南方漂着譚(仮面ライダーV3)

「南方漂着譚」(1994.12.30)初出(「回帰線」(2002.3.18)に再録)


     一

 耳の奥で密やかに波が鳴っていた。
 その波が鼓膜を浸して脳髄までひた寄せてくるように思われる頃、ようやくその波の向こうからしずかな潮騒が響いてくる。そのうねりは、気の遠くなる程の穏やかさで自分を揺すり上げているらしかった。
 頬の下にほの温かな、砂の大地へ。
 そこまで感じて、目が開いたようだった。
 目が開いてもしばらくの間は、そこに映るものが何なのか解らずにいた。多分理解するだけの力さえ自分の身体には残っていなかったのだと、後になって思う。
 意識があったのも、さほど長い時間ではなかった―――何かの偶然のようなその僅かな目覚めが再び眠りにとってかわられようとする、まさにその瞬間。
 海がまばゆく輝いている。
 そうはっきりと思った事を、結城丈二はきっと終生忘れる事はない。
 おぼろに照り映える、しかし豊かなその光が疲れ切った意識にただ深くしみた。

 それはもうずっと昔にあった事のようだった。
 仮面ライダーV3・風見志郎と共にデストロンのロケット発射基地に突入したライダーマン・結城丈二は、デストロンの殺戮兵器プルトンロケットに自ら乗り込む事でその進路を変え、東京壊滅を阻止したのである。首都を非業の火から救う事に、その命を引き換える覚悟での行動だった。
 自分が成功した事―――そしてそれを見届けた仮面ライダーV3が、その名に続く名前を自分に送ってくれた事も、もとより今の彼には知る由もない。そしてその僅かな時間を共有しただけの、しかし今となっては誰よりも近しく思える友人が、おそらくはこの瞬間にも命がけの戦いを続けている事さえ、全ては別世界の話のように遠かった。
 それは彼自身が、この世界から離れかけている為かもしれない。
 デストロンの最終兵器―――プルトンロケット。一国の首都を灰燼に帰すだけの破壊力は、あえなく虚空に拡散させられたとはいえ、その妨害者にせめてもの報復を加えずにはおかなかった。
 どのような偶然が重なったものか即死こそ免れたものの、爆発時に受けた衝撃の大きさは変身が解けている事だけでも測れようというものである。そしてそこまでようやく知覚できるようになっても、その身体は借り物のように重くよそよそしかった。
 そこで再び途切れる意識が、次にはっきりと目覚めたのはそれから数時間後の事である。
 いくつもの眠りと浅い覚醒とが交錯し、その中であがくように身を寄せられる場所を求めた事だけが、おぼろげな記憶に残っていた。
 ぽっかりと水面に浮かびあがるように意識が戻った時、結城は眼前に砂浜を臨む岩山の窪みにその身を預けたまま、朱く海に溶けかかる夕陽を眺めていた。目は覚めているものの杳として意識は働かず、ただ身体が熱く変にものうい。怪我をしているらしい事は解ったが、どこにどんな傷を負ったのか、調べようとする気力すらなかった。
 どのみち調べたところでどうなるものでもない、とかすかに思う。半ば無意識の状態で、ここまで動いてきた自分の本能的な生への執着には少し自身を見直しもしたが―――それでもこのまま居れば死ぬな、とふっと覚悟していた。それにさして抗う気にもならなかった。自分は多分成すべき事を為遂げたのだ、という変な確信もあった。
 デストロンの崩壊を見る事はできなかったが、後の事はきっとV3が―――風見志郎が成就してくれる。自分がその業ゆえに行き着く事のできなかった地平へ、彼ならばきっとあの涼やかなまなざしのまま赴いていけるのだろう。
 不思議なものだ、とふと思った。
 二十余年生きてきた道程は決して平坦なものではなかった。不平等や貧困や偏見はもの心ついた頃から無縁ではなく、それをはね返す為に生来の能力を伸ばす術はデストロンに教えられた。デストロンを否定しても、その日々は決して自分にとって無為ではなかった筈だった。
 それでも、今。
 思考できる時間の限界が自分でも解っているような、こんな時に。
 思うのは幼い日の口惜しさでも、充実していた研究の日々でもなく。
 ただ、時々どこか遠いところを見るような目をしながらも戦い続けていた一人の青年の事だった。誰に案じられる必要もない程強く、そしてその強さ故に全てを護る使命を負う事になった彼―――風見志郎の事だけが、ただ静かに思われてならなかった。
 初めは敵として出会ってから、まだ半年と経ってはいない。
 それでももし自分に残す思いがあるとしたら、今となってはその全てをあの透徹の瞳をした友人に託して行きたいと思う。解りあうには短すぎた時間を、なお縮めた自分の頑さを今更後悔する気もなかったが、きっともっと沢山話すことがあった筈だった―――と思う。
 多分今ならば、何の屈託もなく。かつて心にわだかまっていた負い目や、意地半ばの訳もない反発が、波に洗われたように消えていた。
 それは自分が死に瀕している為か―――あるいは眼前にひろがる海の美しさの為かもしれない。
 穏やかな夕暮れの海だった。ぼんやりとかすみかかる視界の内でも、揺れる波の下に砂が透けて見える程の澄んだ水が無心に打ち寄せている。《地上最後の楽園》と呼ばれる―――もとより彼は知る由もなかったが―――その景観を、再び薄れゆこうとする意識の中で瞳の奥に残そう、と眺めながら結城はまたふっと思う。
(…あいつは)
その冴え冴えとした―――けれど思いつめたようなまなざしの記憶と共に。
(あいつは…こんなきれいな海を、見たことがあるだろうか?)
それは脈絡のないようでいて、しかしひどく胸に迫る思いだった。

 足下の堤防を、淀んだ灰色の波がひたひたと叩いていた。
 停めたハリケーンのシートにもたれて腕を組み、風見志郎はじっと海を見ている。
 こころもち眉をひそめたその横顔は、長かったこの戦いの記憶を甦らせているようにも―――また全く別の事を考えているようにも見えた。
 実際思い返すには長過ぎた戦いだった。本当のところはそれ程長い時間だったわけではなかったが、しかし風見にとってこの戦いの発端となったあの日は、もう数十年も昔の事のように思われる事がある。平和で幸福だった日々との訣別となったあの運命の日―――目の前で両親と最愛の妹を奪われ、生まれ持った身体を捨ててまで復讐を誓った日に、彼の戦いは始まったのだ。全てを懸けたその戦いにようやく勝利を得た今、しかしその胸に予期していた程の喜びは沸き上がってはこないのだった。
 手放しで喜ぶには、風見はあまりに多くのものを失い過ぎていた。
 その勝利の代償のように、最後の最後で失った友人の事を、そして風見は今やっと思い返す事ができるようになっている。
 変な奴だったな、と思った。
 一緒に過ごした時間はほんの僅かなものだったが、しかしなお鮮明な印象を残す青年科学者の風貌が静かに脳裡に甦るにまかせ、その一方で思うともなく追想する。
 何故デストロンに与するようになったのか、一度だけ何かの折に尋ねた事があった。あまりはっきりした答はなかった事も覚えている。おそらく聞かれたくない質問だった事は承知の上で、それでも尋ねずにはいられない程、その青年はデストロンという悪の組織にはおよそ似つかわしくなかった。
 研究者という職業の特性以上に天性のものだろう、純粋なひたむきさ。信頼するものへの、思いのつよさ。だからこそそれをいいように利用されていた事を悟った時、その決着しか選び得なかった彼の苦悩をどれだけ自分は理解できたろうか、と自問しかけてやめる。
 きっと彼は理解される事など望むまい。改造人間である事のかなしみを本当に理解される事があり得ない事を、風見が知っているように。
(―――だが、次に会う時は)
不意にそんな思いがした。
(きっと昔からの友人のように、笑って話せるだろう…)
どこか優しい気持ちで思いながらも、かすかに自嘲的な笑みは浮かんだ。
 次に会う時など、もう無いのだ。
 それはいやという程解っていた筈だった。
 自分とした事が、随分と逃避している―――しかしそう思いながらも、何故かその思いが現実を見つめようとする理性よりはるかにリアルに感じられて、風見は少し困ったように眉を寄せた。



     二

 顔にあたる陽射しが不意に遮られて、ぼんやりと目が開いた。
 すぐ間近に、自分を覗きこんでいる四つのぱっちりとした目があった。驚いた(ようには見えなかったと、後にその少年は言ったが)ものの、身体が反応できないまま、結城はしばらくの間その目を見つめ返していた。
 大きな目が二つと、小さな目が二つ―――くっきりと分かたれた黒目と白目が、ひどく印象的に澄んでいた。
「〜〜〜〜〜〜」
大きな目の持ち主が、何か喋ったようだった。まだ意識は遠く、まともな思考力は殆ど無いに等しかったが、その音の配列には聞き覚えがあった。
「〜〜〜」
次の言葉はもう少しはっきりと耳に届いた。どういう意味だったかな、とものうく考える。
《医者を呼びます》
確かそんな風に訳せるのではなかったか。
『―――医者』
その時、思わず返事がその異国語で出ていた。
『医者は要らない…』
そう言ったつもりだったが、正しく伝わったかどうかは定かでない。なにしろ大学で僅か一年間習っただけの言葉である。
「〜〜〜〜〜」
また相手が何か言ったようだったが、その言葉を母国語に変えるだけの思考力ももうなかった。
 ただ、意識のある限りその澄んだ瞳に向かって頼んでいたような気がする。
『医者を呼んではいけない』
それが何故なのか、その時の結城には自分自身にすら説明できなかった。ただ《医師》という単語は、自らが追われるものである事を否応なく思い出させる。そして自分はその為に無辜の人々を災いに巻き込んできたのだ、という事だけが妙にはっきりと脳裡に刻まれていた。
 その原因を彼自身が思い出すのは、少し後の事になる。
 その時は理由も解らず、ただ信念のように―――真摯に意識の続く限り訴えかけていたのだった。
『…医者は要らない…』

 生前の彼の事は良く知らない。
 ただあの一刻を争う戦いの中で、風見が話してくれた彼の諦念にも似た覚悟は、結城にとって自分の事のように今もはっきりと心に刻み込まれている。
 妻子を助ける為に風見にデストロンの計画を打ち明けながら、自身はあえてデストロンに裁かれる最期を選んだあの医師の姿を見た時、あるいは自分もその行く道をどこかで予見していたようにも思うのだ。
 デストロンに係わった過去は消せない。
 その非道を知るにせよ知らないにせよ、デストロンに与していたという事実のもつ意味が変わる訳でもないのだった。

 誰かが肩をこわごわと揺さぶっていた。
 どうやらさっきから殆ど時間は経っていないらしいのが、見上げた肩ごしに光る陽射しの高さから知れる。
「〜〜〜〜〜」
そしてその時、結城は先刻の声の主の姿をようやくはっきりと見る事ができたのだった。
 大きな丸い目を少し心配そうに細めながら手を放すと、もう片手に持った木箱を示すように軽く振ってみせる。
『薬を持ってきた』
それは―――年の頃は定かには解らなかったが―――まだ子供といっていい程あどけないまなざしをした褐色の少年だった。木箱の蓋を開け、様々な壜がぎっしり収まっている内を見せるとそのまま砂地に置く。
『医者は呼んでいない。…貴方が言うから』
気持ち肉厚の唇から流暢につづられるのがフランス語である事が、ようやくその頃結城にも解った。
『だがそのままではいけない。だから薬を持ってきた。…貴方が手当てをする為に』
意識してゆっくりと喋ってくれているのは解ったが、まだ結城の思考力はそれについていくのがやっとだった。
 もう一度箱の内を指し示し、少年は少しはにかんだように笑ってみせる。
『僕は近くにいるから、用があったら呼んでくれ』
そのまま立ち上がり、砂浜へ歩いていく少年の背中を結城はしばらくじっと見ていた。
 どうやら随分遠くまで流されてしまったらしい、と思っていた。
 日本でない事は流石に気づいていた。空も海も、あまりに鮮やかすぎた。
 ただ茫然とするだけの南洋の原色の中にも、しかし少年の背中は溶けない。
 生きている事の喜びを―――その存在の確かさを、まっすぐに肯定している。たくしあげた白いシャツから覗く褐色の肩が、理由もなくその誇りをこめて、陽光を鮮やかにはね返していた。
 そしてその姿が波打ち際まで下りていこうか、と見えた頃、ほんの小さな子供が子犬のように走ってきてその腰にとびついた。少年の弟でもあるのだろうか、しっかりと両腕をまわしたまま、おずおずと―――しかしきらきらした目はまっすぐ結城に向けられていたが、少年が何か言うと不意にきまり悪げにその顔を見上げた。
 あの子だな、と思った。先刻目が覚めた時に見た、もう一対のまなざしの持ち主だ。
 そのまま砂浜に腰を落とした二人の輪郭が、惜しみ無く降り注ぐ太陽光の下にくっきりと浮かびあがる。その光景を少し目を細めて眺めながら、結城はようやく身体を起こした。
 もう、何ひとつ思い残す事などないと、思っていたのだが。
 それでも、かくも生きている事が美しく見えるのは、きっと自分が生きようとしているからだろう。そしておそらくは何回もの偶然が重なったにせよ、自分には生き延びるチャンスが与えられたらしい、と結城はふと確信する。
 まだ自分のものでないような指先をなんとか動かして、ボタンを外す。枷のように身体に絡みついていた生乾きの重い上着を苦労しながらも脱ぐと、だいぶ楽に息が通るようになった。良く知らない異国語が小さく印刷されたラベルを判読するには少し時間も要ったが、少年の薬箱から消毒薬らしいものを二、三本選ぶ。
 岩場から離すとほどなく揺り返しのように目眩の襲ってくる頭をその都度休めながら、だましだまししてどうやら自分の見えるところの傷だけを手当てするのに二時間近くかかった。辺りはもう暮れ始めている。
 強化服がかなり衝撃をやわらげてはくれたらしいが、やはり傷はかなりひどい。脱いだ服まで波模様のように血が染めているのに気づいて、結城は眉をひそめた。自分で見ることのできない背中は別として、血が滲んでいないのはその右腕位のものである。
 機械の右腕。
 ふとその表面に左の指先で触れてみた。
 生身の皮膚よりはるかに硬いその人工の表皮にも、無数の傷跡が削りこまれているが、割れているところはない。指も支障なく動くのに、結城は改めてほっとする。
 何の為の安堵かは、自分でも解らなかったが。
 浜辺の少年達が、遊びながらも時々こちらを眺めている。その視線に思い出して、右腕の接合部分から手袋をはめたままの手首まで包帯を巻きつけながら、ふっと結城はその時自分が嫌になった。訳もなく―――しかし機械の右腕を隠そうとする自分が、どこかでとても大切なものを裏切っているような、そんな気がして。
 しかしそれをあえてそれ以上考えることはせずに、包帯を巻ききると、結城はそのまま上着だけをはおって横になった。
 夕暮れてなおむせ返るような暑さが、ようやくその頃になって意識された。
 凛と凍てつく故国の空を、その最後の記憶に残している結城にとっては、今自分がいるところは時間も空間も、遠く隔てた別世界のように思えた。
 おそらく自分も多少熱はあるのだろうが、その身体を包みこんで熱い空気に、身体の緊張が緩む。落ちる直前の果物のようにたわみながら水平線に没しかかっている朱くおおきな夕陽と、淡々と揺れ続けている波の色がやわらかい。
 自分達が戦い続けてきた、その同じ世界の一方で。
 幾百万回―――幾千万回と変わらず繰り返されてきた、その穏やかな夕暮れを眺めながら、いつ自分が眠りにおちたのかは結城にもよくは解らない。



     三

 夢の内で頬にあたる風は冷たかった筈だった。
 しかし前を行く背中を追って歩く自分が少しも寒さを感じていない事を結城は知っている。それよりも確かな感情が、意識を支配していた。
 緊張と高揚。使命感と―――あるいは覚悟。
 そしてその予感を、まだ目の前の背中に告げる訳にはいかないと、結城はもう一度胸に確かめる。
 先を行くのは風見である。
 二人はデストロンの基地を求めて、この八ヶ岳山中を歩いているのだった。どちらも殆ど口はきかなかった。しかし一見無造作に歩を進めているように見えて、その実風見の注意は絶えず四方へ配られている事が、その頃には結城にも解るようになっていた。
 幸福な家庭に生まれ育ったらしいのは、ごく稀に見せる屈託のない表情に感じとれた。が、風見のおよそ隙というもののない身のこなしを、結城はまるで生来のもののように思う時がある。改造人間として幾多の戦いを経る内にその神経に刻まれた反射は、もはや意識するとしないとにかかわらず、風見の第二の本能のようになっているのだった。その戻る事のできない道を自ら選びとりながら、風見の背中には少しも臆するところがない。ただ一人、どんなに傷つこうとも、何を失おうともひるむ事なく戦い続けてきたそのまなざしは、不思議な程澄んでいるのだった。
 結城は自分が何を案じているのか解らない。自分にそれを尋ねる資格がない事も、百も承知だった。だから感情を持て余しながら、その質問はただ胸の内で呟くだけだ。
(もしデストロンが滅びたとして…そうしたら、君はどこへ行く?)
その戦いのさなかで出会った自分は、戦っていなかった風見を知らない。知らないが、もう風見がこの戦いに身を投じる前に戻れない事は解っている。その為に、造り変えた身体なのだ。
(もう戻れない―――君は、どこへ行くのだろう…)
要らぬお節介である事は解っていながら、案じずにいられないのはふとした時に見てしまったそのまなざしの、驚く程柔らかな明るさと―――けれど絶えずつきまとう悲しみのせいだ。その絶対的な強さとはうらはらに、瞬時にして移り変わっていく気性の鮮やかさに知らず翻弄されながらも魅かれて、同時に寂しかった。
 何故寂しいのかも、まだ結城には解らない。
 そして夢の内でさえ胸がいたむ程その友人の明日を思いながら、逆に自分自身の事はなに一つ思い浮かんではこないのだった。

 目を覚ますと、彼がすっかり見慣れたバスケットを持って立っていた。
『ごめん、寝てた?』
『…ああ』
この一週間で、だいぶ言葉も通じるようになっていた。
『友達の夢を見ていたよ』
へえ、と笑って少年が置いたバスケットには薬や食料と、瓶詰めの水が入っている。毎日調達してくるのもそう簡単ではないだろうに、と結城はふと思った。
『ティアレは元気かい?』
『うん。来たがってるけどね。…大丈夫だよ。僕の言う事はきくから』
ふと顔を曇らせた結城にあわてて明るく言葉の後半をつけ加えて、少年―――アオレレは笑ってみせた。
 この島に漂着した結城を最初に見つけたのは、小さな子供の方だったらしい。ティアレという名のその子供をこの洞窟に近づけてはいけない理由を、結城はまだ少年に説明できないでいる。
 そしてその頼みを容れて弟に言い含め、結城の事も外の誰にも秘密にしていてくれている、この年令より賢い少年に感謝しながらも、しかしだからこそいつまでもその好意に甘えてもいられない、と結城はまた思う。
 傷の癒えるにつれ、その記憶も次第にはっきりしつつあった―――自分がどのような宿業を背負う身であり、その為に自分と係わる人々をいわれのない災いに巻き込んできた事も思い出された今、自分はここで安閑としている訳にはいかないのだ。
 デストロンの組織が世界中にある事を、結城は良く知っている。よしんばその本拠である日本のデストロンが滅び、首領が仮面ライダーV3によって倒されたとしても、その残党が生き延びていないと誰が言えようか。そしてその時、かつてデストロンに与しながら裏切ってその壊滅に手を貸した自分が見逃される筈がなかった。
 それはもとより覚悟の上である。この身体が戦える程回復する迄見つからずに済んで欲しい、などと虫の良い事は望むべくもない。しかしこの少年達を巻き込む事だけは何としてでも避けなくては、と結城は密かに決意している。
『…ごめん、今日はもう行かなくちゃ』
自慢の腕時計をちらりと見やって、少年は立ち上がった。
『クラブがあるんだ。…それじゃ、また明日ね』
軽くなったバスケットを取って小走りに行きかける少年を、結城はふと呼び止めた。
『…アオレレ』
振り返った少年の双眸が逆光の中でも光っている。この島へ流れ着いた時に見た波光と同じ、その輝きを結城は不意に懐かしく思った。
 今、自分が生き延びようとするのが何の為なのかは未だ解らなかったが、その光は確かに結城の心に力を呼び覚ましたのだ。
 たとえもう会う事がなくても、決して忘れない。
『ありがとう。…本当に』
気持ちをうまく言葉にするのは苦手だったが、やっとの事でそう言った。きょとんとしながらも笑って手を振り、少年が海沿いの道を帰っていくのを見送ってから、結城は身体を起こした。
 まだ熱があるらしく、身体の節々が腫れぼったく痛むが、動けない程ではない。岩壁に縋りながら、慎重に膝を立てる。実に一週間ぶりに体重を支える関節は危なげに揺らぎながらも、どうにか伸ばすと思いのほかしっかりと定まった。
 ほっと息をつき、そろそろと岩場を掴む手を放す。
(…立て)
力の入れ方を忘れてしまったような足を叱咤し、一歩前へ踏み出した途端に天地の逆転するような目眩がきた。
「……!」
からくも先に手が出たおかげで頭は打ちつけずに済んだが、洞窟の石壁に寄り掛かったまま、結城はしばらく動けずにいた。
(まだきついな…)
息があがっている。起きるにはまだ無理な状態である事は承知の上で、しかし結城はここから離れなくてはならないのだ。
 庇って戦う事ができないとはいえ、少なくともこの身体が動く限り守りたいものがある。その為に自分は一人でも行かなくてはならない、と自戒するように胸に呟いて、その時ふと結城は妙な気持ちにとらわれた。

 どこかで。
 これと同じ思いに触れはしなかったか。
 そのひどく張り詰めた思いをもつ誰かを、その時はただ黙って見つめていた自分ではなかったろうか。
 そんな思いは一瞬つよく胸に迫ったが、しかし掴もうとした時には既に遠くへ消えていた。
 結城はようやく息を鎮めて身体を起こし、洞窟を出た。
 いつも少年がやってくる左手の海岸線はなだらかな平地につながり、目をこらすとそのおぼろな夕闇の先に人家の灯火らしい光も二つ三つ見える。
 そして振り返った右手の海沿いの岩場に続くのは、早くも昏く闇のたちこめる深い森だった。熱帯のゆたかな樹木は幾重にも枝葉を重ね、おそらく内に潜む者の姿を昼間でも深く隠してくれることだろう。
 その森へ向かってまだ危なげな足取りで歩き始めながら、結城はふと何かを思い出したように遥かな水平線を息をついて見やる。
 その頬に。
 南国の夕暮れには珍しい、冷たい北風が吹いた。



     四

「―――どうした、風見」
呼ばれて視線を戻すと、目の前には本郷猛のいぶかしげなまなざしがあった。
「…あ」
何でもないです、と少し気まり悪げに笑って、風見はソファに座り直した。
 そんな風見を気難し気に本郷は見ていたが、まあいいか、というようにやがて肩をすくめて、カウンターテーブルの向こうの一文字隼人を振仰ぐ。
「隼人、俺にもコーヒーが欲しいな」
「お前も大概人使いが荒いぞ」
なあ、とこちらは風見に向けて笑ってみせると、それでも一文字は作りつけの食器棚からカップを取った。
 窓の外は穏やかに波の打ち寄せる海岸である。今日は良く晴れていて、海も青く静かだった。

 伊豆半島の突端にほど近い建物は本郷の―――正確には彼が相続した―――屋敷である。
 風見がここに来て、もうかれこれ一週間になるだろうか。
 半ばあてどない疾走を続けていた風見の前に、いつもと同じ唐突さで現れた本郷と一文字が、その帰国の目的を語り始めたのはつい一昨日の事である。
 その先輩が彼ららしくもなくためらったのは、それが風見に新たな戦雲を告げるためだったかららしい。
 デストロンの撤退と前後する形でヨーロッパから中央アジアへかけての広範に、新たな組織が台頭しつつあった。実体も規模も不明なその組織についてはっきり解っているのは、既に数人の要人を暗殺しているという事だけである―――目撃者の言を借りるなら「化け物」によって。
(―――改造人間、ですかね)
本郷の話がそこまで進んだ時、それまで黙っていた風見がつとまなざしを上げて低く言った。その言葉で、本郷は全てが伝わった事を知る。
 普通の人間とは異なる姿と、人間以上の力をもつ者達の野望がある限り、仮面ライダーの戦いもまた続く。それはもはや私怨も義務もはるかに越えた、宿命のように。
 いつからか、本郷はそれを悟っている。
 自分をこの異形に造り変えた相手に、与えられた力で挑む事に始まった彼らの戦いが、いつどんな風に変化していったのかは当の本郷にも定かではない。しかし確かに最初は曳いていた筈の復讐の影は、いつかその戦いの中で忘れ去られていったのだ。
 もう生身の身体には戻れない―――その絶望的なかなしみは今も心に切ない痛みを残しこそすれ、だがもはや甘やかな感傷を本郷に呼び覚ます事はない。
 ショッカー、そしてゲルショッカーを倒し、続くデストロンにはついに―――意にそまぬ事とはいえ―――自らの手で造り出した後輩を擁してまで戦った、その理由は本郷の内でしずかに結晶化している。
 誰よりもつよく平和を願いながら、しかし永久の平和などという言葉を信じてはいない。その時の為に、自分達が居る。
 そしてそんな本郷の覚悟を、そんなに深刻になるなよ、と笑いながらも一文字も肯定する。
(俺にはもうとっくにそんな事は解っていたさ)
ただ屈託なく笑って、そう言った。
 平和な時にはその本来の日々に生き、その力を必要とされる時にはもうひとつの姿、世界を守る力を持つ者の矜持にかけて戦う。フリーカメラマンの一文字隼人も仮面ライダー二号の一文字隼人も、どちらも等しく自分である事が解っているから別に今更身構える必要もない、と逆に本郷を力づけるような笑顔を見せながら、ただし、と一文字はそこで不意に真面目な面持ちになった。
(ただし…風見には、もう少し時間をやった方が良いかもしれんな)
言われる迄もなく、本郷もそのつもりだった。
 最後の戦いの後、立花達の前から黙って姿を消したという後輩の行方を掴むのは彼らにとって難しい事ではなかった。そして後輩も、いきなり目の前に現れた二人に別段驚いた様子も見せず、ただ言葉少なにデストロンの壊滅を報告した。しかしその割に晴れない表情の理由を、本郷も一文字も尋ねる事はしていない。短からぬ戦いの内で何を背負い、何を残してきたのかは風見本人にしか解らない事だ。それは待てばやがて時が整理してくれる。
 充分待てるだけの時間は、しかしなかったのだが。
 それでも頃合をみて切り出された本題を、本郷の僅かな懸念を打ち消すような自然さで風見は受け止める。
(―――俺も行きます)
何のためらいもない返事だった。
(俺の命は…この世界を守る為にあると、今は思っていますから)
かつては家族を殺された怒りと悲しみに燃えていた瞳が、その時は静かな決意をたたえて自分を見つめた。そのまなざしに、本郷は風見が一人で越えてきたものの重みを、ふと感じる。自分や一文字とはおそらく違う道を辿りながら、いつかこの後輩は自分達と同じところに立っていたのだった。
 私怨を越え、孤独を越えたところから守るべき世界を見つめる、やさしい目をしている。
 もう大丈夫だ、と思った。
 それでもうそれ以上気をまわす事はやめて、自分達が掴み得た情報を元に立ててきた計画の相談に取りかかったのである。
 今のところ、この組織の拠点と思われる地域は三つあった。オーストリア、ザイール、そして南大平洋のポリネシア諸島。このそれぞれに一人づつが赴き、本拠地をつきとめた者が戦端をひらく。単純な作戦ではあるが、僅か三人の自分達が取り得る最良の手段である。
 この急な話にも、風見は全く動揺を見せない。何のためらいも見せず、熱心に相談に加わっている。しかしその後輩に、時折ふとしたように遠く海の彼方を見つめている時間があることを、本郷は気づいていた。



     五

 あがくように伸ばされた指先まで熱い。
 やっとのことで掴んだ石くれの僅かな冷たさが掌に吸われ、身体の芯まで伝わらないのがもどかしかった。
 森の湿気が傷に障ったらしく、結城は昨日の夜から高熱にみまわれている。どうやら森中の横穴に身を寄せて今朝からの雨はしのげているが、身体の下の土は生温かく湿って重い。
(…熱い)
ぼんやりと見開いた目には、横穴の外に激しく降り注ぐ雨が枝葉を叩いて惜しみ無く流れ落ちるのが映っている。
 あの内に出ていけばきっと快くこの熱を鎮めてくれるだろう、という甘美な誘惑を結城がやっとのことで退けたのは、これで何度目になるだろうか。そんな事をしたら今度こそ命取りになる、という程度の理性は、かろうじて残っていた。
 だがそうまでしてお前が永らえようとしているのは何の為だ、と熱にうかされる感覚が恨みがましく自問する。
 もはや帰りを待つ者も、果たさなくてはならない目的も持たない自分ではないか。今ここで一時の苦痛を和らげようとする事が死につながるとしても、それが誰に迷惑をかけるというのか。海岸の洞窟からもこれだけ離れれば、あの兄弟にも災いの及ぶ事はないだろう。その前ならば、どのみちもう生きている筈もない自分である。それにもかかわらず執着しているこの生に、一体自分は何を期待しているのか。
 息苦しさに寝返りをうった視線の先には、随分長い間動かす事を忘れている右腕があった。
 自分もこの腕のようだ、とふと思った。今はその目指すところを失ったまま泥に汚れている、苦い戦いの記憶と忘れたくても忘れられない過去をもつもの。その全てを越えて、自分がこの腕に再び意味を見い出す日が、果たして来るのだろうか。
 それは結城自身にも解っていない。ただ生きなくては、と思う。たとえ一パーセントでも可能性があるなら自分はそれに賭ける…とかつて自分に語った誰かが居た事が、ふと思い出された。
(…あれは、誰だった…?)
その問いかけに対する答は、苦痛の内にあっても感覚を呑む泥のような昏睡に溶けた。

 目に映るのは、この島に流れ着いて最初の記憶に残した、美しい南洋の夕陽だった。
 結城は海岸に立っている。
 その身体の軽さが、これが夢である事を結城に教えた。
(…そうだな…夢だ、これは…)
しかし夢である事が解っていても、それはこの上なく美しい夕暮だった。
 橙、桃色、そして藍色の混然となった見渡す限りの空と海。大きな夕陽の溶けかかる水平線の辺が、まばゆく光っている。その様に見入っていた結城は、だから波打際に彼が立っているのにも、
しばらくは気づかずにいたのだった。
 彼もじっと夕陽を見ていたが、やがて結城が彼に視線を移したのに気づくとゆっくりと振り返った。
(…夢だな…)
結城は僅かに苦笑する。
 彼がこんなところに居る筈はないのだから。
 しかしそれでも、胸の詰まる程の懐かしさがこみあげてきて、結城は何も言えずにいた。
 陽に透けると柔らかい色に輝く髪と、その前髪の下から自分を見つめる切れ長なまなざし。一見皮肉げにも見えて、だがその目元に温かな表情のある微笑。
(―――風見)
呼ぶと、ついと肩を引くようにしてまっすぐこちらへ向いた。光る海を背負うその表情は逆光になって定かには見えないが、それでも笑っているな、と解った。
 少し首をかしげて目を細めてみせ、それから呟く。
(―――何だ、お前か)
(何だ、はないだろう)
思わず言い返しながら、結城はふっと気持ちがほぐれるのを感じる。
 多分、こんな風に屈託なく話せたら良いとずっと思っていた。しかし状況が、結城にそれを許さなかったのだ。かつてデストロンの一員として知らずにとはいえその所業に加担していた事を相殺できるだけの、何かを成し遂げない限り、自分はきっと本当に風見と肩を並べて歩く事はできないだろう―――とかたくなに思い定めていた結城だった。
 風見は微笑しながら、結城を見ている。そのまなざしは穏やかに落ち着いていた。それでふと気づいて、結城はきいてみる。
(…驚かないんだな)
(何を、だ?)
聞き返してから、ああ、というように風見は肩をすくめてみせた。
(お前が生きていた事、か。…何も不思議じゃないからな)
(?)
(俺は)
その時その声は、不意に耳元で囁かれるような近さで響いた。
(知っていたから)
風見はまだそのまま砂浜に立っている。しかし今は、結城にもはっきりとその表情が見えていた。
 静かな微笑だった。確かな自信と、その自信を礎に他人を信じる事を知っている、その豊かさに―――不思議とどこか寂しい影がある。
 何故だろう、と思いながらも結城はその理由をずっと昔に探し当てた事があるような気がしてならない。だから何かを、彼に告げようと思っていた、その筈だった。ゆっくり話す暇もないまま、失くしてしまったその言葉の空白に、結城は立ち尽くしていた。
(…だから、俺が驚く訳がないだろう)
それでも風見は笑ってそう言った。不思議な程、胸に迫る笑顔だった。何か言わなくては、と思いながら、まさにこの時の為にあった筈だった言葉を失ったまま、結城は変にリアルな夕暮の残光に包まれていた。

 目を開けると森はほのかな夕焼けの内だった。
 いつの間にか雨は止んでいる。深く射し込む弱い光が、枝葉にぼんやりと透けている。雨上がりのひいやりとした風が、熱にほてる頬に快い。
 夢だったんだな、と改めて思った。
 それが解っていながら、夢で交わした言葉の記憶が、変に生々しかった。まるで現実に風見と再会したかのような高揚の余韻が、まだ胸に残っている。そして同時にざらりと凝る悔恨も消えてはいない。
 自分はあの時、風見に何を言いたかったのだろう。
 夢から覚めたとはいえ、その思考の大半は熱に麻痺しているようだった。それでもものうく、結城は思う。
 それはとても、大切な事だった筈なのだ―――自分にとって、そして多分風見にとっても。それを告げてこそ、初めて自分は風見のあの瞳をまっすぐに見つめ返せた筈だった。
 その言葉を、何としてでも思い出さなくては、と結城は目を閉じながら考えた。
 思い出して、今度こそ風見に伝えたい。
 それ以上の思考は浮かんでこなかったが、それで充分だった。
 とりあえずはそれが生き抜く目的になる。未だ生きて成すべき事は見つからなかったが、あの世界を救うただ一人の戦士に告げるべき言葉を自分が持っている、という事は今は確かなのだ。
 その身体をけだるく支配する熱と鈍痛を鎮める方法を、今は休息以外に持たない結城はそのまま長身を丸くして眠る。
 未来の事も世界の事も、まだ考える事はできなかったが、その必要もなかった。



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