十二月二十八日 Version.0(2)


 はっきりアジトの内部が解っていた訳では無論ないが、元デストロンの勘どころで、ここは、と思う数カ所に時限式の爆薬を仕掛けながら、結城はさほど時間もかけずに実験室を探し出した。
 鍵のかかっていなかった薬品庫から内へ入り込み、つづきになっている実験室を伺う。
 中には白戦闘員が三、四人。研究要員である白戦闘員ならば、少々の人数でも負傷しているとはいえ結城の敵にはなるまい。
 踏み込むか、と拳を固めた、しかしその時である。
「―――まだ完成せんのか」
荒い靴音と共に響いたその声が、結城の足を止めた。
 反射的に壁に背を寄せて、結城は息を詰める。入ってきたのが誰なのか、確かめるまでもない―――結城がどうしてその声を聞き違う事があるだろうか。
「ポリセア二五が完成できぬなら、貴様らもそう長く生かしておいては貰えぬと承知しているのだろうな?……無能共めが」
デストロン大幹部ヨロイ元帥はじろりと室内に一瞥をくれ、そのまなざしが科学者達に充分な畏怖を与える事を確かめると、いくらか満足げに冷笑した。
 デストロン科学者グループのリーダーであった結城丈二は数々の裏切り行為が発覚し逃亡した、というのが、その抹殺を未だ果たせずにいるヨロイ元帥の打ち得た最大の喧伝である。トップと仰ぐ青年科学者の失踪に動揺した科学者グループの混乱に乗じて、以前から煙たく思っていた古参の科学者を数名うまうまと葬る事にも成功し、ヨロイ元帥は今や科学者グループをも支配下に置いていた。
 それはデストロン日本支部を、ヨロイ元帥が完全に掌握した事を意味している。
「ポリセア二五は偉大なるデストロンの世界征服には欠く事のできぬ武器となる……それが解っていながら未だ一滴の合成すら出来ぬとはな。貴様らが揃いも揃って腰抜けの能無しばかりでないとすれば、デストロンへの忠誠心を疑われたとて一言の弁明もあるまいが…」
ヨロイ元帥はくっと首を斜に傾げ、辺の空気をはかるようにまなざしを巡らせた。
「……所詮貴様らは束になっても役立たずという事よ」
微かにその兜の奥の瞳が、昏い光にまたたいた。
「ならばもう貴様らなど当てにしても始まらぬな。……この上はポリセア二五を確実に作り出せる奴に、直に聞き出してくれようか」
ふわり、と空気の拡がる気配に結城が思わず壁から身体を離した、その時である。
「―――よくぞ御入来……歓迎するぞ」
低い含み笑いと共に、その声ははっきりと壁を突き抜けて結城の背に語りかけられていた。
「そんな所にネズミのように隠れていないで、出てきたらどうだ。結城丈二?」
当て推量やはったりではない。ヨロイ元帥の声は正面から、薬品庫の壁に挑発的に跳ね返る。
 今更隠れても移動しても無駄だ。
 結城は息をついて右の拳を握りしめ、力をためて戸口に射す実験室の灯の内に身をさらした。

「……見失ったか」
ハリケーンを止めて、風見は独りごちた。
 再びデストロンの動きを探していた風見が製薬会社の倉庫を襲撃したデストロン戦闘員の一団を見つけたのは、昨日カミキリシザースを見失った辺を走っていた時である。
 尾行に気づかれた筈はなかったが、しかしデストロンは鳥柄岬まで追ってきたところで忽然とその姿を消したのだった。
(…という事は、この辺にデストロンのアジトがあるに違いない……)
とりあえずハリケーンをどこかに置いて少し調べよう、と見回した風見の目が、ふと細められる。
 岬の外れ、林の蔭に一台のバイクが止められていた。見覚えのある仕様はもう昨日のように近寄って確かめるまでもない―――結城のバイクだ。
 結城はここまで来ている。
(僕にはまだやらなくてはならない事がある……)
今朝の電話の声が、耳元に甦った。
 それが何なのかは知る由もない。しかし確かな事は、結城がここまでやってきて―――そしてこの近くにあるデストロンのアジトに、おそらくは単身乗り込んだという事だ。
(―――あの馬鹿がっ……!)
顔を上げた風見の唇がくっと噛み締められたのは、先刻から灼けるような疼きの加わっている右肩の痛みのせいばかりではない。
 その場に急いでハリケーンを止め、風見は走り出した。

 カミキリシザースの繰り出す鋏をかわそうと蹴倒した机の上のビーカーやフラスコが、床に砕けて甲高い音をたてた。突如戦場と化した仕事場に、悲鳴すら上げられずうろうろと逃げ惑う科学者達が訳もなく自分の退路を塞ぐのに、結城は舌打ちしながらやむなく不利な方向と知りつつ身をかわして
息をつく。
 覚悟を決めて姿を現したつもりの結城だったが、しかしこれはいくら何でも無謀に過ぎたと、今は自分でも思わない訳にはいかなかった。
 ヨロイ元帥が従えてきていたカミキリシザースに未だ一撃すら加えられないまま、防戦一方の結城の肩先はついさっき避け損ねた鋏に皮膚一枚分切り裂かれている。
(このままでは)
自覚するのが怖くないといえば嘘になるが。
(このままでは、僕はむざむざやられる事になる……)
もとよりまともに立ち向かって、勝ち目があるなどとは思ってもいない。
 それは昨日戦った結城自身が良く知っていた。ましてや今は、その昨日の傷まで負う身である。
 それでもあえて真正面から挑んだのは、勿論生来の負けず嫌いの気質もあったが、とにかくこの室内にあるポリセア二五の製法ファイルをその手に収める為である。
 身体が重く、かわすのが精一杯のカミキリシザースの攻撃をどうやらかいくぐって、結城はそれでも少しずつ見覚えのある厚手のファイルをさした棚に近づいている。
 だが、果たしてそこまで行き着けるだろうか。
(今更惜しむ命でもないが……だが、ポリセア二五を葬るまでは……)
まなざしは次の攻撃の呼吸をはかっているカミキリシザースに向けたまま、痺れる膝に力をこめて、じりじりと摺り足で目指す方向への跳躍の足場を探る。
「―――結城丈二」
ふいと浴びせられた声に、結城はヨロイ元帥を見た。
「どうした、貴様の取り柄はこそこそ逃げ回る事だけか?……ふ、流石に貴様とてこの場から生きて帰れるとはよもや思ってはいまい。…どうだ、ひとつ取り引きをせんか」
「……取り引きだと?」
「おおとも」
ヨロイ元帥は実験室の隅に固まって逃げ場を失っている科学者達をじろりと不興げに見やり、そのまま結城に視線を移した。
「この世でただ一人、貴様だけが知るポリセア二五の合成の秘密……それと引き換えに、今日のところは貴様の命を預けておいてやっても良いぞ。貴様如きの首ひとつ、安いものよ」
結城は半ばあっけにとられたようにヨロイ元帥を眺め―――そして怒りをこめて微笑をつくった。
「……ほう、笑ったな」
得たりとばかりにヨロイ元帥が肩をそびやかす。
「僕も随分と見くびられたものだ」
カミキリシザースの動きを牽制しながら、結城はきっとヨロイ元帥を睨みすえた。
「この僕が自分の命可愛さに、風見志郎を倒す手助けをするとでも思うか?……だとすれば貴様も随分やきが回ったな、ヨロイ元帥!」
誇りの生む怒りが、結城の身体をしっかりと支えた。
 喋りながら結城の足先は、それと気づかない程の緩やかさで目的の位置を捉える。後はカミキリシザースの攻撃前の虚をついて跳ぶタイミングを掴むだけだ。
「……成程?」
しかしヨロイ元帥の声はこの場には不似合いな程、楽しげに響いた。
「?」
「やはりな……捨てた研究を今更未練にのこのこ舞い戻ってくる訳はないと思っていたが、やはり気づいておったか。その通り今や貴様の作り出したポリセア二五は、仮面ライダーV3抹殺の化学兵器となったのだ。既にその為の計画も進行中よ……」
ヨロイ元帥はカミキリシザースをふと見やり、声を一段低くした。
「それに気づかれた以上、貴様を生かして風見志郎に会わす訳には行かなくなったわ。……どうやら語るにおちたな、結城丈二」
(…しまった!)
結城は唇を噛んだ。
 ヨロイ元帥は昨日からの結城の目的がポリセア二五である事は確かに知っていた―――しかしデストロンがポリセア二五を風見の抹殺の為に使うつもりだろうと結城が推測していた事までは、勘づいていなかったのだ。
 V3をカミキリシザースと戦わせようと目論んでいるヨロイ元帥にとって、ポリセア二五の効力は風見に知られる訳にはいかない手中の秘だ。いわば結城は自らを不利な立場に追い込んだも同然だった。
 張っていた気が弛んで、ぐらりと目の前が揺らいだ。
 そんな結城を嬉しげに眺めながら、ヨロイ元帥は傲然と言い放った。
「心配するな、すぐ殺しはせぬわ……なに頭さえ生かされておればポリセア二五の秘密を喋るにも、風見志郎の最期を見届けるにも不自由はあるまい?」
冷笑と共にくれた目配せを受けたカミキリシザースが間髪入れず双鋏を振りかざして高々と宙に舞った、と見えた。
「!」
気を逸らされて、踏み切るタイミングが僅かに遅れた事をその瞬間結城は知覚する。
(……間に合わない!)
跳ぶ一瞬残った右足は、カミキリシザースの鋏が振り下ろされる直線を避け切れない。
思わず結城は息を詰めた―――しかし。
「……全く」
右足を切り裂く激痛の代わりに、その耳に届いたのは聞き慣れた声だった。
「無鉄砲な奴だ…」
「―――風見!」
カミキリシザースの鋏先がかすめて切れた頬を手の甲で拭って、風見は結城を斜に見下ろした。
「どうして、ここが…」
言いかけた結城に返されたのは、かすかに細めたまなざしの厳しい光だけだった。
 結城とカミキリシザースの間に割って入り、同時に振り下ろされた両の鋏の軌跡を見切り様に繰り出された風見の蹴りは、片足をかけている机の向こうにカミキリシザースを叩き落としている。まさに間一髪である。
「―――風見志郎!」
ヨロイ元帥へふいと顔を向けた、その風見の横顔の傷に結城は気づいて息をのんだ。傷自体は少し血が滲んだ程度だが、しかし。
(カミキリシザースの鋏だ……ポリセア二五が!)
「よくぞこのアジトをつきとめた、風見志郎……だが飛んで火に入る夏の虫とは貴様の事よ」
ヨロイ元帥はゆるりとマントを翻して、そのまま戸口に立ち塞がった。
「折角ここまで来たのだ。決着をつけようではないか……カミキリシザース!」
叱咤されてようやく身体を起こした怪人の両鋏が、薬の色を含んで変に光った。
「望むところだ」
風見は息を整え、一歩引いて両腕を右へ水平に揃えた。体内にあるV3への変身スイッチが切り替わる。
 ヨロイ元帥は口辺で僅かに笑った。
(そうだ、変身するがいい……その時こそが貴様の最期だ)
変身時のエネルギーがポリセア二五の再生成を爆発的に加速する。仮面ライダーV3は目の前の敵と戦う前に、自らの熱で溶け崩れるのだ。
 ゆっくりと両腕が頭上を通る弧の軌跡を描こうとした、その時である。
「…止せ、風見!」
ほとんど身体をぶつけるようにその腕にしがみついてきた結城に、風見は思わず体勢を崩して二、三歩よろめいた。
「結城」
「―――変身しては駄目だ!言っておいた筈だぞ、風見!」
変身を途中で止められた風見は訝しげだ。早く理由を伝えなければ、と気ばかりが急いて、結城はもどかしく言葉を探す。とにかく変身だけは止めさせなくては、ときつく掴んだ腕に力がこもった途端、結城は見上げる風見の表情が激痛に歪むのを見た。
「……っ…」
「風見」
とっさに手を放し、結城はそのまま右肩を押さえて痛みを堪えている風見を茫然と眺めていた。
(…まさか)
「ええい邪魔だてしおって…」
ヨロイ元帥が忌々しげに舌打ちする。
「先にそいつから片づけてしまえ、カミキリシザース!」
低く唸ったカミキリシザースの鋏が空を切った。危ういところで身体を捻った結城の頭上に、しかし間を入れずもう一方の鋏が影を落とす。
「結城!」
背後の風見の声と共に結城の頭のすぐ傍を掠めて飛んだ薬瓶が、カミキリシザースの眉間に砕けた。
「……ぐわっ!」
カミキリシザースが悲鳴を上げてうずくまる。
 はっと振り返った結城の目に、少し息を切らせながらも左手で今し方投げつけた薬瓶と同サイズの瓶を薬品棚から掴んでいる風見の姿が映った。
「……風見」
しかしその右腕はまだだらりと下がったままだ。
 どうやら結城にきつく引かれた弾みでどこかの神経が傷んでしまったものか、風見がいくら力をこめてもまるで動かない。
(こんな時にっ…)
風見は昨日負わされた傷の正体を未だ知る由もなかった。
 だがこれまでの幾多の経験から、この程度の傷が一晩おいても回復しない―――どころかどんどん悪化していくこの状態が明らかに普通でない事には気づいている。
 少なくとも右腕が全く利かなくなっている以上、これも負傷している結城を庇って戦うのは無理だ。
 とっさに投げた薬瓶のラベルを見る余裕などなかったが、劇薬ではあったらしい。カミキリシザースは依然として顔を押さえたままのたうちまわっている。
「……退くぞ、結城!」
仕方なくそう叫んでおいて、風見は机の向こうへ跳んだ。
「逃がさんぞ、風見志郎!」
その前にヨロイ元帥が立ちはだかる。風見が牽制に放った瓶を左手の鉄球でこともなげに払い落とし、なおも返す腕で風見の胴をなぎ払う。風を切る鉄球をきわどいところで躱し、風見はバランスのとりにくい体勢から右の蹴りをうった。
「ちぃ!」
払ったマントで風見の蹴りを捲き、ヨロイ元帥が左腕を引いた、その時である。
「!」
実験室全体を揺るがす轟音と共に、室内の灯が一斉に消えた。
 結城が途中で仕掛けてきた時限式の爆弾が作動し始めたのだ。
「―――何事だ!」
戸口を出てアジト内の全ての照明が消えているのに、一瞬立ち尽くしたヨロイ元帥の身体を、新たな爆発がよろめかせた。
「馬鹿者めが!非常電源に切り替えんか、急げ!」
薄闇の内を戦闘員達が右往左往している。しかし止まない爆発に混乱は拡大し、いっこう灯のつく気配はない。
「風見!」
そしてこちらも何が起きたのか把握できずにいる風見の傍に、結城が走ってくる。
「……今のうちだ、早く!」
「結城?」
まなざしだけの問いかけに頷いて、結城は実験室の外を伺った。
「……あと二分で火薬庫に仕掛けた奴が爆発する。とにかく急いで脱出しよう」
アジトの内はそれでも非常灯がところどころを薄ぼんやりと照らしている。
 その赤い光の中を、戦闘員達があわてふためいて行き交うのを横目に見ながら風見と結城は出口に向かって走り抜けた。
 騒ぎに驚いて入って来ようとしていた外の巡回の戦闘員を倒し、岬から一気に駆け降りる。
 ひときわ大きな爆音と共に、熱をはらんだ風が風見の髪を乱した。
 振仰ぐとアジトのあったところとおぼしき岩山がひとつ、跡形もなくなっている。
(間一髪というところか……)
息をついて冷や汗を拭った結城は、しかし次の瞬間はっとして振り返った。
「風見!」
風見はその場に片膝をおとして、右肩をきつく掴んだまま声を殺している。
「……風見」
急いで支え起こし、右肩を押さえる指をそっとほどかせようとして結城は唇を噛んだ。革のジャケットの上からでもそれと解る程、その肩はひどく熱い。
「怪我をしているな?……いつだ、風見!」
「……っ」
風見の返事は声にならない。しかしこれだけ熱が上がってきているからには、かなり反応が進んでいると思って間違いなかった。
(たとえV3に変身しなくても、平熱で再生成は起きる……時間さえかければゆっくりと反応は進み、再生成は反応熱で加速される……)
結城は足から力が抜けかかるのをかろうじてこらえた。
(もう遅いのか……いや、そんな事があってたまるか。今からでも、何とか力は尽くせる筈だ…)
「風見」
傷ついていない左の肩を支えて立たせ、結城はもう一度アジトのあった方を眺めた。
 延々と灰色の煙を吐き出しているアジトは完全に壊滅したと思っていいだろう。しかしあの程度の爆発ではヨロイ元帥は言うに及ばず、カミキリシザースも死んではいないだろう。ここに長居するのは危険だった。
「とにかく水のあるところを探そう……すまんが、もう少し辛抱してくれ」
「……結城」
立ち上がった事で少し気力が戻ってきたらしく、風見の低い声がした。何だ、と答えながら結城は支える手に力を込めた。
「…民家は駄目だぞ……奴らにかぎつけられると、関係のない人たちに迷惑がかかる…」
「風見」
心配ない、と言おうとして、ふと喉が熱くつかえるのを結城はようやくこらえた。
(この男は……この世界をたった一人でデストロンから守ってきたこの男は、自分の肩が溶け落ちようとしている今も、まだ守る人々の事しか考えていないのか……)
「―――それ位の事は僕にも解っている」
怒ったように言い放った声は、少し震えていたかもしれない。
「ここへ来る途中に、確か学校があった……今なら休みで、誰もいない筈だ。いいから少し黙っていろ」
その言葉に安心したように微笑した風見の横顔からふいと目をそらして、結城は風見の体重の半分近くを担っているその足に力をこめた。

 三十分程かかってようやく辿り着いた小学校には、思った通り人影はなかった。
 そして鍵を細工して校舎に入り込んだ結城がまず探したのは、水飲み場である。
「―――いいか風見、良く聞いてくれ」
蛇口をひねって左手に受けた水の、凍る程の冷たさに結城はほっとする。そのままシンクの縁に、風見を座らせた。
「詳しい事は後で説明するが……君の肩はポリセア二五という薬品のせいで溶かされているんだ」
左腕はどうにか自分で脱いだものの、流石に動かない右腕は結城にジャケットを抜いて貰いながら、風見は黙って聞いている。
 何をどう説明したら良いものか解らなかったが、結城はとにかく思いつくままに言葉を並べる。
「このまま放っておけば、腕だけでは済まなくなる。それを止めるにはまず薬を洗い流して、後は傷口と周りの温度を少なくとも二〇度以下まで下げなくては……」
喋りながらシャツの片袖を抜かせると、その肩迄うす赤く血が滲んでいる。
 風見が自分で巻いたらしい包帯を急いで解いた途端、結城は息をのんだ。
 目眩のする程、鮮やかな赤。
 風見の肩口に大きくあいた傷から溢れた血は、結城の良く知っているポリセア二五の反応する芳香を撒きながら結城の手を染めた。
 すうっと足から力が抜けかかるのを抑えて、握りしめていた包帯で傷口を濁す血を拭き取る。
 多少の覚悟は決めていた筈だった。しかしその予想をはるかに越える現実に、結城は言葉をなくしていた。ポリセア二五の侵食は皮膚から深さ二センチ余にも及び、その裂け目からはなおも血が滲み出ている。
 腕の動く訳もない―――それは想像を絶する激痛の筈だった。
(風見……!)
あやうく目の前が潤んでかすみかかるのを、きつくまばたきして押し殺す。結城は息を詰めて、ゆっくりと蛇口の下に風見の右肩がくるようにその状態をシンクの壁にもたれかからせた。
「少し……いや、だいぶ手荒くなるが、勘弁してくれ」
不安げに覗きこんだ結城を、しかし風見のまなざしが見つめ返す。
「……任せた」
かすかに笑ったようでもあった。その言葉に押されたように、結城は蛇口に手をかけた。
「―――!」
それでも水が勢いよく落ちた瞬間、弾かれたように緊張して肩が傷口を庇う。無意識に強ばる風見の肩を必死で押さえつけ、結城はその傷を無理矢理こじあける。
「力を抜け!……全部流してしまわないと、少しでも傷に薬を残せば、君にとっては命取りになるんだぞ!」
神経までも冷水に晒す苦痛である。どんな言葉も届く訳がない事を知りながら、結城は厳しく叱咤した。そうでもしなければ結城自身、左手の指で傷の内を直に洗いながらそれが自分の傷ででもあるかのような痛みに、指から力が奪われてしまいそうだった。
 そしてその声にどうにか力を抜こうとする風見はシンクの壁に上体を縋るようにぎゅっと押しつけ、しかし声ひとつたてない。きつく唇を噛み締め、その髪まで冷たく濡らしながら、傷を深く抉る水を堪えている。
(……よし)
傷の底まで拭って、結城は息をついた。
 そのままシンクの栓をしめて、水を溜める。傷を洗っている間にほとんどシンクの内に倒れかかるような形になっていた風見の右肩を沈める高さに、水が届くまでそう時間はかからなかった。
「多分あらかた落ちたと思うが……後は内に滲みた薬の反応を止めるから、もう少しじっとしていろ」
その声に左肩の緊張が抜けるのを、押さえた手のひらに感じて結城も少し力を緩めた。
 そして思い出し、まだ出したままの水を掌にとって風見の頬の傷に触れる。時間がそれ程経っていないし、外気に晒されていた事もあって温度も上がっていない。こちらの傷は、見た目以上の事はなさそうだった。
「……済まんな。痛かったろう?」
水に手を入れ、傷口より少し首の近くに触って皮膚の表面温度が充分に下がっている事を確かめる。このまま後二分も置けば、たとえ生体組織の一番深いところまでポリセア二五が染み込んでいても定量の反応後、分解して水や無害の塩類に変わる筈だ。
「痛くない。……とは言えんな」
しかし答えた風見の声は、結城の予想以上にはっきりしていた。それで何がなしにほっとして、結城は片足がほとんど入っていたシンクから膝を下ろし、空いた方の手で風見の頭を支える。
(学校なら保健室がある筈だが……)
そのままの体勢から身体をひねって廊下の向こうを見ようとした途端、今まで忘れかけていた胸の傷がずきりと痛んだ。
(……っ)
「結城?」
思わず上体を折り伏せた結城を、それまで水飲み場の上の窓を眺めていた風見が見とがめる。
「お前……」
「……頼むから」
笑おうとした表情がかえって変に歪んでいるのが、結城自身にも解った。たかがこれ位の傷で、と思う。
(いちいち気遣われていたら……それこそ僕には、君と共に戦う資格などなくなってしまうじゃないか……)
「ひどい怪我をしてるのは君のほうなんだ。余計な気はまわさないでくれ」
喋る内でどうにか息を整え、結城は時計を見た。
「もう良かろう。起きられるか?」
返事の代わりに自分の袖を左手で掴んで上体を起こしにかかる風見の背を慌てて支えながら、結城は今更ながらにこの青年のもつ超人的な体力と気力に目を見張る思いだった。
 それでも流石に普段通りにはいかず、半ば結城にもたれかかるようにして立ち上がる風見の左脇に、腕を入れた。
 保健室の表示のある廊下の向こうへ歩き始め、そしてその時結城はようやくポリセア二五のファイルをデストロンのアジトに置いてきてしまった事に気づいた。

「―――それなら」
右二の腕ごと右肩から胸までをかたく固定する包帯のきつさに、風見は僅かに眉を寄せて口をきった。
「お前は……そのファイルをどうしても取り戻したいんだな?」
「ああ」
本来ならすぐに縫合したいところだが、小学校の保健室にそんな設備が整っている訳はない。
 とにかく消毒だけはした。後は応急処置として、動いたり腕の重みでこれ以上傷口が広がる事のないように丹念に包帯を巻きながら、結城は低く答えた。
「たった一晩で君にこれだけのダメージを与える事が解った以上、奴等がポリセア二五の生成をそう簡単に諦めるとも思えん。あのファイルだけでポリセア二五を作り出す事はできないが、時間さえかければデストロンの科学者陣には決して発見できない技術じゃない。そうなったら、取り返しのつかない事になる……」
風見はふっと結城を見上げ、それから黙って窓の外へ顔を向けた。
 その横顔を見ながら、少し喋り過ぎたようだと結城は思う。
 もうここまで来た以上、事態は風見とも無縁ではあり得ない。一切を説明する事が風見に対する自分の責任であり、誠意ともなるのだと、心を決めて話したその経緯を、風見は別に口をはさむでもなく気難しげな表情で聞いていたのだったが。
「これ位でいいだろう。動かないな?」
右腕の肘まではしっかりと脇につけて巻き固め、その先は首にかけた三角巾に包む事で肩にかかる重みを和らげるように処置をして、結城の手が離れる。
「……これだと右手が使えん」
少し力を入れてみて、風見は不機嫌に答えた。
「何を言ってるんだ。この状態で右腕を動かしたりしたら、それこそ肩から先がなくなるぞ! とにかく少し休んだらライダー隊本部へでも戻ってちゃんと」
「―――だから」
苛々と遮って、風見は結城を見上げた。
「そんな暇はないと言っている」
「……?」
軽く顎をそらされた。注意の向いた窓の外の景色がかすかに動いて、結城はようやく気づいた。
 校庭の向こう、開け放った門の辺にデストロン戦闘員の黒い影が見え隠れしている。
 その先頭に立っているのはカミキリシザースだ。
「奴等もそう甘くはないという事だな。……俺に確実にとどめを刺せるチャンスだと知っている」
独り言のように呟きながら、風見は苦く笑った。
 昨日の夜よりも更に傷が深くなっている事を考えただけでも、風見の勝てる見込みは薄い。逆にデストロンからすればアジトを爆破され、ポリセア二五の完成が今日や明日には望めない以上、ここで風見に回復の時間を与えずにカミキリシザースと戦わせる方が得策なのは当然だった。
「……結城」
振り返った結城の肩に左手をかける力でベッドから立ち上がると、風見は窓の外を睨みながら低く言った。
「だが、今なら間に合う……裏門から出てアジトへ引き返せ。奴の邪魔が入らない内に、そのファイルとやらを処分して来い」
「……君は」
一瞬、何を言われているのか結城は解らなかった。
「君は……一体どうしようというんだ?」
「―――そうだな」
唇の端を軽く上げた、それはこの場には不似合いな程の余裕すら見える微笑だった。
「ひとつ奴等の鬼ごっこの相手でもしてやるさ……」
「それじゃあ……ここに残るつもりか!」
答える代わりに無傷の左肩をすくめてみせた風見の目は、窓の外の動向をじっと見つめている。
「そんな……そんな事ができると思うのか? 今の君をこんなところに置いて、僕一人だけ、まるで逃げるように」
「できなくても行くんだよ」
言いつのる結城の言葉を邪険に遮り、放した左手の甲でその肩口をとん、と軽く突いてみせると、風見はふいと横目で結城を見やった。
「それに……誰がお前に、逃げていいと言った」
「……?」
「ファイルの始末つけたら、とっとと戻って来い」
口調こそひどくつっけんどんではあったが、少し細めた目には笑った時と同じ光がある。
「風見……」
何と言っていいか解らずに、結城はぎゅっと唇を噛み締めた。
 そのまま風見の左袖を掴んできつく引き寄せ、その肩にほとんど額が触れかかる程にうつむいて風見の視線を避ける。
(……風見)
右腕を動かせない事が、風見にとってどのような意味を持つか思い至らない結城ではない。一連の動作によって変身へのスイッチが切り替わるV3―――風見にとって、右腕が上がらない事は即ちV3への変身不能を意味するのだ。
 変身前でも自分よりは強い風見とはいえ、その力には限界がある。
 ましてや利き腕の右腕は全く使えず、こうして傍にいるだけでも、ほとんど見えない程ではあるけれどその身体が時折揺らいでいるのが解る。間もなく戦場となる事が解っていて、こんなところに一人残して行けるか、と思う。
 確かに風見が言う通り、今こそが逆に言えばポリセア二五のファイルを処分する最後にして最大のチャンスではあった。カミキリシザースがいない―――加えて先刻の爆発でまだ混乱は収まっていないであろうアジトならば、負傷している結城であっても侵入はたやすい。
 そしてこの機会を逃せば、ファイルはまた別のアジトへ持ち去られて行方知れずになってしまうだろう。冷静に考えれば、最良の方法はただ一つだ。
 それが解り過ぎる程解っていながら。
 自分でも信じられない事だったが、足が動かなかった。
(風見……僕は)
馬鹿な、と思う。
 デストロンの非道を知り、改めて戦う事を決意しながらも、しかしだからといってそれ故に馴れ合う事はするまい―――とあえて風見の前から姿を消した結城である。
 誰とも道を同じくしない事でこそ、何を顧みる事もなく、その命すら懸けて戦える筈だと思い定めて。
 しかし。
 そんな結城の頑な意地を、風見は軽々と越えてくる。
 ことさら庇いだてする訳でも、優しい言葉をかける訳でもない。ただその揺るぎないつよさと、自信にも似た無償の信頼に、とまどいながらもいつか心を開き始めていた自分に、結城はその時ようやく気づいていた。
 だからこそ、死なせたくないと思ったのだ。
 元デストロン科学者としての責任や、自分の研究を悪用される事への怒りよりも強く。
 だがそうならば、なおさら道は一つだった。
「―――結城」
風見に促されるより早く、結城はまっすぐに顔を上げていた。
 表情は変えないまま、しかし風見の袖を掴んだ手に一瞬力をこめてから放す。
「……すぐ戻る」
低く呟いた結城の声に答える代わりに、風見はまなざしを窓の外へ向けて上げた。
 そして立て付けの甘い引き戸の閉まる音を、背中に聞く。
(……行ったか)
デストロンの追撃隊は、まだ門を入ったところの体育倉庫を捜しまわっている。
 この校舎にやって来る迄、多少の時間はあるだろう。そう計って、風見は薬箱から消毒薬と包帯を抜いた。
 もう結城がその辺をうろうろしていないのを確かめて、水飲み場へ向かう。
 その足取りは先刻までに比べ明らかに危うく―――そして今ははっきりと、左足を引きずっていた。
 蛇口をひねる間ももどかしく左足を膝からシンクにつけ、ふくらはぎの辺から指をかけて一気にジーンズを引き裂いた。
 その下に走る傷を指で押さえ、急いで水に晒す。
 結城は頬の傷に気を取られていて気づかなかったようだったが、カミキリシザースから結城を庇った時に蹴った鋏の先が引っ掛かったのだ。
 ジーンズ越しだったので深い傷にはなっていないが、やはり段々熱を帯び始めている。
 そしてその意味が解った今となっては、ぐずぐずしてはいられない。
 痛む事は痛むものの、肩の傷に比べればずっと浅かった。
 その傷を洗った結城の手際を思い出しながら、左手だけで何とか傷口を洗う。
(確か多少薬が残っていても、水に浸けておけば大丈夫だと言っていたな……)
どれ位の時間かは解らなかったが、とりあえず水を止めて触れてみると、かなり熱も下がったようだった。
 よし不十分であるにせよ、その時は後で結城に何とかさせれば済む事だ、と決めて消毒薬を撒き、手早く包帯を巻き付ける。
 急がなくては奴等がやって来てしまう。
 左手一本で包帯を巻き、かろうじて自由になる右手の指先に端を掴ませて裂いた半分からぐるりと回して結ぶ。
 足を下ろしてみて、どうにか走れそうだ、と風見の頬に微笑が浮かぶのと、昇降口に荒々しく踏み込んでくる足音が高く響くのとは、ほとんど同時だった。
(―――来た!)
普段の風見ならばいざ知らず、今まともに走っては勝負にならない。
 風見は廊下を飛び出すと、すぐ横手の階段を駆け登った。
「―――いたぞ!」
戦闘員の叫び声が、狭い廊下に割れて響いた。
「そっちから回れ! 二手から追い詰めるんだ!」
指示の声で足音の反響が二方向に分かれたのを確かめて、風見は階段から身を乗り出して下を伺った。
 戦闘員が三人、階段を上ってこようとしている。残りは多分、昇降口に近い方の階段からまわって風見を挟み撃ちにするつもりだろう。
(成程な……だが、こっちにとってはかえってその方が好都合だ)
二階に出たところで風見は一旦階段を離れて、傍の柱の影に身を寄せる。
 逆側の階段を上ってきたカミキリシザースが、廊下の向こうにひょいと顔をだし、いないと見て再び階段に姿を消した。どうやらあちら側はやり過ごせたらしい。
 後は今、自分を追ってきている三人だ。
 足音が近づいてきた。
 風見が上へ向かったと思い込んで二階を伺いもせず、そのまま上がっていく戦闘員の一番後ろの首を背後から左腕一本で捕える。声を上げる間も与えずに柱の影へ引き倒し、首を放したその左手で鳩尾に突きを入れて黙らせると、風見はその場に膝をついて切れる息を鎮めた。
(分散すればそれだけ戦力は低下する……奴らが手分けしてくれれば、俺にも勝機はある)
右腕が使えず、V3に変身もできない。圧倒的に不利な条件の下で、しかし戦う事を選んだ風見に残された手段はこれだけだった。
 幸い―――というべきだろう―――数を頼みに包囲網を敷き、退路を絶って風見を追い詰めようとする作戦に出たデストロンの、その手段を逆に利用する。
 拡散した追手を、その網の一角ずつ切り崩していく。少なくとも数の上の不利だけでも無くしておけば、自分にも勝てる可能性はある筈だ、と風見はもう一度自分に言い聞かせながら静かに息を整える。
 できるだけ無駄な動きは抑えたつもりだったが、それでもこれだけ消耗する。
 薬は消えたと結城が保証した筈だが、今なお治まらない肩の痛みに時折痺れるような感覚が混ざり、その度に視界が揺らぐのはならば血が足りない為だろうか。
 自分の事ながら、良くこれで戦おうとするものだ、と苦笑して風見は身体を起こした。
「……待て、様子が変だぞ」
頭上のほうで、ようやく仲間が一人欠けた事に気づいた戦闘員が先頭を呼んでいる。
「お前、ちょっと様子を見てこい」
「おお」
そして階段を降りてくる足音に耳をすまして距離をはかり、風見はゆっくりと左拳を固めた。
 どんな時でも、ただ一人であろうとも、いつも戦う事で今日を生き抜いてきたのだ。

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