1.再会
夜も遅いというのに、扉を開けるとまとわりついてくる空気は芯熱を含んで湿っている。
昼にはこの夏一番の猛暑だったという。そのむせる程の余熱にふと眉を寄せて襟元を緩め、結城丈二はもう一度鍵を確かめてから研究所を後にした。
(すっかり遅くなってしまったな)
とはいえ珍しい事ではない。
結城がこの東京都下のT大宇宙工学研究所に非常勤の形で通い始めてかれこれ半年になるが、三日に一日は鍵を預かっている見当になるだろうか。つい研究に熱中するあまり時間も何も忘れてしまう悪い癖は、なかなか直りそうもなかった。
そして歩きながらも明日の予定を考えている結城の、アパートへの帰り道も既に足に馴染んでいる。大通りの曲り角でいつも見上げる他所の庭の大木は穏やかに枝を闇に溶けこませているが、自分が越してきた頃には確かしろい大輪の花が夜目にも鮮やかだった、と結城は思い出す。
平穏な日々が過ぎていた。
たった半年前に、人類の命運を賭けた戦いがあった事など信じられない程に。そんな戦いがあったことすら人々は―――ほんの一握りを除けば―――知る由もない。
それが自分達の戦いだった。誰に知られる事もなく、ただ自分の信じる正義と、守りたい全ての為に人智を越えたものと戦う。
その仲間達とはなれてしまえば結城自身にさえ異世界の事のように思えてしまう現実離れした戦いの記憶を、しかし今静かに結城は思い返している。
戦いの後、それぞれの生活に帰っていく仲間達と再会の約束はしなかった。
何故なら―――次に会う時は。
ふっと結城は足を止めた。止む筈の足音よりしかし一瞬遅く、深夜の住宅街に響いた靴音に、微笑した結城のまなざしが、しずかに科学者の色を消す。
「―――誰だ」
返事はない。結城はその場に鞄を下ろし、右の手袋をはめ直しながら言葉を継いだ。
「研究所を出た時からずっとついてきているな。僕に用事があるのだろう?出てきたらどうだ」
少し待つと、背後の気配が動いた。ゆっくり振り返ると、角から一群の黒い影が現れた。弱い街灯の光では定かには解らないが、どの影も目の部分だけを残して頭から足先まで暗色のスーツにぴったりと身を包んでいる。
「…気づかれては仕方ない」
一人だけ腕に小さな徽章をつけている、どうやらリーダー格とおぼしき男の声は、覆面に低くこもった。
「『東雲』計画制御系プロジェクト担当主任結城博士。おとなしく我々と来ていただこう」
その言葉と共に、影が密やかに動いて少しずつ結城を囲む布陣を整えている。手際の良い、訓練されたその動きはこの集団が規律のとれた組織である事を物語り―――そしてその無言の統制は、明らかにある種の人間離れした気配を含んでいた。
「…最近ロケット工学の研究者が誘拐される事件が相次いでいると聞いていたが」
しかしその包囲にちらりと目をやっただけで、結城は再びリーダーに視線を戻した。
「どうやらお前達の仕業だったようだな」
「だとしたら、どうだと言うんだ?」
まばたきひとつせずに答え、彼はつと一歩前へ出た。それが合図だったらしく、ぴんと周囲の空気が張り詰める。
「おとなしく一緒に来れば良し、…抵抗するつもりなら、こちらも少々手荒な真似をせざるを得んが」
俄にあらわになる悪意に、ふっと結城の眉が険しく寄せられた。
「どういう真似だか、見せて貰おうか」
「……」
無言でリーダーの上げたまなざしの方向で背後からの攻撃と読み、繰り出された結城の右肘の突きが影の拳を躱して鳩尾にきまる。その場に音も無く崩れ落ちる敵には目もくれず静かに腕を引くと、結城はそのまま壁を背にまわした。
やはり改造された戦闘員だ。倒された時にその組織の証拠を残さない為、即時に身体を塵のかたちに分解する生体改造技術は、結城自身がかつて身を寄せていた組織の昔から変わらない。
次々と向かってくる影達の攻撃を紙一重で躱しながら、確実な一撃で倒していく結城の動きは、とてもこの半年間研究に没頭していた科学者とは思えない鋭さである。それはもはや半ば本能のように、結城の身に備わった能力だ。
(変身するまでもない…)
おそらくは研究室にこもりきりの学者を拉致するつもりで差し向けられた部隊ではあるのだろうが、改造体とはいえこの程度では仮面ライダーの名に列するこの青年に対しては明らかに役不足である。
「…さて」
身体をひねりざま蹴りをいれた影の身体の一瞬の重みを膝にため、返す右腕で業を煮やして襲いかかってきたリーダーの拳をの側面を止めると同時にその手首を捻って地に身体ごと押し伏せる。変身前でさえ常人の数倍のパワーをもつ彼の右腕は、少し力をこめただけで捻った手首の骨をきしませた。
「聞かせて貰おうか…誘拐した人達をどこへやった?」
問いかけながらぐっと力をかける。
「…解った」
顔を歪ませながらリーダーは呻いた。
「言うから…放してくれ、言うから」
その言葉に少し力を緩めようとした、その時である。
(!)
結城の反応はまさに間一髪だった。
「ぎゃあっ…!」
背後に感じた僅かな殺気に身体をひいた結城の頬をかすめて、一発の銃弾がリーダーの背を貫いていた。苦悶の表情は一瞬で、虚空を掴む指先からそのまま身体が砂と化していく。
右手に押さえた手首が形を失う感触より早く、結城は殺気の方向を振り仰いだが、しかし狙撃者の気配は既に消えていた。
追っても無駄か、と溜息をついて、結城は仕方なく手袋の埃を払った。その足元で、たった今まで人間の形をしていたものが細かな塵となって淀んだ大気に溶けていく。
(やはり、きちんと調べ直してみる必要がありそうだな…)
それは一ヶ月程前から新聞紙上で相次いで報じられている連続誘拐事件である。休暇で一時帰国していたNASAの科学者を皮切りに、ロケット工学関連の研究者ばかりを連れ去り、現場に居合わせた家人や助手は一人残らず惨殺するという手口から同一犯による犯行と目されながら未だ捜査当局は解決の糸口すら掴めていない。
おそらくは警察の手におえる事件ではないだろうと、報道の内容から結城は薄々気づいている。多分これは自分達の領域だ。
仲間と連絡を取る前に自分でもある程度の目星はつけておこうと時間をみて調べ始めたその矢先に、まさか自分が明朝の紙面に五人目として載り損ねる羽目になろうとは流石に思わなかったが。
ある意味得難い機会だったとはいえ、そこには何の証拠も残ってはいない。今日のところは引き上げるとするか、と鞄を取る。
改めて歩き出そうとして、しかし結城は足を止めた。
「―――ずっと居たのか?」
「まあな」
壁の向こうから、気のない答が返ってきた。
「見物とは、人が悪いぞ」
少し怒ったような口調とは裏腹に、結城の目は笑っている。
「あの程度で手こずるお前でもないからな」
悪びれる色もなくあっさりと言ってのけると、壁から離れた長身が青白い街灯の光に浮かび上がった。
「久しぶりだな、結城」
風見志郎はその友人に、どこか人なつこげにさえ見える微笑を見せた。
「風見!」
ついつられる形で笑い返し、結城は走り寄った。
「いつ帰ってきたんだ?」
「三時間前に羽田に着いてな。…もう少し早く来られるかと思ったんだが」
そこで言葉を切って、風見はついと自分の頬を拭う仕種をしてみせた。それで気づいて触れた頬に残るぬるりとした感触と、ようやく思い出したように痛み出す傷に結城は顔をしかめる。
さっきの銃弾がかすめたらしい。
「…どうやら事情は説明しなくて良さそうだな」
ややあって、風見は低く言った。
「多分な。…と言いたいところだが、僕はまだ何も調べてないんだ」
「だがお前は、きっと俺の知りたい事を知っている」
言いながら風見はきびすを返し、先に立って歩き出した。
「俺も手土産位は持ってきたからな」
蛍光灯の下に一畳程もある「手土産」を広げて、さあどうだ、と風見は結城を見やった。
「―――解るか」
「解る」
低く答えた結城のまなざしは、その紙の上の無数の線の分岐をじっと辿っている。大きな紙に、しかし目の眩む程精密に書き込まれた設計図は質の悪い複写らしく線がところどころぼやけて読み難い。
「…ロケットの設計図の一部だと思うが」
しばらくして結城は顔を上げた。
「ロケット?」
「の、一部だ」
生真面目に訂正して、指でその線を辿る。
「…N−Iロケットにちょっと似たロケットだな。ブースターの部分だろう。…で、これは?」
「ああ、こいつは一昨日一文字さんが俺に送って寄越したんだ」
結城の手が離れると早々に紙を畳み直しながら風見は答えた。
「一文字さんが?」
「あの人今、イタリアに居るんだが」
仮面ライダー二号―――一文字隼人の本業はカメラマンである。
「仕事中に奇妙な水死体を拾ってな、この図面はそいつが握りしめてた奴のコピーだそうだ」
「奇妙な?…ふうん」
結城もそれ以上経緯を聞く事はしなかった。そういう曰くのついた代物を一文字が風見に送ってきた、というだけで充分である。
風見はそんな結城の横顔を眺め、彼にしては珍しく何かを言い淀むように眉を顰めていたが、その気配に顔を上げた結城と目が合うとふっと肩をすくめてみせた。
「…一文字さんがこいつを俺に送ってきたのは、お前に見て貰うつもりだったからだが…勿論それだけで俺がわざわざ帰ってきた訳じゃない」
結城が頷くのを待って、言葉を継ぐ。
「ひとつには、俺は帰ってきたんじゃない。日本までDICを追ってきたんだ」
「DIC?」
「初めて聞くって面だな」
少し皮肉っぽく笑った、その表情はしかしどこか安堵しているようにも見えた。それが何故かは、まだその時の結城には解らなかったが。
「正式には《Destruction for Ideal Cosmos》とか何とかいったと思うが…北米から出てきた組織だ。前身は良く知らんが、理念は選ばれた民である改造人間による理想社会の実現。…もっとも俺にも奴等の実体が掴めたのが一月くらい前だから、あまりはっきりした事は解らんがな」
どこも似たようなものだ、と結城は思う。口実としての理想。支配者の為だけのユートピア。その嫌悪感は、しかし今でさえ僅かに自嘲の色を帯びている。
「―――おい、聞いてるのか?」
風見の声に、結城はあわててまなざしを上げた。
「…東ドイツで活動していた奴等の行動部隊が、日本に来ている。何を始めるつもりかは知らんが、一文字さんはこいつが」
話しながら進めていた最後の一折りに添えた指で、とん、と設計図を叩く。
「それをつきとめる手掛かりになると思ってるらしい」
結城は頬杖をついてしばらく考えていたが、やがて思い出したように尋ねた。
「なるほどな。…それで?」
「それだけだ」
風見はまばたき一つせずに答えた。
「それだけの根拠で俺が帰ってくる程の事もない。そう言いたそうだな」
予想していた不審を結城の表情に読み取って、先手を打つ。こういう時この友人は話をはぐらかしたり言い抜けできる程器用ではない。
「…まあな」
「そうかも知れん。…だが俺の勘は外れた事がないんだ。賭けてもいいぞ」
だから自分の答が正直でない事は、少し気が咎めないでもなかった。異国の戦線で耳にした、ある情報―――それがなければ自分は日本に居る事が解っている結城に連絡するだけでこの件は済ましていた、その筈である。
しかし自分の帰国の理由を、風見はまだ結城には告げまいと決めているのだった。
「ところで今度はお前の方の状況を聞こうか」
わざと口調を変えて、風見は試すように結城を見やった。
「僕の?」
「遠路はるばる帰国した仲間をそっちのけで取り込み中だった、あの連中だ」
「あれは…」
「調べはついてるのか」
いたって真剣に尋ねてくる風見に、そういえばまださっきの事情を説明していなかった事を結城は思い出す。
思い出した途端、いきなり気が重くなった。
「…いや」
かといって嘘をつく訳にもいかない、と渋々口をきる。
「僕に解っているのは、奴等がこれまでにロケット工学関係の科学者を四人誘拐しているという事だけだ」
「科学者?」
風見はきょとんとした顔になった。
「という事は何だ。お前もしかして、誘拐されかかってたのか、あれは?」
「…まあ、そういう事になるかな」
憮然とした面持ちで答えると、結城はテーブルに突っ伏している風見をじろりと睨んだ。
「そんなに笑わなくたっていいだろう」
だから言いたくなかったのだ。
「…だがなお前」
ようやく顔を上げながら、まだ風見は笑っている。
「滅多にある事じゃないぞ、仮面ライダーが敵組織に誘拐されるってのは…すまんすまん、そう怒るな」
そこでやっと真顔に戻ると、宥めるように結城の背を軽く叩いた。
「…別に怒っている訳じゃない」
流石に大人気ないと思ったらしく、勢い良く立ち上がると、結城は照れくさそうに笑ってみせた。
「とにかく今夜はもう遅い。ひと休みしよう」
時計はいつの間にか三時をまわっている。もうすぐ夜明けだが、少しでも休んでおくにこした事はない。
完璧な改造人間に近い風見が数日間は眠らなくても活動できる事は知っていた。しかし生身に近い自分がその風見と行動を共にしようと思うなら、僅かな時間でも眠っておかなくては、と横になる。
目を閉じたものの寝つかれないまま、結城は闇の内で目を開けた。
「…風見」
「なんだ」
そしてやはり眠ってはいなかったらしい。呼ばれる事を知っていたような、落ち着いた声が答えた。
「…どうやら、繋がったな」
風見の持ってきたロケットの部品の設計図と、誘拐された科学者達。
答は出たも同然である。
「となると…僕はもしかして、敵の懐に飛び込むチャンスを自分でぶち壊してしまったんだろうか」
「そうかも知れんな」
風見は空返事をしながら、ふとまなざしを厳しくした。
「だとしたら…もし次の機会があるなら、今度は奴等の手にのってみようと思う」
呟いて、結城はそのまま風見の言葉を待った。
「…危険だな」
少し考えて、風見は独り言のように言った。予想外といえば予想外の言葉に結城がふと向けたまなざしを、しかし避けるように天井を見つめたまま言葉を継ぐ。
「危険だが…それしかあるまいな」
言い切ると、寝返りをうって背を向けた。
「風見」
もうそれ以上の答は返ってこなかったが、決して眠っている訳ではないその背中を、結城はじっと見つめていた。
風見はいつも自分の前に唐突に現れる。
今更意識するまでもないその事実を、結城はふとその時初めて知ったような気がした。
いつの頃からかは知らないが、どんなに離れていても―――たとえ地球の裏側に居ようとも、風見には自分の居場所が解るのだと言う。そのある種の精神感応能力の理由を以前風見に尋ねた時、仮面ライダー同士ではその力がはたらくのだ、と平然と答えられた事を思い出す。
だからあの言葉は予想外だったのだ。
(危険だな)
何が風見にそう思わせているのか、と結城は自問する。
組織という閉じられた世界の中に、研究者としてとらわれていく事―――それに良く似た状況を、風見も自分も知っている。
今はもうまっすぐに顔を上げて語れるようになったその過去を、再現するにも等しいその賭けを、あるいは風見は懸念するかもしれないと思ってみた。
それは仕方のない事だと認めながら、だがもしそうならば心配には及ばないと思う。
何故なら自分は、その過ちを繰り返さない為に戦う事を選んだのだ。
自分自身で正義と悪とを見極め、信じた正義の為にこそこの頭脳も力も使おう。もう何年も前にその誓いをたてた時も見ていた背中を、結城は見つめる。
(…だから、なあ……風見…)
夜明けも近い闇の中で、やがて結城の息遣いが落ち着いた寝息にかわるのを背中に聞きながら、しかし風見は目を開いていた。
伝えればかえって結城に冷静な判断力を失わせる。だから確証がとれる迄は言わずにおこう、と決めたその一件は、風見自身の心にもどこかで影を落としている。
結城が考えていたような懸念に関しては、風見は何の心配もしていない。昔話をいちいち気にかけるような性格ではなかったし、その友人の意志のつよさと一途さを、誰よりも良く知っている風見である。
だから気にかかっているのは全く別の事だった。
しかしそれを確かめる術は未だなく、それが解るまで動かずにいる訳にも行かない事を、風見は知っていた。
「―――貴様よくもおめおめと帰ってこられたものだな」
窓から僅かにはいる青ざめた夜明けの光が、怒りに震える灰白色の毛皮の上に細かなさざなみを走らせている。まだ眠りから覚めたばかりだったが、かっとその目は見開かれていた。禍々しい光を漲らせた赤い目が、闇の中に向けられる。
「俺をさしおいて勝手な真似をしおって…一体どういうつもりだ!」
「…ああ、気分を害したようなら謝っておこう」
対する密やかな含み笑いの主は、まだ光の届かない闇に佇んでいる。どれだけ目をこらしても、闇に溶けるその姿の輪郭を見定める事はできなかった。
「たまにはな、外へ出てみたくなったのさ」
暁闇に馴染んで笑う、それは詰問などまるで意に介していない風の、穏やかな声だった。
「貴様…あまりいい気になっていると」
さあっと銀色の毛並が逆立った。異形の主が詰め寄ろうとするのを、闇の密度がついと動いてかわす。
「…それにしても」
しかしそう呟いた口調には、底冷えのするような殺気が漂っていた。
「どうして大した科学者だよ。今までのようなつもりでいてはお前もしくじるぞ、フリーズラット」
「何を…」
言い返そうとした時には、相手の気配は既に闇を抜けて去っている。行き場を失った罵言を低い唸り声に飲み込ませて、彼は毛皮に包まれた耳を不満げにひくつかせた。
2.遭遇
真昼の陽射しがマシンルームの機材にしろく照り返していた。
「―――136番から143番まではOKです。144番145番がNG、146番から151番がOK、
152番がG系内で停留、キャンセルします」
チェックボードとコンソールを見比べながら助手が眉を寄せる。テストを強制終了するコマンドを投入するオペレーターの密かな溜息を背中にきいて、結城は窓の外を見やった。
月曜日から始めた制御系のスルーテストは、この水曜日になっても当初の予定を消化できていない。
その原因を他の事情に負わせる気はなかったが、それでも結城本人に関しては影響していないと言えば嘘になるだろう。
あの深夜の襲撃から今日で丁度一週間になる。風見は既に上陸している筈のDICの足取りを追って昼夜を問わず奔走し、当座の拠点と決めたらしい結城のアパートにもほとんど帰ってこない毎日である。そしてとりあえず「囮」として表向きは今の生活を崩せない結城も仕事の合間をぬって過去四件の誘拐事件を調べ直していたが、そのどちらもこれといった成果は挙がっていなかった。今のところ唯一の突破口となる可能性のある再襲撃も、さっぱり音沙汰がない。
まさか一回の失敗で諦められてしまった訳でもあるまいが、と思いながら結城は声を張り上げた。
「二〇分休憩しよう。二時から再テストに入る。それまで解散、…G系の設計だけ、ちょっと残ってくれ」
張り詰めていた場の空気が、ほっと緩む。大半のメンバーが一息入れに外へ出ていくと、広いマシンルームには結城と、先刻からエラーの頻発しているG系サブシステムの設計チームである三人の助手が残った。
「…さて」
どうやらこのサブシステム内でデッドロック制御の働かない条件が発生しているようだ。本来なら設計段階でクリアされている筈の問題だが、スルーテストで出たエラー内容から解析すれば原因の特定はさほど難しくない。この休憩時間中に問題点を詰めておこうか、と結城が向き直った、その時だった。
《結城!》
耳元でいきなり怒鳴られて、一瞬視界が揺れた。
いや、耳元ではなく―――正確には耳の内である。
《とうとうおいでなすったぞ…奴等だ!》
風見の声を伝えているのは、耳に入っている超小型のイヤホーンだった。ダブルライダーのように複雑な情報をやりとりできる精神感応能力をもたない彼等が非常時に使う通信手段である。
《車は黒のフォード、国道×号線からそっちへ向かってる。…と》
そこでマイクを離したらしく、急に風見の声が遠のいた。
《…まずいな、気づかれたらしい…》
「風見」
風見も身につけている筈のイヤホーンへ送信できるマイクは、結城の左袖のカフスボタンに仕込んである。
「深追いするなよ、どうせ行き先は解ってるんだ。…風見」
返事はなかった。
「おい、風見?」
《…ちっ!》
かすかな舌打ちと共に結城の耳に飛び込んできたのは、金属質のもの同士が互いに押し潰そうとぶつかりあって軋む、不快な雑音だった。そのささくれだつような雑音が耳を圧しては遠のき、ふっと途切れた次の瞬間、頭が吹き飛ばされそうな轟音がイヤホーンから弾けた。
「風見!」
「…どうしたんです、結城さん?」
訝しげな助手の声に、しかし構っている余裕など結城にはなかった。
「風見!大丈夫か、風見!」
《…そんなに怒鳴るな、頭に響く》
イヤホーンの向こうの渋面が見えるような声がややあって聞こえて、結城はほっと肩を下ろした。
「大丈夫か?」
《俺は大丈夫だが…あいにくマシンがこれ以上動かん》
「動かない?ハリケーンがか?」
結城はそう聞き返していた。仮面ライダーV3の愛車ハリケーンは、その主人同様に変身前は普通のバイクと外見上変わらないとはいえ、滅多な事で動かなくなる筈はない。
《今はそんな話をしてる場合じゃない。…いいか結城、良く聞け。奴等がそっちへ着くまでもう時間がない》
そしてその時、結城も気づいていた。長く喋ろうとするとあがる、風見の息。ハリケーンを作動不能にする程の攻撃を受けた以上、多分風見も無傷で済んではいない。
《奴等、この前でだいぶ懲りたらしい…下手な手出しはするなよ》
「解っている」
答えながら、結城は窓に寄った。研究所の正門までは見通しの良い一本道だ。ここから来るなら見える筈だ、と目をこらすと、彼方に黒い影が小さく見えてきた。
(…まさか)
そう思いながら見定めようとする間もあらばこそ、黒い自動車が猛スピードで突っ込んできてブレーキを軋ませながら玄関に横づける。
予想以上に早い。
車のドアが乱暴に開き、先日と同じ黒装束の一団がばらばらと走り出してくる。そこまで見て結城は室内に視線を転じ―――しまった、と思った。
事態の急展開に気をとられて、助手達を逃がすのを忘れていたのだ。三人の助手は先刻からの結城の不可解な行動に、茫然とその場に立ち尽くしている。
遠くで女性の甲高い悲鳴があがった。それが玄関を入ったところで不幸にも彼らに出くわしてしまった所員の最期だった事を、まだその時結城は知らなかったが、迷う気配もなく複数の足音がその悲鳴を踏み散らしてこちらへ向かってくるのははっきりと聞き取れた。
もう事情を説明している時間もない。
「―――逃げるんだ、中島くん!」
悲鳴に何事か、と戸口へ向かいかけた助手の腕を、掴んで窓へ押しやる。退路はそこしかない。
「結城さん?」
「いいから、早く!」
すぐにも奴等がやって来る。とにかく早く逃がさなくては、と立ち惑う助手を窓枠へ上げる事に懸命になっていた結城が、事情は解らないながらもとにかくこの場を離れようと戸口へ走り出した別の助手に気づいたのは、しかし一瞬遅かった。
「駄目だ、そっちからは出るな!」
制止ももどかしく振り返った結城の目に映ったのは、手をかけた扉ごと肩口から一直線に切り倒された助手の姿だった。
そして。
たった今吸わせたばかりの血を、両手首から腕に沿って延ばした細身の刃の切っ先から点々と滴らせながら。
黒装束の一群を影のように従えたその異形が、扉の残骸を踏み越えて現れた。
(改造人間か…)
恐れる風もなく厳しいまなざしで見据えてくる結城に、異形の主は少し驚いたようだったが、やがてにやりと笑った。
「…先日は失礼しました、結城博士」
物腰こそ慇懃ではあったが、その声音は威圧感を露骨にして品がない。
「私は偉大なるDICの改造人間フリーズラット。以後お見知りおきを」
名前からすると鼠の改造人間らしいが、その割にはかなりの長身である。全身灰白色の毛皮に被われている事と、その頭上に小さく突き出した耳と尖り気味の鼻面が、見ようによってはその原形を想起させない事もなかったが。
「お迎えにあがりました。我々と一緒に来ていただきたい」
「どうせ僕に選択の権利はないんだろう?」
結城はまだ掴んだままだった助手の腕を後ろへ押しやって、まっすぐに向き直った。
「良いだろう。但し一つ、条件がある」
「ほう?何でしょう?」
「僕が貴様達と行く代わりに、他の人間には手出しをしない事だ。もし断るというなら」
ぎゅっ、と握りしめた右手に力がこもる。
「一週間前と同じ返事をする事になるぞ」
風見の言葉を忘れた訳ではなかったが、しかし結城はその時はっきりと闘志を表に出していた。
過去の事件四件全て、現場に居合わせた人間は一人残らず惨殺されている。
(僕の為の犠牲など、出させてたまるか…)
本当ならば敵が来る前に、周りの人間は遠ざけておく予定だったのだ。いささか遅きに失したとはいえ、結城はまだ諦める訳には行かなかった。
たとえここでその常人離れした力をふるい―――それが自らを窮地に追い込む事になろうとも。
「我々と戦おうとおっしゃいますか。見上げたお心掛けですな」
フリーズラットは皮肉げに笑いながらも、しかし流石に戦闘用改造人間らしく、目の前の科学者が単に虚勢を張っている訳でもない事を察したらしい。
「…ですがその度胸に免じて、少し時間を差し上げましょう」
どうやらその意志で収める事ができるらしく、両手の刃をゆるりと腕の内に閉じると、フリーズラットは恭しい身ぶりで戸口までさがった。
「―――中島くん」
結城は振り返らずに、背後の助手に低く声をかけた。
「福山くんと…藤田くんを連れて逃げるんだ」
しかし返事はなかった。恐怖に声も出ず、足も動かないらしい。無理もないが、と結城は溜息をつき、視線はフリーズラットから外さないまま、倒れている助手にゆっくりと近づいた。
白衣の肩口から腹まで大きく斜に染めている血の赤に一瞬どきりとしたが、浅手なのを手早く確かめる。ショックで気を失っているだけだ。すぐに病院へ運べば命に別状はないだろう、と安堵してゆっくりと抱き起こす。腕を組んだままこちらを見据えているフリーズラットに思いきって背を向けると、コンソールの横で先刻から立ちすくんでいる大柄な助手の両腕に同僚の身体を担わせた。
「福山くん、頼む」
背後への注意は逸らさないまま、しかし力づけるように微笑すると、硬直していた助手の表情が僅かにほぐれた。
どうやら本当にフリーズラットは静観するつもりらしい。
そう思いながらも警戒は解かずに、そっと助手の背を押して窓の方へ歩かせる。
「―――すぐ病院へ行くんだ。いいね」
窓を開け、軽く押しやるように両手で二人の助手の背を叩いた。
それが催眠術か何かの解ける合図ででもあったかのように―――あるいは窓から流れ込んできた熱い真昼の風が本能的な生への欲求を呼び覚ましたものか、俄に生気の戻った彼等が、それでもまだ幾らか心残りらしく振り返りながら窓を越える。
「早く」
結城は小声で急かした。長引くと、敵の気がいつ変わらないとも限らない。
まだどこかおぼつかない足取りで助手達の姿が建物の向こうへ消えるのを確かめると、結城はゆっくりと窓を閉めた。
「気は済まれましたか?」
フリーズラットの声に、そのまま振り返る。
「ああ」
それでも反射的に力の入ってしまう右手をそっと背の後ろへひいて、闘気を消した。
「どこへでも連れていくといい。…今さら逃げも隠れもしない」
「では」
結城も背は高い方だが、冷気をまとってふわりと目の前に立ったフリーズラットは更に頭半分も長身である。その長躯から見下ろしてくる赤い眼が、獲物を捕らえた悦びにふときらめいた、と見えた。
「行き先を知っていただいては困りますのでね。…失礼」
次の瞬間、鳩尾に深くはいった拳に、そのままもたれかかるように科学者の身体がくずおれた。その身体を腕一本で抱えると、フリーズラットは満足げに帰還を命じた。
いつか雑音しか伝えなくなっていた耳の内のイヤホーンで、自分が気を失っていた事に気づいた。もどかしい指でその雑音をかきのけ、風見は息をつきながら灼けたガードレールに背をもたせる。
(だいぶ遠くまで行ったな…)
となれば、これから先は無線よりも彼自身の感覚の方が役に立つ。
友人の意識をとらえよう、と背筋を伸ばした途端、右の脇腹に走る鋭い痛みに思わず息が止まった。ずっと押さえたままだった左手は、もう指が血糊で固まってしまっている。
俺とした事が不覚だったな、と苦笑して貼りついてしまった掌を引き剥がすと、白いシャツの腹を染める真紅が眼の眩む程鮮やかだった―――目眩が勿論そのせいでない事は解っていたが。
前後の車に挟まれて退路を塞がれ、真中の車に繰り返し幅寄せされてハンドルを離さないだけであの時は必死だった。車の窓から突かれた細い刃を躱す余裕などある筈もなく、ほとんど無防備に刺された腹の傷は決して浅くはない。
(やってくれるな…)
思わず洩れかけた呻きを殺して息を詰めながら、風見はその刃の主の風貌を思い出す。あの体色と顔の造りからすると鼠の類いの改造人間だろうか。風見を刺した瞬間、車の窓から見上げた赤い小さな瞳が、貪欲な殺戮の悦びに光っていた。
そして車とガードレールの間で押し潰されかかったマシンは、風見がどうにか速度を変えて逃れたおかげで全潰は免れたとはいえ、まだ薄青い煙を細く吐きながら傍に転がっている。どうやらちょっとやそっとでは動くようになってはくれそうもない。
あれだけ引きずられれば当然か、と眺めた遠いカーブの彼方から、ガードレールは波打って外側へひしゃげたまま続いている。知らず傾ぎかけていた身体を起こそうと歪んだガードレールを掴んで、風見はふと眉をひそめた。
(…尾行が下手になったか?)
そんな筈はなかったのだが―――少なくとも先を行く車に気づかれるようなへまはしていない、という自信はあった。
と、するなら。
かすかな気配を逃さず、ぱっと背後の森を振り返った。
(居たな…)
仰いだ視線からは、どうやら間一髪逃れられたようだったが。
しかし今しがたまで自分の背後についていた監視者の眼を、風見ははっきりと感じたのだ。
(間違いない…俺の尾行を車に連絡したのは、奴だ)
なお油断なく、注意を四方に巡らす。しかし流石に気づかれた事が解ってまでその辺にうろうろしているような真似はしないらしい。
舌打ちしてもう一度深々とガードレールにもたれ、風見は空を仰いだ。
目が眩んで、空の青さすら良く解らない。じりじりと照りつける太陽と痛みで吹き出す汗が、肌に粘りつく。
このままぐずぐずしていては、いくら自分でもそう長くは保つまい。
意識のある内に何とか結城のアパートまで戻らなくては、と気力を振り絞って身体を起こしたその手に、さっき取ってしまったイヤホーンが触れた。これを失くしては困る、と
かすかに苦笑して手探りでポケットに押し込むと、ガードレールに肘をかけて縋るように立ち上がる。
(…!)
世界が逆転するような感覚が、風見の身体をガードレールに押しつけた。身体の軸が揺らいで、なかなかまっすぐ立てない。やはり思った以上に傷は深いらしい。
しかしこんなところで倒れる訳にはいかなかった。
ともすれば崩れそうになる膝を叱咤し、感覚のなくなりかけている足をどうにか進める。
その背を、むせるような真昼の熱風が吹き過ぎていった。
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