育ての親が死んだと風の噂に聞いた。
そう聞いても大して驚きもしなかった。その本性は昔から知っていたし、どうせろくな死に方はしないだろうと思ってもいた。
自分の欲求を満たす為に奪い、人を殺す事にさえ何のためらいもない男だった。その罪が裁ききれない数に及ぶように、数えきれない人の恨みを買ってもきた。
そしてそれに疑いを持たない男だった。
自分もかつてはそうだったから良く解る。欲しいものは奪わなくては手に入らない。ただ座っているだけでは、世界の与えてくれるものなどたかが知れている。そもそも何かを得るという事はそれが合法であれ非合法であれ、意識的であれ無意識的であれ何かから―――あるいは誰かからそれを奪うという事なのだ。
彼は自分にそう言った事がある。だから自分の欲するままに生きろ、と教えた。それが他人に善と呼ばれようと悪と呼ばれようと、つまり自分にとっても彼にとっても意味のある事ではなかった。
そういう意味では自分は何も変わっていない、と断言できた。今も自分はその望むままに生きている。ただ傍から見れば変わったように見えるだろう、という事は自分でも解っていた。
「―――冬子」
ブランコを勢い良くこいでいた少女は、名前を呼ばれると秋月玄に走り寄ってきた。
「もう帰っちゃうの?」
見上げてくる瞳はあどけない。ああ、と答えて頭を撫でると、その色白で薄い瞼が悲しげに伏せられた。
また来る、と秋月はまだぎこちない優しさで付け加える。
「明日?」
「明後日」
小さく溜息をついてすり寄ってくる少女の細い肩を掌で包み、さあ、と秋月は歩を促した。
公園から「大陽の家」へ続く見慣れた風景が、燃える夕陽にあかく染まっている。しかし風は冷たい。少女を風から庇うように身を屈めながら、秋月はふとまた思う。
このまま攫ってしまおうか。
自分は冬子と一緒にいたい。そう切り出せば冬子も喜んでついてきてくれる、と知ってもいる。
しかしそれは思うだけだった。いくら真剣な思いでも、思うままに動く事が必ずしもこの子を幸せにする訳ではない事が、今の秋月には解っている。かつてその為に冬子を危険な目に合わせるところだった、その記憶はまだ秋月の内にあった。
「…お兄ちゃん」
いつの間にか「大陽の家」の正門まで来ていた。玄関の前には秋月とさして年の違わない保母が立って、冬子を待っている。秋月と目が合うと笑って頭を下げた。
「…それじゃあまた来るからな」
「うん、待ってるね」
ほんの一瞬名残惜しそうに見上げて「家」へ走っていく冬子の後姿を見送る。笑顔の保母に迎えられ、小さな背中が扉の向こうに消えるのを見届けて、秋月もきびすを返した。
昼頃に訪れて夕暮れまでのひとときを外で共に過ごす、こんなささやかな逢瀬もそろそろ習慣になり始めていた。一時は「大陽の家」に身を寄せた秋月だったが、その後独りで住むようになって二ヶ月近くが過ぎている。
悪くなかった。
何も奪わないで満ち足りている。戦わないで勝ち取るものもある。穏やかすぎてもの足りないといえばそうも言えたが、それで今は充分だった。
「大陽の家」の横に停めてあったマシーンホークを起こすと、秋月はゆっくりと夕暮れの路地へ入っていった。
秋月の帰り道は山道を走れば五キロ余である。峠を越えると、後は右手に麓の河川へ合流する小川の河川敷、左手に雑木林を臨むなだらかな一本道だ。
だから慣れ始めたその道端に、見慣れないものが停まっているのにはすぐに気づいた。
思い出すより早く、反射的にブレーキをかけていた。
マシーンザボーガーだった。
変型して電人ザボーガーとなる犯罪捜査ロボットの赤い車体を見た瞬間、知らず身構えていた。俺にはもう関係なかったじゃないか、と苦笑しながら―――秋月は自分を奮い立たせるようにマシンから降りて近づいた。
それはもう自分には関係のなくなった敵意だ。
ロボットの頭部が前面に露出した相変わらず身も蓋もないデザインのマシンは、河川敷側の道端に寄せられて沈黙している。少しハンドルが斜になっているのが小首を傾げているようにも見えたが、動く気配もロボットに変型する気配もない。
しかしこれがここにあるという事は、その持ち主も近くにいるという事に違いない―――と思う。別段会いたい相手でもないが、試しに見回してもその姿は見当たらなかった。
変だな、とふと思った。こんな所に相棒を置いて、彼が離れているとすれば近くで戦闘中としか思えないのだが、しかしこの場には殺気がない。物心ついた頃から修羅場に身を置いてきた秋月の感覚は、今は戦場を離れたとはいえまだ鈍ってはいない。
(―――どうでもいい)
そう思いながらも何となく気になるのは、まだ自分が忘れていないからだろう。強いものと戦い、倒した時の激しい喜びは今も秋月の心のどこかに牙のように光っている。彼の人生のほとんどを満たしてきた数少ない喜びだ。
しかし彼は―――。
秋月は立ち止まった。
彼は自分が対等に立ち向かってとうとう倒せなかった、最初で最後の敵だった。
川原は穏やかに日暮れている。
浅い流れはさざめくように光を散らし、小石の連なる河川敷もその先に群生する遅いススキの穂も夕陽に朱く光っている。
そしてそのススキの柔毛とたおやかな丈の中に包まれて、大門豊が横たわっていた。
最初は昼寝でもしているのかと思った。
それ程正体がなかった。そしてこんな大門豊を、秋月は初めて見た事になる。
四肢を大地に投げ出し、目を閉じて―――放恣とも見えるその姿が、自分ではもう身体を動かせないのだと秋月が気づくまで随分かかった。夕陽に染められていなければ紙のような顔色と、そして陽に照らされてなお朱い口辺には血が滲んでいる。良く見ると手足も脇腹も、服の色ではない朱に染まっていた。
「……」
自分にはもう関係ない、とどこかでささやく声がした。
しかし秋月は何かに操られるように、そのまま二、三歩大門に近づいた。近くに寄るだけだ、と思いながら足音をひそめるのは自分の気配を気取られない為か、それとも彼の眠りを妨げない為なのか。どちらかは秋月自身にも良く解らなかった。
しかし消せない気配があった。
生々しい赤に染まる単色の川原の中で。
大門豊がゆっくりと目を開くのを、秋月は茫然と見つめていた。
そしてそれ以上近づく事も逃げる事もしなかった。
大門はしばらく赤い空を見上げていたが、やがてそのまま目だけが動いて秋月を見た。
くろく澄んだ、何も見ていない目だった。
「―――大丈夫か」
うっかり秋月は禁を破って呼び掛けていた。何だかただ事でないような気がした。
ぼんやりともう一度、大門がまばたきした。ゆっくりと顔が動いてようやく秋月を見たが、何も言わず何の表情も見せなかった。
自分が誰だか解らないのだろうか、と秋月は戸惑う。
「ひどいざまだな」
自分を駆り立てるように挑発的に哂ったつもりだったが、語尾は変に浮いた。
「…あきづきか」
血の滲んだ唇が動いた。その声は不似合いな程落着いて響いて、秋月はまた訳もなく動揺する。
その声は確かに秋月の最後の敵―――追い続け挑み続けてついに倒す事のできなかった男の、良くとおる印象的な声だ。しかしその主は、秋月の記憶にある圧倒的な存在ではなかった。持て余し気味に草むらに沈めている長躯は秋月ならさほど手こずりもせずに息の根を止められるだろう。
しかし秋月はもう不毛な死には飽きている。
「…ここで会ったが百年目」
だから積年の恨み、などというつもりもなかった。
「そう言ったらどうする?」
ただ言ってみたかっただけだった。しかしそれを聞くと、大門はかすかに目を細めた。
「―――今のお前は…俺を殺さないだろう」
「随分と見くびられたもんだな」
それには答えずにそのまま大門は目を閉じた。
秋月は言葉を探しながら、ただ立ち尽くしていた。
聞いたところで何の感慨も湧かない話だったが、シグマ団は育ての親の死と共に崩壊したと聞いている。
それでもまだ大門豊は戦い続けているのだ。
何と戦っているのかは、秋月は知らない。しかし今こうして目の前に傷ついた姿を晒している大門を見ていると、秋月はふと世界が平和でない事を思う。今の自分には関係なかったが、世界はどこかで正義と悪と称する対立の戦いを続けているのだ。その正義に係わる、もしかするとただ一人の―――人間離れした力をもつこの青年はだからここにこうしている。
「―――大門」
声をかけると、今度はさっきより少し光を増した瞳が秋月を見た。
「本当に、大丈夫か?」
我ながら間抜けな言葉だとは思った。大門も少しおかしいと思ったらしい。かすかに唇が笑ったようだった。
「……大丈夫、だ」
低く、しかし良く響く声だった。
「…少し休めば良くなる」
そうなのだろう、と秋月は思った。大門豊は普通の人間とは違う、というのはよくシグマ団内でも囁かれていた話である。
どんなに叩きのめしても、その怒りで立ち上がってくる。どう考えても動けない筈の傷を負ってなお、勝ち目のない戦いに挑もうとする。
ならばそれは今も変わっていないという事だ。敵がシグマ団であろうと―――違うものであろうと。
変わらない。前しか見ていない目をして、無心に傷つきながら戦い続けている。
シグマ団が滅びてもまた何かが現れるなら、大門は永遠に戦うのだろうか。それなら大門の生は、その中にしかない事になりはしないか。
「―――大門」
秋月がもう一度呼ぶと、大儀そうに大門はまばたきした。
放っておいて欲しそうだった。その身体は休息を求めている―――けれどそれは、大門自身の為でなく。だから秋月はどうしても確かめたいのだ。
あの時もう二度と会う事もないだろう、と言った自分は多分正しい。正義と悪のどちらかに係わらない限り、きっと大門豊はその前には現れないのだ。
だから聞くのは今しかなかった。
「お前は一生、そうやって戦い続けるつもりか」
二重瞼の目が、不思議そうに秋月を見た。言われた言葉の意味を考えるように弱くまばたき、それからゆっくりと血の滲んだ唇が動いた。
「…自分以外のものの為に戦う事は、おかしいか?」
逆に問いかけられて、秋月は戸惑った。
大門の目が見ている。淀んだ夕闇の中でも、しかしその目は澄んでひかっている。
「そうでもないさ」
秋月がしぶしぶ答えると、大門は少し驚いたように―――だがはっきりと笑った。
川面を渡る風がススキの群れを揺らす。闇が少しずつ濃くなってくる。
秋月は襟元に手をやった。
(…それがお前の答か)
それなら前よりは、少しは解る。
(だがそれなら―――終わるまい)
もし再びそんな事があるとすればだが―――秋月の戦うのはただ一人の為だ。それ以外の為ではありえない。だから解るのは少しだけだった。
大門が戦うのは―――誰かの為ではない。
けれど自分の為でもない。
おそらく、それは―――。
「そう教えたのはお前の親父か」
思いもかけなかった言葉が吐き出されていた。
言った秋月自身が驚いている。何故そんな事を思ったのかは解らなかったが、しかし不思議と疑わなかった。
大門はそれでも一瞬、目を見開いたようだった。
「…良く」
そして細められるその目は、秋月の見慣れた、揺るがない光を湛えている。
「解ったなあ…」
かすかに笑っているようでもあった。
秋月は大門の父親を知らない。
ただ育ての親が、手に入れた新しい宝物の話を自慢げにするついでに、その名前は聞いたような気がする。おとなしく渡さなかったから殺したのだと―――言った方にも聞いた方にも何の感慨もなかった。
しかし夕闇の中で、知らないその人間は秋月にとって初めて形を持った。大門の目の中に、その影が映っている。肉親を慕う心―――などというものは秋月とはおよそ無縁の感情だったが、それは大門を介して秋月に響いている。
(親父なんて…そんなに良いもんかい)
いつか自分の呟いた言葉が耳の奥に甦った。
「父親」から自分が教えられたのは―――。
あるいはその教えを取り込んだ時から、自分の離反は始まっていたのだと育ての親は知っていたろうか。
しかし大門が教えられたのは、それとは全く違うものなのだ。
(それならば―――)
疑わず、怯む事を知らない心。自分以外のものの為に―――それを守る為に生きる、正義という名の理念。
(―――お前は幸せだ)
父親を喪ってもその理念は死なないのだから。
自分はとうに「父親」に与えられた理念は捨ててしまった。だからきっと心は痛まないのだ。
もしかすると自分も大門のように育てられる事もできたのかもしれない、とぼんやりと秋月は思った。ひたむきに一途に戦う。決して失われない理由の為に。
しかしそれゆえに、大門はこうして傷つくのだ。本人がためらわずにその身体を捧げ続ける限り。
そう思うと堪らない気がした。
「…手は」
ぎこちなく差し伸べられた手に少し目を丸くしながら、大門はものうげに首を振った。
「…大丈夫だ」
人の手を借りなくても、もうそろそろ動けるようになる。
そういう風にできていた。
大門にはそれが解っている。自分の身体はその為にあるのだから。
秋月は黙って手を引いた。
マシーンホークを動かして、秋月は慣れた山道を降りていった。もう辺はすっかり暗い。
半分がた降りた途中で、ふと呼ぶ声が聞こえたような気がした。耳をすましてエンジンを停め、下ってきた道を見上げる。
黒く切り取られた山の稜線を辿って、誰も乗っていないマシーンザボーガーのどこか愛嬌のあるシルエットが、夕闇の中ゆるゆると動いていった。砂利が滑るらしく、時折止まっては方向を変えて、子犬の散歩のように少しずつ道を降りていく。
秋月はその姿が稜線の向こうに消えるまで、ずっと見つめていた。
<完>