掠れた音をたてて、玄関の呼び鈴が廊下に響いている。
最初は聞こえないふりを決め込むつもりだった。
自分がこの家に帰ってきているのは誰も知らない筈だ。おおかた何年もこの家が無人なのを知らない通りすがりのセールスマン辺りだろう、と膝に置いた古い本のページをまためくりかけ、風見志郎はふと目を上げた。
(……何だ)
そこでようやく気づいた。
何故出てこないのか―――と訝しんでいる気配が、熱く淀んだ空気に混ざって伝わってくる。確かにいつもなら、ここまで距離が近くなる前にとっくに感知している筈だった。
自分も随分熱中していたらしい、と苦笑して、風見は腰を上げる。
長い廊下は晩夏の陽に照らされている。しんと焼けつくような熱を素足の裏に感じながら、そのまま片足だけ玄関へ下ろす。
壁に手をつき、もう片手を伸ばすと風見は指先で鍵を開けて戸を引いた。
「―――よう」
まっすぐに入ってくる陽射しに目を細めながら、一ヶ月ぶりの友人を眺める。
地球の反対側の港町で別れた時と同じ、長袖のワイシャツのボタンを全部留めた上にネクタイまでしめた姿は、幸いにしてこの日本ではさほどの違和感はない。
(それじゃ、また)
二週間の休暇をとって風見のレースの為にやって来た結城は、いつものように屈託ない笑顔を見せて日本に帰っていったのだが。
「帰ってきてたんだな」
しかしいつになくぎこちないその微笑を怪訝に思いながらも、風見は軽く顎をしゃくった。
「……まあ、上がれ」
「いや、別にここでいいんだ」
呼び鈴まで押しておいて何を言う、と苦笑しながら、どうやら玄関の表札は目に入っていたらしいな、とちらりと思う。
デストロンと戦っていた頃は足を踏み入れるのも辛かったこの家に、風見もようやくわだかまりなく入れるようになったばかりなのだ。
あの冬の夜から、もう何年経ったろうか。
風見家の穏やかな日々がハサミジャガーの刃のもとに断ち切られたその時、結城丈二はそのデストロンの優秀な科学者として、デストロンの為の研究を続けていたのだった。
デストロンを世界平和の為の組織と信じて。
だがそれを、誰も責めはしない。
もし父母が生きていれば―――かつてデストロンに狙われた少女を匿ったと同じように、この科学者も穏やかに招き入れているだろう。悩みを抱えながらも他人に迷惑をかける訳にはいかない、と自らを律しようとするまなざしを、決して風見家の人間は見捨てたりしない。
そんな風に自分は育てられたのだ、と今更のように風見は思い返している。
それでも絶対に踏み込めない聖域がそこにあるかのように、結城は風見の足元を見つめていた。唇を引き締めていたが、ややあってふいとまなざしを上げる。
「ただ、今晩時間があるようだったら、ちょっと手を貸して欲しい事があるんだが」
その口調に潜む響きに、風見は僅かに眉をひそめる。
そう言えば結城が今通っている研究所は国内とはいえ、ここからはかなり離れた学園都市にある筈だ。偶然通りかかったから寄ってみた、などという呑気な話ではどうやらなさそうだ。
日本でもこの季節には流石に無理がある、右手の手袋が不意に目についた。
当時は右腕だけの不完全な改造だった結城だが、今はその身体の半分以上は機械に置き換えられている。風見や先輩達と同じように表皮を人造皮膚で覆い、少なくとも一見普通の人間と変わらない外見にあって、右腕の肘から先の部分だけは未だに最初に改造した時のままの無機的な外装のままなのだ。
大した手間でもない。同じように人造皮膚で覆えば、わざわざ手袋で隠す必要もなくなる。それでもそのままにしているその理由は、あえて尋ねなくても―――返ってくる答は判っていた。
自分達は、それぞれに心の底に忘れ得ない記憶と譲れない矜持を抱いているのだ。
「とにかく上がれ。今は手が放せないから、話は後で聞く」
わざと無造作に言い放って、風見はきびすを返した。
それでもまだためらっている気配に肩をすくめ、ぐずぐずするなよ、と呟く。
こんな風に自分がかつて奪われたものの懐かしい記憶に囲まれていても、既にこの地上から滅びた組織への怒りが増す訳でもない。
ましてや今となっては、友人が負い目を感じる事はないのだと。
廊下の熱さを子供の頃のように裸足の裏に確かめながらゆっくりと歩を進め、風見は背後にようやく靴を脱ぐ友人の気配を感じている。
「俺は探し物があるから。そっちで待っていろ」
振り返らずに上げた顎で示した居間でかつて何が起こったのか、自分は決して忘れる事はない。かつて父母と妹を失ったその場所の記憶から、血の跡が拭い去られる事はない。
それでも今は、静かに熱い夏の陽射しに満たされている。
まだどこか遠慮がちに、かつて家族が座っていたソファに何も知らない友人が腰を下ろす。その気配を感じても、もうそれが風見の心を騒がす事はないのだった。
古びた網戸から入ってくる風はほの熱いが、陽も暮れかけて窓からの光はやや和らいでいる。
缶コーヒーを指の間に二本挟んだ片手で風見が居間のドアを押すと、結城はどこか手持ち無沙汰げに窓の外を見ていた。
「―――悪い。随分待たせたな」
不意打ち半分に投げられた缶コーヒーは、しかし少し笑って振り返った友人の左掌にすんなりとおさまっている。何だ可愛げのない奴だな、と眉を寄せてみせながら、風見も向かいのソファに腰を下ろして缶のプルタブを引いた。
「で?」
冷たいコーヒーが喉に快い。一昨日からの掃除と調べものが終わったら飲もう、と午前中から冷蔵庫で冷やしてあったのだ。どうせならこのすっきりした気分のまま帰りたいところだが、どうやらそうは行きそうもなかった。
それじゃお前が来た訳を聞こうか、と視線を向けると、ただでさえまっすぐなまなざしがそのまま見つめ返してきて、風見は訳もなく面映くなる。
「……先月、こっちに帰ってきてすぐの話なんだが」
膝に置いた両手に缶を深く握り込むと、結城はそう切り出した。
結城がその事件に係わるきっかけになったのは、先々週の事だと言う。
それなりに仕事の目処はつけて、二週間の休暇をとった筈だった。だが休暇から帰ってみると実用テストは予想外の落とし穴にはまり込んでおり、結城は思いも寄らない激務の日を送る事になった。
(……兄さんが、兄さんが居ない)
一週間かかってどうにか収束の目処がついたとは言え、その晩も研究所を出たのは夜十時過ぎだった。そんな夜更けの町を、泣きながら独りで歩いている子供を、誰が見すごせるだろう。
「兄弟で一緒に夏祭に出かけたのに、途中ではぐれたらしい」
とにかくもう遅いから、と弟を家に送り届けると、心配していた両親は抱き締めんばかりに迎えたが―――しかしその兄は、やはり家にも帰っていなかった。泣き続ける子供を寝かしつけ、結城もそのまま祭会場や周辺を両親と一緒に探したのだが、小学五年生になるという兄の行方は夏の夜闇に呑まれたようにふっつりと消えていた。
そして行方不明になっているのは、その子だけではなかったのだ。
個々に捜索願いも出されてはいるのだろう。しかし複数の都県をまたがっている事で連続事件とは見えにくく、しかも夏休みという時節柄もあって単なる家出と混同されているところもあるらしい。
祭に遊びに行ったきり帰ってこない―――という共通点を、偶然ととらえる事も勿論できるだろう。
だが。
「少なくとも二ケ所で、それぞれ見ている子がいたよ」
とは言え年端も行かない子供の語彙では、ほとんど真に受ける大人も居なかったらしい。
(お祭りに来てた、真っ黒のお化けが)
行方不明になった子を連れ去ったのだ―――などと言われても、およそ作り話か何かの見間違いとしか思われないのも無理はない。
しかしそんな子供のまなざしの真摯さを、受け止める者もある。
少なくともその言葉が、結城に「祭で行方不明になっている子供」に焦点を絞って調査させるきっかけになったのだ。
「……小学校の全国大会で100メートル走記録保持者。暗算コンテストの優勝者。全日本ジュニアコンクールでの」
「―――優れた才能を持つ子供か」
皆まで言わさず、風見は呟いた。
実際のところ、結びつけるのは短絡かもしれない。
ただそんな子供達が理由もなく家出を企てる、と言うよりは別の可能性の方がより真実味があるのではないか、と思うのは、戦いに費やしてきた日々が長過ぎるせいではあるまい。
仮面ライダーと世界征服を企む悪の組織との戦いは、ここ二ヶ月程急な動きは見せていなかった。だがだからと言って、敵がその目的を捨てた訳ではない事は判っている。より大きな計画の為に、表向きの活動が見えにくくなっているのではないか、と考えるのはこれまでの経験から自然な流れとも言えた。
「何者かが、祭に乗じて子供達をさらっている……と」
そう言いたいんだろう、と見やると、友人は深く頷いた。
「あまり確実ではないがな。だが、警戒はするべきだと思う」
その口ぶりからすると、どうやらこれまでにも何ケ所か夏祭会場を一人で当たって空振りでもしてきたか、とちらりと思いながら、風見は天井を仰いだ。
「で、今晩の八幡様にでも張り込もうって事か」
「どうして判った?」
判らない訳がないだろう、と今度こそ風見は笑い出しそうになった。
隣町の八幡神社の夏祭は、風見がほんの子供の頃からの年中行事だ。
そんな風見の微笑の意味をはかりかねてか、結城はしばらく戸惑ったように見つめていたが、やがて表情をひきしめた。
「可能性は低いかもしれない。だが、ここの祭は、少なくとも今夜の関東では最大規模だ。当たってみる価値はあると思う」
そんな言い方をされると自分が知っている「八幡様」とは全く別の祭のようだな、と思いながら、風見は静かに窓の外を見やった。
その眺めも、記憶とは少し変わっている。かつて向かいの家の屋根の先に見通せた一面の空も、今は何棟ものマンションらしい箱型の壁が半分程を塞いでいた。
「……まあ、いいだろう」
時は流れ、人も町並も変わっていく。
だがどれだけ変わっても、懐かしい記憶はそのままだ。
「つきあってやる」
どこの組織だか知らないが、この町で戦闘員の跋扈を許したりしては風見志郎の沽券にもかかわろうというものだ。
「八幡様なら、そろそろ出かけた方がいいだろうな」
腕時計を見やる。まだ外は明るいが、土地勘のない結城には陽のある内に少し現地を見せておいた方が良いだろう。
そうか、と答えて立ち上がりかけた結城を、風見は呼び止めた。
「待て」
眉を寄せてみせる。
「そのなりで、祭に行く気か?」
「おかしいか?」
きょとんとした顔で、結城が聞き返した。
そのワイシャツ姿は、祭の混雑の中に置けば会社帰りのサラリーマンがぶらりと立ち寄った、とどうにか見えなくもないだろう。だが遊びに来たというならともかく、ただでさえさりげなく偵察する、といった芸当ができる程器用でもないとなれば、話は別だ。
嫌でも悪目立ちするのは確かだな、と風見は肩をすくめた。
「ちょっと来い」
居間の反対側の和室には、母や妹が使っていたミシンや、普段は着ない服をしまっていた箪笥が置いてある。言われるままについてきた結城がどこか居心地悪そうに立っている気配をよそに、風見は箪笥の引き出しに手をかけた。
幸い結城はほとんど自分と背格好も変わらない。
確かこの辺にしまってあった筈だが、と探す事しばし、やがて父親の一重ものの下から見覚えのある数枚の浴衣がきちんと糊付けされて出てきた。
両親は日常に和服を着る世代だった事もあって、子供が長じても夏ごとには浴衣を仕立てていたものだ。年々大人びていく妹の浴衣姿はそれなりに楽しみだったものの、自分自身は正直面倒だったから、義理のようにひと夏に一度袖を通す習慣も二十才頃にはなおざりになりがちだった。それでも数年分の浴衣は、きちんと重ねて畳まれている。そう言えばこんな柄もあったな、と何となく思い出しながら、手近の一着を適当に帯と合わせる。
「まあ、こんなところだろうな。貸してやる」
振り返らず、肩ごしに浴衣一式を渡す。やがて無言のまま受け取りながらも、友人のどこか困惑している気配は伝わってきた。
それには気づかないふりをして、風見も自分の浴衣を小脇に抱えて自室へ向かった。
むっと熱い空気と、懐かしい光景が迎える。
この家を出た当時は、思い出につながるようなものは持ち出せるような気持ちに到底なれなかった。二十年近くを過ごした部屋は、ほとんどその頃のままだ。本棚や机、壁に貼ったままの古い世界地図を眺めながら、流石にこの辺の地図はなかったな、などと風見は考えている。
ある程度の地理は分かっている神社だったが、夏祭のメインである参道から外となると、風見にもまだ小学生の頃に冒険や鬼ごっこで踏み込んだ頃の記憶しかない。
子供の頃は広く感じたという事もあるだろう、と考えても人手不足の感は否めない。参道界隈は賑わいもするだろうが、少し外れれば街灯の光も届かない鬱蒼とした森が囲んでいる。昼間ならいざ知らず、陽が落ちると半端な土地勘だけでは不利だ。
さて二人でどう立ち回るかな、と考えながらも、風見の手は休み無く動いている。
女性の帯を締めろと言われれば困惑もするが、自分の身支度程度なら他所事を考えている方がかえってまごつかない程だ。貝の口に結んだ帯が弛んでいないのを、手探りで確かめる。
(さてと)
久しぶりの浴衣がカモフラージュの為というのも楽しくない話だが。それもまた一興というものだろう、と口元を引き締めた。
「それじゃあ、行くか」
言いかけて、しかしドアを押した手はそのまま止まっている。
「……ちょっと待ってくれ」
こちらに背を向けた友人は、ややこしい感じに苦闘中だった。
どうやら帯を結ぶのに手間取っているらしい、というのは何となくわかったが、それにしても何故珍妙な蝶結びもどきを作ろうとしているのか―――と風見はしばらく、もがいているようにしか見えない友人の背中を眺めていた。
「結城」
「すまない、もう少し待ってくれ」
「いや」
しかし少なくともその結び方では、一時間かかっても結べるかどうかも疑わしいのではないか。そもそも背中心があからさまに左側によれているようだが、一体どういう着方をしているのか。帯を結ぶのに気をとられて足を踏ん張ったとみえ、裾が広がって早くも着崩れ始めている。
どこからどう突っ込めば良いのかまごつきながら、風見は深く息をつく。
「……それでは結べないな」
呟くと、もどかしげに友人が首を捻って振り返った。
「駄目か?」
まあ俺なら何とか結べない事はないかもしれんが、と独りごち、風見はついと手を伸ばして結城の手を外させる。
「とにかく帯を解け。最初からやり直しだ」
裾をさばいて腕を組み、くるりと向き直ると部屋の隅のミシン台に腰をもたせかけた。
そう言えば浴衣を着られるかどうか聞かなかったな、と眉を寄せる。
「まず浴衣の襟の下あたりを、同じ高さで持って」
下前を置いたのと対称の位置に上前を合わせ、腰骨の位置に紐を巻く。
ただそれだけの単純な事なのだが、自分が着る時には意識すらしていない動作が、改めて言葉で説明しようとすると案外難しいものなのだと知る。
「まあそれで、少しは着崩れないだろう」
互いにまごつきながらもどうにかそこまでは運べたものの、しかし風見の指南は帯を結ぶ段になって完全につまづいた。
「……そうじゃなくて。内側へ巻いて輪をつくるんだ。いや、だから逆だ」
背中側で結ぼうとしているので、上下左右がただでさえ混乱する。
説明している風見も途中で判らなくなり、自分でも何度か結び直しながら説明してみたが、どうにも埒が明かない。
「―――分かった」
やがて深く溜息をついて、風見は身体を起こした。
大体自分達は遊びに行く訳ではないのだ。いつまでもこんな馬鹿馬鹿しい事に時間をかけている訳には行かない。
「結んでやる」
結城の返事を待たず、手から帯の先をひったくる。
子供でもあるまいに、という言葉を際どいところで飲み込み、その分わざとしたように力を込めて手早く帯を締めた。
自分で結べば、それこそ一分とかからないのだ。
(これ位の事で、何を手間取ってるんだ)
そう言われたところで、根に持つような友人でない事は分かっている。むしろ屈託なく受け止められるだろうとも知っていた。
だがだからこそ、後ろめたくなるのはむしろ自分の方なのだ。
あれだけ結城が手の内で持て余していたのに、締めた帯は乾いている。
まだ神経組織には生身の部分を僅かに残していても。ほとんどが機械の両手はどれだけ滑らかに動き―――触れれば温かくても、そんな僅かな違和感を残す。
「ほら」
ぽん、と帯の結び目を軽く叩くと、風見は友人の顔を見ずにきびすを返した。
今更そんな感慨も口にしたりはしない。
「すっかり手間取った。行くぞ」
返事を待たずに、玄関へ向かった。
まだ陽は残っていたが、参道に軒を列ねる屋台の内では灯がともり始めている。
「―――そうきょろきょろするな」
物珍しげに辺を見回している友人に、風見は少し唇の端を曲げた。
折角浴衣を着せて目立たないようにしたのに、そんな顔をしていては台無しではないか。
ああ、と答えながらも結城の目は、また脇の屋台で回転する綿飴の機械に向けられている。かすかに肩をすくめて、風見は歩を進めた。
八幡様の境内から屋台の列は横手へ逸れ、敷地外の大通りに抜ける石畳の小道へ続いている。祭のメインストリートはこの僅か百メートル余に過ぎない。ただその外側には昼でも深い木陰をつくる森が広がっている。夜陰に紛れて子供を攫う影には、お誂え向けの闇だった。
「おい、こっちだ」
屋台に連なる灯にまたつられかける友人の袖を、風見はぐいと引いて境内の脇へ向かう。
遊びに来た訳ではないのだ。
「少しでも明るい内に、ざっと見ておけ」
深い森でも、枝の下には木々の間を縫って踏み固められた細く入り組んだ径がある。
子供の時分にこの森を遊び場にしていた自分にはある程度はのみ込めているが、初めてここに来た結城には未知の場所だ。少しでも地理を把握させておくに越した事はない。
森全体の外周と、そこに繋がる最も短い経路を記憶の奥から呼び覚ましながら、身体が覚えている感覚よりも狭い道をくぐっていく。後についてきている友人は、世事にはともかくこういった情報に関する理解は早い。一度通れば、多少ややこしい道でもそれなりに全体の把握はできる筈だ。
(それにしても)
当時の子供の視界は―――大人になってみるとこうも見え方が違うものなのか。
慣れていた筈の道に、予想外に風見もまごついている。感覚で掴んでいた分岐点を見過ごしかけたり、大通りへ抜ける道を見落としかけたりしてその度に確かめ直す。
これでは案内しに来たと言うより自分の記憶を確かめているようだ、と思いながら、風見は額を掠めた枝先を手の甲で払った。
「……何だか子供みたいだな」
背後からの友人の声は、どこか笑いを含んで聞こえた。自分でもそれが判ったらしく、小さく咳払いして口調を改める。
「僕も、前にも来た事があるようだ」
「そうか?」
何を呑気な事を言っている、と少しむっとしなかった訳ではない。
一体誰が持ち込んだ話だ、と言い返しても良かったのだが、風見は肩をすくめただけでやり過ごした。
自分がこの森に来ると子供時代を思い出すように、結城にも似かよった思い出があり―――同じように呼び覚まされたとしても別に不思議はない。
むしろ当たり前だろう。
思えば昔話をするような機会もなかったが、自分達は出会う前に、それぞれの記憶を持っているのだ。
そう思った瞬間、しかしふとよぎった不安の理由は自分でも分からなかった。
「―――俺はこの辺で張るか」
黒い木々の合間から僅かに覗く夜空を仰いで、風見は呟いた。
すっかり陽は落ちて、辺は闇に包まれている。深い木立の中では下駄の足元もかろうじて見定められるかどうか、というところだ。さっきまでは頼り無かった電球の灯が参道をまばゆく満たしているのが、枝葉を透かして伺える。いよいよ祭の客も増えてきたらしく、子供達が石畳を走り回る足音や笑いさざめく声が遠く聞こえ始めている。
「判った」
流石に結城は飲み込みが早かった。
「それじゃ僕は、参道脇の横断歩道の近くに行っていよう」
子供の頃の記憶より実際には狭い森だったが、やはり二人でカバーできると思うのは虫が良すぎた。細い道の入り込んだ森は死角になる場所が多く、今どこかに黒衣の男が潜んでいたとしても見つけだすのは難しい。
だが敵も、一晩中この森に留まっている訳ではあるまい。
本堂を囲む森のいわば中心に相当するこの位置に身をひそめていれば、何か動きがあった時に本堂裏の道路へ抜けようとする敵を待ち構える事ができる筈だ。
そして逆に手薄になる参道入口横に広がる森に敵が潜んでいるとするなら、敷地の角近くに待機していれば見通しがきく。
「じゃあ」
辺の暗さや遠い歓声に、にわかに結城も気が急いてきたらしい。
軽く片手を上げると、そのまま木立を突っ切ろうときびすを返しかけ、ふと足元を見下ろした。
「……そうだ、ありがとう」
「?」
「靴まで貸して貰って」
ああ、と風見は面倒げに答えている。
まさか浴衣に革靴でもなかろう、と靴箱から引っぱりだして来たサンダルも貸したのだ。
正直なところ浴衣の一件があるだけに、危ぶむ気持ちがない訳ではなかった。だが少し歩いてだいぶ浴衣にも慣れたようだし、万が一戦闘になっても心配はあるまい。
だとすれば、この不安は何の為なのか。
自分の浴衣の背が闇の中に消えていくのを、風見はかすかに眉を寄せて眺めていた。
<NEXTボタンで続きへ>