一
玄関で物音がして、マイケル・ガーディアンは弾かれたように椅子から立ち上がった。
(来てくれたか)
妙に雑音の混ざった電話でどれだけ伝えられたかは解らないが、少なくとも急いでいる事だけは伝わっ
た筈だった。すぐに行きます、と彼は言ったのだ。
急ぎ足でドアに向かおうとして、しかし壁の時計を振仰ぐ。
いくら何でも、まだ彼が到着するには早すぎる。
そう思った瞬間、背に冷たいものが走った。
机の上に置かれた一枚のカードから、しんと冷たい空気が立ち上ったような気がするのは錯覚か。
髑髏に模したレタリングで差出人の名が刻まれたカードは、気の良い郵便配達人がつい先程届けてき
たものだ。
(いやあ、スクーターが故障しちゃってね)
何もこんな時に限って遅れなくても、と嘆いたところでどうにもならない。これも自分の運命だ。そ
う思いながら、言い知れないもどかしさが滲む。
この郵便がいつもの時間に届いていれば、彼が帰る前にひきとめられた筈だったのだ。
この国に来るずっと前に自分が何に関わっていたのか―――そして何故彼を呼んだのか、できれば
直接話しておきたかったのだが。
だがもう間に合わない。
用意してあった数冊の分厚いファイルを慌ただしくかき寄せ、机の引き出しに押し込んで鍵をかけ
た。時間が許す限り、当時の覚え書きや資料はまとめておいたつもりだが、これを読んだだけで部外
者がどこまで事態を把握してくれるものか、正直自信はなかった。
(だが……どうか、継いでくれ)
小さな鍵を、向かいの机のペン立ての底に震える指先で押し込むように落とす。数カ月前からその
机を使っているのは、日本人の科学者だ。年はまだ若かったが、優秀な頭脳と誠実な人柄はすぐに
研究所内で確かな位置を占めるに至った。その黒い瞳を縋るように思い返す。おそらく違う形で出
会っていても、頼みにできる人物だと信じた筈だと。
いくら小さい島国とはいえ、科学者同士が必ず知り合いになる程狭い社会でもない事は分かって
いる。つい数カ月前に知り合った同僚に、同じ日本人だと言うだけで全てを押しつけるのが乱暴な
話だとも分かっていたが、もう今となっては他に託せる相手もいない。
(私達の理想を)
祈りを込めてきつく瞑った瞼の裏に、よぎった懐かしい面影があった。
もう本人とは十年以上も会ってはいない。
それどころか浮かんでくるのは、もう二十数年も昔の表情ばかりだった。当時ほんの駆け出しの
助手だった自分がいつも尊敬の念を込めて仰いできた、東洋の科学者の面差しだ。
一九五二年―――アメリカ・マサチューセッツ州。
『―――神博士!』
ようやく追いついて息を切らしている若い助手を振り返ったのは、少し困ったようなまなざしだっ
た。
『そんなに慌ててどうしたんだ、マイケル』
第二次世界大戦の敗戦からまだ間もない日本から、神啓太郎博士がこのアメリカの研究所にやって
きてもう六年になろうとしている。まだやや癖のあるその英語は、しかし今日も温かく響いた。
『慌てますよ』
思わず顔を上げた途端にうっかり咳き込みながら、半ば涙目で見上げた。
『本当ですか……研究所を辞めて日本へ帰られるって』
ああ、とまごついたように答えて、神啓太郎博士は白衣のポケットに手を入れた。
『後の事は、呪くんがやってくれるだろう』
『ですが、呪博士は』
この研究所のもう一人の日本人に、マイケルは未だに馴染めずにいた。
一種異様なその風貌を初めて見た時の、恐怖に近い驚きは未だに忘れ難い。外見で云々するのは
間違いだと言われるなら、それ以上に馴れないのはその偏屈で陰鬱な気質だった。あの日本人に従
えと言うんですか、と口まで出かかって、あわてて言葉を飲み込んだ。神博士にとっては彼の方が、
自分よりもはるかにつきあいの長い旧友なのだ。
迂闊な言葉を呑み込んで、息を整える。
『誰であろうと、代わりになどなりません。もう一息でχ計画が完成するというこの時期に、貴方
がチームを去られるなど考えられません―――日本で何があろうと。どうか』
『マイケル』
諌めるように見下ろされ、自分の言葉の意味に思わず頬が熱くなった。
『…すみません。聞きました、奥様の事は…』
うっかりすると一年中研究に没頭していた博士は、アメリカに来て以来ほとんど日本に帰る事も
なかった。こちらで結婚して二年になる夫人だけが先月出産の為に帰国しており、やがて男の子
が生まれたという知らせが届けられた。
しかし初めての子供の顔を見る為にスケジュール調整をしていた博士の元に、追い掛けるよう
にもたらされたのは悲報だった。産後の肥立ちが思わしくなかった夫人が急逝したというのだ。
『個人的な事で、すまないとは思っている』
そんな悲しみを抱えながらも神博士はいつもの通り穏やかで、だからつい自分達も浅く考えてい
たのかもしれなかった。
『……息子さんは、奥様の御両親がみていらっしゃると聞きましたが』
それも一時的な帰国だと、どこかで思い込んでいたのだ。
『ああ。しかし、いつまでも甘えている訳にも行くまいよ』
『ですが』
まさか辞表を出しているとは、思ってもみなかった。
『どうしても博士が面倒を見るのなら、いっそこちらへ連れてきて、シッターでも何でも頼めば
いいじゃないですか。僕の姉の友人に、優秀なナニーも居ます。息子さんの世話の為に博士が研
究を続けられなくなるなんて、馬鹿げています』
神博士と自分達のχ計画は、これからの世界の発展に必ず役立つ筈だ。その完成を前にして、言
葉は悪いが子供一人の為に博士が研究を投げうつなど、およそ考えられなかった。
『何も日本で息子と暮らすからと言って、研究ができなくなる訳ではないよ』
博士は静かに答えた。
『正直、私もこんな男だ。男手一人で子供を育てるのは難しかろう…だが』
続けようとしたのかもしれなかったが、珍しく何かを呑み込んだような表情になった。それ以上
は何も言わず、ふと視線を上げる。
遠く東の空へ。
ひときわ高く反響した靴音に、追想は断ち切られた。廊下をやってくる足音は、今やひそめら
れる事もなく確実に近づいてくる。
何者なのかは解っていた。
いつかこんな日が来る事も、ずっと前から知っていたように思う。もう十年も昔、あの研究所
の門に背を向けた日から。この地上のどこまで逃げても、彼等の目を逃れる事など出来る筈もな
かった。それはGOD機関と呼ばれたあの組織に、かつて身を置いていた自分には良く解ってい
たのだ。この地上のどこにも、逃げ場などない。
息の詰まるような感覚に、縋るように窓に手をかけた。
今まさに水平線に没しようとしている眩しい夕陽が斬りつけるように目を射る。巨大な果実の
ような朱色の太陽が、空も海も朱に染めて燃えている。
もどかしく窓枠を押し上げると、熱気をはらんだ風が吹き込んできた。
自分は何をぐずぐずしているのか、と我に返った。
このまま座して死を待つより、最後の最後まで活路を見い出そうと力を尽くすべきだ。
(どんなに困難に見えても、必ず道はある)
そう教えてくれたのも、あの人だった―――とちらりと思いながら、マイケルは窓枠に足をかけた。
たとえ逃げのびられなくても、ここから離れなくては。
半年前に自宅を荒らした者達は、おそらく目的の設計図を見つける事はできなかった筈だ。こ
こまで来て、それがこの研究所にあると知られてはならなかった。
若い時よりすっかり重くなった身体をどうにか引き上げる。扉の外で足音が一旦止まったのを
聞いて、思い切って窓枠を蹴った。
二
打ち寄せる波のように、ほのかな潮の匂いがした。
風見志郎はかすかに眉を寄せて空を仰ぐ。海風など届く筈もない、ここはモスクワの裏通りだ。
空の色は、晴天でもどこかしんと青ざめている。
風見がこの北の国に来て、半年余りが過ぎていた。
長かったデストロンとの戦いを終え、あてどない旅に出た風見の前に現れたのは、二人の先輩
だった。突然の来訪だったが、風見も全く驚かなかった。
おそらくいつからか、気づいていたのだと思う。
デストロンが滅びても、仮面ライダーの戦いは終わらない。この世界のどこかに、常に世界征
服を目論む悪があり―――それと戦う為に自分達が居るのだと。
仮面ライダーという名の自分達が。
石畳を踏む足をふと止めた。その足元から、ふわりと埃を巻いて風が立ち上がる。やはり海の
匂いのする、ひそやかな熱を含んだ風だった。
あいつか、とちらりと思った。
戦いのさなかで出会った、元デストロンの科学者。やがて真実を知り、悪に加担していた事実
をその真摯さで正面から受け止めた彼は、最後の決戦の直前でデストロンの最終兵器プルトンロ
ケットの操縦席に向かい―――東京壊滅を阻止したのだ。
虚空に四散するロケットを見届けた風見の目には、それは到底生還など望めない状況と映って
いた。しかしV3の戦いに密かに助力するべく帰国してきていた先輩達が、ロケットの残骸と共
に海に漂っていた結城を救出していたのだ。数日も生死の境を彷徨い、やっとの事で一命を取り
留めても回復不能な傷が残りはしたものの、春まだ浅い伊豆の本郷邸の一室で、結城は再びあの
まっすぐな笑顔を見せたのだった。
(……戦う為だ)
そして戻ってきたのは、風見の贈った名を背負う為なのだと。
とまどっていなかったと言えば嘘になる。
もしも生きているなら、今度こそ平和の為にその頭脳を活かして欲しいと―――科学者として生
きて欲しいと思っていた。多少の不自由はあっても、リハビリ次第では日常生活には困らない程度
の回復は見込める筈だったし、右腕だけの改造ならば普通の人間の中で生きていくのもそれほど難
しくはないだろうとも思っていた。
しかし結城は仮面ライダーとして生きる道を選んでいる。
(この命は、今はその為にある)
人工の右腕が、デストロンで結城が開発していた改造人間プロジェクト・C計画の一部だったのだ
と、風見が知ったのもその時だった。身体の各部分を機械に置き換え、時間をかけて生体部分と馴
染ませていく。密かに別ルートで持ち出されていたC計画の設計図を元に、結城は本郷の協力を得
て彼自身の再改造を少しずつ進めていった。
だがその一方で、結城は科学者としての生き方を捨てた訳でもなかったのだ。
(君の言うように、僕は今度こそ自分の研究を平和の為に役立てる責任があると思う)
既に二人の先輩は日本を離れており、風見も結城のリハビリが一段落したらソビエトへ向かう事に
なっていた。
自分の時には、身体のほとんどを一度に置き換えてすぐに動くのにも何の問題もなかった改造手
術だったが、手法が違えば事情も変わってくるらしい。それは解っていたから、別段焦るつもりも
なかった。逆に結城の方が、風見を足止めしている事に気後れしているのにも気づいていた。
その頃ようやく車椅子から立てるようになったもののまだ危なげな足取りで、結城は海岸を散歩
していた風見を追ってきたのだ。
(だから、タヒチへ行くよ)
大学時代の恩師のつてで、まだ設立されて間もないが新進気鋭の学者の集まった研究所にポストを
見つけたのだと。
(…そうか)
おそらく自分は微笑していたと思う。
もう大丈夫だ、と思ったのかもしれない。仮面ライダーとして生き、その一方で平和な時には科
学者として生きるなら、それは自分の願いもかなえられたのと同じだ。
風見はその一週間後に日本を離れている。
それからしばらくして、結城もその南の国へ向かった筈だ。
ふとそんな事も思い出しながら、意識を研ぎすました。
仮面ライダーの間には精神感応に似た意識の共振がはたらく。それははっきりした通信として伝
わる事もあったが、時としてもっと曖昧な―――感覚的なものとして察知される事もあった。
元々改造手法が同じであったとしても、そんな能力が備わる理由にはならないのだと本郷には聞
いている。ましてや全く異なった技術で改造されている自分達の間に、名前を共有するというだけ
で意識が通うのは何故なのだろうか。そう思いながら、風見は頬を過ぎる風にふと目を細めた。
(……?)
違うな、と思った。
まだ友人の意識を感知できるようになって間も無いが、はっきりとそれだけは判った。先輩達と
も違う。似てはいたが、今感じている気配はそのどれとも違っていた。
しかし未知の気配でありながら、それは奇妙に近しく馴染む。
癒えきらない傷のような悲しみと孤独、相反する使命感と強い意志。超人的な力に自分でもたじ
ろぐ一方で、どれだけ力を得ても決して取り戻せないものへの深い哀惜がひそむ。かすかではあっ
たがその感情の強さに一瞬、不意に生々しく胸が突かれた。
(誰だ…)
この地上に、また新たにそんな宿命を抱く者が現れたとでも言うのか。
まさか、と思いもした。もう十分だ。
(戦うのは、私達だけでいい…)
改造人間にして欲しい、と頼んだ自分にかつてそう語った先輩の心が、今の風見には良く解る。
だが風見がここに居るのも、ひとつには世界が未知の脅威にさらされているからだ。先輩達はい
ち早くそれを察知し、デストロンとの戦いを終えた風見に告げに来たのだった。
それはまだはっきりとした動きではなかったが、いずれ本格的な活動を見せるのは時間の問題だ。
ならばいち早くその本拠を突き止め、戦うのが仮面ライダーの使命だった。既に本郷はヨーロッパ
の小国へ、一文字はアメリカへ向かっている。確証はないものの不穏な動きが見られる都市を手分
けして探るべく、風見は留学生という形でこの北の国にやって来たのだ。
もっともそれも全くの口実という訳でもなく、デストロンとの戦いで中断を余儀なくされていた
論文は、モスクワの大学で類似の研究を進めている学生との共同研究という形でどうやら書けそう
だった。
しかし元々秘密主義な国というだけだからでもないだろうが、大学の外での活動はなかなか思う
ようには行かなかった。ただでさえ外国人は、少しでも変わった動きを見せようものならスパイ扱
いされて当局に密告されかねない。監視されているのに気づいて相手を捕まえてみればソ連当局の
役人だったりと、どうにも日本とは勝手の違う壁に風見は至るところで突き当たっていた。こうし
ている間にも、どこかで人知れず陰謀は動き始めているかもしれない、と時折苛立つ事があった。
日本の放送もキャッチできるような受信機は作ってあったが、この国ではよほどの大ニュースでも
ない限り、外国のニュースを知るのもなかなか難しいのだ。
逆に言えば。
自分達の知らないところで、何が起こっていても不思議ではない。
(とにかく一度、本郷さんに連絡を取ろう)
この距離でも精神感応はどうにか届くが、自分の内でも整理しきれていない感覚は直に言葉にする
方が楽だ。そう思いながら、風見は真昼の空を仰いだ。
明るくてもどこかしんと冷たい色の、北の空だった。どこかでに似た色を見たような気がする、
と思い、そしてふいと思い出す。
(……海か)
真夏でも厳しい蒼を含んだ、日本海の色だ。
どんなに晴れた日でも、沖縄の空よりも東京の空はどこかくすんで見えた。
やはり東京は長く暮らす街ではない。そんな事を考えながら、神敬介は窓の外を仰いでいる。
東京の郊外にあるコーヒーショップ「COL」は、午睡に似た穏やかな静寂の内にあった。
元々駅前の繁華街からも少し外れたところにあり、いつも繁盛しているとはお世辞にも言い難い
店である。近くにある大学の学生達がコーヒー一杯で長時間粘ったりすればささやかな賑わいにも
なったが、夏休みに入って店内はいつもにも増して閑散としている。バイトの明るい女の子達も、
今日は海へ出かけている。客が居ないと妙に広く感じるカウンターに座って、どうも静かなのは自
分達二人だけのせいか、などとも思った。
照りつける陽射しが、眩しくカウンターテーブルにはね返っていた。見慣れた筈の光景が妙に白
々と浮き上がるように映って、何故自分はここに居るのだろう、などと敬介はぼんやりと考えてい
る。こんな店がある事など、それどころかこんな都下の街に足しげく通うようになる事すら、半年
前の自分は予想だにしなかった。
本当ならば今頃は南洋調査船の新人スタッフとして、突き抜けるような空と海の青の中で風に吹
かれていた筈だった。
改めて、今こうしているのがひどく非現実的に思われる。いっそ夢ならどれ程楽だろうか、とち
らりと思いもした。
何も知らず、ただ久しぶりの休みだったから東京に戻ってきたのだった。父親に会うのは一年ぶ
りだったが、いつの頃からかその研究にもあえて興味は持たないふりをしていた。
しかし父親の研究の成果であるカイゾーグの能力は今や自分の体内にあり―――そして同じよう
に超人的な力をもつ怪人達と戦う為の、唯一の力となったのだ。こんな事になるのなら、少しは話
を聞いておけば良かった、とちらりと思う。
(……ちっとも聞こうとしないんだから。きっとお父様は、敬介さんと一緒に研究を進めたいと思っ
てらっしゃるのに)
ふと耳元に、甘さを含んだ声が懐かしく甦った。
(そんな事があるもんか)
そう言い返したのは、しかし何もむきになっていた訳ではない。別に自分が手伝いなどしなくても、
父親の傍には有能な助手が居たのだから。
彼女が父親の助手としてやって来たのは、三年程前だった。
(水城涼子さん。日本人だがアメリカ育ちで、向こうの学校を二、三年もスキップしている才媛だ)
初めて引き合わされたのは、城南大学の父親の研究室である。
はじめまして、と笑って頭を下げたその面差しに、大丈夫かな、とちらりと思ったのを覚えてい
る。関心を持たなくても嫌でも解る程、父親は既に学内で変わり者として遠巻きにされつつあった。
その父親に従うという事は、はじめから学内での孤立が約束されたようなものだった。
(随分物好きなんだな)
その後親しくなってから、一度だけ尋ねた事がある。
(親父は天才かもしれないが、間違っても偉くはならない。頑固で口煩くて、余計な敵ばっかり増
やすタイプだ。わざわざアメリカから来て親父の下で働くなんて、気が知れないな)
(そんな事はないわよ)
実際、年令から言えばそう変わらなかったのだが―――その後も自分が父親への不満を口にしたり
する度、やんわりとたしなめた涼子の笑顔は奇妙な程大人びていた。
(博士の役に立てるだけで幸せだと思う。そんな人は沢山居るのよ)
その黒い瞳に真剣に諌められると、もうそれ以上は何も言えなかった。
彼女はどこまで知っていたのだろうか―――と思いかけ、そしてかすかな自嘲と共に自答する。
助手の身分は隠れ蓑に過ぎない。国際秘密警察の潜入捜査官だった彼女が、全てを知らなかった
筈がない。
父親の研究内容も、それがGODに狙われていた事も。
敵の手の内を知る為にあえてダブルスパイとなって、その命まで懸けた彼女の決意を、自分はと
うとう解ってやれなかった、とまた思う。
とは言え、彼女が何を考えていたのかは本当には解らない。GODの指令を受けた彼女が、見せ
掛けでなく自分達を窮地に追い込むまで容赦なく立ち回ったその真意も、とうとう聞く事はなかっ
た。たとえ見殺しにする事になっても、研究の秘密がGODから守れるならそれでいいと思ったか
らなのか、あるいは父親が自分をカイゾーグとして生き延びさせようとするだろうと賭けたからな
のか。
もっともそれを言うなら、父親の考えの方が未だに解らない部分は多いかもしれなかった。
父親がGODにいつから狙われていたのかは知らないが、おそらく本当に逃げられるとは思って
いなかったのだろう。遅かれ早かれ、自分にカイゾーグの力を与えるつもりだったのだろう―――
とは、敬介にも流石に察しがついている。自分をサポートする為のクルーザーや神ステーションと
いった設備は、とても短期間で造れるものではない。
だとすれば、父親はいつから―――万が一の場合には自分を改造人間にするつもりだったのだろ
うか。
それが解ったところで、今更何が変わる訳でもなかったが。結局自分は、何ひとつ肝心な事は聞
けずじまいだったのだ。
(人間でない事に誇りを持て)
そんな言葉も、生きている父親からはとうとう聞く事はできなかった。それどころか、父の意志を
宿した神ステーションも、せめて助言を貰おうとした自分を厳しく突き放して深い海に沈んでいっ
たのだ。
親子でありながら何を考えているのか解らないところは、とうとう最後まで変わらなかった。
「どうした、敬介」
声をかけられて、ふと敬介は我に返った。
磨き込まれたコーヒーミルの把手にかけた手を止めて、立花藤兵衛がカウンターの中からこちら
を見ている。
「……いえ、何でも」
「何だ何だ奥歯につっかえたような物言いしやがって。はっきりしねえな」
カウンターから身を乗り出しかけて思い出したらしく、ふいと宙を仰いだ。
「……お、そう言えば午前中に来てたぞ。相変わらず白ずくめのなりで、澄ましっかえりやがってな」
知らず顔が強ばるのを、敬介は感じている。
「アポロガイストですか」
それは一度は死んだ筈の―――甦った宿敵の名だった。
GOD秘密警察第一室長・アポロガイスト。
圧倒的なその力以上に、不思議な存在感をもった男だ。
「そうそう。そこから堂々と入ってきてな、『今日は別に戦いに来た訳ではない』とか抜かしてき
やがった。そんなにうちのコーヒーが飲みたいなら、そこでおとなしく座ってりゃいいものを、や
れ豆の挽き方が細か過ぎるだの落とすのが早いだの遅いだの、だから余計なえぐみが出るだの講釈
垂れやがって……おい、何笑ってるんだよお前まで、こら」
すみません、と敬介は口元を覆いながら、筒に丸められたメニューが頭上に振り下ろされるのをひょ
いと頭を逸らして躱している。
しかしその光景は目に見えるようだった。GODの幹部でありながら、あの男はGODに立ち向
かう旗印でもあるこのコーヒーハウス「COL」にも何の遠慮もなく入ってくるのだ。
奇妙な男だった。
しかし一度ならず自慢のコーヒーにケチをつけられている立花にしてみれば、何かにつけ面白く
はないのだろう。
「……全く」
敬介に躱されてやり場を失ったメニューで、丁度寄ってきた不運な羽虫を竹刀よろしく一撃で仕留
めると、どいつもこいつも、と独りごちてカウンターの内で立花はまたコーヒー豆を挽き始めた。
そんな立花の横顔を、敬介はぼんやりと眺めている。
偶然から知り合ったのは、自分がXライダーになって間も無い頃だ。
(俺は仮面ライダー一号、二号、V3も、そしてライダーマンだった四号も知ってる。だがその誰
でもない、君は誰だ)
父親から与えられたものの正直当惑していた「ライダー」の名前の意味を、教えてくれたのがこの
―――既に数年にわたり「仮面ライダー」と共に悪の組織と戦い続けてきたという立花だった。
立花を見ていると、何故か父親を思い出す。年はやや近いものの、頑固という以外は特に似通っ
たところもないのだが―――と思いかけて、ふと苦笑する。
そう言えば、短気で急に思いも寄らないような大胆な行動に出るところなども、少し似ているか
も知れない。
いつになく、子供の頃の事を思い出していた。
物心ついた頃から厳しい父親だった。ことに礼儀や武道には口煩く、夏でも冬でも早朝の柔道の
稽古が欠かされた事はない。一体何をそこまで、と思う程、ほんの子供の頃から遠慮なく投げ飛ば
されたものだ。身長が自分の半分にも満たない子供との組み手にも、父親はとことん本気だった。
(脇が甘い。足元が隙だらけだぞ。自分の技に持ち込んだからと言って気を抜くな)
何もそんなにむきにならなくてもいいのではないか、と思える程容赦なかった。
「……そんなに根を詰めて豆挽かなくてもいいんじゃないですか」
ふとそんな言葉が、口をついていた。
夏休みの間はただでさえ普段よりも客が減る。その上にこの店主は、何か事件があればすぐに店
を「本日臨時休業」にしてしまったりするのだ。傍目から見ても「COL」の営業状況はあまり芳
しいものとは言い兼ねる。コーヒーについてはあの男程詳しい訳ではないが、客が来るかどうかも
解らないのに豆ばかり挽いていても、果たして役立つのだろうか。
「いいんだよ」
立花はじろりと睨んだ。
「いいか物事はな、いつ何時どう転ぶか解らないもんなんだ。今いきなり三十人のお客が来てみろ」
そもそもこの店に三十人も客は入らないのでは、などとへらず口で混ぜ返しかけ、しかし敬介は口
をつぐむ。
「これから豆挽きますから、それまでお待ち下さいなんて言えるか?」
立花のまなざしは真摯で―――どこか深く諌めるような光を含んでいる。
どこかで似た説教を聞かされた事があったな、とおぼろげに思い出していた。
(もう少し手加減しても良いのではないですか)
確かあれは自分が小学生の頃、アメリカから父のかつての部下だったという科学者が一度だけ訪ね
てきた時の事だ。遠来の客に喜びながらも、だからと言って毎日の稽古を欠かすような父ではなかっ
た。
それは自分達にとっては毎朝の習慣だったが、海岸での柔道の稽古を初めて見る外国の青年科学
者は正直なとまどいを隠さなかった。流石に父親の気質は呑み込んでいたとみえて、自分を助け起
こすような余計な真似はしなかったが、それでも見ている内にいい加減黙っていられなくなったら
しい。
(貴方の息子は、まだ小さな子供です)
早口の英語は半分位しか聞き取れなかった。しかし足場も不確かな岩場で何度となく手荒く投げら
れる自分を見かねての言葉は、おそらくそんな意味だったろうと思う。
(それは違う)
暇をみて教えられていた事もあり、父親の話す英語はそれよりは聞き取り易かった。
(子供だからと言って、いつまでも加減していては彼の為にならない)
そんな父親の言葉を、それでもあの時青い目をした科学者は真剣な表情で聞いていた―――とも思
い返す。
(人間はいつ、どんな苛酷な状況に投げ出されるか解らない。子供だろうが大人だろうが、それは
同じだ。だから私は息子を、どんな時にもきっと生き抜けるような強い男に育てたい)
父親の表情は背からの朝日を浴びて、はっきりとは伺えなかったが、朗々としたその声は波音にも
消されなかった。
(この広い海のような男にな)
そして自分もどうにか身体を起こし、父親の見ている先を追って視線を上げたのだ。
波は岩に砕けては、荒々しく白い飛沫を上げている。この町に来て数年、すっかり見慣れた光景
だった。
しかしその彼方に広く輝く海を、その時自分は初めてしっかりと見たようにも思う。
海は眩しく光っていた。寄せ来れば荒ぶる波となる激しさを微塵も感じさせずに、豊饒の光をた
たえて静かに漲っていた。しなやかな凛冽の力を、その水面の下に秘めて。
そしてあの時。
父は何か続けて言ったようにも思うのだ。
だが、どうしても思い出せなかった。
三
二重ガラスの窓の外には、どこまでも明るい青空が広がっている。
眼下に視線を転じると、すっかり慣れ親しんだ南国の風景は平和な箱庭のようだった。薄い雲に
霞む紺碧の海の中に浮かぶ、白い海岸線に縁取られた深い森の緑は、しかし少しずつ小さく遠ざかっ
ていく。
ベルト着用のサインが消えた。
まっすぐ射し込んで来る眩しい陽光に目を細めながら、結城丈二は足元に置いた鞄を膝に上げる。
角張った重みが、布越しでも指先に触れた。
この鞄の中には、一人の科学者が命を懸けて守った秘密がある。
それはほんの一昨日の事である。
タヒチにわたって半年、平穏な日々の終わりは突然にやってきた。
上司からの急な呼出しを受けて研究所へ急いでいた途中、結城は日暮れの砂浜で当の上司を追っ
てきた謎の一団と遭遇したのだ。
久しぶりの戦いは、あっけない程簡単に決着がついた。しかし謎の敵は、その目的も正体も明か
さないままその身体を砂に帰している。
(《神》の手が、近づいてくる…)
そしてその声が、まだ耳に残っていた。
(日本の、ジン教授に……伝えてくれ)
この半年一緒に研究を続けてきたアメリカの科学者もまた、僅かな言葉だけを遺して結城の腕の中
で息を引き取り―――その直後にその身体を脆く崩れる砂へと変えたのだった。普通の人間だと信
じていた彼は、一体何者だったのか。
手掛かりを求めて研究所に向かった結城は、自分の机のペン立てから見つけた鍵で、自分宛の手
紙とファイル数冊分の資料や設計図を手にしている。まだほとんど目を通す暇もなかった。とにか
く、急いで行動を起こさなくてはならないという事だけは確かだった。
伝言を託された《ジン教授》を探すあてはまだ無かったが、ファイルには上司が書いた紹介状が
入っていた。直接会った事はないが、表書きの「大佛一朗」の名には見覚えがある。良く上司と研
究上のやりとりをしていた、北欧在住の日本人科学者だ。少なくとも自分よりは、上司とのつきあ
いも長い。
まずは大佛博士を訪ねてみよう、と改めて胸に呟くと、結城は鞄を開いてところどころ角の傷み
かけた厚い革張りのノートを取り出した。資料類と一緒に残されていた古いノートに、科学者は長
い手記をしたためている。誰に読ませるという当てがあった訳ではなく、ただ自分に何かあった時
の為に長い時間をかけて書かれたものらしい。
「なるべく当時の事を思い出して詳しく書いたつもりだが」
そう前置きされた手記は、当時アメリカ某所にあった研究所の門を初めてくぐった時から始まって
いる。
マイケル・ガーディアンが尊敬していた「J博士」がアメリカを去るところから、結城は続きを
読み始めた。
「『後の事は、Nくんがやってくれるだろう』
J教授の言葉が、正直私には承服できなかった。
勿論人間を国籍でカテゴライズするなど愚かしい事だ。
所長はじめ事務員に至るまで、日本人であるという理由だけで彼等を差別するなど、考えもしな
かった。彼等の―――そして自分達の研究は、アメリカ一国の利益に寄与するだけのものではなく、
この世界全体の科学の進歩を助けるものだという信念の元、そんな些末事にこだわる理由があろう
か。
少なくとも、この研究所に居る二人の日本人は―――その卓越した頭脳に於いて人種を云々する
のも無意味だった。
J博士とN博士は同じ日本の最高学府を同じ年に卒業し、本来ならば一名のみ、というポストだっ
たにもかかわらず特例が認められ、揃ってアメリカに派遣されてきた優秀な科学者だった。実際学
生時代からの友人でもあり、ライバルとして互いに意識し、同時に友情を深めてきたとも聞いてい
る。
私の好悪の感情を抜きにしても、N博士の人望はJ博士には遠く及ばなかったが、二人の間には
深い信頼があるのは傍から見ていても良く分かった。
ともあれ帰国したJ博士の希望通り、そのポストはN博士が兼任する事となった。その二年後に
は所長に就任したN博士は、研究所をそつなく取り仕切り、幾つものめざましい研究成果も上げて
いった。
N博士には従えない、と思ったのは私の偏見であったかもしれない。その手腕には、正直自分の
不見識を恥じもしたものだ。
だが事態が急変したのは、J博士の帰国から十年後の事だった。私達の研究所を軍用目的の為の
研究機関とする、との決定が下されたのだ。
既にアメリカとソ連の関係は最悪の段階を迎えつつあったが、大戦時に確立されたネットワーク
の幾つかは未だ機能していた。二大国が対立している間に、戦後めざましい復興を遂げていた日本
がこれ以上発展するのは望ましくない―――つまり日本を共通の脅威と感じる点で、二国は意見の
一致をみたのである。
即ちそれは、日本を仮想敵とした軍事研究機関としての設立であった。そして驚くべき事に、N
博士は所長としてその命令を受け入れたのだ。
だが本当にそれでいいのか。χ計画を、母国を滅ぼす為の研究としても良いと言うのか―――いや、
仮にそれが日本でなくても、この研究を一国を滅ぼす為の道具として使おうなど、到底許されまい。
少なくともJ博士がこの話を聞けば、決して唯々諾々と従うような事はなかった筈だ。
そう考えた私は、初めてN博士を訪ねた。
当時N博士の自宅はM州のBという町にあった。
既に十年もこの家に仕えているというメイドが案内してくれた広い書斎には、冬だというのに火
の気もほとんどなかった。良くあれで寒くなかったものだと思う。
『政府の決定は既に下されている』
N博士は小柄な身体を椅子に沈めて、面倒げに私を見上げた。
『それに異を唱えるつもりかね、君は』
『ですが我々の研究は、この世界の平和の為に使われるべきです。χ計画にしても、来るべき未来
に向けた深海開発の為のものだったのですから』
『綺麗事を言うな』
N博士は確かにJ博士と肩を並べる天才的な科学者だった。だがJ博士との大きな違いは、やはり
その気質だったろう。日頃から時々ひどく冷酷なものを感じていたその黒い瞳が、その日は特に全
く感情も映さない非人間的なものに見えた。
『ですがもしここにJ博士がいらっしゃれば、こんな決定を受け容れたりはされなかった筈です』
『Jか。相変わらず君はJ贔屓だな。喜びたまえ、これから我々の研究所はG機関と呼ばれる事に
なる。彼と同じ名前を推したのは、私なりの友情の証と受け取ってくれて構わん』
その言葉の意味を理解できなかった私は、きっと間抜けな顔をしているように見えたろう。
『いいかね君』
N博士は私をねめつけた。」
結城はそこで目を止めた。
(G機関…?)
どこかで聞いた名前だ、と記憶を探る。海に照り返す光をおぼろに宿す細い銀髪の幻が、不意に目
の前をよぎった。
それも一昨日の事だ。
マイケル・ガーディアン博士であったものの抜け殻のような衣服を抱えたまま立ち尽くしていた
自分の前に現れたのは、この半年勤めていた研究所の所長だった。明らかに異様な事態にもかかわ
らず何が起きたのか尋ねようとしなかったのは―――彼なりに多少調べ、関わるのも危険な組織だ
と既に知っていたからなのだろう。
(研究者は、今の研究が全てだ……過去の栄光も醜聞も関係ない)
その言葉に、あるいは全てを封じ込めて。
半ば反射的に戦ったものの、何が起きたのかは全く解っていなかった。ただとまどうばかりの自
分の腕から、静かにその衣服を受け取った所長の面差しが、いつになく年老いて見えたのを思い出
す。
(何か知っているなら、教えて下さい)
そう頼んでもなかなか口を開こうとはしなかったが、どうにか少しだけ話を聞く事ができた。
(もう二十年近くも昔、アメリカに本拠を置く特務機関があった)
水平線の彼方に没していく太陽の残光に、かすかに目を細めて所長はそう語ったのだ。
(第二次世界大戦の同盟国が共同して造り上げた、高度な科学技術をもつ研究機関だ。研究対象は
多岐にわたっていたが、一人でも一個中隊並みの力を発揮する兵士の開発―――人体改造なども扱っ
ていたらしい)
部外者にとっては噂に過ぎず、どこまで本当の話かも解らない話だが―――と言いながらも、その
口調には確かな重みがあった。
(G機関―――と当時私の周りでは呼んでいた。本当の名前を知る人間はおそらくごく少数だろうが)
それがここで語られている「G機関」に違いない。おそらく略称だ。どこかに正式名称が書かれ
てはいないか、と少し先迄ページを捲ってみたが、流石に慎重に伏せられている。
スチュワーデスが渡してきたコーヒーを受け取って、結城は続きを読み進めた。
「N博士は私をねめつけた。
『科学は所詮ツールに過ぎん。技術の進歩も、新しい発明も、全ては力とならなくては政府にとっ
ては意味がないのだよ』
『それで貴方は良いと思っていらっしゃるんですか。G機関から生み出される力が滅ぼそうとす
るのは、貴方の祖国ではないですか』
『―――日本か』
腫れぼったく垂れた瞼の下から、黒い瞳が俄に危険な光をたたえて私を見た。
『もう家族も死んだ国など、私にとっては他国だ。それよりは、この私を受け入れてくれたこの
アメリカの為に尽くすさ』
今にして思えば、あの時の言葉を何故そのままに受け取ったのかとも思う。
N博士がアメリカを愛してなどいない事に、私は気づくべきだった。先の大戦でN博士の家族
を殺したのは、即ちアメリカだったのだから。
だが当時の私には、そこまで思い至るだけの思慮はなかった。我々の研究所が戦う為の道具に
されるという事実に、ただ頭が一杯だった。
『―――博士』
いきなり声がした。
誰もこの屋敷には居ないものと思い込んでいた私が驚いて振り返ると、一人の少年が戸口に立っ
ていた。黒い髪と目から東洋人と一目で判ったが、日本人離れしたくっきりとした顔だちをして
いた。
『ああ、サニーか』
N博士は腕時計を見た。
『もうじき行く。先に行っていなさい』
『わかりました』
妙に落ち着き払った声で答えると、少年は私に目もくれずにくるりときびすを返して出ていった。
『あの子は、息子さんですか?』
そんな話は聞いた事がない。そもそもN博士は独身だった筈だが、と思いながら、私は尋ねてみた。
『いや、今は私が面倒を見ているだけだ。見ての通り日系なのは間違いないが、どうやら身寄りが
ないらしくてな』
『そうですか。……ケイスケくんと同じくらいかな』
『ケイスケ?』
聞き返すと宙を仰ぎ、ああJの息子か、と彼は独りごちた。
『最近、Jに会ったのか?』
『ええ』」
マイケルが学会の為に日本を訪れた時の話は、その数カ月前の事として手記にも書き留められ
ている。
息子の為に日本で暮らす事を決めた神博士は、当時ある研究所の招聘をうけて日本海沿いの地
方都市に住んでいた。父親に良く似たまっすぐなまなざしの子供も既に小学生になっており、初
めて会う外国の科学者にも少しもものおじせずに話をしたらしい。
そしてマイケルが神博士に会う事ができたのは、それが最後になるのだが―――それはまた後
の話である。
「『あいつも』
感情の見え難い横顔に、浮かんだ笑みの意味を私は計りかねていた。それは友情から来る懐かし
さだったのか、それとも。
『いい加減こっちに戻ってくるつもりはないのかね。息子にしても、そろそろこっちの学校に通
わせた方が良いだろうに』
珍しくN博士と意見が合ったのは認めざるを得まい。何故ならそれと同じ質問を、私はあの時J
博士にしたのだ。だが。
『J博士はケイスケくんを、日本で育てたいと仰っていました』
『ほう。日本でね』
物好きな、と言わんばかりの口調だった。私は自分でも不本意に思っていたにもかかわらず、ど
うにかJ博士の肩を持ちたくてならなくなった。
『J博士には、アメリカも日本も越えたお考えがあっての事です』
『ほう? どんな考えだね。君は聞いてきたのか』
『勿論です』
そう答えはしたものの、J博士の考えが私に理解できていたかどうかは今となっても定かではな
い。ただあの時のJ博士の言葉を思い出し、なぞって口にした。
『―――ただ、海のような男に育てたいのだと。国境のない海のように、国家もイデオロギーも関
係なく、ただ人類の平和の為に何を成すべきかを考えて行動できる人間だ。そんな人間に息子を
育てたい…そうJ博士は仰っていました』
『海のような男、か』
その口元には、はっきりと微笑が浮かんでいた。
『Jらしいな。いかにもあいつらしい』
ふっと唇をついた息が、やがて泡立つような笑いとなって込み上げた。ついには机に小柄な身体
で突っ伏し、いかにもおかしげにけたたましく笑い始めた。あまりに笑い続けているので次第に
N博士の正気が疑われ始めた頃、ようやく顔を上げて目尻に涙を掬った。
『……いや失敬』
思い出したように、また唇を歪ませた。
『さっきの少年だが、本当の名前は他にあるらしい。だが私はサニーと呼んでいる。何故だか判
るか?』
『…さあ』
『いつかこの地球を支配する、太陽にしたいからだよ』
その言葉の真意を理解しかねて私がまた口ごもっていると、N博士は満足げに微笑した。
『太陽と海か。なかなか宿命的だと思わんかね、君』
そのまま椅子にもたれて、しばらくは何か思索に耽っている風でもあった。やがてふと思い出し
たように腕時計を眺めると、N博士はわざとらしく眉をひそめた。
『彼が痺れを切らす訳だよ、もうこんな時間だ。済まないが、彼との約束があるのでね。もう帰っ
てくれ給え』」
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