1. 十二月二十七日夜半
みぞれ混じりの冷たい雨が夕方から降り続いている。
いつ止むとも知れない雨にけむる闇の中を、ただひた走るマシンがあった。容赦なく叩きつけてくる雨にかすかに目を細めながら、風見志郎はひたすらにハリケーンを駆る。
風見志郎―――仮面ライダーV3がデストロン怪人カミキリシザースと一戦を交えたのは、その日の昼過ぎの事である。決してV3に有利な戦いではなかった。それは当の風見自身が一番良く知っている。今もハンドルを握る手に力をこめる度に、カミキリシザースの両手の変型である巨大な鋏によって傷つけられた右肩に鋭い痛みが走る。
おそらくあのまま戦い続けていれば、よしんば勝てたとしても、これ以上の深手は免れなかったろう。しかしそれにもかかわらずデストロンは途中で―――全く唐突に戦闘を中止した。
何かある。風見はそう睨んだ。デストロンが勝利をほぼ手中にしながらみすみす引き下がるには、それなりの訳がなければならない。
そしてそれだけの理由ならば、傷をおしてもつきとめる価値はある筈だった。デストロン最大の宿敵・仮面ライダーV3の抹殺よりも、デストロンが優先させたその真相ならば。
カミキリシザースが退却していった方角を唯一の手掛かりに走る風見は市街地を抜けて、駅裏のビル街にさしかかったところだったが、デストロンの痕跡らしいものは何も見つからない。
少し方向を変えてみるか、と風見が横の路地へふと目をやった、その時である。
「―――!」
風見はブレーキをかけた。
ハリケーンのライトのつくる僅かな光円の中に、中型のバイクが一台、横倒しになっている。転倒したまま乗り捨てられたらしく、雨にうたれるままエンジンを咳き込ませているそのバイクにどこか見覚えがある、と思った瞬間、風見はハリケーンから飛び下りていた。ライトをつけたまま近寄って、その仕様を確かめる。
間違いなかった。
「……結城!」
膝を起こし、辺りの闇へ向かって風見は呼んでみた。答える声はない。しかしすました風見の耳は、雨の内に足音を消して走り去るデストロン戦闘員のものとおぼしき気配を捉える。その方向へ走りながら、風見は雨音に紛れてしまうどんな細かい音も聞き逃すまいと神経を研ぎすませ―――やがてようやく掴んだかすかな息遣いが、風見自身でもデストロンでもないものの居場所を教えるのを待つ。
そして。
風見は足を止めた。雑居ビルの谷間、ようやく人ひとりが通れるかどうかという隙間の奥に、誰かが膝を抱いてうずくまっている。
「―――結城」
返事はなかった。
「結城だな?」
ゆっくりと近づきながら、風見はもう一度確かめるように声をかけた。黒いコートの襟をたて、世界の全てから自分を隠すように長身の背を丸めている青年の傍に膝をつき、その肩に手をかける。
「!」
風見の目が大きく見開かれるのと、結城丈二の身体がゆっくり風見の腕に倒れかかってくるのとはほとんど同時だった。
黒いコートの下の、薄茶のスーツが右胸から腹にかけてまっすぐ一文字に切り裂かれている。その切口から流れる血が、雨と混ざってスーツの腿までうすあかく染めていた。
「結城!」
肩をきつく揺さぶると、うっすらと目が開いた。しかしその双眸の焦点は合っていない。
「……風見…?…」
かすかに声とも喘ぎともつかない息が喉をくぐる。と、ゆっくりと瞼が下がり、そのままぐったりともたれかかってきた結城の身体を、あわてて風見は支え直した。
「おい、結城!……」
抱き起こして頬を軽く叩いたが、その目は固く閉じられたままでぴくりとも動かない。
この雨の中に随分長くいたとみえ、結城の身体は雨を含んでずっしりと重い。
ともかくこのままでは、と膝の下に腕をまわして身体を抱き上げ、風見はふと眉をひそめる。
風見が結城と知り合ってかれこれ一月になる。しかし風見は、この青年科学者がまだ自分の事を本当に味方とは思っていない事を知っている。
ただひたすらに、自分を助ける為に命を落とした助手の復讐を誓い、信じていたデストロンの正体を知ってなおその一途さゆえに、もはやどこにも身を寄せるまい、と風見の前から去っていった彼である。
その結城が、かくも無防備に他人に身体を預けているのだ。
傷は決して見た目より軽くはないと知れる。
膝を起こしてもう一度その腕の内に身体を支え直し、風見はきっと唇を結んできびすを返した。
薬を補給しておく暇などなかった、とはいうものの、風見の手持ちの薬品では明らかに足りそうもない。真夜中に開いている店とてある訳もなく、風見は結局少年ライダー隊本部まで出向く羽目になった。
「なんだってんだ、全くこんな夜中に……」
当然ながら寝ていたところを叩き起こされてぼやく立花藤兵衛に、事情は明日話しますから、ととにかく薬箱を借りて風見が家へ戻ったのは夜中の十二時過ぎの事だった。
結城は薬を探しに行く前に風見が運んできた時のまま、ベッドに仰向けに横たわっていた。枕元のスタンドを点けると、その顔色がひどく悪いのがわかる。
傷をひろげないように注意しながら衣服を解くと、おそらくはここ一月で増えたとおぼしき幾つもの傷痕が覗く。そして新しい傷も、胸から腹へかけてのものだけではなかった。右の肩口と、そこまでは生身の二の腕半ばの辺にも、皮一枚の浅さながら真新しい傷があかく口を開けている。とにかく手当てを、と灯を近付けた風見の目が、ふいと細められた。
(…これは?)
上から深く切り込んで、そのまま刃を引いて切り裂いた。傷の大小はあっても、どれも同じ手口で切られたものだ―――そしてそれは、見比べるまでもなく風見も知っているものだった。
今なお変に熱く疼き続ける肩の傷を負わされた時の痛みは、風見の記憶にまだ新しい。
(この傷は……カミキリシザースの…!)
しかしそれならば、結城はカミキリシザースと戦った事になる―――風見より後に。
という事は。
ならばデストロンが戦いを中止してまでカミキリシザースを引き上げさせた、その理由を握っているのは。
「―――結城!」
風見は思わず結城の左肩を掴んで揺すぶっていた。
「起きろ、おい結城!」
呼んでも、しかしその意識は戻る気配はない。多少の体力の回復を待たなければ目を覚ましそうもなかった。
(……仕方ないか)
風見は誰に向けるともなく浮かんだ気まり悪げな表情を肩をすくめて消し、薬瓶を取った。
結城はほとんど風見と背格好が違わない。とりあえず自分の着替えを着せつけて、傷を広げないよう気遣いながら布団を整えると、風見は椅子をその枕元に置いて腰を下ろした。
結城丈二―――元デストロンの科学者。その優秀な頭脳をヨロイ元帥に疎まれ、処刑されるところを助手に救われながら逃避行の中でその助手さえ皆殺しにされ、失った右腕を改造してただ復讐に生きようとするこの男の心を、未だ風見は掴みかねている。
その姿にかつての自分の姿を見ながらも、しかしこの哀しいまでに頑な心をひらく役割を、果たして自分は担えるものかと自問してみる。
風見自身に仮面ライダー一号・二号が語ってくれたように、この世には復讐を超えるものがある事、真実を知る者としてその為に戦う使命を既に彼も持っている事を、どう伝えていけるものか。
眠っている結城の横顔は、一途さと相反するある種の神経質さを覗かせながらも、孤独の復讐者のもつ強い執念をその眠りの内にすら無くしてはいない。
ふと気づくと、結城の額には細かい玉の汗がふいている。その辺からタオルを引っぱりだし、汗を押さえながら手の甲で額に触れてみた。
(……熱い)
タオルを放してもう一度、今度は手のひらを額に押し当てて熱をみる。
風見の眉が、気難しげにひそめられた。
(良くないな……これは)
傷のためか、長く雨の中にいたためかは定かでないが、結城の身体は熱い。青ざめた頬に不似合いなその熱に、風見は急いでタオルを冷やし、畳んで額にのせてやった。
ベッドの隅にまだ放り出したままになっているスーツを汚している分だけ血が足りないのに加えて、この熱では余計に体力までとられてしまう。
「結城……おい、結城」
起こそうとするよりはむしろ力づけるように、風見はその頬を軽く叩いてみる。
(まさかな……お前はこんなところでは死ねない筈だ。ヨロイ元帥を倒すまでは、何がなんでも生き延びると誓ったんじゃないのか、結城……)
借りてきた薬箱をかきまわしてみたが解熱剤はない。補充くらいしておいて欲しいな、と勝手な事をぼやきながら風見はタオルを替えに立ち上がった。
自分の息づかいが両耳を潰す程に重い。
結城丈二は悪夢の中にいた。
いや、悪夢というより正しくは記憶といったほうが正しいだろう。
闇の内でヨロイ元帥が哄笑している。鼻をつく匂いは宙づりにされた頭の下の硫酸プールの揮発する匂いである。足を縛る縄がじわじわと下ろされていき、プールの発する熱が頬にかかってむせる程だ。
「―――うああ……!」
右腕に激痛が走る。と同時に肉の焦げる嫌な匂いがたちこめ、息の詰まる苦痛の内で不意に結城の意識は暗転した。
腕の痛みが灼かれる熱さから刃のいれられる鋭さにかわった、とぼんやり気づくと、結城の視界を三人の助手が不安げに覗き込む。それでは、と結城は思った。今自分は右腕の改造手術を受けているところなのだ。そしてこのままならば、間もなく彼等はカマクビガメの手にかかって苦悶の中に殺されていく。
(……逃げろ!)
結城は必死に叫んでいる。ここで今すぐ逃げれば、三人は助かる筈だ。自分を助けようとしたばかりに命を落とす羽目になった、彼等は―――既に起こってしまっている悲劇を、何故か結城はここからなら回避できると信じていた。朦朧とした意識の中で過去と未来、結果と原因が混在しては巡る。
身体が熱い。右腕についた炎が、全身を内から焼き尽くすような痛みと息苦しさに、結城は背を反らして息をつこうとした。
(生き延びて下さい、結城さん!)
吸った息の先にぽっかりと空いた虚ろな闇の奥から、助手の断末魔の声が響く。
(生きて、我々の、仇を……!)
それが最期である事を結城は知っていた。
また助けられなかった、と思う。記憶の底で幾度となく繰り返されるその口惜しさが胸にいたく、その震えるような怒りを向ける相手に挑もうとして。
はっ、と結城は目を見開いた。
戸外の灯が見上げる天井に照り返している。暗い部屋の内で、その薄あおい光をしばらく結城はぼんやりと眺めていた。
降り続く雨の音が、次第に耳に届き始める。
(ここは……)
身体を起こすとひきつれるような痛みが右胸から腹にかけて走る。顔をしかめてその傷を押さえ、結城はまだ覚めない意識から何とかこれまでの事を思い出そうとした。
(……そうだ…確かアジトの入口でカミキリシザースと戦って……それから…)
しかしそれならば自分は最後の力を振り絞って這いこんだ、あのビルの谷間にいる筈だ。
ここは一体、と視界を巡らせて人影が目にはいるや結城は本能的に身を引き―――焦点をあわせてそれが誰であるか、を見てとった。
(……風見志郎!)
風見は枕元の椅子に深々ともたれて眠っている。結城を休ませる為に灯を消したつもりで、どうやら彼自身の疲れから眠りこんでしまったらしい。
(すると……僕を助けてくれたのは……)
胸にあてた指に包帯が触れる。肌を包む乾いたシャツも、自分のものではない。
(風見……)
ベッドから下りると身体の節々が痛む。それをこらえて、結城はなおも歩を進めた。
(……何故、僕を助けたりする……?)
手を伸ばせば触れる程近づいても、風見は眠りこんでいる。ベッドに肘をもたせる形で腰をおとして膝をつき、結城はその寝顔を見上げた。
結城は、風見が結城の事を知るずっと前から風見の事を知っている。いや、結城に限らずデストロンに属するものならば最下層の戦闘員に至るまで、風見志郎という青年と、そしてそのもう一つの姿を知っている―――彼等が忠誠を尽くすデストロンの、憎むべき敵対者として。
しかしデストロンを追われて風見と出会い、直に言葉を交わし、その生き方を次第に知る中で結城の心にはデストロンに教え込まれたものとは明らかに異なる感情が芽生え始めている。
「風見……」
そしてもし自分をデストロンと―――敵と認識しているならば、眠っていてさえこんなに近づけさせておく風見でない事も知っていた。ただ一人デストロンと戦い続ける戦士である風見の神経は、人並み外れて研ぎすまされている。
「……そんなに僕を信じたら、駄目だ……知らんぞ、寝首をかかれても……」
そう呟く結城の瞳には深い孤独と、そしてどこか柔らかい光がある。かつてデストロンにいた自分にすら共に戦おうと呼び掛ける、風見のつよさはおそらく生来のものなのだろうが、そのつよさが結城を反発させつつも魅きつけてやまないのだ。
厳しく、時には冷たくさえ見せながら全てを助けようとするまなざしの熱さのように。
結城の指が、ぎこちなく一瞬風見の前髪に触れて離れる。自分の行為にとまどったかに少し顔を強ばらせると、結城は痛む身体を起こして自分のコートを探した。
(急がねば……)
ドアの横にかかっていた自分のコートをはおると、結城はきっと唇をかみしめた。
(ポリセア二五を奴等が使いこなす迄に、なんとしても葬らなくては、たとえV3といえど勝ち目はない…)
まだ冷たいコートに、熱のためかだるい身体がかすかに身震いする。
ドアに手をかけたところで、結城はもう一度風見を振り返った。
(風見……)
もしここで風見を起こせたら。起こして自分が行かなくてはならない理由を告げ、あるいは共に戦う事ができるならば。
そうできれば、どんなにいいだろうと結城は思う。正義の体現者、無敵の仮面ライダーV3―――それを阻むものはない事を知りながら、しかし結城はまだ自分にそれができない事を悟っている。
風見の目を覚まさないように静かにドアを開け、外へ出てゆっくりと閉める。その僅かな音を身体の奥にききながら、結城は少しよろめいた。
もし誰かがその時結城を見たら、それは泣いているように見えたかもしれない。上体にはしる痛みと、身体を重くする熱に時折ふらつきながら、結城の黒いコートの背中はまだ激しく降り続く雨の中に消えていった。
2. 十二月二十八日
「―――どうした、志郎」
立花藤兵衛に声をかけられて、風見は我に返った。
返しに来た薬箱は少年ライダー隊本部のテーブルに置かれたままになっている。
「結城の事か?」
それをどこまで立花に説明できたのか、風見は彼らしくもなく不安になる。風見自身にすら良く解ってはいないのだ―――どこまでが現実だったのか。結城が黙って姿を消した今となっては、この薬箱を借りに来た事だけが事実のようなものである。
「全く仕方がねえなあ、あいつも…」
屈託なげに言いかけたその時、立花の手元で電話が鳴った。立花が隊本部にいる時は、スポーツ店にかかってくる電話もこちらに切り替えられている。
「―――はい立花スポーツ店で」
商売人よろしく愛想してみせた、しかしその表情が応対したとたん変化したのに、風見は反射的に腰を浮かせている。
「……あんたか?今どこにいる?……いや」
ひそめた声の低さが、電話の相手が誰であるかを風見に告げる。
「ここにいる。今替わるから……」
立花が目配せしてみせるより早く席を立ち、風見は受話器を受け取った。
『……風見か?』
僅かにためらうように、切り出してきたその声は聞き返す迄もない。
「―――ああ」
『どうやら、昨日は助けて貰ったらしいな。ありがとう……と言っておく』
一言一言をかみしめるように低く語られる声を、風見は耳の奥に聞きながら言葉を探していた。
『だが……僕にはまだやらなくてはならない事がある……』
「―――結城」
遮って呼び掛けた風見の声に、電話の向こうの結城がふっと息を飲み込んだのが解った。
「結城……お前は何を知っているんだ?一体何をしようとしている?」
『……聞くな』
絞り出される言葉の内に、殺し切れない感情がこもる。
『今は……何も答えられない』
「結城」
『……だが助けて貰った礼に、一つだけ忠告しておく。僕は必ずもう一度そちらへ行くから、それ迄は絶対V3には変身するな。君の命にもかかわる事だ。……いいか、確かに忠告したからな』
「―――おいちょっと待て」
風見が聞き返そうとするより早く、電話は切れていた。
「志郎?」
「言いたい事だけ言って切っちまいましたよ」
肩をすくめて受話器を置き、風見はつと肩口を押さえた。気のせいか、昨晩よりも熱をもってきている。彼にしては珍しい事と言えた。
「で、何だって?」
「さあ……理由は言えないけど、自分がもう一度ここへ戻って来る迄V3には絶対変身するな、とか何とか」
「何だ、そりゃあ?」
立花はパイプを放した。さあ?と少し首を傾げてみせながら、風見は我知らずまなざしを遠くする。
(…やはりあいつは、何かを知っている……デストロンにとって、何か重大な秘密を…)
そしてそれがどうやら自分にも関係があるらしい事も、おぼろげに風見には解り始めている。
(V3には絶対変身するな……)
昨晩、僅かな物音で自分がいつしか眠ってしまっていた事に気づいた時、結城の姿は既になく―――雨だけが降り続いていた。
傘も持たず、おそらくはまだ熱もひいていない傷ついた身体であの雨の中に再び出ていった結城をそこまで駆り立てているものは一体何なのか。差し伸べられる手を振り払い、頑に一人で戦い続けようとする孤独な青年科学者の、あの昏くも真摯なまなざしを風見は思う。片腕だけの改造体という、風見達から見ればはるかに脆い存在でありながら、その執念ゆえに自らを省みたりしない彼である事が解っているだけに、放ってはおけないとだから決めもしたのだ。
「―――おやっさん」
傍のヘルメットを取って、風見は立ち上がった。
「ちょっと出てきます。カミキリシザースの動きも気になるし、ここにじっとしててもはじまりませんしね」
「おう、気をつけて行ってこいよ。お前もだいぶ怪我してるんだからな」
立花の気のいい言葉に屈託のない笑顔を見せ、風見はヘルメットを手にドアを開けた。
結城は鳥柄岬にあるデストロンのアジトのすぐそばまで来ていた。彼がデストロンに居た頃に知り得た中でも、最大の実験室をもつアジトである。
(奴等がポリセア二五の合成をするとしたら、ここしかない……)
ポリセア二五。
その名前が、昨日から結城を戦わせている。
ポリセア二五というのは通称で、対縮重合物反応試験薬一二五番というのが正式名である。デストロンを脱走する直前まで結城が開発研究を続けていたこの薬剤は、他のいかなる薬品によってもほとんど影響されないある種の高分子化合物を分解する性質を持っている。
酸やアルカリ、温度変化にも変質が少なく、衝撃の吸収や伸縮性にも優れた素材でありながら、逆にそのために扱い難いとされてきたその化合物を加工利用するには、まさに画期的な発明だった―――そのただ一つの欠点を除けば。
ポリセア二五には、一定温度を越えた環境下におくと暴走するという致命的な欠点があったのだ。摂氏二〇度以下ならば定量の反応後は中和されて水や塩類に変わるだけだが、それを越えると反応時に再生成が発生し、主に周囲の温度に比例した反応速度でその化合物が存在する限り分解し続ける。
その為に結城はポリセア二五を研究室から持ち出す事を禁じ、製法を記したファイルも故意に完成させないまま、その一方で改良研究を続けていたのだった。しかし。
(急がねば……奴らは少なくとも、僕が残してきたポリセア二五を握っている……)
それを結城は確信している。その証拠は、昨晩彼が胸に受けた傷だ。
風見によって語られ、そして結城自身もその目でついに確かめたデストロンの真実に、結城はデストロンと戦う意志を固めると時を同じくして、もう一つ決心した事があった。
かつて何も知らないままにデストロンの為に続けてきた自分の研究を、デストロンから奪い返す事。
あるいはもう遅いのかもしれなかったが、自分の作り出したものがデストロンの手によってこれ以上悪用されるのを防がなくてはならない、と思い定めたその時、真っ先に思い出されたのがポリセア二五の事だった。
デストロンに残してきてしまったポリセア二五の製法ファイルを始末しようとして、目の前のアジトに結城は昨晩潜入を試みた。しかしそこに待ち構えていたのがカミキリシザースだった。結局ライダーマンに変身してもほとんど太刀打ちできないまま、負わされた胸の傷口にはポリセア二五独特の芳香が残っていた。
カミキリシザースの鋏にはポリセア二五が塗られている。
どうしてポリセア二五の存在がデストロンの戦闘部隊に知られたものかは今の結城に解る筈もないが、しかしデストロンが改造人間に武器としてポリセア二五を使わせている―――それは結城にとって一刻を争う事態だった。
デストロンはポリセア二五の特性を知り、逆に利用する手段に出たのだった。ポリセア二五の分解する高分子化合物は人体には含まれないから、結城の傷はカミキリシザースの鋏によるものだけで済んでいる。だがその化合物がデストロンで何に使われているかを、結城は知っているから時を急ぐのだ―――それは改造人間を強化する為の人工筋肉を組成する重要な要素のひとつである。
そこまで解っていれば答は明白だった。ポリセア二五をその鋏に含ませたカミキリシザースの狙う相手はただ一人、デストロンに敵対する改造人間仮面ライダーV3―――風見志郎に外ならない。
(風見なら……まだ風見志郎の姿の時なら、多少の傷を受けてもそう時間が経たない限り、反応は体温程度にしか進まないだろう……)
結城はまだ、昨日風見が既にカミキリシザースに傷を負わされている事を知らない。
(だがそのままV3に変身すれば、変身時の放出エネルギー量だけでポリセア二五の暴走には充分な熱量だ……その瞬間からポリセア二五はV3の人工筋肉を果てしなく分解し始める。そうなったら最後だ……)
変身はするな、ととりあえず言いおいてはきたものの、あれ位の事でおめおめと引き蘢っているような風見でもあるまい。
下手をすれば、今頃はまたデストロンを追って外へ出ている事も考えられた。そしてもし、カミキリシザースと遭遇しでもしたら。
(風見……)
結城の身体がかすかに震えた。
あのどこまでもつよい意志と身体をもつ青年の瞳が、不意に思い出された。自分と同じ哀しみをけれど静かな光に変えて秘め、全てを懸けてこの世界の守りとなる事を決意した、厳しくも優しいあのまなざしを。
たとえこの命にかえようとも、この世から失わせはしない。
(待っていろ、風見……)
バイクを止め、用意してきた爆薬をシートの下から取り出す。
(アジトを破壊し、ポリセア二五の製法ファイル共々この世から消し去ってやる……二度とデストロンの手で、ポリセア二五が作り出せないように……)
シートを元通りにして頭を上げると、ふっと目の前が揺らいだ。微熱で身体がだるく、なかなか貧血がおさまらない。
(畜生……)
右手で汗を拭いかけ、気づいて下ろす。まだ時々その右腕が機械である事を忘れてしまう自分が忌々しく、手荒く左手の甲で額をこすると結城は辺の気配を探りながら歩を進めた。
岩壁に擬装された入口を難無く開き、突然の侵入者に不意を突かれた戦闘員の延髄に素早く一撃をいれる。
声もたてずに崩れ落ちたその身体を引きずって物陰に隠したところで、しかし結城もわずその場に膝をついていた。
「…………っ」
胸の傷がひきつれて痛む。これ位の事で、と思いながら、予想以上に体力の消耗が激しかった。
(どこまで行きつけるか……だが必ず、ポリセア二五のかたはつけてみせる……)
きつくまばたきして、視点を定める。
呼吸を整えて、結城は再び歩き出した。
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