メルクリウスの環(2)


     四

 吹く風に乱れた髪を苛立たしげに手のひらで撫でつけて、彼は歩を進めた。
 また右手の感覚が鈍り始めている。その理由を知ったのは、ついさっきの事だ。流石に動揺した
ものの、唯一この状況を切り抜ける手段は科学者から聞き出していた。作戦も立てている。自分の
命は、自分の力で勝ち取ってみせよう―――そうやって、これまでやってきたのだ。
 自分の本当の名前すら知らない。物心ついた頃には、雑多な人種の混ざりあう街の隅にあった教
会で、同じような境遇の子供と暮らしていた。
 自分がどこから来たのかも知らなかったが、世間の現実から目を覆ってくれる庇護者がなければ、
否応無しにこの社会の有り様は目に入る。それで大体の察しがつかなければ馬鹿というものだろう。
世界を巻き込む戦争は、生まれる筈のなかった命をこの世に送りだし―――あるいは平和が続いて
いれば何不自由なく暮らせる筈だった人間を、どん底までつき落としたのだ。
 だがだからと言って、それが何なのかとも思う。
 生まれや育ちが、その人間の価値に何の意味も与えないと教えたのは、彼を育てた国だった。敗
戦国に属する子供を鷹揚に生かしながら、それが勝者の余裕である事を見せつける。
 だからと言って、偽善者ぶった慈善精神に反発を覚える訳でもない。それも勝者の権利なのだ。
彼が誰に教わるでもなく学んだのは、何もかもが与えられるのは勝者だけだ―――という事実だった。
 ならば今度は自分が勝者になればいい。
 自分はその為に、《養父》と契約を結んだのだ。傍目には「身寄りのない少年を引き取って育て
た」という慈善活動に見えようとも、そこに愛情や善意などというむず痒くなるような言葉が無い
事はお互いに承知の上だった。
(……いや)
もしも共振する感情を探そうとするなら、それは乾いた憎悪である。
 他者の尊厳を踏みにじりながら、にこやかな平等面をして手を差し伸べてくる全てが、果たして
逆の立場になった時、それでも笑っていられるのか。それは見てみたい、と思う。
 自分には望む力を与えてくれる頭脳が必要であり、《養父》には自身の理論を実践して、この世
界に戦いを挑むだけの若さと力量が必要だった。ただそれだけの事だ。

 ぐらりと視界が回った。
(役立たず等め)
頼りない科学者達の顔が浮かんで、低く呪詛を吐いた。
 所詮あの科学者達は、《養父》のひいた設計通りにしか動けない木偶に等しい。
 今この身体に何が起きているのか、本当に理解しているのはおそらくこの世でただ一人なのだろ
うが―――その相手と個人的な会話を交わすのは難しい事も分かっていた。
 最後に会ったのは、もう何年も前の事だ。
 十数年来の計画を実現する為に自分が新たな力を得る手術を受けたのを見届けて、《養父》もま
た普通の人間の手の届かない世界へ向かっている。今やその超人的な頭脳が考えているのは、この
混沌とした世界に新たな秩序を作り出し、如何に無駄なものを排除していくか、という事だけだ。
その為に自分自身を一介のシステムとする事にさえためらわなかった彼にとって、ましてや他人は
理想の為の駒以上でもそれ以下でもない。ホットラインで交わすのは、戦略や作戦上で必要な会話
だけに限られていた。
(馬鹿馬鹿しい)
ちらりとよぎった考えを、微苦笑で打ち消す。
 何もかも承知していた筈だ。望んでこの力を得た自分が、今更燃やす命を惜しんで《養父》に助
けてくれと泣きつくなど、それこそお笑い草ではないか。
 人体を改造し圧倒的な力をもたらすχ計画によって生み出されたGOD怪人の中でも、この身体
は最大の威力をもつように造られ、更に新たな力を得て甦っている。
 χ計画開発から二十年も昔に手を引いた神教授のカイゾーグ―――Xライダーよりも、遥かに優れ
た改造人間だ。
 その凄まじい力がこの命を削り、再び自滅に追いやっているというのか。
 喉の奥からふつふつと笑いが込み上げてきた。
(それも良かろう)
だがただでは死なないとも、と思う。
 自分は太陽の亡霊―――この世を覆う暗黒の太陽の名を冠する者だ。その誇りを込めて、最後まで
戦うだけだった。見苦しい真似も、偽善的な振る舞いもするまい。
 何よりも、まだこの命が終わると決まった訳ではない。今日中にXライダーからそのパーフェク
ターを奪えば、まだ自分は生き延びられるのだ。命の火を分け与えた再生怪人達は、既に「COL」
に向かっている。後は信じた力の元に、最後の一瞬まであの男を倒す事だけに全てをそそごう。
 そう思いながら、ふと思い返してみる。
(お前は私の代理人として、いずれはこの世界を支配するのだ。そのプライドを忘れるな)
人嫌いで通っていた《養父》だったが、自分に対しては時折妙に饒舌になった。その理想も誇りも、
繰り返して語られたものだ。
 今となってみれば、あの頃の自分達も―――傍目にはどうあれ―――希望に満ちていたと言えなく
はないか。
 使用人を除けば二人きりの奇妙な生活は、十年にも満たない。その中で、《養父》は彼に全てを
教えたのだった。
 普通の子供が学校で習うよりも高度な科学や数学といった知識面はもとより、どんな場所でどん
な人間にも対等に渡り合えるような全てを。その怪異な風貌と異様な雰囲気からは一見想像し難かっ
たが、《養父》は人並み外れた知能と共に深い教養を兼ね備えた人物だった。
(モカの真髄は酸味にあるのだ。覚えておくといい)
まだ故国を離れる事自体が一大事だった時代に生まれ育った《養父》がどんな育ち方をしたのかが、
時折そんな言葉や所作に透ける事があった。しかしどんな経緯で《養父》がアメリカに渡り、祖国
を滅ぼす為の組織を指揮するようになったのか、詳しい話を聞いた事はない。
 尋ねなくても解っていたからかもしれなかった。
 自分達は、憎悪を共有していたのだ。激情ではなく―――それはただ深く冷静な憎しみである。守っ
てはくれなかった国も、鷹揚に憐れみをかけてくる国も、自分達は等しく憎んだのだった。
(……国など要らないのだよ)
だから国家という枠組みを解体し、冷戦に隠された闇から生まれた唯一の政府がこの世界を支配す
る。その手始めに日本を選んだのは個人的な感情からか、あるいは研究の場を与えてくれたアメリ
カへの《養父》なりの義理は忘れなかったという事だったろうか。アメリカで育った自分から見る
と時に奇妙に映る程、《養父》は礼節を重んじる人物でもあった。
 そしてあるいは、友情も。
(そうか。神の息子も、お前と同じくらいの年だな)
あれはもう十数年も前の―――珍しく、部下らしい客の来た日だったと記憶している。
 いつものように午後の勉強の時間中、思い出したように自分の顔を見て《養父》はそう呟いたの
だった。あの屋敷に引き取られて以来《養父》の口から他人の名前が出たのは、あれが最初で最後
だったから良く覚えている。
(ジン? 日本人ですか?)
あえて冷静に聞き返した自分の声も、まだ耳の底にある。
 日本の家族や友人の思い出話など聞いた覚えもなかった。アメリカでもそれなりの人脈は作って
いたらしいが、一切の人間を目的の為の道具と割り切っていた彼は、誰とも必要以上の関わりも持
たなかった。
 理想を語る時以外は滅多に感情の揺らぎを見せない《養父》の黒い瞳に、いつになく懐かしげで
温かい光が宿っていたのが、訳もなく不快に感じられた。
(そうだ。χ計画の共同研究者だ。私の旧い―――おそらくは唯一、この世で信用するに足る友人だよ)
《養父》も自分と同じだと思い込んでいたせいだろうか。
 全ての交情を断ち切り、信じられるのはただ自分一人のみと思い定める。それでこそ余計な感情
のしがらみにとらわれる事なく、この世界をニュートラルに眺められるのではないか。いつの頃か
らか、そう考えるようになっていた。
 そんな言葉にはしたくなかったが、どこか裏切られたような気持ちで、午下がりの眩しい陽光に
照らされて浮かび上がる《養父》の畸形的に張り出した額の輪郭を眺めていた。
(GOD機関の話を聞いたら、さぞや怒る事だろうな……)
あれは生まれつきだったのだろうか、それとも事故に巻き込まれたのか―――もしかすると既に何
らかの自己改造を施した結果だったのだろうか。
 その偉大な脳髄を擁する《養父》の頭部は、子供心にも異様さを感じさせる歪な形状だった。目
から顎にかけての骨格は東洋人としても脆弱だったにもかかわらず、逆にその額から上は極端な発
達を見せていた。当時《日本の豆電球》と近所の子供達が揶揄混じりに呼んでいたのも知っている。
頭頂にかけて大きく膨らんだアンバランスな頭蓋骨の上には、血管の透ける程薄い皮膚が貼りつい
ており、頭髪はほとんどなかった。更に頬にも顎にもほとんど肉らしい肉がついていないのが、一
層奇異な印象を与える。
 多様な民族を同胞として多少の差異は気にとめないこの国の人々さえも、思わず目を逸らすよう
なその風貌が、むしろ自分には好ましいものに映っていたものだ。
 あの頭蓋の内には、超人的な頭脳がある。まだ子供だった自分には計り知れない程の知識を貯え、
難解な疑問にも一瞬にして明解な答を導き出す天才だ。
 だからこそその《養父》が、普通の人間のような感情を寄せる人間があろうとは認めたくもなかっ
たのかもしれない。
(だが私が理由を説明すれば、きっと理解してくれる筈だ。この世の損得ずくで研究するような奴
ではないからな)
 しかし結局、その友人とやらは《養父》の数度の要請にもかかわらず、GOD機関の構想に賛同
しなかったのだ。
 ついた息は、かすかに微苦笑めいた。
 《養父》から出された指令は、神博士から完成している筈のχ計画の設計図を入手せよ、の一文
だった。しかし神博士の拒否の結果、それが設計図の奪取と―――神親子の抹殺にどこでどうすり
変わったかは、今となっては誰にも解らない事だ。
 少なくとも解っているのは、友人の死が伝えられても今となっては《養父》の思考回路にはその
事実以上の影響を及ぼさない事くらいだろうか。あの時、懐かしげに友人の話をした《養父》は、
もうこの世には無いも同じだ。今そこに居るのは、あらゆる感情を排除して理想実現の為に指令を
下す純粋な理性だった。
(―――貴方はそれでいい)
静かにそう思う。
 もしも背負う感情があるとするなら、それは自分が引き継ぐからだ。まだ人間としての形を残し
ている自分がGOD秘密警察第一室長として、《養父》から教えられた教養と礼節をもってこの世
界に対しよう。
 自分達は断じて大国の傀儡などではない。
 高潔さに裏打ちされた誇りを備えた、選ばれた存在だ。
 それが真に理解できていれば、神親子も自分達と手を取り合い、この世界に真の平和を齎す手助
けができた筈ではないのか―――などとちらりと思うのは、あの時の《養父》を思い出していたせ
いだろうか。
 馬鹿な、と苦笑しながら、瞼の裏にいつしか見慣れた一人の青年の姿を描いてみる。
 神博士の一子―――神敬介。
 自分は、あの男に―――いわば親友にも似た感情を抱き始めているのかもしれなかった。
 目指す方向こそ違っても国や民族を越えてこの世界を見るよう教育された意識、同じ《χ計画》を
元にして造り変えられた身体。似ているからこそ抱く憎悪は、ある意味で親愛とも似てはいまいか。
何よりもこれから自分はあの男の一部を奪って、命を繋ごうとしているのだ。
 逆にもしもこの計画に敗れて自分が闇に還るならば、その時にはあの男も道連れにしない訳には
行かない。
 そう思うと、かつてない奇妙な高揚を覚えた。二十数年の人生で、およそ他人に冷静な分析以上
の関心を持たずに来た彼にとって、初めての感情だった。おそらく最も近しかった人間である《養
父》にすら感じた事のない執着を、しかし彼はぼんやりと持て余している。クールに振る舞おうと
する心の底に蠢く激しさを、深く噛み締めてみる。
 ―――《養父》もこんな醒めた激情を、あの男の父親に向けていたのだろうか。
 だとすれば、あの男は自分にとってやはり唯一の存在なのだ。血を分けた親でも兄弟でもなくて
も、もっと深いところで繋がっている。
 そしてあの男にとっても自分こそがただ一人の宿命の相手だ。そうでなければならない。
 そう思いながら、既に感覚のなくなりかけている左の指先で右腕を探ってみた。
 重く熱い腕だった。



     五

「―――成程」
呟いて微かに眉を寄せた本郷猛を、ふと眩しく見上げた。
 開けた窓からは、白いカーテンをそよがせて熱い風が滑り込んでくる。その風に吹かれた前髪を
のけた指先で、ノートの一頁をめくる。その文章の一語一語に隠された意図すら読み逃すまいとす
るようにじっくり読み進めていく本郷を、結城は辛抱強く待っていた。
 タヒチから北欧、そしてこの小国の街へと、思えばこの五日足らずの間に地球半周分も移動して
きた事になるのだが、不思議と実感はなかった。日本よりも北にあるこの国の夏は、常夏の国に比
べれば湿度も低くしのぎやすいとはいえ、日中の気温は三十度を越える。眩しい陽射しは家々の壁
や道路に白く跳ね返っていた。
「それで」
やがて本郷は、ゆっくりと目を上げた。
「神博士を知っているのか。……結城くんは」
おおらかだが、同時にある面で細やかな性格の先輩だった。その決意を確かめてからは、ともすれ
ば気後れがちな自分をさりげなく馴染まそうとしてくれているのも感じていた。
「いえ」
答えて、結城は改めてまっすぐ本郷を見上げる。
「僕は……デストロンに入ってからは、外の世界の事は良く知りませんでしたし」
正義の為に戦う仮面ライダーの内に、かつては悪の組織デストロンに与していた自分が居る。それ
が許されたという事ではないとも判っている。
 本郷はそんな結城を眺めている。
 まだ直に会うのは、これで三度目くらいか。
(不思議なものだ)
今回の一件は、海洋工学の権威・大佛一朗博士から自分宛に送られてきた手紙から始まった―――と、
少なくとも本郷は考えていた。
(緑川先生の愛弟子である君ならば、この図面の意味する処を理解して貰えると思う)
手紙と一緒に送られてきたのは、数枚の設計図だった。大佛博士が研究している海底プラントの空
調システムの設計図と見せ掛けて、その図面を引いた紙には全く別の設計図が隠されていた。
 普通の人間の目には読み取れない特殊なインキで書き込まれた細い線図は、今は褐色の線となっ
て紙に浮かび上がっている。見やすくする為に一文字があぶり出したのだ。
(なお、この設計図はあと一枚で完成される)
それを持っているのは、マイケル・ガーディアンというアメリカの科学者だと言う。
(彼も近々、君を訪ねる筈だ)
しかしその手紙が本郷の手に届いて数日後、追い掛けるように一本の国際電話がかかってきている。
電話の主は、大佛博士にそのアメリカ人科学者の死を告げる為に南の国からやって来た科学者――
―そして本郷にとっては新たな後輩だった。
 既に設計図を読み解き事態を大まかに察していた本郷は、モスクワで謎の組織を追っていた風見
を一足先に故国へ向かわせていた。来週本郷がエントリーしているレースの写真を撮りに来た一文
字には少し早めに来てくれたのを幸い、隣国でのちょっとした調査を頼んでいる。
 だがこんな形で結城がこの件に係わって来ようとは、流石の本郷も予期しない事だった。不思議
なものだ、と思う。
「本郷さんは、知ってるんですか」
「……まあな。会った事はないが」
少し言葉を濁して、本郷は机の本棚から一冊の冊子を抜いた。
「神啓太郎博士は、海洋工学の第一人者だ」
学会が作成した住所録らしい。広げて示されたページには、細かい字で学会員の氏名と連絡先が記
されている。「神啓太郎」の名の横の欄には東京の住所が記されていた。
「城北大学に研究室を持っていたんだが、今年の春休みから大学に姿を見せていないらしい。この
住所にもずっと帰っていないようだ」
「それは」
結城は思わず腰を浮かせかけた。
「行方不明、という事ですか」
「さあ。その辺が、実ははっきりしない」
本郷は苦笑した。
「ちょっと変わった人物で知られている。これまでにも、誰にも説明しないでふらりと数カ月姿を
消したりする事も何度かあったらしくてな。どこへ行っているのかは知らないが、いつもの事だか
らその内戻ってくるだろう、そう大学は見ているようだ。だが、そんな呑気な事を言っている場合
でもなさそうだな」
少し表情を引き締めると、もう一度聞き返した。
「ガーディアン博士を襲ったのは、戦闘員だと言ったな」
「はい」
自分の表情も少し強ばっていたろう―――と結城は思う。
 あの身体的特性は、間違いなく世界征服を目論む組織に継承されてきたものだ。ならばデストロ
ンが滅びた今、また新たな組織が動き出しているという事ではないのか。そう考えた瞬間、ふと結
城は思い出している。
「それについては、ちょっと心当たりが」
「大佛博士に、何か聞けたか?」
「そうではないんですが。僕が居たタヒチの研究所の所長が、マイケルは昔、アメリカでG機関と
呼ばれる研究機関に居た事がある…と教えてくれました」
「G機関?」
「現在も存在しているかどうかは疑わしいらしいですが、何か秘密の、例えば人体改造にまつわる
研究も手掛けるような機関だったと聞きました」
本郷は眉をひそめた。
「穏やかで無い話だな。そのG機関とやらが、今回の件に何らかの形で係わっている可能性もある
訳か」
「ただ戦闘員の生体分解技術については、僕が知っているものと同じだと思います」
デストロンで―――そして遡ってゲルショッカーやショッカーで使われてきた技術だ。その大本が、
第二次世界大戦後に設立されたG機関にあると考えるには無理があるだろう。デストロンに繋がる
教育機関で育てられた結城には、少なくともそれだけは断言できた。
 同じ技術がG機関で独自に開発された可能性もゼロではないが、偶然としては考え難い。今回の
一件の裏にあるのがそのG機関だとするならば、ショッカーあるいはそれ以前に開発された技術が、
どこかでG機関に伝えられたのだと考える方が自然だ。
「……あと、もうひとつ気になる事が」
ためらいがちに結城がそうつけ加えた時、本郷は丁度その部分を読んでいるところだった。
「これだろう? 神博士の帰国後、アメリカでχ計画を引き継いだ共同研究者がいる……それも日本
人だ」
「はい」
マイケルの日記はそれが秘密組織の活動に触れている事から、機関名や人物名をイニシャルで表記
している。「J博士」が神博士の事なのは間違いなかったが、彼の帰国後「χ計画」の主幹を引き
継いだらしい「N博士」の本名は、日記だけでは明らかにならなかった。
「とにかく今は、神博士の居場所をつきとめる事だな。共同研究者の事も、神博士に聞けば解るだ
ろう」
言いかけて、ふと眉を寄せた。
「―――無事で居てくれればの話だがな」
思わず見上げた結城に、まっすぐに視線を向ける。
「大佛博士も、今は政府直轄の特務機関にガードされているんだろう?」
それも手紙に書かれていた話だ。
 平和利用の為の海底施設建設の為の研究を続けていた大佛博士に、謎の脅迫が届き始めたのは
半年前の事だ。ある国の一組織である研究所に勤務している大佛博士はすぐに対策を講じ、少な
くとも今のところは二十四時間体勢での警備がついている状況だ。だが現在どこに居るのかすら
はっきりしない神博士については、日本警察等のサポートは期待できまい。
 そう考えて、既に本郷は別のルートから事態を探っていた。
「神博士のアメリカ時代の話が関係しているなら、と思ってな、滝に連絡をとってみた。…ああ、
そのうち会うと思うが俺達の仲間だ。FBIの元ショッカー対策担当官だが、無鉄砲な男でな」
初めて聞く名にとまどっている結城に微笑みかける。
「正直、駄目で元々と思ったんだが、蛇の道は蛇とも言う。知っていたよ」
とは言えその自由奔放な行動ぶりは宮仕えには向かず、本国に戻ってからも組織の動向には大し
て関心のないらしい旧友は、あまり細かい状況は知らないらしかったが。
「神博士には三年前から、国際秘密警察の潜入捜査官が助手という名目で一人つけられているそ
うだ。ただ何の為なのかは解らないらしい」
「国際秘密警察?」
「少なくとも、自分の身に危険が及んでいると神博士が知っているのは確かだな」
ただ、と言いかけて本郷は言葉を飲み込んでいる。
 まだ結論づけるのは早い。しかし先日ある夢を見て以来、心のどこかに奇妙な感覚が引っ掛かっ
ていた。
 それは半月程前の事である。
 本郷は懐かしい思い出を夢に見ていた。
 もう何年も昔の城南大学緑川研究室の穏やかな風景と、良く遊びに来ていた緑川博士の一人娘
―――ルリ子の美しい面差しだ。
 夢の中で、彼女はこちらを見据えていた。その黒い瞳に静かな覚悟と、決して自分の想いが目
の前の男に届かない事を知っている悲しみを宿して。
 父親が何に加担し―――本郷に何をしたのかを知り、その死を悼みながらも誰にも縋ろうとはせ
ず、どうにか自分を支えて立とうと堪えている。その健気な姿を本郷は抱き締める事もできず、た
だじっと見つめ返していた。
 その懐かしい美貌に、いつしかもう一人の女性が二重写しになった。知らない面差しだったが、
その瞳だけは緑川ルリ子と同じだった。真実を知り、押し流されそうになりながらも自らの意志
を貫こうとするたおやかなまなざしだ。
 あれが誰なのかは解らない。果たして見つめていたのが自分なのかすら、定かではない。ただ
どこかで胸騒ぎがする。妙に暗示的で、心に残る夢だった。
 そう思いながら、ふと話題を変えた。
「……ところで、そのχ計画についてだが」
見上げてくる結城の視線は影を含んでいない。まだ知らないのだな、と本郷はそれで察している。
χ計画の設計図を持っていた為に狙われていた大佛博士も、マイケル・ガーディアンの死に更に
警戒している筈だ。迂闊な事は口にするまい、と説明もそこそこに自分の元へ送りだしてきたの
だろう。
 どのみち設計図も、自分の手許にあるのだ。
 革張りのノートを結城に返すと、本郷はゆっくりと机に向かった。引き出しから分厚い封筒を
取り出し、そのまま結城に渡す。いぶかしむようなまなざしに、静かに頷き返した。
「見てみてくれ」
それでも僅かにためらったが、結城は封筒から折り畳まれた設計図を抜いてテーブルに広げた。
科学者の視線が、褐色に浮かぶ線上を素早く行き来する。
 そんな結城からふと視線を逸らして、本郷はすっかり見慣れた外の景色を眺めた。
 空はどこまでも青く、向かいの建物の白い壁は夏の陽射しにまばゆく光るようだ。
 眩しいな、と思った。一片の影もつくらない、ひたすらなその明るさをどこか非現実的な思い
で眺めながら、背後でかすかにつかれる息を聞く。
 ややあって、僅かに硬さを帯びた声がした。
「本郷さん―――つまり、これがχ計画なんですか」
そう言えばもうあの左手も機械なのだったな、などとぼんやりと本郷は考えている。ぐっと設計
図を掴んでいる結城の指の影は、くっきりと紙上に落ちている。
「―――流石に早いな」
数枚にわたる設計図から、その全貌を掴むのは決して易しくはない。ざっと見ただけでその意図を
見てとれるのは、つまりは自分達が似たものを見慣れている為なのだ。それでも自分が微笑を浮か
べているのに、本郷は気づいている。
 そこに待ち受けているのが何であろうと、自分達はただ進んで行く。その戦いの中で、時には自
らを再改造し―――そして時には、後輩の身体さえも。
 そこにはもはや、否応ない現実があるだけなのだと。
「そうだ。神博士の開発したχ計画とは―――深海活動用の改造人間・カイゾーグ計画だ」



     六

 テーブルに広げられた大判紙と窓を覆う厚手のカーテンに、スタンドの光が微妙な陰影を落とし
ていた。
 時計は既に夜の二時をまわっている。
 軽いノックの音がして、結城は顔を上げた。
「一文字さん」
「―――あ、何だ。こっちもまだ起きてるのかよ」
半開きのドアの間から顔を覗かせて、一文字隼人はすいと片手に持ったトレイを持ち上げてみせた。
「サービスに来てやったぞ」
この街で開催されるレースにエントリーしている本郷の写真を撮る為に、一文字がやって来たのは
先週だという。もっとも本郷に頼まれた用事で一旦百キロ程先の街に出向いており、入れ違いになっ
た結城と顔を合わせたのは昨日の事だ。
 小ぶりのポットから、設計図の端を押さえて置かれたカップにコーヒーを注ぐ。湯気に目の覚め
るような香気が漂って、結城は思わず表情を緩めている。
「全くお前といい本郷といい、科学者ってのは子供よりたちが悪いな。もう寝ろって言ってるのに
何だかんだ理屈こねて、だらだら夜更かしする」
「……本郷さんも、まだ起きてるんですか?」
「もう寝た。って言うか、さっきベッドに蹴り込んだ。もうレースまで三日なんだぞ」
「ですが、この状況ですし」
突然にもたらされた、全く新しい形での改造人間の設計図。そしてそれは、おそらくは新たな敵組
織の台頭とも無縁ではない筈だ。一刻も早くその秘密を読み解けば、敵の目的も解るかもしれない。
これ以上被害者を出す訳には行かない。そう思うと、つい根を詰めがちになるのだ。
「ああもう、お前も本郷と同じような事を抜かすから頭にくるんだな」
「?」
「そんな状況もこんな状況も解ってるんだよ」
面倒そうに髪をかきあげると、一文字は自分用らしいマグカップに音をたててコーヒーを注いだ。
「俺はな、本郷のレースを撮りに来たんだ。人体工学だの何だのについては俺も正直素人みたいな
もんだし、早く真相を突き止めたいのも解る。だが」
立ち上る白い湯気を、目を細めて眺めた。
「レーサーのあいつに惚れ込んで、俺はここまで来たようなもんだからな。あいつが走らなくなっ
ちまったら、俺のカメラも二、三台は錆びついちまう」
この世界の平和を脅かすものがあれば、人知れず戦う宿命を負う―――そんな事は、言われるまで
もなく解っている。その覚悟を受け止めて、自分もあの日約束を交わしたのだ。
 だが仮面ライダーであろうとするのと同じ重みで、自分達はもうひとつの姿をもつ。レーサーで
あれカメラマンであれ、それもまた自分達にとっては本来の姿だ。決して蔑ろにされて良い訳では
ないのだと。
 おそらくはそんな事も説明しようとしたのだろうが、続けられた一文字の言葉はやや唐突に響い
た。
「……風見が走ってるの、見た事あるか?」
ちらりと見上げられ、結城は答えあぐねている。風見が本郷の後輩であると聞いてはいたが、それ
は大学の話だろうと―――つまりレーサーだったとは知らなかったのだ。
「あ、悪い」
そんな結城の表情を見てとったらしく、一文字は苦笑してコーヒーを啜った。
「風見も元々おやっさん門下のレーサーなんだ。結構良い走りをするぞ」
本郷ほどじゃないが、と念を押すのは忘れずに、不器用にウインクしてみせる。
「まあ、あんまり思いつめるなって事だ」
言いさして、ふと思い出したようにつけ加えた。
「俺も今回のレースを撮ったら、一度ニューヨークへ帰るよ。今回の件と関係あるかどうか解らな
いが、ちょっとひっかかる事があってな」
まなざしを上げた結城に、少し困ったように笑いかけると、一文字は一気にカップを空けると立ち
上がった。
「早く寝ろよ」
テーブルからポットを取ろうとして、ふとその目が広げられたままの古いノートに留まった。
「……何だか本郷が言ってたが、これか? そのマイケル・ガーディアンっていう先生が書いてた日
記だか手記だかってのは」
そうです、と結城は答えた。
 開かれたままになっているのは、手記の最後の部分だ。

 G機関が軍事目的の組織となって、七年程が過ぎていた。
 組織の変容に疑問を抱きながらも、マイケルがG機関にとどまり、χ計画の研究を続けていたのは、
ひとつには神博士への変わらない尊敬であり―――あるいは科学者としての業とでも呼ぶべき欲求だっ
たのかもしれない。マイケルはχ計画に於けるパワー制御システムの基幹部設計を担当していた。
 とは言えχ計画の実用化を巡って、マイケルは度々N博士と対立している。
 既に立案から二十年近くが経っている事もあり、アメリカ政府からも流石に何度となく利用でき
る範囲内でχ計画を実用化できないかとの打診があったらしい。実際それに応じて、N博士も何度
か実現プランの許可を出している。しかしχ計画の危険性を主張するマイケルはその度に実用化を
拒否しており、二人の断絶はもはや決定的なものとなっていた。また国際情勢の悪化から、二大国
の日本に対する思惑にも少しずつ―――だが確実な齟齬が生じ始めており、共同の研究機関である
G機関にも閉鎖が噂され始めていた。
 そしてついに「その日」は訪れたのだった。

「従兄弟の結婚式に出席する為の休暇が明け、私は一週間ぶりにG機関に出勤した。
 玄関を入ったところで行き会った同僚に、朝の挨拶をしようとした。しかしその時、信じられな
い事に彼は私にいきなり銃口を向けてきたのだ。
『何をするんだ』
『君がN博士に忠誠を誓うなら、こんな真似はしない』
もう十年以上も一緒に研究を続けてきた彼だ。最初は何かの冗談かと思った。
『一昨日付でG機関はアメリカ政府の支配を離れ、科学力による世界の統治を目指す超国家組織と
なったのだ』
しかし彼の顔は真剣そのものだった。
 私は言い返した。
『それは国家への裏切りではないのか』
『―――君にそう言われるとは心外だな』
低い声がして、同僚の後ろから姿を現したのは―――N博士だった。
『我々は大国のみの繁栄ではなく、この世界全体の平和の為に立ち上がろうと決意したのだよ。国
の軍事利用組織になるのは嫌だ。そう言い張ってχ計画を渡さなかった君の言葉とも思われない』
『χ計画は未だ不完全なシステムだから反対したのです。それとこれとは別問題だ』
私の言葉に、N博士は表情を硬くした。
『では、どうしても私についてくる気はないと言うのかね』
『残念ながら』
『君がここを去ろうとするなら、それは自由だ。ただG機関に関して口外されたりしては、政府に
とってもまずい事になるからな。そこは義理がある』
『そんな事は解っています』
『いや、それはどうかな』
N博士は意味ありげな笑みを浮かべた。
『君は何かとG機関には批判的だが、Jは妙に君とは親しい。君の勝手な主観を吹き込まれたりし
ては、今後Jの正しい判断が妨げられないとも限らない。だから悪いが、君の身体にはちょっとし
た細工をさせて貰った』
そしてN博士は恐るべき事実を私に告げたのだった。
 その現実を、私はここに記す事ができない。
 まさか自分の命が、N博士の手に握られていようとは。
 N博士は私がどこに居ても、その所在を知る事ができるのだと言った。そして私が迂闊にJ博士
の元へ行ったり連絡を取ろうとすれば、N博士はそれを許さない。その時は私のみならず、J博士
までも死を覚悟しなくてはならないのだと。
『何、君がこの先Jに会わなければ気にする事はない。どこへでも、好きなところへ行くといい』
しかしその声は、ほとんど私の耳には入っていなかった。
 研究所を逃げるように走り出て、そこからどう家へ戻ったのかも覚えていない。
 ただ私の心を占めていたのは恐怖だった。
 人間を人間とも思わないN博士に対する恐怖だった。」


 G機関を逃れたマイケルはアメリカ各地の研究所を転々とした後、N博士の影から逃れるように、
あの翳りのない南国の研究所にやってくる事になる。少なくともN博士は約束を守り、数年間は表
向きには平穏な日々だったらしい。
 しかし一年程前から、再びG機関の影がマイケルを脅かす事になる。研究の傍ら、ひそかにマイ
ケルが続けていたχ計画のある部品の設計が完成したのを、G機関に察知されていたのだ。引き渡
すように、との勧告を無視し続ける内、やがて自宅を何者かに荒らされるという事件が起こったの
は半年前の事だった。警察は単なる泥棒として捜査したものの、結局犯人も判らないままだったが
―――マイケルだけがその正体を知っていた。
 手記はマイケルの決意で終わっている。

「私は急いで行動を起こす必要がある。
 G機関が実力行使に出てくる前に、N博士が私の命を絶とうと本気で考える前に、J博士に会わ
なくてはならない。
 会って、M回路の設計図を渡すのだ。」




     七

 闇の中で、彼は静かに考えている。
 既に肉体の感覚は薄れて久しかった。彼は今、一個の―――そして最高の生体部品となって、彼自
身が設計した巨大な「闇の王」の内に在る。
 それでも何ひとつ不自由はない。「闇の王」はそれ自体が人工知能をもつばかりでなく、その論理
中枢とも言うべき彼の意志が上位自我として存在する。彼の声は文字通り《神の声》となって、手足
となって働く部下に伝えられるのだ。
 計画は順調に進んでいるとは言い兼ねるところはあるにせよ、神話怪人計画に代わって「闇の王」
を補佐する新たな改造人間プラン・悪人軍団計画も既に動き出していた。一方でそんな彼の思惑を邪
魔しようとするのは、あまりにも小さな存在だった。
(神の息子か……)
その青年の身に起きた事を正確に理解しているのは、おそらくこの世で自分だけだろうと彼は考えて
いる。χ計画を神博士と共に造り上げた自分以外に、施された改造手術の設計を真に理解できる人間
が居る筈がない。
 深海用改造人間・カイゾーグの研究は二十余年前、神博士の突然の帰国によって彼の手に委ねられ
る事になった。結局表の世界では実用化に至らなかったが、それもその弱点の解消は部下に任せ、彼
自身は本気で解決するつもりもなかった為だったとも言えた。
(あの時点での唯一のカイゾーグの弱点……出力回路の過負荷をコントロールするには、更に恒久的に
エネルギーを供給してやる必要がある。でなければ自分でも気づかぬ内に生命力を削り、やがては死
に至るからだ)
だがそれが何だと言うのか。
 いわばその命と引き換えに超人的なパワーを生み出す改造システムを、彼は息子のように育てた青
年に埋め込む事にも何の痛痒も感じなかった。
 だが頑固なのと同じ位、ひそかに優しい旧友の性格を、彼は自分の事のように知っている。
 だから神博士はχ計画を完成させた筈なのだ。あの神博士が自分の研究を放り出す訳がない。何よ
りも、神話怪人ばかりかアポロガイストまでも倒したXライダーがまだ生きているのが、その証拠で
はないか。
 その瞬間ふと沸き上がったのは、人間ならば憎しみに似た感覚だったかもしれない。
 確実に命を縮めると分かっていて改造したとは言え、計画が予定通りに進んでいれば、GODは既
に日本を征服し―――そこに自分の代理である青年が支配者として君臨するだけの時間はあった筈だっ
た。
 自分が貴重な時間を使って教育し、GODの技術で改造した最高の改造人間。GOD秘密警察第一
室長アポロガイストが敗れたのは、単に十分な時間が無かったからだ。そう思いながらも、どこかに
割り切れない感覚がある。
《Xライダーを抹殺せよ》
再三の指令を受けた部下が一礼して去っていくのを、外の世界を映しているカメラに見送って彼は接
続を遮断する。
 音も光もない深い闇の内で、しばし遠い追想に耽った。
 思えばこうして身動きのできない身であっても部下の裏切りを心配しないで済むのも、あの晩の使
者のお蔭だろうか。
 それは十数年前の、ある嵐の晩だった。

 アメリカに渡って十八年、親友の研究を引き継いで十二年が過ぎていた。
 その春に所長に就任した彼は、周囲から見れば順調に業績を重ねているとも見えたろう。
 しかしその心には、常に満たされない鬱屈があった。
 敗戦は即ち科学力の差だったのだ、と心に刻んで敵国に渡ったのは復讐の為だ。既に長い年月が過
ぎているにもかかわらず、しかし真に彼が納得できるような成果は上げられないままだった。
 このまま自分はアメリカの為に働く科学者として一生を過ごすのか、とひそかに苛立っていた、そ
んな折である。
 その日の昼間から本格的に到来したハリケーンの影響で地域一帯の送電線が切れ、陽が落ちると街
は暗闇と暴風雨に閉ざされた。養っていた少年は早々にベッドへ追いやったが、翌日に報告を聞く予
定のレポートだけは今晩中に目を通しておいてやろう、と彼は日付が変わっても書斎に蝋燭を灯して
いたのだ。
《―――呪博士はこちらと聞いて》
激しい雨の中、門を叩いたのは頭からすっぽりとフードを被った黒衣の使者だった。
 元々人が訪ねてくる事などほとんどない家であり、数少ない来客も使用人に対応させるのが常だっ
た。しかし通いの使用人は昼前に帰してしまっていたので、やむなく彼自ら深夜の客を迎える事となっ
たのだ。
 十数年も通ってきているにもかかわらず未だに目を合わせようとはしない使用人や部下を始め、自
分の風貌に嫌悪感をあらわにされるのには慣れていたが、不十分な光の中でこの容貌は更に人間離れ
して見えた事だろう―――と自分ながら思い出す。しかし来訪者は動じる気配ひとつ見せず、恭しく
一礼した。
《夜分に突然の訪問を、どうか御許し下さい》
《君は何者だ》
それには答えず、すいと黒衣の内から差し出されたのは一冊のファイルだった。
《―――私の主人からの贈り物です》
 分厚いファイルには冒頭からびっしりと細かい化学式や構造式が書き込まれており、何を意味する
ものかすぐには解らなかった。しかし数ページをめくる内に、それが現在世界の最高水準と考えられ
ているよりも更に数段上を行く高度な科学技術を使ったものである事が見てとれて、彼は思わず息を
弾ませている。
《これは一体……こんな素晴しい技術が、まさか》
ページをめくる指ももどかしく、貪るように先を読み進める彼に、使者はかすかに笑ったようでもあっ
た。
《その価値を理解されるとは、流石は呪博士》
一礼するとそのままきびすを返して出て行こうとする黒衣の後ろ姿を、急いで彼は呼び止めている。
《待ってくれ。こんな素晴しい研究をしているのは、一体どこの科学者だ。君の主人というのは》
《それを聞いてどうします》
ちらりと振り返った黒いフードの中から、むき出しの白い歯が妙な光り方をした。笑ったのかもしれ
なかった。
《その技術は、貴方に差し上げるヒントです。私の主人が望んでいるのは、貴方がその技術を更に発
展させて》
ひときわ激しい雨が、荒く扉を叩いた。
 この豪雨の中、少なくとも門から玄関までは傘もなしに歩いてきた筈にもかかわらず、来訪者の黒
いフードには雨の一滴も落ちてはいないのに、彼はそこで初めて気づいた。
《貴方の本当の望みを果たす事》
おぼろな灯をかざしても、そのフードの中はやはり見えなかった。しかし僅かに伺えた輪郭は骸骨の
ように痩せており、その窪んだ眼窩の内から洞のように虚ろな目がこちらを見据えた―――かのよう
でもあった。
 重い扉が吹き込んでくる風雨を阻んで再び閉められるまで、彼はぼんやりとその場に立ち尽くして
いた。やがてふと我に返り、いつしかしっかりと抱きしめていたファイルの重みを確かめる。
 蝋燭を置いてその場に座り込み、改めてファイルを開いた。
 もう下らないレポートなど読んでいる場合ではなかった。
 そこに記されていたのは、当時彼を悩ませていたχ計画のパワー面での弱点を補う方法のひとつで
あったり、あるいは肉体を生体的に強化した人間を量産し―――しかも計画の失敗時に強制的に細胞
を分解し証拠を残さないような改造を施す方法であったりと、あらゆる人体改造に関する卓越した技
術の数々だったのだ。
(……これで)
読み進めながら、彼は知らず心に叫んでいた。
(私の本当の目的が果たせる)
自分に密かな反抗心を抱いている研究所の科学者達も、この技術を転用すれば完全に服従させられる
筈だ。ある種の薬物を食物に混ぜて投与すれば本人達も気づかない内にその肉体を細胞レベルから変
質させる事ができ、そこにナノマシンを組み合わせれば条件づけによって自壊させる作用を持たせる
事もできる。それはひそかに彼が温めていたシステムを実用化する為の、最後のヒントになった。
 すなわち真の意味でのGOD―――《闇の政府》の誕生の日である。

 全ては自分の手の内にあるのだ、と彼は考える。
 そう言えば最初に実験体にした、あのアメリカの科学者も死んだのだな、とちらりと思った。
 神博士と今も繋がりのある大佛博士と最近頻繁に連絡を取っている、という情報を得て念の為に追
跡をかけ、接触をはかってみたのだが、結局自分が直接に手を下すまでもなかった。隠していた最後
の設計図の在り処は突き止められなかったのだけが、失点と言えば言えるだろうか。いささか忌々し
く感じたものの、今となってはどうでも良い事だ。
 友人も、育てた青年も、彼自身の肉体も。
 何を失おうとも構わない。
 ただ彼は、彼自身の理想を実現するだけだった。



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