六
眩しさにぼんやりと目が開いた。見慣れた天井と窓からの風景は、昨晩の雨が嘘のように穏や
かに晴れわたっている。
いっそ何もかもが嘘だったらどれだけいいか、とちらりと思った。
何もかもが信じられない話ばかりだ。今の自分がレーサーだ、というだけでも突拍子もない話
だったのだ。その上にまさか家族が―――ましてや世界征服を目論んでいた悪の組織、などとい
う話は、このくっきりと明るい光の中ではおよそ現実味がなかった。
もしかすると夢なのかもしれない、とふと思った。
自分は長い長い夢を見ているのかもしれない。その方がむしろ納得が行く気すらした。もしも
そんな途方も無い組織が実在するとするなら、とうにこの世界は優れた科学力をもつ彼等に支配
されている筈ではないのか。どうも辻褄が合わない。またはぐらかされるかもしれないが、今の
内に少しでも詳しい話を聞いておこう、と視線を巡らせたが、壁際の机にいつしか見慣れ始めて
いた後ろ姿はなかった。
(……?)
ベッドから下り、裸足のままカーペットを踏む。机の上には、一枚のメモがのっていた。
《急用で出かける事になった。十時前には戻る。
詳しい事情は帰ってから説明する。
この部屋からは出ないでくれ》
初めて見る字だったが、誰が書いたのかは察しがついた。
十時前と言っても、今日の午後からは肝心のレースではないか。どうも一人で突っ走るな、と
肩をすくめかけて、ふと眉を寄せる。
いつの間にかまるで数年来の知己のようではないか。そう思った途端、不意に鈍い痛みが頭に
走って膝から力が抜けた。
(……っ)
伸ばした指に、包帯の感触がざらつく。大した事はない、と自分に言い聞かせながら、どうにか
身体を支えた。意識して呼吸を整え、目を閉じて無意識に強ばるこめかみの緊張をほぐす。まだ
頭の芯にじんと痺れるような感覚を残しながら、痛みは少しずつ遠のいていった。
ふと見やると、辺には昨晩自分が叩きつけた新聞の切れ端が何枚か散らばっていた。自分の力
任せの怒りに頬を打たれながら、まだ不器用に言葉を継ごうとしていたまなざしを思い出す。
(……その頃、僕は)
その言葉を思い返しながらも、不思議ともう怒りは涌いてこなかった。何故だろう、と自問しな
がら新聞を拾い畳んでいると、ふとソファの背に置かれた雑誌が目にとまった。大学の研究室に
数年分のバックナンバーが揃っていた事もあり、タイトルは良く知ったものだったが、見覚えの
ある表紙とは随分雰囲気が変わっている。
確かに今は自分の記憶の数年先の世界なのだ―――と今更のように思いながら手にとってみた。
何度か読み返したものらしく、何気なく持ち上げただけで開き癖のついたページが開いた。
外国のとある研究所の研究員の肩書が添えられた論文の作者名は、数日前なら聞いた事もない
名前だ―――と思ったろう。数ページにわたる論文には、そしてあちこちにアンダーラインが引か
れていた。行間に細かく書き込まれた癖のある字体は、目の前にあるメモの筆跡とは明らかに別
人のものだ。
《起動時の磁力線の干渉は無視できる範囲か》
《この素子はI型かG型か》
その意味すら今の自分には解らない走り書きだったが、その字が自分のものらしいとは解った。
論文の作者が来るのを待って、折をみて尋ねるつもりで不明点を覚え書きしておいたのだろう。
そんな思惑が、何故かすんなりと思い浮かんだ。
自分は、きっと信頼していたのだ―――と思う。
事実を知り、その上で、家族を殺した組織の一員だったというあの青年を友人として認めるに
至ったのだと。その経緯はまだ思い出せないながらも、それに疑いはなかった。僅か数日しか一
緒に過ごしてはいなかったが、奇妙な確信があった。
その過去はどうあれ、信じて決して裏切られる事のない、そんな人間だ。
そう思う事に、間違いはない筈だと。
そんな事を考えながら廊下を小走りにやってくる足音に、ふと耳をそばだてた。
「―――風見」
ドアを開けるなり自分の姿を確かめ、結城の頬にほっとした表情が浮かぶ。
「良かった、居たな」
言いながら後ろ手にドアを閉めた結城は、まだ緊張している風だった。昨晩の事をまだ気にして
でもいるのか、と口まで出かかって、しかし言葉は止まっている。
いつになく慎重に、窓の外を確かめて振り返った結城の表情には、今まで自分に見せた事のな
い色があった。
「風見」
言いかけて、それでも僅かに言い淀んだ。
ここまで来て何を迷う事がある、と言いたげな目を―――おそらく自分はしていたのだろう。
やがて思い切ったように、結城の目がまっすぐに上げられた。
「君は……このレースに参加するレーサーであると同時に、ある事件を追っていた」
そのまなざしに、不意に意識が引き戻されるような感覚が襲ってきたのはその時だった。
「時間がないから、手短に説明する。デストロンの流れをくむある組織がこの国で秘密の研究を
行っていたのを君は今回のコースの調査中に知り、その正体を突き止めようとしていた」
一体何の話だ、と聞き返しかけて言葉は喉で止まっている。
(……それは)
自分も知っていた事なのだ―――と風見は思う。何かが呼び覚まされかけている。遠い記憶が脳の
奥から急激に引きずり出される感覚に、軽い吐き気がこみあげる。
「どうした、風見?」
結城の声に、自分がまたいつの間にか頭を押さえていたのに気づいた。
「痛むのか」
身体を支えようと伸ばされた手を、しかし風見は僅かに避けている。
「大丈夫だ」
どうにか笑みをつくった。
「……すぐおさまる」
そう答えたものの、頭の片側が疼くような感覚はなかなか消えなかった。ぐらりと視界が揺ら
ぎかけるのを止めたのは、そっと肩を押さえた結城の手だった。
「だが」
黒い手袋を嵌めた手に静かに支えられるままに、ゆっくりとベッドに腰を下ろす。柔らかなス
プリングの感触に、少しずつ落ち着いてくる。
「すまない」
意識はしっかりしていると見定めたらしく肩を支えていた手は離れたが、まだそのまなざしが
自分を見つめているのは気配で解った。
何を謝る事がある、と言いたかったが、まだ言葉にはならなかった。
(……どうして)
問いかけながら、その答は知っているのだと思う。
自分の内から、何かが甦り始めている。家族が既に死んでいる―――と知った時から掛け金が
外れたように呼び覚まされ始めているのは、おそらく失われた記憶なのだろう。そしてその果て
に、真実があるのだ。
自分が本当に思い出さなければならない事が。
そんな気がした。
「無理はしないでくれ」
また結城の手が肩に触れるのを感じた。見上げてはみなかったが、きっと右手なのだろう、と思っ
た。しんと重い手だった。
「具合が悪いなら、やはり今日のレースは」
その重みの意味も、確かに自分は知っていた。そう思いながら、どうにか言葉を絞り出す。
「……出るぞ」
え、と結城が聞き返した。
「今日のレースは、絶対に出てみせる」
呟いた自分の声を、どこか静かに聞く。ようやく焦点の合い始めたまなざしをのろのろと上げる
と、自分の肩をそっと押さえている手が見えた。
夏の明るい陽光が、手袋に覆われたその輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。手袋と袖口
の間から僅かに覗く硬質の手首を、ひどく懐かしいもののようにふと感じた。
それはきっと―――。
言葉にならないもどかしさに背を丸めながら、出るぞ、ともう一度呟いたようでもあった。
「風見」
ぐっと力が込められて、知らず視線が上がる。まだ僅かにとまどいをにじませながらも、真面目
な瞳がまっすぐに覗き込んでいた。
「……そうだな」
おそらくは笑いかけようとしたのだろうが、あまりうまくは行かなかったらしい。
「君は風見志郎だったな」
自分自身に言い聞かせるようにそう呟いて、結城は静かに手を放した。
「ならば僕はずっと、君を信じてきたんだ」
まだぎこちなくはあったが、今度はしっかりと笑った。
「行こう」
差し出された右手を握り返して、風見はゆっくりと立ち上がった。
七
空には雲ひとつない。
スタート地点の待機所は、喧噪と緊張に満たされていた。エンジン音と短い指示の声が飛び交
う中、風見はライダースーツのジッパーを首元まで引き上げる。初めて体験する空気だったが、
その緊張感は肌にしっくりと馴染んでいた。燃料の揮発する匂いが混ざってむっとする熱い空気
が革のスーツを粘つかせるのさえ、不快とは覚えない。おそらくこの身体は、ずっとこの空気に
親しんできたのだろう―――と思う。
「頭は痛まないか?」
チェックボードを手に、結城がやって来た。心なしかその表情が、自分よりも余程緊張している
ようにも見えて、かすかに笑っている自分に風見は気づいている。
大丈夫だ、と答えても、結城はまだ少し測るような目で見ていたが、やがて軽く頷いてみせる
と、つと手を伸ばした。左手でライダースーツの襟元を丁寧に整えながら低く囁く。
「本郷さんがゴール五キロ手前のカーブ近くで、一文字さんが二〇キロ地点の横の林で待機して
いる。何か異常があれば伝えてくれる事になっているが」
黒い瞳が、まっすぐに覗き込んだ。
「君のヘルメットの通信機からも発信できるようになっている。何か気づいたら、すぐに知らせ
てくれ」
解った、と答えて、風見はヘルメットの内側に指を入れてスイッチを入れた。
「……結局、肝心な事は教えて貰えずじまいか」
そう言うと、結城が困ったような顔になるのがゴーグル越しでも見えた。そんなつもりはなかっ
たのだがな、とちらりと思う。言えないのには、それなりの事情もあるのだろう。
家族が殺され、その元凶である世界征服を企む悪の組織などという話を聞かされたこの上に何
を言われたところで、驚くような事があるとも思えなかったが―――今更ここで問いつめても仕
方ない。かえってこの解りやすい《友人》をまた余計に動揺させるだけなのだ。
そう解っている自分を、ふと不思議に思う。
まあいいか、と独りごちて、グローブの留め金を確かめた。
どのみち聞いた話も、まだどこかで現実味がないのも確かだった。日本に帰れば、家族は何事
もなく暮らしていて―――今の自分を当たり前のように迎えてくれるのではないか、と思う自分
も居る。そもそも自分が今こうしてレースに臨んでいる事さえ、夏の光の中で絵空事のように思
えるなら。
聞いても聞かなくても同じようなものかもしれない。
話さなかったのは、それが意味をもたないからだ。
スタートラインへ向かう風見の背中を見送って、結城も他チームのスタッフと一緒にコースの
ライン外側まで下がった。
自分が仮面ライダーであるという意識が、今の風見にはない。そしてそれを伝えても無意味な
のも解っていた。家族の死を言葉以上には受け入れられてはいないように、それに連なる記憶は
どれだけ言葉を尽くしたところで実感は涌くまい。本人が思い出さない限り「聞いた話」でしか
ありえない。
本物の記憶にならなければ―――おそらく変身もできない。
(―――記憶か)
そしてその言葉が、今は別の影を落としている。
本郷が訪ねた学者から急な連絡が入ったのは、ようやく雨が上がりかけた早朝の事である。や
はり密かに組織への協力を迫られており、国外に逃れる事を決めた学者は、置土産代わりに本郷
に真相を打ち明けたのだった。
(奴らが必要としているのは、私の新理論だ)
まだ曇っていたが、空は明るかった。空港の待合室で待っていた初老の科学者は、時折近くを通
り過ぎる人影に神経を尖らせながら言葉少なにその理論を説明した。
(転用すれば、人工知能に人間の記憶をコピーする為の新しいシステムを確立できる)
君も来た方がいいだろう、と本郷に言われて同席する事になった結城は、そして科学者が広げた
資料を目にして打たれるように思い至っている。
(そういう事だったのか)
再生怪人を造り出す上で、最も大きな課題になるのは後天的な能力の問題だった。
保存されていた細胞を利用したクローニングによって再生された怪人や幹部が、思うような成
果をあげられないまま仮面ライダーに倒されてきたのは、能力というものが単に肉体的な問題だ
けではなかったからだ。自らの能力を効果的に使って戦略を展開するには、積み重ねてきた戦い
の記憶が不可欠だった。
記憶的には白紙も同然のままの怪人を何体も送りだしては倒され、やがて《敵》もそれに思い
当たったらしい。優秀な怪人や幹部の記憶を人工知能に保存し、クローニングした脳に電気的信
号としてコピーする事で復活させる手法は、デストロンの崩壊後に確立されている。ある程度オ
リジナルの記憶を備えた改造人間を復元できる《RB―2》と呼ばれるシステムでも、だが厳密
に言えばまだ不完全と言えた。
記憶をバックアップする為には被験者の意識を安静に保つ事が必要であり、またある程度の時
間も要する。すなわち彼等は自分が敗北した戦いの、最後の記憶だけは持ち得なかったのだ。
何故自分達が敗れたのかを理解する、いわば自らの最大の弱点の記憶を。
まさに死の直前の意識を保存する事ができれば、むざむざ同じ敗れ方はするまい。更に仮面ラ
イダーへの憎悪もこれ以上はないという状態での復元が可能となる筈だった。
自分が研究者の立場なら当然同じように考えたろう、と結城も思う。
(……何だか難しい話になってきたが、つまり)
こちらも昨日の夕方に、急な連絡を受けて向かった隣国で謎の戦闘員の一団から知己である科学
者を守ってきたばかりの一文字とは、帰路で一緒になっている。
(風見のあれはやはり、ただの事故じゃなかったと考えるべきなんだな)
面倒そうに指先で頬を掻いた。
(その辺はまだ推測に過ぎんが)
本郷は珍しく言葉を濁して、また結城を見やった。
(可能性としては高いだろう)
その言葉に、結城も頷いている。
正直なところ、もし事故でないとしたところで敵の思惑は解らないも同然なのに変わりはなかっ
た。改造人間の記憶を瞬時に保存する機械の標的として、自分達の存在に勘づいた風見を選んだ
のは、実験が成功するにせよ失敗するにせよ、敵にとっては一石二鳥だったからだろうと想像は
つく。
だが現状が敵にとっても予期しないアクシデントだったのか、それとも記憶の破壊もしくは上
書きという形での恐ろしい実験を成功させたものなのかは解らない。
あるいは実験ではなく、彼等にとって風見の記憶こそが必要なデータだったという可能性はな
いだろうか。
今朝の話を聞いて以来、ある一つの推測が結城の頭から離れない。
そのシステムのテストを実行するなら、人工知能への記憶のコピーだけでは不十分なのだ。取
得したデータを実際に移し変える為の肉体が必要になる筈だった。
そう考えていくと、やがてひとつの光景に行き着く。
それは二年前の東京で見た―――白日夢のような光景だ。
馬鹿な、と思いもする。
(確かにあの時、培養槽は破壊されていた……あの状態から、外へ出て生き延びられる筈がない)
記憶を反芻しかけて止めた。
確かなのは、いずれにせよ風見は何事もなかったように今日のレースに現れてみせなくてはな
らない―――という事だ。
秘密を知っている風見が無事な姿を見せれば、事情はどうあれ敵は必ず動き出す。
まだ後手にまわっている自分達がその尻尾を掴む機会も、逆に言えばこれをおいてなかった。
言葉は悪いが風見を囮にして敵を引きずり出し―――その機械を破壊するには、このレースが最大
にして唯一のチャンスなのだ。
(後は出たとこ勝負って事か)
その後なにか言いかけたようだったが屈託ない微笑に紛らせて、一文字は空を仰いだ。
(まあ、それじゃ一足先に会場に行ってるか)
あれこれ理屈をひねくり回しても仕方ない、と言外に含めて途中で別れたその背中を、結城はま
た思い出す。
先輩達にしてみればこの状況そのものが割り切らなくてはならない事なのだ、とは察していた。
何も知らない状態の風見を戦いに巻き込むのは、これが二回目になるのだ。
しかしそれでも、避けては通れないのだと。
先輩達はその覚悟を、ただ黙って胸に秘めている。その痛みは自分には解らない。
だがもしかすると自分にしか解らない事もあるのかもしれない、と、薄々結城は気づき始めて
いる。もっとも錯覚と言われればそうかもしれなかった。今の風見を自分の知っている「風見志
郎」に重ねようとするあまりに、さして意味のない変化を殊更に大きく捉えようとしているので
はないか、とも思う。
それでも確かに、自分は知っている。
風見の事故以来感じていた違和感は、日を追う毎に確実に薄れつつあった。それは自分が慣れ
た―――というばかりではなく。
「どうした?」
けげんそうに覗き込まれて、結城は我に返っている。
何でもない、と答えると、風見は軽く肩をすくめてみせた。見慣れたその仕草に、また訳もな
く確信する。
風見は自分自身の力で、記憶を取り戻しつつあるのだと。
「―――それじゃ、行ってこい」
すぐ後ろの選手の息遣いまで聞こえる程、スタートラインの空気は熱く張り詰めている。ハン
ドル越しに掌にエンジンの駆動音を聞きながら、風見はちらりと目を上げた。
まばゆい陽光を遮って、旗が振られる。
左右の選手の動きを待つまでもなく、自然に身体が動いていた。そのまま一斉に走り出すマシ
ンの流れにのって、風見のマシンも黄褐色の路面へ滑り出している。
(……そうか)
生乾きの砂を噛んで走り出すタイヤの震動も、ラインを確保しながら前に出ようとする左右の選
手を牽制する呼吸も、頭ではなく身体が覚えている。自分の感覚を信じればいい。
このまま行ける。
そう思った途端、諌めるようなまなざしがちらりと意識をかすめた。
(気をつけろよ)
スタート直前に念を押すように見つめられたのを、僅かに煩わしく思い出す。自分を心配してい
るのは分かるのだ。だがだからといって、あまり心配されるのも正直なところ鬱陶しかった。確
かに彼の知っている自分と比べれば、今の自分は素人同然に見えるのかもしれない。だが。
(ちょっと神経質だな)
声には出さずに呟いた瞬間、ふと胸の底で何かが響いた。
こんな明るい夏の光と熱風の中で、自分は同じようにあのまなざしを思い浮かべた事があった。
それもつい最近だ。
ドライビンググローブの白が、不意にひらめくように目を射す。
(……戻ったら説明してやらないとな)
そう胸に呟いた自分の声を、風見は遠く聞いている。
今と同じようにハンドルを握って、自分は確かにそう考えていたのだった。どう説明したもの
か、と思いあぐねながら、同時に一抹の照れとも気恥ずかしさともつかないほの苦さが去来して
いた。自分の言葉を疑うような友人ではない、と解ってはいても―――と、いささか憂い気味に
考えていたように思う。
(だが何を見たんだ―――俺は)
タイヤが巻き上げた砂塵が、茫漠と舞った。
スタート時の集団は分散し、前方には二、三台のマシンが見えているだけだ。背後からスピー
ドを上げてくる一台に気づき、風見は緩やかに加速して躱した。前を走っている背中のゼッケン
からすると、先頭集団のやや後方につけている、という辺だろうか。この先は高低差のある難路
にさしかかる。昨日ひととおりこのコースを走って大まかな感じは掴んだつもりだ。中盤まで今
のポジションをキープしていければ上出来だろう。
やがて道幅が緩やかに狭まりはじめ、それまで道の両脇に続いていた植込にも、次第に背の高
い木々が目立ち始めてきた。ここから左に山を見て、その麓を一周する丘陵地の起伏を活かした
コースへ続いていくのだ。
ひときわ緑の濃い木立の横を通り過ぎた時、その木々の間に誰かが立っているのがちらりと見
えた。
(一文字さんか)
流れる景色の中ではっきりとは見定められなかったが、木に半ばもたれかかるようにしてこちら
を伺っている一文字が、ちらりと目配せしてきたようでもあった。
何だろう、と思いながらすぐ目の前の坂道から続くカーブにハンドルをとられないよう力を込
め、砂に滑るタイヤをブレーキングでコントロールしていく。持ちこたえたつもりだったがタイ
ヤの縁が道端の雑草を咬んで、埃に混じって僅かに青い匂いが立った。
(……ライン取りが甘かったか)
揺らぎかけたマシンを力づくで立て直して息をついた、その時である。
《……大丈夫か、風見》
耳元で声がした。
「一文字さん」
《ああ、聞こえてるな》
最近あんまり使わないからなあ通信機、と独りごちて、一文字は不意に口調を厳しくした。
《それはおいといて、その分じゃ気づいてないな》
「え?」
《さっきからちょっかいかけてきてるのがいるだろ、すぐ後ろから》
振り返りかけて止めたのは、言われれば思い当たるふしがあったからだった。先程追い抜こうと
して風見に阻止されて以来、背後の一台はつかず離れず後をついてきている。今のカーブで自分
の体勢が崩れた隙に、抜こうと思えば抜けた筈なのが不審だった。
《魂胆は判らんが、お前をマークしてるのは間違いない。気をつけろよ》
はい、と答えて風見はアクセルを踏み込んだ。
緩やかに蛇行するコースはデリケートなハンドル捌きが要求されるものの、アップダウンを掴
んでいけばスピードを乗せていってもこなせる難度だ。途中でもたついていた先行の一台をあっ
さりと抜き去り、風見はちらりとバックミラーを見やった。
(……来ているな)
そのマシンは、今し方風見に抜かれたものの再び加速しようとしていた黄色いライダースーツの
すぐ横を擦り抜けてきている。そのままゆるゆるとスピードを上げて、風見のマシンを再びその
射程距離におさめつつあった。
(どういうつもりだ)
そう思った瞬間、不意にまた脳裡にひらめく光景があった。
友人にどう説明しようか考えながら、あの時自分はこのコースを走っていたのだ。既に見慣れ
た起伏を眺めながら、数日前に見たものは本当に現実だったのだろうか、と考えていた。
何故なら見たのは―――。
バックミラーに映り込む相手の姿が、みるみる大きくなってくる。ほとんど接触しそうな程ぎ
りぎりに寄せてくるその一台に、反射的に左側へ回避しかかるハンドルを握りしめた。
わざと狭い道を選んで追い抜きにかかってくる。煽られてこちらが自分からコースを踏み外す
のを狙っているのだろう。そうは行くか、と思う。仮に接触したところで、怪我をするのは相手
の方だ。
そう思いかけて、ふと眉を寄せる。
弾かれたように、視線が上がっていた。
選手達を見送ったスタート地点は緊張も解けて、喧噪もどこか穏やかだ。選手を迎える為に各
チームのスタッフ達が三々五々ゴール地点へ向かい始める中、しかし結城は彼にしか解らない感
覚に立ちすくんでいる。
(風見)
この数日というもの、近くにいても感知できなかった風見の気配が、不意に意識の端に飛び込ん
できたのだ。記憶が戻ったのか、と急いで探り直してみたが、はっきりとした事は判らなかった。
だが何かが起こりつつある。
そしてそれは―――あの事故と繋がっているのだと。
空の青さが、変に迫ってくるような胸騒ぎがする。
いずれにせよ、このまま呑気にゴールへ向かっている場合ではない。会場まで乗ってきたバイ
クは、裏の駐車場に留めてある。ポケットのキーを確かめると、結城は人の流れに逆らって走り
出した。
たとえ接触しても大した怪我を負う事はない、と何故自分は思ったのだろう。
(……おかしくないか)
確かについ何日か前に崖からマシンごと転落しても、今こうして走っている位だ。運は強い方だ、
とは昔から自他共に認めてもいたから、あまり深くは考えなかった。そもそも考える事が多すぎ
て、気にも留めていなかったのだが。
(そう言えば、あの崖から落ちたのか……俺は)
昨日の練習で通りかかった時に、気をつけろよ、と本郷から言われた現場の風景を思い出す。こ
のすぐ先にある、このコース最大の難所だ。崖はかなりの高さで、正直なところ何かの冗談かと
思った程だった。幾ら偶然とは言え、ほとんど無傷というのは考えてみれば奇妙ではないか。
(―――俺は一体)
自問する胸の底に、しんとした重い塊がある。
俄に加速された気配に慌てて見やったバックミラーに、背後からじりじりと寄せてくる選手の
姿が一杯に映り込んできた。黒と赤に塗り分けられたヘルメットと濃い色のガラスを嵌めたゴー
グルに、ぎらりと夏の陽射しが照り返す。
「―――良く出てきたな」
埃避けに鼻先まで覆った布に幾らかくぐもって聞こえたが、その声ははっきりと聞き取れた。
はっきりとした日本語だった。それにしてもレース中に話し掛けてくるとはいい度胸だ、と思
わず上げた視線が、ガラス越しにこちらを覗き込んでいる瞳と合った。
(……そんな馬鹿な)
次の瞬間、再びエンジンが低く唸りを上げた。ゆっくりとバックミラーから黒い影が消え、濃い
緑と青空が戻ってくる。埃混じりの風をカウルと黒いライダースーツの肩にやり過ごしてその背
中が自分の前に出ていくのを、風見は一瞬茫然と見つめていたようにも思う。
「……待て」
思わず声を上げ、アクセルを握り込む。
《どうした、風見》
本郷の声が通信機から飛び込んできたが、答えている余裕は風見にはなかった。
あの時も同じだった、と思い出している。練習中に突然現れては挑発してくるこのマシンを、
自分は二回取り逃がしている。今日こそは何者なのか、確かめずにはおかれない。
加速してその背中を改めて目の前に捉える。黒いスーツの背中の向こうには、青い空と切り立っ
た黄褐色の崖が見え隠れしている。
間もなくこの道は崖を右側に臨むカーブにさしかかる筈だ。どこで勝負をかけるか、と様子を
伺っていると、目の前のマシンがいきなりスピードを上げた。
その背中に、不意に眩しい陽が射した。黒いマシンは、カーブに向かってまっすぐ突っ込んで
いき―――次の瞬間、そのまま高さ十メートルはあろうかという崖から弾丸のように飛び出していっ
た。ハンドルミスか、と思いかけるのと同時に、風見は自分でそれを打ち消している。
(コースアウトして逃げるつもりだ)
普通の人間なら考えられない高さだが、自分も躊躇しないのを風見は知っている。むしろこの程
度で自分を振り切ろうとは、随分なめられたものだ―――と思う。
続いて飛び出そうとした瞬間、しかし不意に幻の白い光が意識野にフラッシュバックした。反
射的にハンドルをひねり崖に沿ってタイヤを滑らせた次の瞬間、視界のすぐ右上を陽光とは異質
な光が線となって走る。左前方の林が、目に見えない手に薙ぎ払われたようにざわめき、何本も
の枝が白い煙をまとわりつかせながら葉を震わせて地に落ちた。つられて風見が飛び出してくる
のを待ち構えていたのだろうが、二度も同じ手にかかる訳にはいかない。
(今だ)
すかさずハンドルを切り返してぐるりとカーブをきり、改めて崖を目がけて加速する。
頬に吹きつけてくる風が、一瞬強まった。自然に腕が動いて、風見は思いきりマシンを引き上
げている。
目の前には、大空だけがあった。
(―――風が)
渺茫と吹き抜ける風が、何かを呼び覚ます。自分とマシンを受け止める大気の流れの中に、風見
は幾多の懐かしい声を聞いている。
そうだったのか、と思う。
―――自分は。
ハンドルから手が離れた。崖下から吹き上げてくる風に袖をはためかせながら、風見はそのま
まゆっくりと両腕を水平に構えた。
生い茂った潅木が、柔らかな棘で腕といわず頬といわず容赦なく叩いてくるのにかまけている
余裕はなかった。まさかレース中のコースを逆走する訳にも行かず、なるべくコースに一番近い
横道を選んだのだが、細い山道はほとんど獣道も同然で見通しも悪い。マシンを揺さぶる小刻み
の起伏に翻弄され、結城はハンドルをとられないようにするだけで精一杯だった。
右に仰ぐ山肌はまだ遠い。数日前の事故地点付近は、コースと横道が最も離れている場所だっ
たが、他に道はなかった。そもそも地元の人間にとっては、コースに使用している道だけで日常
は事足りているらしい。まだ山を切り拓く技術がなかった昔、丘陵地を縫うようにつくられたこ
の旧道は、今はほとんど緑に埋もれかけている。
肩まで埋まる程の緑の中を走りながら、結城はまた胸によぎる感覚を確かめる。もうすぐだ、
と解ってはいたが、無性に気が急いた。
(風見)
不意に視界の右側から緑が消えた。山を切り崩してなだらかにそびえる白茶けた岩肌は、仰げば
そのまま切り立った崖だ。風見が転落した崖を今自分は下から仰いでいるのだ、と思い当たった
その時、結城は思わずブレーキをかけている。
「!」
澄み切った青空に向かって頭上の崖から飛び出してきたマシンは、ライダースーツまで黒に統一
されて不吉に濃い。
(……まさか)
マシンのシートから、ライダーの顔がこちらを向いた。
濃い色のゴーグル越しに、一瞬はっきりと目が合った。
友人と同じ瞳が、一瞬結城を見た。またかすかに笑ったようでもあった。
(……やはり)
予期していた事ではあったが、心臓が跳ねた。
マシンは結城が止まっている道よりも更に一本向こうの細い道目がけて飛び下りている。流石
に一瞬ふらついたものの、僅かに道向こうの草むらに踏み込んだだけでカーブを切り、そのまま
走り去ろうとしている。
追わなくては、とペダルを踏みかけ、しかし次の瞬間、結城は弾かれたように振仰いでいる。
僅かに遅れて大空に舞った、もう一台のマシンがあった。そのシートに凛と身体を起こしてい
るのは、結城がこの数年というもの、ずっと仰いできた姿だ。
抜けるような青空に、白いマフラーが翻る。
虚空高く、緑の複眼がちらりと結城を見下ろした。
耳を介さない《声》を、結城は頭に直接受け取っている。
(解った)
伝わるかどうか自信はなかったが、結城もそう応えた。
今の自分の役目は、この崖下のどこかに潜んでいる狙撃手を探す事だ。たった今風見を狙撃し
た《敵》は、数日前の事故についてもおそらく無関係ではない筈だった。
あちらは風見に―――V3に任せよう。
そう思いながらもまだちらりと後ろ髪は引かれたが、振り切って結城はマシンを進めた。
八
ハリケーンとは多少勝手が違っても、この数年自分と共に走ってきたマシンの癖は自分の手足
のように飲み込んでいる。スピードを殺さない程度にブレーキを加減しながら、遠く走り去ろう
としている背中にV3はちらりと視線を走らせる。
何もかも―――思い出していた。
最初にそれに気づいたのは十日前、このコースで練習走行をしている時の事である。
見晴らしの良い峠を走っている時に、眼下の道を走っている一台のトラックがふと目についた
のだ。外見は何の変哲もないトラックだったが、見るともなしに目で追っていると荷台にかけら
れた幌が風に翻り、中の荷物がちらりと覗いた。
大きなガラス製の円筒が、僅かな光を受けて揺れていた。
(……あれは)
見間違いでなければ、それは一度だけ見た事のある機械だった。
先輩達が戦ってきたショッカーの時代に開発された、保存された細胞から改造人間を甦らせる
機械―――《RB―1》だ。二年前の夏に東京に持ち込まれ、風見にとって忘れられないあの怪人
を甦らせたその機械は、既に破壊された筈だった。しかし考えてみれば設計図が存在する限り、機
械は何度でも組み立てられるのだ。
何にしても確かめておいた方がよさそうだ、と風見は急いで近道から山を下りていった。壊れ物
を積んで悪路を進むトラックはスピードも遅く、行き会う車や人もない直線を一気に加速して追い
つくのは簡単だった。あとはどうトラックの前へ回り込んで止めるかだな、とタイミングをはかっ
ていた、その時である。
風にひらめく幌が勢い良く跳ね上げられた。荷台に膝をついていた人影の手許からまばゆい閃光
が膨らんだ、と見えた次の瞬間、風見は視界を奪われている。
(……何だ)
反射的にブレーキをかけながらも路面を滑るマシンから投げ出され、自分が転倒した事にすら一瞬
気づかなかった。白一色に封じられた視野にやがて少しずつ仰ぐ草や潅木の輪郭が戻り始めた頃に
は、既にトラックの影は路上から消えていた。
しかしこの近くに敵のアジトがあるとするなら、必ずまた何らかの動きがある筈だ。
そう考えた風見は、翌日から練習の傍らトラックの通っていった道の近辺調査を始めた。
風見が目撃した地点から先は草原の中を通る一本道で、十キロと行かない内に大きな農場で行き
止まりになっている。一応当たってはみたものの、昔からこの土地にある農場にもその近所の民家
にも特に不審な点はなさそうだった。最近になってやってきた人物も、急に様子がおかしくなった
古くからの住人もないという。
となると、あのトラックはやはり道沿いのどこかに消えた事になる。一通り走ってみた位では分
からないように、巧妙に入口が隠されているのだろう。
そこまで調べがついたのが、一週間と少し前の事だった。何かあった時の為に少し早めに呼んで
おくか、と決めて結城に連絡し、午後から練習に向かった。
初めてそのマシンが現れたのはその日の事である。
練習走行の途中、どこからともなく現れて影のように風見を追ってくるマシンに、変な奴が居る
な、と思ったのはしばらく経ってからの事だった。自分と全く同じラインをなぞり、加速や減速の
タイミングまでわざとしたように合わせてくる。レースではないのだからいっそ先行させてやるか、
とカーブのインコース側へ減速すると、それを待っていたかのようにゆっくりとハンドルを並べて
きた。
一体どんな顔をした奴なんだ、と何気なく見やったその瞬間。
自分と同じ顔が、笑った。
何を見ているのか理解できないまま、自分らしくもなく―――その時はただ茫然とその黒いライ
ダースーツの背中が遠ざかっていくのを見ていたようでもあった。
結城が到着したのはその翌日である。
はっきりと話はしなかったものの、どうやら自分が早めに呼び寄せられた理由は彼なりに察しを
つけてきたらしい。
しかし友人のまっすぐなまなざしをいざ目の当たりにすると、自分でさえ納得できていないあの
光景をどう説明したら良いのかまごついた。
(まあ、もう少しはっきりしてからでいいか)
そんな言葉で先送りするつもりはなかったが、それもできればもう一度自分の目で確かめたい、と
いうところもあった。
もしもあの時、運び込まれていたのが本当にRB―1だとするなら。自分達の探索を逃れて二年
前に行方をくらました敵の正体を、今度こそしっかり確かめずにはおかない。
そう思いながらも数日が過ぎた。
先輩達にも連絡しなくてはならなかったし、そろそろ結城にも説明しなくてはなるまい。そう考
えながら練習に出た風見の前に、また神経を逆撫でするような走りを披露してくれたあのマシンが
現れたのだ。
同じように先へ出してやったが、今回は逃がすつもりはなかった。
そう思うあまり、周囲への警戒はややおろそかになっていたかもしれない。崖から飛び出したマ
シンを追ってハンドルを引き上げた一瞬、崖の下に潜んでいる人影に気づいたもののそれは僅かに
遅かったのだ。
次の瞬間、風見の意識は再び視界を覆った光に呑まれている。
脳裡をよぎる幻の閃光を振り払って、空と左右に広がる緑の中にも溶けない黒いマシンをV3は
追う。変身前よりも更に遠距離を見通せる複眼は、遥か前方を走っている背中を捉えていた。もう
逃がすものか、と思ったのが伝わったかのように、こちらをちらりと振り返ったようだった。だが
遠からず行き止まりになるこの道で。
(―――さあ、どこまで行く?)
追われて姿を消したその地点が、敵のアジトの入口だ。何を企んでいるのか、自分と同じ顔をした
あの男が何者なのかもそこで判る、と思いながら腰に手をやる。
「V3ホッパー!」
青空に打ち上がったホッパーが翼をひらくと同時に、空からの視界もV3の複眼の裏側に転送され
てくる。
黒い背中が、急に速度を落とした。
(そこか)
地上から見ている限りでは丈の高い草に阻まれて、どこでどう姿を消したのかは分からない。だが
空からのもうひとつの目は、はっきりと捉えていた。
道の左側にどこまでも続く草むらの一部がゆっくりと扉のように上へ持ち上がり、その下へマシ
ンが入っていく。
V3もマシンの速度を緩め、上空で静止しているホッパーを回収した。マシンを止め、ゆっくり
と草むらに歩み寄る。
右手の拳を一度固め直して力を込め、茂る草の根元目がけて真上から突き入れる。指頭に、固い
金属の感触が伝わった。拳を引くと、根の浮いた草と黄褐色の土の下から、ひしゃげた金属扉が現
れる。
V3は仮面の下で微笑する。
こんな仕掛けになっていた訳か、と扉の凹みに両手を入れ、力を込めて引き上げる。三メートル
程にもわたって、地面が勢い良く持ち上がった。擬装していた土砂が滑り落ちて土埃が上がる。
滑らかな床に、陽光が射した。扉の下には、深く地下へ続くスロープが造られていたのだ。リノ
リューム張りの表面には、タイヤの溝の形にまだ乾いていない泥が伸びている。
頭の上まで持ち上げるともう扉が落ちてこないのを確かめて、V3はゆっくりとスロープに足を
踏み入れた。その時である。
《―――風見》
本郷の声がした。
《俺達も今そっちへ向かっている。あまり深追いはするな》
何故です、と聞き返しかけて止めた。そのまま赤色灯のぼんやりと照らす通路へ歩を進める。
突き当たりの駐車場はがらんとしていた。トラックどころか、たった今入ってきた筈のバイク
の姿もない。
更に奥へ続く廊下にも、人の気配はなかった。その辺の扉を手当たり次第に開けてみたが、戦
闘員の影ひとつない。通信室や作戦室らしい部屋も見つけたが、人の気配は全く残されていなかっ
た。しかしV3はためらわずにアジトの奥へ進んでいく。奇妙な確信があった。
そして。
その扉を開けると、廊下から射す僅かな赤い光が暗い室内に滲んだ。
V3の足は止まっている。部屋の奥で弱い光を照り返しているのは、人ひとりがすっぽり入れ
る程の円筒形のガラス槽だ。その形には見覚えがあった。
円筒の中は空だったが、下側の金属製の箍には何本ものコードやチューブが接続され、もう一
端は背後の壁一面を埋め尽くした機械に繋がっている。他の部屋では全く沈黙していた機器類が、
ここだけは静かにメーターやスイッチに光を灯していた。
その機械の傍に、人影が立っている。
おぼろな光に照らされて、その長身はいくらか輪郭が曖昧にみえた。やや長めの髪が、柔らか
くライダースーツの襟元にかかっている。額に流した前髪の下から、切れ長の目がゆっくりとこ
ちらを見た。
もう見間違いようもなかった。
「―――お前は」
「ようこそ」
唇の片端だけ上げてかすかに笑った口元の形が、おぼろな光に浮かび上がる。
「お前は何者だ」
V3に低く問いかけられるとその言葉を制するようにつと手を上げ、ふと気づいたようにその手
首に接続されていたコードを外した。姿かたちばかりでなく物腰のひとつひとつまでも、鏡を見
ているようだった。
「さて」
ついと肩をすくめた。
「誰なんだろうな」
考えてみせるように傾げた横顔に、照らす赤色光が微妙な陰影を刻んだ。
「それはお前が教えてくれると思っていたんだが」
どういう意味だ、と聞き返そうとした、その時である。
「―――風見!」
聞き慣れた声が廊下に反響して、靴音が戸口へ駆け込んできた。
結城は飛び込んできたものの、奥の人物を認めて一瞬立ち尽くしている。
どういう事なんだ―――とは、しかし言わなかった。言葉にこそならなかったが、やはり、と
その唇は動いたようにも見えた。
(……結城?)
その表情を見咎めた一瞬、V3の注意が逸れた。
あっ、と小さく叫んで結城が走り寄ろうとするのにはっとして視線を走らせると、音もなく
床の一部が周囲から切り離され、ゆっくりと下へ沈んでいくところだった。
まだ手にしていたコードをすいと肩越しに放り、斜に構えて立つシルエットは地下へ消える
瞬間、仮面ライダー達へ向けて手を軽く振り、別れの挨拶を送ってみせたようでもあった。
「待て」
追って飛び込もうとしたV3は、しかし無人のまま再び地下からせり上がってきた床に阻まれ
ている。入口の扉のように引き剥がそうとしたが、床のブロックは既に固く合わさって指先も
入らない。こじ開けるのが無理なら、と拳で打ってつくった歪みから床板を起こしてみたが、
その下にぽっかりと空いた地下への空洞は中央に上下させる為の太い支柱が通っており、隙間
から身体を入れるのは難しそうだった。
「風見」
振り返ると、結城が見つめていた。
赤色灯の弱い光に照らされた横顔には、何故か後ろめたさとも覚悟ともつかない表情が浮か
んでいたが、その瞳はまっすぐに自分を見据えている。仮面を透かして、素顔の自分を見つめ
ているようだった。
おかしなものだな、と思った。
まさかこのまなざしだけで、こんなに心が落ち着く日が来るとは思わなかった。
エピローグ
風見はウッドデッキにもたれて空を眺めている。
「ここに居たのか」
背後から声がかけられた。ほら、と差し出されたコーヒーカップを受け取って、その香気に
目を細める。
「―――本郷さんのお蔭で、分析が終わったところだ」
そうか、と風見は答えた。
V3が踏み込んだ時には既に撤収されていた敵のアジトだったが、無駄足に終わった訳
でもなかった。所在を風見に勘づかれたのを察知して予定より早く引き上げようとしてい
たものの、全部は回収しきれなかったらしい。V3が突入した時に別の出口から丁度脱出
するところだった戦闘員の一団は、別ルートから回り込んでいた本郷と一文字とはち合わ
せしている。もっとも崖下から風見を狙撃した戦闘員同様、その体内には自爆装置を抱え
ていたらしく、組織やアジトの秘密について聞き出す事はできなかったのだが。
しかしそのトラックに積まれていた機材やアジトに放置されていた機材の中には、怪人
を肉体的に復元させる機械《RB―1》と、新たに敵が開発した恐ろしいシステムの本体も
残されていたのだった。
(どうやら彼等は《IM装置》と呼んでいたようだが)
それは改造人間の記憶をコピーして、再生した肉体に復元する為のシステムなのだという。
だがそんな事なら確か《RB―2》でも実現されていた筈ではなかったのか、と最初は思っ
た。本郷達が何を問題視しているのか、詳しい説明を聞くまではなかなかぴんとこなかっ
たのだが。
まさか自分自身が、知らない内に被験体になっていた―――などとは思いもよらない事
だった。
「で、何か分かったのか?」
「あそこにあったのは本体だが、端末がある筈なんだ」
敵も設計図等を残しておいてくれる程間抜けでは無かったが、本郷と結城が二人がかりで
本体を分析した結果、結論は一致している。
「そう簡単に小型化は出来ないだろうと思っていたよ」
独りごちて、結城も自分のカップをウッドデッキの柵に置いた。
「実際に外へ持ち出して、動いている相手に照準を定めるんだから、あまり大きかったり
重かったりしたら役には立たない。多分、ビームの照射口がある―――光線銃みたいな形を
しているんじゃないかと思うんだが」
そう言われても、どうもはっきりとした記憶はなかった。しばらく伺っていたが、無言を
返事と諒解したらしく、結城は言葉を継いだ。
「記憶をデータ化する一瞬だけ、意識を静的に掴む必要があるんだ。例えば強い光を浴び
せれば、思考を瞬間的に停止させるだけの時間は充分につくれる」
成程、と思った。
おそらく自分に向けられた光の正体はそれだったのだろう。閃光に目が眩んだ瞬間、確
かに意識も麻痺していた気がする。
そしてその一瞬の隙に―――自分の記憶は複製されたのだと。
「ただ、端末もそれだけでは役には立たない。おそらく記憶容量も足りないだろうし、デ
ータ化された記憶を別の脳に転送するには、バックアップを再構成する必要があるんだ」
そんな風に言われると、記憶もまるで気安くやりとりできる書類か何かのようではないか。
ちらりとそう思った。
だがうっかりそんな事を言ったら、そうかもしれない、と真面目に返されかねないのも
解っていたから、言葉にはしなかった。
「本体のシステム解析が完全に終われば、誘導に使われた擬似脳波の周波数帯も判る。そ
うすれば防御策は立てられると思うが」
珍しく言い淀んだ。おそらく今更対策を講じてもある意味遅きに失していると、結城にも
判っているからなのだろう。
既に《IM装置》は作動しているのだ。
果たしてどんな気持ちのするものなのだろうか、と風見は考える。
(それはお前が教えてくれると思っていたんだが)
二十年余の平和な生活の記憶。そして思い出すだけでもこの身が切り裂かれるような哀し
みの記憶も、仮面ライダーとしての戦闘の記憶も、まるで自分自身が体験したもののよう
に思い出す事ができるとしたら。おそらくは記憶の一部を失っていた時の自分よりも、余
程に強く深く―――リアルに。
それでも自分の記憶は虚構なのだと、あの瞳は知っているのだろう。どこでどんな風に
自分の細胞が育てられ、何を目的にその脳に自分の記憶が移植されたのかは判らないが、
何故かそれだけは解る気がした。
もしも今の自分が、お前は複製なのだと告げられたとしたら。そして全く同じ記憶をも
つオリジナルを倒す為におそらくは生み出されたのだと知ったとしたら、自分はどうする
だろう。
「―――風見」
思いつめたような声にふと振り返ると、友人はひどく真面目な顔をしていた。
「何があっても、君は君だ」
そんな事は解っている、と答えながら、風見の口元には微笑が浮かぶ。
二年前の夏の事を、ふと思い出していた。
むせ返るような真夏の東京に持ち込まれた《RB―1》は、その培養槽を守る為に配置
されていたハサミジャガーの姿をもつ再生怪人とV3の戦闘に巻き込まれて破損したのだ。
当時《RB―1》は、確かに機能を停止していたと結城は断言している。しかしあの蒸し
暑い地下の培養槽で再生されていたのが何者だったのか、この期に及んでも結城は決して
言おうとはしないのだった。
だが聞かなくても、自分にもずっと前から解っていたのだ―――と風見は思う。
あの夏の日、結城には見えなかったものを自分は見ている。
(兄を―――待っています)
それは《RB―1》が密やかにガラスの胎内に育てていた存在がこの世に現れるのを待って
いた、真昼の幻影だった。今は風見の記憶の中に住む、懐かしい可憐な面影だ。
あの幻影を生み出したのは、ずっと自分だと思っていたのだが―――果たして本当に自分
だけだったのだろうか、と今にして風見は思う。
だから、それは違う、とは言わない事にした。
「―――そう言えば」
わざとらしく咳払いして、結城がデッキチェアに置いてあった雑誌を取り上げた。折り癖
のついた雑誌は、持っただけで風見の書き込みのあるページがひらく。
「僕の論文に、説明が要るようだったんだが」
「ああ、そうだった」
すっかり忘れていた、と風見は肩をすくめた。
古い理論に別角度からの切口を見い出して転用する手法を提唱した結城の新しい論文は、
世間的にはあまり価値のあるものとは思われないだろう。しかし読みながら、これは自分
達の体内に使っているコンバーターに活用できるという事なのか、確認しなくてはと思っ
ていたのだ。
ちらりと目の前をよぎった自分と同じ顔の幻影を打ち消して、風見はカップを手に結城
の向かいの椅子を引いた。
<完>