一
薄暗いな、と思った。
粗い布目に光をほのかに透かす厚手のカーテンが、窓を覆っている。その合わせ目から洩れる
針のような光が目を白く刺して、それで意識が覚めた。
窓の外はどうやら昼間らしい。しかし明かりもつけず、カーテンの閉め切られた部屋はぼんや
りと昏かった。おぼろな光が、漆喰塗りの天井の輪郭をかろうじて浮かび上がらせている。
見知らぬ部屋だった。
ここはどこで―――自分は何をしていたのだろう。
ぼんやりと自問したが、思考は動かない。
明日は先輩と会うのだった、とは覚えている。
レーシングチームの先輩達は最近随分忙しくしていて、なかなかチームで顔を合わせる事もな
かった。何度か事情を聞こうとしてもその度にはぐらかされてばかりだったが、そちらもどうや
ら一段落ついたらしい。これからはいよいよレースにも本腰を入れるつもりなのだと、つい先日
聞かされたばかりだ。まずは大学が春休みに入ったこの期間を利用した合宿でも、という話にな
り、打ち合わせを明日に控えている。
そこまでは思い出せた。
しかし直前の記憶は茫漠として、一体何が起きたのかすら思い出せない。
眠り過ぎた朝のように、頭の芯がけだるく痺れている。ゆっくり起き上がろうとしてみたが、
手も足も自分のものではないように変に重く強ばっている。諦めて力を抜くと、再び頭の重みを
受け止めた枕から、知らない石鹸の匂いがほのかに香った。
「……良かった、気がついたか」
その声にぼんやりと視線だけ巡らすと、いつの間にかベッドの傍に見知らぬ青年が立っていた。
年の頃は自分より幾つか年上、というところか。程よく短い髪がかかる額から頬骨へかけての
輪郭はすっきりと整っており、見下ろす黒い瞳にはどことなく知的な光を含んでいた。ワイシャ
ツにネクタイをしめ、その上から着込んでいる白衣が、肩にすっきりと馴染んでいる。
医者かな、とちらりと思った。
するとここは病院なのだろうか。それにしては内装がそれらしくない。むしろ個人宅の一室、
という感じだ。往診に来たのだろうか、と思いながら、やはり状況は掴めないままだった。
「何があったかは後できく。……いいから、無理をするな」
知らずまた上体を起こしかけていた自分を制しようと、白衣のポケットからすいと手が延べられ
た。
(?)
その手にはめられている手袋が、ふと目についた。
白い薄手のゴム手袋ではなく、室内には似つかわしくない黒い革の手袋だ。
自分の訝しげな視線を見てとってか、青年は少し表情を和らげた。そうすると驚く程人なつこ
げな表情になるのが、不十分な光の内でも見てとれた。
「骨にも内臓にも異常はないが、かなり強く頭を打っているんだ。頼むから、半日くらいはおと
なしく寝ていてくれ」
しかしその声の馴れ馴れしい響きが、ふと気に障った。確かに自分よりは年上なのだろうが、だ
からと言って無遠慮な物言いをされる覚えはない。
日頃は気にもしないような事が、状況が掴めないせいか妙に引っ掛かるようだった。
「……貴方は?」
問いかけた声が自分でも変に低く聞こえて、眉を寄せる。
しかし何故か相手も、明らかに虚を突かれた風だった。まじまじと見つめ、改めて確かめるよ
うに低い声で呼び掛ける。
「風見」
「貴方が、俺をここに? ここは一体どこなんですか、俺は」
やはり声がおかしい。言いかけながらもどかしく咳払いする。
そもそも自分はどうしてここに居るのか。身体に異常はないというなら、手足がこんなにも重
いのは何故なのか。友人のように親しげに話し掛けてくるこの男は誰なのか。焦燥感に似た不安
が、にわかに頭をもたげてくる。
「―――風見」
また自分の名を呼んだその声は、どこか上ずって響いた。たまらず起き上がろうとする自分の肩
口を押さえようとしたのか手がつと伸ばされ―――しかし肩先に触れる直前で、不意に弾かれる
ように止まっている。
手袋をはめた手をきまり悪げに後ろに引き、青年はしばらくこちらを見下ろしていた。
自分ばかりではなく、どうやらこの青年も何かにとまどっているらしい。黒い瞳に、はっきり
と困惑の色が浮かんでいた。しかし動揺をどうにか押し殺したらしく、やがて話し掛けてきた声
は穏やかだった。
「……とにかく、もう少し眠ったほうがいい。話はそれからだ」
自分にも言い聞かせるように呟くと、青年はそれからふと声の調子を上げた。
「そうだ、何か欲しいものはあるか?」
あからさまに空元気を装ったその声に、不意におかしくなった。
誰だかは知らないが、少なくとも悪い人間ではない。
何故かそう思った。何にしても、今の自分が身動きがとれないのは確かなのだ。ひそかにまた
身体を動かそうとして諦める。どうやらすぐに起きたり歩き回ったりするのは難しそうだった。
「……それじゃ」
誰だか知らないがどうやらこの青年に頼むしかないか、とぼんやりと考えた。
「明日、家に先輩が来る事になってるんで」
「先輩?」
「本郷さんと一文字さん。……そう言えば判りますから。家に伝えて貰えますか」
訪ねてくるのは明日の午後、という事になっていたが、自分の帰宅が間に合うかどうか解らない。
まだ自分がどうしてここに居るのかは思い出せなかったが、この青年は少なくとも自分よりは状
況を知っている筈だ。家族に伝言を頼むくらいは構わないだろう、とものうい頭で考えを巡らす。
しかし青年が、明らかにまた自分の言葉に動揺しているのが見てとれた。言葉を返そうとして
なかなか出てこないらしく、言いかけては唇を引き結んでいる。言葉を探して宙をさまよう黒い
瞳に、どんな思惑があるのかは知らないが真面目なんだな、と思った。
「……電話番号を、教えて貰っていいかな」
そして随分考えたらしい挙句の言葉に、ふと苦笑する。
確かに学生証にも免許証にも電話番号は書いていなかった筈だ。それにしても、もし自分を騙
すつもりなら「一応」とか「念の為」とかつければもっともらしかったろうに。どうも悪だくみ
には向いていない人間のようだ。
そう思うと、一気に警戒する気も失せた。
自宅の電話番号を告げると、青年は繰り返しもせずに、分かった、とだけ呟いた。随分記憶力
がいいんだな、などとちらりと思ったようでもあったが、そのまま意識はほの暗い闇に心地よく
溶けた。
ぼんやりと目を開けると、いつの間にか開けられていたカーテンから射す陽光が部屋を満たし
ていた。向かいには林でもあるのか、窓の向こうには遠く鮮やかな緑が眩しい。その上に広がる
くっきりとした青空に、おかしいな、と訝しむ。
今は二月の筈なのに、まるで夏のような空だった。
まだ身体は重かったが、さっきよりは少し頭もはっきりしてきたようだ。どこも痛まない。大
した怪我をした訳ではなさそうだな、と今更のように考えながら、ふと耳をそばだてた。ドアの
外で、誰かが声をひそめて何やら話し合っているのが聞こえたような気がしたのだ。
何者だろう、と思いながら、見知らぬ室内に改めて視線を巡らせた。
やはり病院ではないらしい。明るい光の中で眺めると天井の漆喰は淡いワイン色を帯び、反対
の壁際にはマホガニー色のライティングデスクが置かれている。外の景色といい、もしかすると
ここは軽井沢か蓼品あたりの避暑地かもしれないな、とぼんやりと思った。高校生の頃、級友に
招待された事のある別荘に雰囲気が似ている。それにしても都内のホテルにもないような、随分
と洒落た造りだ。
まるで外国のようだな、と思いかけ、ふと苦笑した。
先輩達ならいざ知らず、まだ学生の自分は外国など行った事もない。我ながら突飛な事を考え
たものだ、と思っていると、壁の向こうから覚えのある声が聞こえた。
「―――すみません。お願いします」
さっきの青年の声だった。壁を隔てているにもかかわらず、変にはっきりと聞き取れる。ちゃん
とした建物に見えるが随分安普請なんだな、となおも耳をすましていると、ドアをノックする音
がした。
「……どうぞ」
喉をくぐった声はまだ自分のものではないようだったが、さっきよりは少し力を取り戻したよう
にも思えた。ややあって、ドアが開いた。
「本郷さん……!」
緩やかにウェーブを描く髪が、陽光を眩しく跳ね返す。微笑するようにやや細められた目には、
穏やかな光があった。たとえ何があろうと心配する事はないのだ―――と無条件で信じられる、
静かだが力のこもったまなざしだ。
「ああ、起きなくていい」
落ち着いた声で制すると、本郷猛はゆっくりと近づいてきた。
「どうやら大した事はなさそうだな」
すいと伸ばされた手が、額に触れかかる。その確かな感触に、安心感が込み上げる。
「すみません、折角の合宿のプランが」
そう口にすると、何故か本郷のまなざしはかすかに揺らいだようにも見えた。しかしそれはほん
の一瞬で、すぐにその目は柔らかく細められ、低く優しい声はいつものように答えた。
「気にするな」
夢ではない。
相変わらずここがどこなのかも、何が起きたのかも思い出せなかったが、少なくともそれだけ
は確かだった。だとすれば、今はそれで十分だ。
額の熱を吸う肉厚の掌はひいやりとして、知らず目が閉じた。本郷が微笑したのが、気配で分
かった。
「とにかく、安心した」
額からこめかみまで軽く押し当てた手が、そっと離された。
「一文字も、もうすぐ着く。話はそれからでも、ゆっくりとしよう……」
「……そうですか」
ならばあの青年は、正しく伝言してくれたのだ―――と、ぼんやりと思った。どんな経緯があっ
たのかは分からないが、少なくともそれで先輩達がここまで来てくれたのは確かだ。だとすれば、
やはり悪人ではないらしい。
何が起きたのかは未だに分からなかったが、自分の傷が治れば何も問題はない。少し予定より
は遅れてしまうかもしれないが、レーシングチームの相談をしよう。世界を目指せるだけのメン
バーを揃えている、と言われながら何故かレースに本腰を入れてこなかった立花レーシングチー
ムは、ようやくその実力を発揮するのだ。
何も心配する事はない。
そう思った。
二
無言で渡されたコーヒーのカップに、結城は慌てて腰を浮かせた。
「すみません」
僅かに眉を上げてそれに答えると、本郷は自分のカップに唇をつけた。しかし立ち上る香気にか
すかに目を細め、しばらく何かを考えているようだった。
「……おそらく」
言いかけて、言葉を探す。まだ熱いコーヒーを啜り、味わうように言葉を吟味する。明るい陽射
しが、ジャケットの肩に照り返していた。
「君の推測通りだ」
そうですか、と結城は答えている。
我ながら奇妙な程冷静だった。
本郷の到着を待つ間、考える時間は沢山あった。少なくとも何が起きているのかさえ把握でき
れば、無意味に騒ぎたてたりする事もない。
「面倒な事になったな」
ややあって、本郷は呟いた。
「……では、風見は」
「君の言う通り、俺や一文字の事は覚えているようだ」
自分自身に言い聞かせるように眉を寄せ、本郷は向かいのソファに腰を下ろした。
「だが判ったのはそこまでだ。突っ込んだ話は、もう少し落ち着くまで待った方がいいだろう」
頷きながら、結城はふと耳をそばだてた。
ああ、と本郷が微笑する。
「来ているな」
言い終らない内に、遠くベルが鳴った。結城が立っていく。
「よう」
片手を上げて挨拶しかけ、しかし次の瞬間一文字隼人は軽くたたらを踏んだ。
「やれやれ」
閉じかかる扉に、肩がけの大荷物を挟まれたのだ。
「明後日で大丈夫かと思って、呑気に構えてたらこれだぜ」
扉を軽く蹴って開け、荷物を無造作に引っ張り込むと、一文字は結城と―――そして本郷へ視線を
巡らせた。
「で?電話の話は本当なんだろうな。風見が」
言いかけたものの、その先は口籠った。
言葉の続きは、本郷が引き取っている。
「事故の詳しい話は、俺もこれから聞くところだ。とにかく荷物くらいは置け」
窓から入ってくるのは、乾いて涼しい風だ。故国ならば今頃は風さえもじっとりと暑いのだ
ろうが、北海道よりも北にある小国の八月は真夏とは思えない程しのぎやすい。
この国にやってきたのは、そもそもは来週開催されるレースに風見が出場する為だった。ま
だ歴史も浅いオフロードレースであり、コースのデータや様々な資料も思うようには手に入ら
ない、と言う事もあって、風見はいつもより早く現地入りしている。
「……で、ついでにそこで何かを嗅ぎつけた、って訳だ」
一文字はサーバーからもう三杯目になるコーヒーを注いだ。
「そうです」
とはいえそれ以上の説明ができない自分を、結城はもどかしく思う。
チームスタッフとして結城がこの国に入ったのは先週の事だ。
首都からバイクでも二時間近くかかる小さな町には、レースに出場する選手や観光客相手の
ホテルや貸しコテージが昨年辺からぽつりぽつりと建てられ、シーズンともなればささやかな
賑わいを見せ始めている。
風見の借りたコテージは、そんな町外れの丘陵地にあった。いつものようにスタッフとして
参加する為にやってきたものの、スーツケースを荷台にくくりつけて走ってきた道は起伏が激
しく、到着した時には結城まですっかりレースを完走したような気分だった。
(……遅かったな)
したたるような緑が濃い影を落とすウッドデッキに、風見は頬杖をついていた。
予定より早い呼出しに慌てて仕事を調整し、大荷物と一緒に国境を幾つも越えてきた友人を
出迎えるには随分な言い種ではないか、と思わなかったと言えば嘘になる。相変わらず他人の
事情にはあまり頓着しない物言いだったが、しかし風見にも気の急く理由があったのだ。
それも仮面ライダーの宿命と呼ぶべきだろうか。
コースの下調べをしている中、風見はある異変を掴んでいた。そしてここ数年追っていた組
織がその裏にあるところまでは突き止めたらしい。ただそれが何なのか、結城もまだ詳しい話
を聞いてはいなかった。
(おそらく)
言いかけて、ふと言い淀んだ。
(まあ、もう少しはっきりしてからでいいか)
(風見)
(折角のレースだ。専念させてくれ)
風見がそう言うのなら、と思った。レースの準備だけでも忙しく、結城にもそれ以上あえて問
いつめるだけの余裕もなかった、という事もある。
そしてレースを五日後に控えたあの朝、風見は思い出したように言い出したのだ。
(そろそろ本郷さん達にも連絡をとっておくか)
(そうだな)
それがレースの為だけではないのは、お互いに判っていた。
言葉にしないからといって、避けて通れる話ではない。自分が到着してから数日、朝から夕
方まで出かけている風見が何かを調べているのは、何も言われなくても承知している。
(それにしても、僕には何がなんだかさっぱりだ。もう教えてくれてもいいんじゃないか)
(そうなんだが)
その時、風見が珍しく、かすかにはにかんだような表情になったのを覚えている。何か言いか
け、しかし眉を寄せて軽く肩をすくめた。
(……本郷さん達が着いたら、まとめて説明する)
無造作に言い捨ててヘルメットを取り、居間の窓を無造作に乗り越えていく。
(あ、ちゃんとドアから出ろって何度言ったら)
(いちいち細かいな)
見慣れたレーシングスーツの背中に、眩しい陽射しが照り返した。
(それじゃ、行ってくるか)
風見がこのコテージを選んだのは、その地理的な好条件の為でもあった。コテージの前の小道
は起伏に富んだオフロードになっており、そこから十分も走れば本番のコースへ乗り入れられ
るようになっている。
(一周したら戻る)
そう言いおいて出ていった風見は、しかし昼過ぎになっても戻ってこなかった。
幾ら何でも遅すぎる、と普段はあまり使う事のない感覚を研ぎすましてみても、触れてくる
気配はなかった。急いで自分のマシンで探しに出た結城はコースの中盤、急カーブの続く崖の
下に横転したマシンとその傍に倒れた風見を発見したのだった。
「本当に事故なのか、それは」
ふいと一文字が目を上げて、結城は一瞬言葉に詰まる。
それはこの二日間、結城が自問し続けてきた言葉でもあった。
風見が何かを掴んだのは、おそらくこのレースの準備中だ。だとすれば、練習に使っていた
コースにその鍵があると考えるのも、かなり可能性は高い。
レース間近とあっていつにない賑わいを見せているものの、シーズンオフには地元の人間も
殆ど通らない鄙びた土地だ。だが距離的にはこの小国の首都から遠からぬ位置にあり、例えば
悪の組織が何かを目論むには絶好の地理条件であるとも言えた。それは確かだ―――しかし。
「……それは何とも」
だが結城が駆けつけた時には、その場には何もなかったのと同じだった。山道の乾いた砂の上
には何種類ものタイヤの跡が入り乱れていたが、当日コースで練習していたのも自分達だけで
はない。
「それを知っているのも、風見だけか」
やれやれ、と一文字は頭を掻いた。
「で、どんな具合なんだ。風見の記憶喪失は」
「記憶喪失、というのは正しくないな」
本郷は慎重に言い換えた。
「記憶障害だ」
「どう違うんだよ」
「風見は全ての記憶を失っている訳では無い。自分が誰なのかも判っているし、俺の事もお前
の事も知っている……ただ、結城くんの顔は覚えていない。おそらくここ数年分の記憶だけが
丸ごと抜け落ちている状態だ」
一文字は手を止めた。しばらく考え込むように指先でこめかみに触れ、やがて視線だけでちら
りと本郷を仰ぐ。
「……自分がV3だ、という事はどうなんだ」
「それは」
彼らしくもなく、本郷は言葉に一瞬詰まっている。
「多分、覚えていないと思います」
答えたのは結城だった。
はっきりと言葉で確かめた訳ではなかったが。
だが壁一枚を隔てただけの近さにも関わらず、今の自分には風見の気配が感知できない。そ
れは風見と自分を繋ぐ絆が、完全に切れている事を意味していた。
一文字は僅かに眉を寄せ、表情を読み取ろうとするように結城の顔を見つめていたが、やが
て無言のまま本郷へ視線を向けた。
「俺も同じ意見だ」
今度はきっぱりと、本郷は答えている。
「まだ詳しい話が出来る状態ではないが」
自分を見上げてくるまなざしの翳りの無さを思い返していた。
あれはもう何年も前の―――まだ風見がこの世界に何の疑いも抱いていない頃のものだ。
そしてこんな状況にもかかわらず、ふと懐かしさに胸を突かれた自分自身も本郷ははっきり
と思い出している。既に失われてしまった、あの頃の風見のまなざしは―――ショッカーが滅
びればこの世界は平和になると、自分達もまだ信じていた頃の記憶と繋がっている。
「俺を見て、合宿のプランが、と言った」
「合宿?」
「覚えていないか。大学も休みに入ったから風見も身体が空く。ちょうど良いから立花レーシ
ングクラブで合宿でもやろう、と俺が言い出した事があったろう」
「そんな昔の話をいきなり持ち出されてもな……」
何年前の話だよ、と指先でとんとんと記憶を呼び出すように軽くこめかみを叩きながら一文字
はしばらく考えていたが、ああ、と顔を上げた。
「滝がアメリカに戻ってすぐの話だな」
本郷が頷く。
「ショッカーが壊滅した、その直後か」
言いさして、一文字はそこでふと口をつぐんだ。
それは。
言葉にしなかったその先を、本郷は静かに継いだ。
「明日、俺達が家に行く事になっている。そう風見は言ったそうだ。覚えているだろう」
その「明日」に何が起こるのか。
木々を渡る風の音が聞こえる程、静かな昼下がりだった。
「……それじゃあ」
枕を抜いた代わりに幾つか入れたクッションで上体を支え、ベッドに半ば身体を起こした風見
の顔色は、まだ少し青ざめて見えた。
もっともそれは、たった今聞かされた話のせいかもしれない。
ベッドの上に広げられたこの国の新聞の、日付けの上に置かれた指はかすかに強ばっている。
疑う余地のない証拠を目の当たりにしても、まだ信じられないだろうとは本郷達にも解ってい
た。
「俺は、本当に」
ある日目覚めたら、もう十年近くの年月が経っていたなどと言われて―――それを理解しろ、と
いうのが無茶なのだ。そう思いながら、ああ、と本郷は頷いている。
「お前はそのレースに出る為に、この国に来ていたんだ」
それでも取り乱しもしないのは、予想通りだったとも言えたが。
どうやら風見自身も薄々どこかがおかしい、とは勘づき始めていたらしい。
彼自身の認識している「今」から見れば、現実は何年も先の未来にあたる事。現在はレーサ
ーとして活躍しており、その調整中に起きた事故が今回のアクシデントを引き起こしたのだ、
と。自分ならこんな話はとても納得するまい、と話しながら本郷はひそかに思ったものだ。
しかし風見は驚く程あっさりと納得したのだ。
(何だか夢みたいですよ)
少なくとも昨日まではただの学生で、レーサーと言っても卵だった自分が、目が覚めてみたら
外国のレースに出られるようなレーサーになっていたなんて話がうますぎるじゃないですか、
と、とまどいながらも笑った。そう言えば元々そういう男でもあったな、と本郷は今更のよう
に思う。
どんな信じられないような状況にあっても、決して自分を見失わない。身を裂かれるような
悲嘆に打ちのめされても、その底から自力で必ず立ち上がってくる。そんな後輩だったからこ
そ、自分達はあの土壇場で決断を下したのだ―――と遠く思い出していた。
今の風見からは失われている、あの運命の一日に。
しかし見上げてくる風見のまなざしには、まさに明日自分の運命が大きく変えられてしまう
などとは知る由もない明るい光が浮かんでいる。
また心が痛んだが、本郷はどうにか笑顔を作った。
「まだ調整する時間は十分ある。とにかく、今日明日はゆっくり休む事だな。異状はないと言っ
ても頭の怪我だ。甘く見ない方がいい」
「嫌だな、大袈裟すぎますよ」
困ったように笑った。
そしてそんな風見を、結城はどこか初めて会う人間のように遠く眺めている自分に気づく。
顔も声も変わらないのに、別人のように見えるのは何故だろう。
(……笑顔か)
自分の知っている風見も、確かに良く笑った。だがそれは、今見ているような屈託のない笑顔
ではなかった、と思う。
いきなり置かれた状況にとまどいながらも、この笑顔には何一つ疑わない力がある。深い哀
しみも絶望も未だ知らない、強い―――しかし逆に言えばそれだけのまなざしだ。生身の人間
ではなくなった宿命を背負い、その人間離れした力ですら届かない哀しみを重ね、幾多の地獄
を映した瞳で自分と出会う前の。
「その元気なら、明後日あたりにはトレーニングも再開できそうだな」
頷いて、本郷はつと机に置かれたカレンダーを見やった。
「実は俺達がこっちへ来るのはもう少し後の予定だったんだ。俺と隼人は、ちょっとまた別件
で留守にするが、明日中には戻るから」
え、と風見の唇が動いたのが見てとれた。
見も知らない人間とまた二人にされるのか、と本人を目の前にして言葉にしないだけの気兼
ねはあったらしい。だがそんな親から引き離された子供のような顔をしなくてもいいだろう、
とちらりと結城は思う。
「後の事は、結城くんに頼んでいく」
振り返った本郷の視線につられるように、風見の目がこちらへ向けられた。その瞬間、結城は
自分でも驚く程たじろいでいる。
理由は解っていた。
立花レーシングクラブの先輩と後輩。今ここにある絆は、彼等だけのものだ。いや、それば
かりではなくここでは、自分の方が異分子だった。
「―――それでいいな、結城くん」
仮面ライダーという名の宿命は、最初はショッカーと呼ばれた悪魔の組織の野望に始まってい
る。単身その野望に立ち向かう彼等は、組織に自らの生身も輝かしい未来も奪われながら――
―その絶望の中から立ち上がったのだ。
だが自分は違う。
知らなかった事とは言え―――自分はその悪の組織を信じ、その組織の為にこの頭脳を捧げ
ていた。真実を知った今も、その過去が消える事はない。
そんな自分がここに居られるのは、風見が居たからだった。デストロンの一員だった自分に
仮面ライダーの名を贈ってくれた風見が居たからこそ、自分はここに居る事を許されていたの
かもしれない。
「はい」
それでも、と思う。
窓から射す昼下がりの光が、仮面ライダー達を照らしていた。その光が等しく照り映える白
衣の重みを、結城は静かにその肩に受け止めている。
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