にある監視カメラを確かめて、ドアの隠
されている岩場へ向かった。同じ手が二度通用するかどうかは解らなかったが、とにかく正
攻法で行くか、と歩を進めかけた、その時である。
 無言で上げた視線の先には、砂を踏む靴があった。
 やや斜に構えて立ち、風に吹かれる長めの前髪の下から鈍色の光を含んだ瞳がこちらを見
据えている。見覚えのある友人のシャツとジャケットは、自分が思うのも何だが全く似合っ
ていなかった。地味な装いに身を包みながらも、その佇まいにはどこか不遜な雰囲気が漂っ
ている。
 日頃自分では意識した事もなかったが、こうして向かい会ってみると妙に腹が立つものだ
な、と思いながら、風見も静かに立ち止まった。
「よう」
薄い唇の端をかすかに上げて、同じ顔が笑う。ついと顎をかしげて、風見の肩の向こうに何
かを探すような目をした。
「あいつは来なかったのか」
誰の事を言われているのかは、すぐ解った。
「……いや、止めたのか?」
そのまま目尻を撓めて、風見へ視線を向ける。
「下手なとぼけ方はするなよ。俺はお前でもあるんだからな」
成程お見通しか、と言葉にはせずに、風見も肩をすくめた。だがそれならば、こちらも遠慮
はするまい、と思う。
「―――そちらこそ、何を企んでいる」
低く尋ねた。
「わざわざ怪我をして、結城のところに転がり込んだりしたのは何の小細工だ?」
「小細工?」
しかし初めて聞く外国語のように聞き返すと、ゆったりと肩をそびやかす。
「……何の企みもないさ。ただ」
言いさして、少しはにかんだように笑った。
「あいつなら、きっと助けてくれるだろうと思った。それだけだ。……それを言うなら」
前髪をかき上げた指の間から、不意に探るようなまなざしで見上げる。

「小細工しているのはそっちの方じゃないのか」

「何?」
僅かに険しく片眉を上げたその面差しが、ふと小面憎くなった。
「一緒に来させなかったのは、そのせいだろう?」
あの男の本当の友人は、自分と同じ顔のこの男なのだ―――と今更のように思う。
 揺るぎない正義の味方、仮面ライダーV3。
 だが最初は、本当に解らなかったのだ。
「風見志郎」としての記憶は、疑う余地もなく鮮明だった。知らない内に組織に拉致されて
クローンと信じ込まされているのではないか、と思っていた。同じ顔の男を見てさえも、も
しかすると相手の方がすり替えられた偽者なのではないか、とまだ疑っていた。
 しかしそんな錯覚を断ち切るのが、忘れようとしても消せないあの記憶だ。
「風見志郎」の明瞭な記憶のように前後の繋がりもない、しかし唐突で奇妙に心に焼きつい
た光景だ。
 僅かに射す眩しい陽光を背負い、あの長躯は自分を見下ろしていた。それが誰かとも知ら
ず―――そもそもはっきりと視界を形成できる程、まだ良く目も見えてはいなかったのだが―
――それでもこちらを見ていた黒い瞳を覚えている。
 悔恨とも哀しみともつかない色をたたえたその瞳を。
「あいつは元々、こちら側の人間だ。それは良く知っているだろうに」
「昔の話だ」
まばたきひとつせずに、正義の味方はそう返す。
「そう言うだろうと思ったよ」
自分も睫一本動かさなかった。
「確かに信じているさ。あの馬鹿みたいにまっすぐな奴をな。だが」
その奥底には、なお揺れる感情がある。誠実であろうとするが故に揺れ動く友人を、危ぶむ
心がある。
 しかしその先は継げなかった。
 右拳が、腹に重く食い入ったのだ。
「……言いたいのはそんな戯れ言か」
まだ傷の痛む背中まで突き抜ける衝撃をこらえながら顔を上げると、目の前には感情を抑え
て見下ろしてくる瞳があった。
「俺の記憶を持っているにしては、随分あいつを見くびっているな。たとえ俺が死んだとし
ても、あいつはそんな事では迷わない。そう誓ったのを忘れたか」
そんな事は解っている、と思った。
 確かに天才的な頭脳を持っているには違いないが、情緒的には驚く程単純な男だった。敵
味方の区別はともすれば短絡的に過ぎるし、掴んでいる「正義」の概念はまだ彼自身のもの
とは言い切れない。彼の正義の味方としての自我を支えているのは、この男だ。
 だがこの男が死んでも、彼は友人との約束を守って「正義」の為に戦おうとするだろう。
そんな事は解っていた。
 だからこの男を倒すのは、誰の為でもない自分の為だ。
(この男を倒さない限り、俺はどこにも行けない)
痛みをこらえて引いた身体をひねり、その反動で繰り出した後ろ蹴りは風見志郎の脇腹をと
らえている。そのまま飛び退ると、すいと身構えた。
 さっきは不意をつかれただけだ、と自分に言い聞かせる。じりじりと間合いをはかりなが
ら、少しずつ砂浜を後じさる。
「とう!」
風見志郎の身体が宙を舞った。とっさに砂浜に転がって上空からの蹴りを躱し、すかさず身
を起こすと着地しようとする足を横から払う。
 一瞬よろめいたものの、風見志郎も簡単には倒されなかった。半ば体勢を立て直そうと空
を切る腕に首をとらえられ、そのまま砂浜にねじ伏せられる。
(しまった)
上げた腕でどうにかその腕を外そうとしながら、もう片腕で間を入れず突き入れられようと
する拳を払う。自由になる膝から逆に相手の太腿に蹴りを入れ、弛んだその瞬間に腕を振り
ほどくと、起き上がって左の拳をふるった。一撃は横頬に入ったものの、続けて振り下ろそ
うとした次打はあっさりガードされている。手首を掴まれて返され、捻り上げられかけるの
を上体をひねって振り解き、一旦身体を離す。
 無様だな、とちらりと思った。どうにもやりにくいのは、相手に動きが読まれているせい
か―――あるいは相手の動きも自分のもののように読めるせいなのか。いずれにしてもこの
ままでは、なかなか決着はつくまい。
(それなら)
そう思った次の瞬間、膝からすくわれて投げられた身体は背中から砂浜に落ちている。しか
し跳ね起きざま、ちらりと視線を走らせた。
 仰いだ砂浜の先には、なだらかな岩場が遠く連なっている。

「面白い趣向だ」
闇の中で青白く光るスクリーンを眺めながら、ヨロイ元帥は微笑していた。
「風見志郎同士の殺しあいか……なかなか楽しませてくれるな」
ちらりと向けられたまなざしを、メルトバットは陶然と仰いだ。
「―――光栄です」
その横顔には、褒められた子供の笑みにも似た幸福な表情が浮かんでいる。
 自分の策など小手先のものに過ぎないと解っていたのだが、まさかこうも筋書き通りに運
ぶとは思わなかった。
「だが所詮偽者は偽者だ。そうは思わんか、メルトバット?」
「お言葉ですが、そうとも限りますまい」
恭しく答えた。
(―――だが)
困ったな、とちらりと思った。
(これじゃ、折角のショーが台なしだ)
砂浜の監視カメラは、アジトの入口付近を映し出すよう設置されている。二人の風見志郎は、
どのスクリーンからも姿を消しかけていた。
 同じ肉体を持ち、同じように改造された二人の戦闘能力はほぼ互角だ。だとすれば彼が地
の利を利用しようとするだろうとは解っていた筈だった。前もってカメラを置いておくのだっ
たな、と思う。
「お前は……奴が勝つと思っているのか」
ヨロイ元帥は頬杖をついて、スクリーンからまたメルトバットに目を向けた。
「それならそれでも良かろう。まぐれにでも勝てれば、その時は今度こそ結城丈二も殺せよ
うしな」

「逃げるつもりか」
背中から迫ってくる声に、足を止めた。
「逃げやしないさ」
くるりと向き直ると、間合いをはかりながら追ってきていた相手のまなざしもいぶかしげ
に上がる。砂浜からほど近い高台の岩場は、足場が悪く戦うには不向きだ―――少なくと
も風見志郎にとっては。
「……さて、そろそろ真打ち登場と行くか」
呟いて、斜に上げた腕をゆっくりと頭上に回した。
「変身―――V3!」
その動きとコードが意識に刷り込まれているのは、自分も相手も同じだ。自然に身体が動
くのと同時に起動するシステムが外骨格を形作り、全身の反射速度も力も目が覚めるよう
に上がっていくのを感じながら、顔を上げた。
 複眼越しに、こちらを見据えているまなざしを仰ぐ。
「悪趣味だな」
風見志郎はかすかに眉を寄せた。その瞳には、変身した自分の姿が映っている。
 輪郭は仮面ライダーV3とライン一本変わらない。
 しかしその色だけが違っていた。赤いマスクは緑に、緑の複眼は禍々しい赤に光ってい
る。そして立てた襟も手袋もマフラーも漆黒に染められている。
 正義の味方に対する《裏》のカラーリングだ。
(確かにな)
ちらりと思う。オリジナルと内部機構まで変わらないこの改造手術を加えたのは、仮面ラ
イダーV3と戦った経歴をもつ組織の科学者達だった。
「だが、それならこちらも手加減なしで行かせて貰うぞ」
風見志郎はわずかに顎を上げて数歩後じさると、すいと腕を上げた。その動きを、どこか
眩しく眺める。
(……いいな)
どうして自分はこの男ではないのだろう、とちらりと思う。
「―――変身、V3!」
白いマフラーが、海風をきった。V3の拳が空気を切る音が耳元をかすめる。かろうじて
かわしながら、辺に視線を走らせた。この海岸の地形は、全て頭に入っている。
 どう誘い込むか、と視線を走らせた瞬間、横頬に鈍い衝撃が走った。
 よそ見をしている余裕などない、と自分に言い聞かせながら拳を入れてきた左腕を逆に
左手で捕える。右腕を肘に合わせ、体重をかけて無理矢理引き倒そうとしたが、あっさり
体勢を入れ替えられて逆に自分の方がのめりかけた。
 しかしそれでも手を離さず、なおも肘の内側に抱え込もうとすると、V3もつられて足
が出た。初めて踏む岩場にたたらを踏んだ白いブーツの側面に、すかさず低い蹴りを入れ
て腕を離し、一旦体勢を整える。つくった間合いを無造作に詰めて右、左と続けざまに繰
り出される拳をどうにかやり過ごすふりをしながら、それと気づかれないように少しずつ
後じさっていった。
 背後に待ち構えているのがこの辺で一番高い絶壁なのは、確かめる迄もなく解っている。
(今だ)
 海から吹く風に、一瞬背中を押されるように両腕が伸びた。全身の力を込めてV3の両
肩を掴み、内側から足をかけてそのまま自ら身体を倒す。傾斜があったが、力任せに膝を
入れて投げをうった。無理矢理返した手首が尖った岩に当たって思わず力が抜けたものの、
担いだ影は頭上を越えている。不完全な体勢から崖側へ投げられたV3がすかさず跳ね起
きようとしたその一瞬を狙って、転がったまま思いきり蹴りを繰り出した。起き上がりか
けたところに足元をすくわれ、V3は思わずよろめいている。
 ぎりぎりのところでどうにか踏み止まろうと引いたその踵は、しかし長年潮風に晒され
て砂よりも脆くなっている岩場の突端にかかっていた。



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